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『かわいい』を、わたしは愛してる 8


 だけど、本があるから。

 それぞれの本に物語があるから。どきどきワクワクできるストーリーがあるから。だから、ぜんぜん退屈じゃない。

 本屋はテーマパーク。本はアトラクション。ときにメリーゴーランドで、ときにジェットコースター。コーヒーカップのときもあるかもしれない。

 本屋さんには、本があるから。

 本好きのアミューズメントパークには、ちゃんとアトラクションが揃ってるから。

 フィクションの世界に連れてってくれる、たった一つのアトラクションがあるから。それでいい。それだけで充分。麻衣も似たような感覚なのかなぁ?

 昇降装置の終点。

 オレたちを運ぶエスカレーターが、やがて本屋のある階にたどり着いた。うぃーん。

 昇降機を降りた先には、読書家が集まる遊園地。ベルトコンベアーに乗せられたような心地に浸りつつ、オレは麻衣と一緒に本好きのテーマパークへと向かった。

 先を行く麻衣に先導される形で、オレは小説のコーナーに着いた。

「えぇ〜っとぉ……」

 まじまじと平積みされた本を眺める麻衣。

 お目当ての本がなかったのか、麻衣は棚のほうに視線を移した。なにかを探すかのような動きで、きょろきょろと本を見比べている。

「人気の作品だから、表に出てると思ったんだけど……なかったねぇ」

「そ、そうなんだ……?」

 独りごとのような麻衣の呟きに、オレは戸惑いめいた声で返した。

 や、知りませんけど。

「なかったねぇ」って、知りませんけども。

 このワテクシめ、麻衣お目当ての本を存じておりませんし。そういえば、どんな本を買いに来たのか聞いてなかったね。

 本棚に目を向けながら、一歩ずつ奥に入っていく。

 森の奥に誘い込まれるかのように、麻衣は本の森へと足を踏み入れた。棚と棚のあいだに飲み込まれていく幼なじみの後ろ姿は、好奇心というエサに釣られて彷徨い歩く迷い人を思わせる。

「どんなジャンルなの?」

 麻衣のすぐ後をついていきながら、オレはお目当ての本について訊ねた。

「んっとねぇ。恋愛小説、かなー……」

 麻衣の返答を、意外に思うオレ。

 へぇ、意外かも。

 麻衣が恋愛モノ読んでるとこ、あんまり記憶にない気がする。

「麻衣、そういうのも読むんだ?」

 こちらには顔を向けずに、こくりと頷いて答える麻衣。

「最近ね。ちょっとハマっててね〜……」

 まじまじと本を眺めながら、棚から棚へと移動する麻衣。やがてお目当ての本を見つけたのか、ピタッと立ち止まり棚に手を伸ばした。

「あ、あったぁ」

 本棚から一冊の本を取り出す麻衣。

 チラッと見えたのは、パステルカラーの表紙。イラスト中央には二人の女性が描かれている。

 お互いの目を見つめ合いながら、親しげに手をつなぐ二人の女性。愛おしげに相手を見るようすが描かれていて、片方の女性に至っては頬っぺたを赤らめている。

 言外に示されるもの。

 愛おしむような瞳も、薄桃色に染まる頬も。

 相手の手を包み込むように、ぎゅっと強く握られた両手も。内に秘めた何かを伝えようと、物言いたげに薄く開いた口も。

 非言語に溶け出した心が、二人の間で交わされている。

 れ、恋愛小説、だよね……?

「それ、どんな本なの?」

 本の内容が気になって訊ねてみる。

「んっとねぇ、百合小説だよぉ」と麻衣が言った。「女の子どうしの恋模様を描いたストーリー。最近ハマってるんだぁ」

「ふ、ふぅん……?」

 あいまいに相槌を打った。

 そ、そうなんだぁ。

 麻衣、女の子どうしの恋愛とか興味あるんだね。幼なじみの意外な一面を知って少し驚く。ふぅん、そうなのぉ。

「作中でも描かれてること多いんだけどね」と麻衣が言った。「同性同士ってなると、どうしても男女の恋愛よりハードル高くなるでしょ?」

「それは、まぁ……そう、かもね」

「周りから反発されて二人のあいだに生まれる葛藤とか、いろんな障害を乗り越えて心が通じ合っていく感じとか……」

 いちど言葉を切ってから、ふたたび話を続ける麻衣。

「そういうね、せつない感じが好きなの。フシギと応援してあげたくなっちゃうっていうか……」

「へぇ……」

「……」

 話し終えた麻衣が、本の表紙を眺める。

 寂寞めいた表情。ジッと本を眺める幼なじみの横顔が、どうしてか寂しそうに映って見えた。

 悲しそうな、寂しそうな。

 麻衣の切なげな表情に、オレは思わず目を引かれた。手のひらに触れたとたん溶けて消えてしまう、雪片のような切なさを湛えた幼なじみの横顔。

 恋愛。

 女性同士の恋模様。

 麻衣の言うこと、わかる気がする。

 みんなと同じ "普通" の恋と比べると、悩みの種類が少し違うように思うから。

 同性ならではの葛藤とか、理解されない苦しみとか。親しい人からの拒絶とか、近しい人からの反発とか。そういう、しがらみみたいなもの。手足を縛られる感覚に近いのかもしれない。

 オレも、そうだったから。

 ずっと苦しかったから。ずっと堪えてきたから。

 不安とか、憂鬱とか。苛立ちとか、悲しみとか。好きなものを理解されない苦しさとか、だれにも分かってもらえない虚しさとか。

 みんなと同じ "普通" になれない自分がイヤで、なんども何度も手放そうとして悩んだこととか。どうしたって手放せないのに、仲間はずれにされるのが怖くて。嘘をついて周りに合わせるたびに、心が擦り減っていくように感じて。

 心が、すっからかんになる感覚。

 自分の心にウソをつくときの、あの空っぽになるような感覚。がらんどうになった心が、悲鳴をあげるような感覚。

 虚に喘ぐ、あの感じを。


 今でも鮮明に覚えてる。


「……」

 切なげな麻衣の横顔をジッと見るオレ。

 手に持った小説に思うところがあるのか、あいかわらず麻衣は視線を落としている。もの憂げな表情で本の表紙を見つめている。

 異性愛と同性愛。

 男の恋愛と女性の恋愛。

 それぞれの恋愛観ってあるよね。男女で分けるつもりはないけど、性別の影響はあるような気がする。

 そういえば、前に読んだ本にも書いてあった。名言っぽい感じで「女性にとって恋愛は人生そのものだけど、男性にとっては人生の挿入歌でしかない」って。

 だれが言った言葉かは知らないけど、けっこう核心を突いてるような気がする。男女の恋愛観の違いをビシッと言い当ててるような感じするよね。わかんないけど。

 女性同士って、どんなんだろ。

 男性同士とも違くて、男女恋愛ともまた違う。女性と女性で描かれる恋模様。や、恋とは限らないのかな?

 扱ってる問題がナイーブなだけに、あんま大っぴらに語られないよね。『性』って誰もが関係ある身近なテーマなのに、学校だと保健体育の授業でサラッと触れるくらいだし。深く掘り下げることを敬遠されがちな話題だよね。大切なことのはずなのに。

 むむ。

 ちょっと気になるかも。ちょっぴり興味が出ててきたかも?

 科学者さながらの生来の好奇心が、百合小説に興味を示しております。ワテクシの好奇心センサー、完ぺきに反応しております。ぴこーん(注:センサーが反応する音)。

 気になります。

 わたし、とっても気になります。

「葵も読んでみる?」

 タイミングよく麻衣が訊ねてきた。

「そ、そうだね。ちょっと気になる、かも……?」

「ほ、ほんとっ?」

 とたん、麻衣はズイッと顔を寄せてきた。

 めいっぱい開かれた瞳。

 蛍光灯の光を受けて、ひときわ輝くガラス玉。

 なにかを期待するような眼差しが、対面するオレのほうへと向けられる。期待感を湛えたような二つの小豆色。

 ち、近い。

 近いよ、麻衣っ。

「百合小説、葵も読むっ?」

 急な接近に戸惑いながらも、オレはおずおずと返事をした。

「う、うん。試しに読んでみよう、かな……」

「わ、やったぁ!」

 いっそう笑みを深めた後に、ぴょこんと飛び跳ねる麻衣。

 今日いちばんの笑顔。

 大輪の花を咲かせるかのように、ぱぁっと笑顔を咲かせる幼なじみ。ひまわりのように咲う麻衣に釣られて、おもわずオレの頬もほころんでしまう。

「あたし、これ買ってくるねっ」

 大切なものを抱きしめるように、手に持った本を抱きかかえる麻衣。ぎゅっと大事そうに抱え込む姿は、宝物を胸に抱く年頃の少女のよう。

「うん。レジ出たとこで待ってるね?」

「おっけ〜」

 ててて、と麻衣は足早にレジへと向かった。

 いまにもスキップしそうな勢い。後ろ姿からもご機嫌なようすが伝わってくる。

「……」

 幼なじみの背中を目で追いながら、ひとり残されたオレは思索にふける。

 麻衣、好きなんだ。

 百合小説、そんなに好きなんだね。

 ちょっと楽しみかも。そういうのがあるってことは知ってたけど、まだ開拓したことないジャンルだったから。

 あんな、満面の笑みを見せるほど。

 あんなに、目いっぱい笑顔を咲かせるほど。

 麻衣、ほんとに好きなんだね。ほんとうにハマってるんだね。

 オレ、わりと本は読むほうだから。あんまり読まずギライもないし、友だちから勧められた本なら尚更。読んだ本の感想とか言い合えたら楽しいよね。

 楽しみだなぁ。

 麻衣がオススメする小説、どんな物語が描かれて——


 ちがう。


 多分、そうじゃない。


 気づきを確かめるように、オレは麻衣の横顔を眺めた。

 視線に気づいたのか、ただの偶然だったのか。くるりと振りかえった幼なじみは、こちらに向かって小さく手を振った。オレも手を振り返した。

 あぁ、そっか。

 そうだよね。嬉しいんだよね。

 興味を持ってもらえるのって嬉しいよね。わかる。好みを理解してもらえるのって嬉しいよね。わかる。好きなものを受け止めてもらえるのって嬉しいよね。わかる。よく分かるよ。

 まるで、自分を理解してもらえたみたいだから。

 好きなものに興味を持ってもらえるのって、等身大を受け止めてもらえたみたいだから。だから、よく分かる。すごく分かるよ。

 オレも……わ、わたしも、みんなと『かわいい』を共有したかったから。みんなと一緒に『かわいい』って言いたかったから。『かわいい』に囲まれて生きてみたかったから。

 ずっと、夢見てたから。

 ずっと、そんな日々を夢見てたから。

 ずっとずっと、そんな毎日を送りたかったから。


 だから、麻衣の気持ち分かる。



 わたし(オレ)、よく分かるよ。



「おまたせ〜」

 会計を済ませた麻衣が、こちらへと戻ってきた。

 あいかわらず表情は明るい。頭のうえに音符が浮かびそうなほど、ご機嫌そうに笑顔を咲かせる幼なじみ。

「おかえり。じゃ、行こっか?」

 こくり、と一つ頷いて麻衣が答える。

「うんっ」

 にぱーっと無邪気な笑みを見せる麻衣。

 笑みを深めた拍子に、目尻に細いシワが寄る。幸せをあらわす放射状の浅い溝。笑いジワ。

 かわいい。

 麻衣の笑った顔、すごくカワイイ。

 ひまわりみたいに晴れやかな笑顔も、風鈴の音みたいに透き通った笑い声も。ほのかに薫る麝香みたいな雰囲気も、マシュマロみたいに柔らかな空気感も。

 さくらんぼみたいな色の唇も、真珠みたいにツヤめく白い肌も。くるんって上向いた長いまつ毛も、お人形さんみたいにつぶらな小豆色の瞳も。手毬みたいにまあるいショートカットの黒髪も。ぜんぶ。全部かわいい。

 麻衣が纏うもの、みんな可愛い。

 下の階へと向かう自動階段。下りのエスカレーターに乗りながら、わたしは隣に立つ麻衣に向かって言った。

「麻衣、女の子だね」

 想いを言葉にしたとたん、わたしは多幸感に襲われた。

 また、あのときの感覚。

 体育のときにも感じた、心が晴れるような感覚。心が溶けるような感覚。

 液体みたいに溶け出した言葉が、じわっと心に染みるような感じ。ずっと求めてた言葉の欠片が、心の隙間にカチッとハマる感じ。

 すごく、心地いい。

「あは。どしたの、いきなり?」

 こちらの言葉を冗談だと思ったのか、麻衣は特に気にしたふうもなく笑った。

「まぁー、少なくとも男の子ではありませんけどー?」

 麻衣が冗談めかして言う一方で、わたしは首を横に振って否定した。

「うぅん、そうじゃなくてね……」

 いまは付き合わない。

 いまだけは、この冗談に付き合わない。

「麻衣、かわいいなって」と、わたしは言った。「すごく『女の子』で、すごくカワイイなって。そう思ったの」

「そ、そう?」

 こくり、と一つ頷いて返すわたし。

「うん、すっごく」

「あ、ありがとぉ……?」

 戸惑いを見せる麻衣に向けて、わたしは一つ微笑みを返した。

 麻衣は逃げるように目を逸らした。ほっぺを赤らめる姿が、たまらなく可愛らしい。まだ年端も行かない幼子を思わせるような仕草だった。照れくさそうに髪をいじる姿もまた愛らしい。

 うん、かわいい。

 麻衣、かわいいね。すっごく可愛い。

 わたしは、かわいいものが好き。『かわいい』が大好き。

 手放せない。手放したくない。好きで、好きで。大好きで。どうしたって手放せなくて、どうしようもないほど好きで。

 わかって欲しい。

 おなじものを見てほしい。

『かわいい』を分かってもらいたい。

『かわいい』を理解してもらいたい。

『かわいい』を共有してもらいたい。

 朋花にも、唯香にも。もちろん、麻衣にだって。「それ、良いよね」って言ってもらいたい。「ね、かわいいよね」って共感してもらいたい。

 桜色も、薄桃色も。少女マンガも、ぬいぐるみも。春みたいな色のティントも、宝箱みたいなコスメボックスも。宝石が付いたアクセサリーも、愛嬌たっぷりのキャラクターグッズも。みんな可愛い。

 水色の下着も、紺色の靴下も。白いブラウスも、濃藍のブレザーも。えんじ色の上履きも、こげ茶のローファーも。風にあおられてヒラヒラなびく、チェック柄のプリーツスカートも。ぜんぶ可愛い。みんなみんな、何もかも可愛い。

 もう隠さなくていい。

 もう、ガマンしなくていいんだよね。

 やっと、言葉にできる。声を枯らすほど、思いっきり叫べる。ずっと心の奥にしまってた、この宝物みたいな気持ちを。


 わたしは、愛してる。




『かわいい』を、わたしは愛してる。




 わたしはエスカレーターで地上階に降りた。

 自動ドアをくぐって外に出ると、そよりと吹く風が肌を滑り抜けた。すぐ隣には麻衣の姿もある。かわいい幼なじみの姿もある。

 鮮やかな青。

 目に射し入る白。

 身体を包み込む陽光。

 地上に降りそそぐ陽の光に誘われるように、わたしは白と青の対比を落とす空を見上げた。空がいつもより高く見える理由を、今のわたしはちゃんと知っている。



 頭上に広がる空模様のように、心には晴れ間が差し込んでいた。






——二巻に続く

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