長い1日、終わり始まり 7
三
朝。
わたしは目を覚ました。
視線の先には白い天井。見慣れた色が目に映り込む。
かぶさっている毛布をどかし、むくりと身体を起こすわたし。目をパチパチと瞬かせたあと、ごしごしと寝ぼけ眼をこする。
顔を下に向ける。
視線を落として、自分の胸を見るわたし。
視界に入り込む、なだらかな曲線。連なる山がアーチをかけるように、ゆるい傾斜の丘が弧を描くように。山々のアウトラインさながらに、ゆるやかな稜線を描く二つの峰。
胸、ある。
ちゃんとある。
大きな胸、ちゃんとある。昨日のまま残ってる。
「ほんとに、夢じゃない……」
おもわず呟くわたし。
高い声。女性特有のハイトーン。
澄んだ川の水を思わせるクリアなソプラノ。胸部にある身体的な特徴と同じように、わたしのノドからもれ出る声も女性的。
ずっと聞きたかった音。
ひそかに乞い願っていた声のトーン。
だれに話すこともなく、だれに打ち明けることもなく。ひそかに胸に秘めていた想い。だれにも胸中を明かすことなく、心の奥にしまい込んでいた望み。
宝物のような、お守りのような。ひそかに机の引き出しの奥に隠していた、もろくて壊れやすいガラス細工のような願い。二つの頂点を持つ湾曲した線と、濾過された水のように透明な音。
わたしのユメ。
そっと胸にしまった、わたしだけの希望。
夢心地。
まるで夢を見ているかのよう。
起き抜けでボンヤリとした頭が、うっとりした感覚を覚えさせる。
ベッドから起き上がったばかりで脳が働いていないせいか、いまも未だ夢のなかにいるかのような錯覚に囚われるわたし。
ノドに手を当てて、ふたたび声を出す。
「あー、あー……」
手の先で触れたツルッとした喉。のどぼとけの感触がないことに、わたしは若干の違和感を覚える。
つい先日まで、低い声だったのに。
一昨日まで男性特有の低い声だったはずなのに、いまは自分の喉からソプラノのような高い音が出る。
鼓膜をふるわせる短波長の音。肺から迫り上がってきた呼気が声帯を震わせて、ずっと聞き望んでいた高音をわたしの耳に届ける。
どこか遠くへと消えた、かつての低いトーンの音。
風に吹かれた白い雲が、遠くの空を流れるように。この間まで耳にしていた自分の声が、いまは遠い空の向こうへと消えている。
「わたしの、声……」
音の余韻にひたるわたし。自分の声が心地良い。
のそりとベッドから下りて、シャッとカーテンを開ける。朝の日差しが室内に差し込み、おもわず反射的に目を細める。眩しい光が、わたしの目を刺す。
やがて、目が明るさに慣れてきたころ。
窓から差し込む光のなかに、そっと五本の指をかざしてみる。
墨色のシルエットがハッキリと浮かび、ほっそりとした指のアウトラインが際立つ。光に溶ける輪郭。墨染めのかげぼうし。
男性とは違う、しなやかな指先。
スーッと伸びた先細の指は、水彩画を描くときに使う丸筆を思わせる。
すっきりとした直線的なラインを描く細い指。関節部だけ太い、ということもない。無骨に骨張っている、ということもない。しなかやかにスーッと伸びる指先が、ありありと性別の違いを感じさせる。
いま起きたばっかりだから、若干むくんでるっぽいけど。体内の水分が指のほうにいっちゃってるみたいですけど。朝のむくみ。
でも、きれい。
ほっそりしてて、すごくキレイな指。
かざした手のひらを眼下に持ってくる。きれいなラウンドを描いた爪先。薄く透きとおった桜色の爪が、身体の健康状態を示している。
そっと腕を下ろして、部屋の鏡に目を向ける。ゆっくりと足を踏み出し、自分の身体を姿見へとさらす。
鏡に映り込む、ひとりの女の子。
昨夜も見た茶髪ボブの女の子が、姿見のなかからコチラを見ている。昨日と同じ驚きを湛えたような目で、わたしが "わたし" のことを見つめている。
「……」
糸で縫い付けられたかのように、まじまじと姿見を見つめるわたし。
正直、夢だと思ってた。
寝床に入り込んで眠りにつく直前まで、夢だっていう可能性を捨てきれてなかった。心のどこかで、現実を信じきれてない自分がいた。
いまも少しだけ、その感覚が残ってる。ほっぺをつねるのが少しだけ怖い。「夢から覚めちゃうんじゃないか」って思ってる自分がいる。『ほっぺ抓る』とか、ちょっと古典的すぎ?
でも、ねぇ……。
さすがに、すぐには信じられないって。「わたし、女の子になってるー⁉︎」なんて、いつぞやに放映された「私たち、入れ替わってるー⁉︎」の映画と同じくらい衝撃的だから。すんなり受け入れられるほうが、どうかしてるよね。順応し過ぎでしょ、みたいな。
やがて鏡の前から離れて、クローゼットを開けるわたし。
そっとタンスの引き出しを引いて、学校指定のシャツとソックスを手に取る。鮮やかな白と鈍い紺色が目に映る。
「あ、かわいい……」
視界の端に映り込む淡い色に誘われて、わたしはパステルカラーのブラに手を伸ばす。今日は、桜色にしよっかな。
パジャマと一緒に、就寝用の下着も脱ぐ。
ストラップを肩にかけてから、バストをカップのなかに収める。
少しだけ前かがみになりながら、後ろ手にホックをカチッと留める。胸を脇から中央へと手でグイグイと寄せて、仕上げとばかりにポジショニングを調整する。
きのう朋花にやってもらったのを思い出しながら、るんるん気分で薄ピンクのブラを身につけるわたし。
学校指定のブラウスを身にまとってから、おへその辺りまでスカートを引き上げる。ファスナーを摘んでジィーっと上に引き、スカートを左右に振りつつ着心地を調整。着替えを終えたあとは、ふたたび鏡の前へと移動する。
女子のスカート、結構スースーする。
ふっつーに冬とか寒そう。男子が履くスラックスとは違って、あきらか露出する範囲が広いもんね。ほんのちょっとだけ、パンツルックが恋しい。
昨日も少し思ったけど、パンツ見えちゃいそうだし。階段のぼるときとか気をつけなきゃ。うっかりパンチラしないよう注意です。女子の沽券にかかわるヤツだよね。そんな沽券あるのか知らないけど。
でも、かわいい。
すっごくカワイイ。おとぎ話に出てくるお姫さまみたい。
姿見の前で一人ファッションチェックをするわたし。くるくる〜と回ってみる。ふわりとスカートが膨らむのと同時に、ミディアムボブの髪が回転方向に沿って流れる。
女子の制服を着るのは、昨日と合わせて二度目。二度目まして。
うちの高校の制服は見慣れてるけど、自分が女子の服を着るとなれば新鮮。初めての経験から日が浅いせいか、まだ自分の制服姿に慣れてない感じ。緊張した心が、ぎこちない。
でも。
それでも、心から思う。
「かわいい……」
うれしい。
すごく嬉しい。『かわいい』が似合うことが、ほんとうに嬉しい。
わななく心。自分の心が喜びに打ち震えているのが分かる。踊り出しそうなほど喜んでいるのが分かる。涙が出そうなほど嬉しい。たまらなく嬉しい。
とたん、目頭が熱くなる。
ツンとする鼻先。鼻腔に水分が溜まっていく感覚。花粉症の人さながらに、すんすんと鼻を鳴らすわたし。
やば、ほんとに泣きそう。
うれしい。
夢じゃない。
うれしい。
うれしい。
こんな……こんな日が、来るなんて。
女の子でいられることが。ひとりの女の子として過ごせることが。
心の穴が埋まる感覚。足りなかったピースがカチッとハマるような感覚。涙がこぼれそうなほど、心が歓喜の声をあげるほど。ずっと欲しかったものを、やっと手に入れたときの喜び。
うれしい。
こんなにも、うれしい。
ツーッと頬を伝う雫。鏡のなかにいる自分が、しずかに涙を流している。ほっぺに一筋の跡をのこす水滴が、朝日に照らされてキラリと反射する。
止まらない。
涙が、止まらない。
ほっぺを伝う雫が止んでくれない。氾濫した川の水みたいに、大粒が止めどなく頬を流れる。
たまらず、胸元を押さえるわたし。
ぎゅっと胸を押さえても、いっさい鼓動が伝わってこない。どくどくと心臓が躍動しているはずなのに、胸を打ちつける鼓動が手のひらに伝わらない。
きっと多分、胸がジャマしてるから。わたしの胸にある女の子としての象徴が、大きく弾む心臓の鼓動を感じさせてくれない。
でも、分かる。
たぶん、よろこんでる。
わたしの心臓、きっと喜んでる。「こんな日が来るのを待ってた」って、そう言ってる気がする。「ずっとずっと、こうなりたかった」って、そう叫んでる気がする。
立っていられなくなり、膝から崩れ落ちるわたし。
その場にうずくまって嗚咽を漏らす。自分の身体を両腕で抱きかかえるようにしてすすり泣く。ぎゅっと喜びを抱きしめた心が、わたしの身体を小刻みに震わす。
「ぅ、あ……あぁ、あ……」
ぜんぶ嬉しい。
声も、髪も。
細い指も、白い肌も。
白いブラウスも、紺色のスカートも、
ほっぺを伝う水滴も、鼻腔に溜まる水滴も。窓から差し込む朝の日差しも、陽を透かすレースカーテンも。感動に打ちふるえる心も、喜びでいっぱいになった胸も。なにもかも嬉しい。
うれしい。
うれしい。
うれしい、ぜんぶ嬉しい。
今日は、人生最高の朝だ。
どれくらい時間が経っただろう。
ごく僅かな短い時間だったようにも、すごく長い時間だったようにも感じる。たった数分ほどだったようにも思えるし、およそ数時間くらい経ったようにも思える。
乱れた時間感覚。
すっかり歪んでしまった時計の針。
正確に時間を刻めなくなった時計のように、時の経過を知らせる体内時計の針が歪んでしまう。
サルバドール・ダリが描く『記憶の固執』の時計のように、ぐにゃりと歪なカタチに曲がりくねったわたしの体内時計。時計の根幹を成すゼンマイもスプリングも、音のない衝撃に耐えかねてひしゃげてしまう。
ふいに、鳥の鳴き声が聞こえる。
窓の向こうから聞こえてくる小鳥のさえずり。ちゅんちゅん、ちちちち。
軽やかな鳥の鳴き声を聞いて、わたしはハッと意識を取り戻す。朝を知らせる軽快なメロディーが、ほっぺを伝う涙を堰き止めてくれた。
手の先で目をこする。ごしごし。
涙をすくった指先が、ほんのりと水分で湿る。嬉し涙で濡れた自分の手先まで、心なしか喜んでいるように思える。
スッと立ち上がるわたし。
すぅーっと深く吸ってから、はぁ〜っと勢いよく息を吐く。昂った神経を落ち着けるべく、なんども何度も呼吸をくり返す。
気分を落ち着けるための深呼吸。吸い込んだ息のぶんだけ、脳が安らぐようだった。吐き出した息のぶんだけ、心が和むようだった。ささくれ立った神経が、落ち着きを取り戻していく。
よし。
とりあえず、顔を洗ってこよ。
自室をあとにして、下の階へと降りる。まだ家族は就寝中のようで、辺りに人の気配は感じられない。スリッパがパタパタ鳴らないよう、しずかに洗面所まで移動するわたし。
カチャリとドアを開けて、独立洗面台の前へと移動する。
タオルを用意してから、洗顔を始めるわたし。手のひらに溜めた冷たい水を、パシャパシャと顔に当てていく。
きもちいい。
起き抜けに浴びる水、すっごく気持ちいい。
さっき泣いたからかな。身体が水分を求めてるのかも。スポンジが水を吸い上げるみたいに、顔全体に水分が染み込んでいってる感じする。
皮膚も、細胞も。身体じゅうが喜んでるみたい。冷たい水にさらされた肌が、喜びの声をあげてるみたい。
きゅっとハンドルを閉めて、蛇口から出る水を止めるわたし。
タオルを手に取って顔を拭う。使い終えた水色の布地を、そっと洗濯カゴに放り込む。
化粧水に手を伸ばして、手のひらに数滴ほど落とす。肌の乾燥を防ぐための保護液を顔に塗る。壁一面をペンキ塗りするみたいに、まんべんなく顔全体に塗りたくる。ぱしゃぱしゃ。
「ふぅっ」
朝のルーティンを終えて、小さく息をつくわたし。洗顔しただけなのに、ひと仕事終えた気分。
うん、さっぱり。
洗面所をあとにして、居間へと移動するわたし。
厚手の遮光カーテンを引いて、部屋のなかに朝日を取り込む。室内の空気を入れ替えるべく、同時に窓も開けて換気をおこなう。酸素in、二酸化炭素out。
窓を開けた拍子に、リビングに吹き込む風。
吹きつける朝の風が、わたしの身体を包み込む。肌を撫でるように滑っていく風を感じながら、遠くから聞こえる小鳥の鳴き声に耳をすませる。
スズメが鳴いている。
朝の調べ。自然が作り出す生命のオーケストラ。
朝だ。
最高の朝だ。




