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長い1日、終わり始まり 7


 朝。

 わたしは目を覚ました。

 視線の先には白い天井。見慣れた色が目に映り込む。

 かぶさっている毛布をどかし、むくりと身体を起こすわたし。目をパチパチと瞬かせたあと、ごしごしと寝ぼけ眼をこする。

 顔を下に向ける。

 視線を落として、自分の胸を見るわたし。

 視界に入り込む、なだらかな曲線。連なる山がアーチをかけるように、ゆるい傾斜の丘が弧を描くように。山々のアウトラインさながらに、ゆるやかな稜線を描く二つの峰。

 胸、ある。

 ちゃんとある。

 大きな胸、ちゃんとある。昨日のまま残ってる。

「ほんとに、夢じゃない……」

 おもわず呟くわたし。

 高い声。女性特有のハイトーン。

 澄んだ川の水を思わせるクリアなソプラノ。胸部にある身体的な特徴と同じように、わたしのノドからもれ出る声も女性的。

 ずっと聞きたかった音。

 ひそかに乞い願っていた声のトーン。

 だれに話すこともなく、だれに打ち明けることもなく。ひそかに胸に秘めていた想い。だれにも胸中を明かすことなく、心の奥にしまい込んでいた望み。

 宝物のような、お守りのような。ひそかに机の引き出しの奥に隠していた、もろくて壊れやすいガラス細工のような願い。二つの頂点を持つ湾曲した線と、濾過された水のように透明な音。

 わたしのユメ。

 そっと胸にしまった、わたしだけの希望。


 夢心地。


 まるで夢を見ているかのよう。

 起き抜けでボンヤリとした頭が、うっとりした感覚を覚えさせる。

 ベッドから起き上がったばかりで脳が働いていないせいか、いまも未だ夢のなかにいるかのような錯覚に囚われるわたし。

 ノドに手を当てて、ふたたび声を出す。

「あー、あー……」

 手の先で触れたツルッとした喉。のどぼとけの感触がないことに、わたしは若干の違和感を覚える。

 つい先日まで、低い声だったのに。

 一昨日まで男性特有の低い声だったはずなのに、いまは自分の喉からソプラノのような高い音が出る。

 鼓膜をふるわせる短波長の音。肺から迫り上がってきた呼気が声帯を震わせて、ずっと聞き望んでいた高音をわたしの耳に届ける。

 どこか遠くへと消えた、かつての低いトーンの音。

 風に吹かれた白い雲が、遠くの空を流れるように。この間まで耳にしていた自分の声が、いまは遠い空の向こうへと消えている。

「わたしの、声……」

 音の余韻にひたるわたし。自分の声が心地良い。

 のそりとベッドから下りて、シャッとカーテンを開ける。朝の日差しが室内に差し込み、おもわず反射的に目を細める。眩しい光が、わたしの目を刺す。

 やがて、目が明るさに慣れてきたころ。

 窓から差し込む光のなかに、そっと五本の指をかざしてみる。

 墨色のシルエットがハッキリと浮かび、ほっそりとした指のアウトラインが際立つ。光に溶ける輪郭。墨染めのかげぼうし。

 男性とは違う、しなやかな指先。

 スーッと伸びた先細の指は、水彩画を描くときに使う丸筆を思わせる。

 すっきりとした直線的なラインを描く細い指。関節部だけ太い、ということもない。無骨に骨張っている、ということもない。しなかやかにスーッと伸びる指先が、ありありと性別の違いを感じさせる。

 いま起きたばっかりだから、若干むくんでるっぽいけど。体内の水分が指のほうにいっちゃってるみたいですけど。朝のむくみ。

 でも、きれい。

 ほっそりしてて、すごくキレイな指。

 かざした手のひらを眼下に持ってくる。きれいなラウンドを描いた爪先。薄く透きとおった桜色の爪が、身体の健康状態を示している。

 そっと腕を下ろして、部屋の鏡に目を向ける。ゆっくりと足を踏み出し、自分の身体を姿見へとさらす。

 鏡に映り込む、ひとりの女の子。

 昨夜も見た茶髪ボブの女の子が、姿見のなかからコチラを見ている。昨日と同じ驚きを湛えたような目で、わたしが "わたし" のことを見つめている。

「……」

 糸で縫い付けられたかのように、まじまじと姿見を見つめるわたし。

 正直、夢だと思ってた。

 寝床に入り込んで眠りにつく直前まで、夢だっていう可能性を捨てきれてなかった。心のどこかで、現実を信じきれてない自分がいた。

 いまも少しだけ、その感覚が残ってる。ほっぺをつねるのが少しだけ怖い。「夢から覚めちゃうんじゃないか」って思ってる自分がいる。『ほっぺ抓る』とか、ちょっと古典的すぎ?

 でも、ねぇ……。

 さすがに、すぐには信じられないって。「わたし、女の子になってるー⁉︎」なんて、いつぞやに放映された「私たち、入れ替わってるー⁉︎」の映画と同じくらい衝撃的だから。すんなり受け入れられるほうが、どうかしてるよね。順応し過ぎでしょ、みたいな。

 やがて鏡の前から離れて、クローゼットを開けるわたし。

 そっとタンスの引き出しを引いて、学校指定のシャツとソックスを手に取る。鮮やかな白と鈍い紺色が目に映る。

「あ、かわいい……」

 視界の端に映り込む淡い色に誘われて、わたしはパステルカラーのブラに手を伸ばす。今日は、桜色にしよっかな。

 パジャマと一緒に、就寝用の下着も脱ぐ。

 ストラップを肩にかけてから、バストをカップのなかに収める。

 少しだけ前かがみになりながら、後ろ手にホックをカチッと留める。胸を脇から中央へと手でグイグイと寄せて、仕上げとばかりにポジショニングを調整する。

 きのう朋花にやってもらったのを思い出しながら、るんるん気分で薄ピンクのブラを身につけるわたし。

 学校指定のブラウスを身にまとってから、おへその辺りまでスカートを引き上げる。ファスナーを摘んでジィーっと上に引き、スカートを左右に振りつつ着心地を調整。着替えを終えたあとは、ふたたび鏡の前へと移動する。

 女子のスカート、結構スースーする。

 ふっつーに冬とか寒そう。男子が履くスラックスとは違って、あきらか露出する範囲が広いもんね。ほんのちょっとだけ、パンツルックが恋しい。

 昨日も少し思ったけど、パンツ見えちゃいそうだし。階段のぼるときとか気をつけなきゃ。うっかりパンチラしないよう注意です。女子の沽券にかかわるヤツだよね。そんな沽券あるのか知らないけど。

 でも、かわいい。

 すっごくカワイイ。おとぎ話に出てくるお姫さまみたい。

 姿見の前で一人ファッションチェックをするわたし。くるくる〜と回ってみる。ふわりとスカートが膨らむのと同時に、ミディアムボブの髪が回転方向に沿って流れる。

 女子の制服を着るのは、昨日と合わせて二度目。二度目まして。

 うちの高校の制服は見慣れてるけど、自分が女子の服を着るとなれば新鮮。初めての経験から日が浅いせいか、まだ自分の制服姿に慣れてない感じ。緊張した心が、ぎこちない。

 でも。

 それでも、心から思う。


「かわいい……」

 

 うれしい。

 すごく嬉しい。『かわいい』が似合うことが、ほんとうに嬉しい。

 わななく心。自分の心が喜びに打ち震えているのが分かる。踊り出しそうなほど喜んでいるのが分かる。涙が出そうなほど嬉しい。たまらなく嬉しい。

 とたん、目頭が熱くなる。

 ツンとする鼻先。鼻腔に水分が溜まっていく感覚。花粉症の人さながらに、すんすんと鼻を鳴らすわたし。

 やば、ほんとに泣きそう。

 うれしい。

 夢じゃない。

 うれしい。

 うれしい。

 こんな……こんな日が、来るなんて。

 女の子でいられることが。ひとりの女の子として過ごせることが。

 心の穴が埋まる感覚。足りなかったピースがカチッとハマるような感覚。涙がこぼれそうなほど、心が歓喜の声をあげるほど。ずっと欲しかったものを、やっと手に入れたときの喜び。

 うれしい。

 こんなにも、うれしい。

 ツーッと頬を伝う雫。鏡のなかにいる自分が、しずかに涙を流している。ほっぺに一筋の跡をのこす水滴が、朝日に照らされてキラリと反射する。

 止まらない。

 涙が、止まらない。

 ほっぺを伝う雫が止んでくれない。氾濫した川の水みたいに、大粒が止めどなく頬を流れる。

 たまらず、胸元を押さえるわたし。

 ぎゅっと胸を押さえても、いっさい鼓動が伝わってこない。どくどくと心臓が躍動しているはずなのに、胸を打ちつける鼓動が手のひらに伝わらない。

 きっと多分、胸がジャマしてるから。わたしの胸にある女の子としての象徴が、大きく弾む心臓の鼓動を感じさせてくれない。

 でも、分かる。

 たぶん、よろこんでる。

 わたしの心臓、きっと喜んでる。「こんな日が来るのを待ってた」って、そう言ってる気がする。「ずっとずっと、こうなりたかった」って、そう叫んでる気がする。

 立っていられなくなり、膝から崩れ落ちるわたし。

 その場にうずくまって嗚咽を漏らす。自分の身体を両腕で抱きかかえるようにしてすすり泣く。ぎゅっと喜びを抱きしめた心が、わたしの身体を小刻みに震わす。

「ぅ、あ……あぁ、あ……」

 ぜんぶ嬉しい。

 声も、髪も。

 細い指も、白い肌も。

 白いブラウスも、紺色のスカートも、

 ほっぺを伝う水滴も、鼻腔に溜まる水滴も。窓から差し込む朝の日差しも、陽を透かすレースカーテンも。感動に打ちふるえる心も、喜びでいっぱいになった胸も。なにもかも嬉しい。

 うれしい。

 うれしい。

 うれしい、ぜんぶ嬉しい。

 


 今日は、人生最高の朝だ。



 どれくらい時間が経っただろう。

 ごく僅かな短い時間だったようにも、すごく長い時間だったようにも感じる。たった数分ほどだったようにも思えるし、およそ数時間くらい経ったようにも思える。

 乱れた時間感覚。

 すっかり歪んでしまった時計の針。

 正確に時間を刻めなくなった時計のように、時の経過を知らせる体内時計の針が歪んでしまう。

 サルバドール・ダリが描く『記憶の固執』の時計のように、ぐにゃりと歪なカタチに曲がりくねったわたしの体内時計。時計の根幹を成すゼンマイもスプリングも、音のない衝撃に耐えかねてひしゃげてしまう。

 ふいに、鳥の鳴き声が聞こえる。

 窓の向こうから聞こえてくる小鳥のさえずり。ちゅんちゅん、ちちちち。

 軽やかな鳥の鳴き声を聞いて、わたしはハッと意識を取り戻す。朝を知らせる軽快なメロディーが、ほっぺを伝う涙を堰き止めてくれた。

 手の先で目をこする。ごしごし。

 涙をすくった指先が、ほんのりと水分で湿る。嬉し涙で濡れた自分の手先まで、心なしか喜んでいるように思える。

 スッと立ち上がるわたし。

 すぅーっと深く吸ってから、はぁ〜っと勢いよく息を吐く。昂った神経を落ち着けるべく、なんども何度も呼吸をくり返す。

 気分を落ち着けるための深呼吸。吸い込んだ息のぶんだけ、脳が安らぐようだった。吐き出した息のぶんだけ、心が和むようだった。ささくれ立った神経が、落ち着きを取り戻していく。

 よし。

 とりあえず、顔を洗ってこよ。

 自室をあとにして、下の階へと降りる。まだ家族は就寝中のようで、辺りに人の気配は感じられない。スリッパがパタパタ鳴らないよう、しずかに洗面所まで移動するわたし。

 カチャリとドアを開けて、独立洗面台の前へと移動する。

 タオルを用意してから、洗顔を始めるわたし。手のひらに溜めた冷たい水を、パシャパシャと顔に当てていく。

 きもちいい。

 起き抜けに浴びる水、すっごく気持ちいい。

 さっき泣いたからかな。身体が水分を求めてるのかも。スポンジが水を吸い上げるみたいに、顔全体に水分が染み込んでいってる感じする。

 皮膚も、細胞も。身体じゅうが喜んでるみたい。冷たい水にさらされた肌が、喜びの声をあげてるみたい。

 きゅっとハンドルを閉めて、蛇口から出る水を止めるわたし。

 タオルを手に取って顔を拭う。使い終えた水色の布地を、そっと洗濯カゴに放り込む。

 化粧水に手を伸ばして、手のひらに数滴ほど落とす。肌の乾燥を防ぐための保護液を顔に塗る。壁一面をペンキ塗りするみたいに、まんべんなく顔全体に塗りたくる。ぱしゃぱしゃ。

「ふぅっ」

 朝のルーティンを終えて、小さく息をつくわたし。洗顔しただけなのに、ひと仕事終えた気分。

 うん、さっぱり。

 洗面所をあとにして、居間へと移動するわたし。

 厚手の遮光カーテンを引いて、部屋のなかに朝日を取り込む。室内の空気を入れ替えるべく、同時に窓も開けて換気をおこなう。酸素in、二酸化炭素out。

 窓を開けた拍子に、リビングに吹き込む風。

 吹きつける朝の風が、わたしの身体を包み込む。肌を撫でるように滑っていく風を感じながら、遠くから聞こえる小鳥の鳴き声に耳をすませる。

 スズメが鳴いている。

 朝の調べ。自然が作り出す生命のオーケストラ。


 朝だ。


 最高の朝だ。

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