『かわいい』を、わたしは愛してる 5
三
放課後。
ガヤガヤと騒がしい室内。
すべての授業が終わり、帰り支度を進める生徒たち。
思い思いの時間を過ごすクラスメイト。そそくさと教室を出ていく姿もあれば、クラスに残って友だちと雑談する姿も。
各種各様。
三者三様。
十人十色。
百人百様。
億人億様。
そんな言葉ない。
兆人兆色。
そんな言葉ないってば。
ひとときの休み。安らぎの時間。
勉強から解放される束の間の休息。もーめんと。
授業終わりの解放感も相まってか、教室に残る人の表情は一様に明るい。みんな示し合わせたかのように笑顔を咲かせている。
「……」
オレは自分の席に着いたまま、クラスメイトの姿を遠目に見た。
みんな楽しそう。
放課後の解放感って好きかも。
重い荷物を下ろしたときの感覚と似てる気がする。背中に背負ってた荷物を下ろして、束の間の解放感に浸るみたいなね。束縛とかプレッシャーから自由になる感じ。あ、個人の感想です。
勉強、大変だもんね。
好きな教科ならまだしも、苦手な科目がある日は憂鬱。不得意な科目がある日って、どうしたってテンション下がる。
とくに不人気なのは数学。
英語とか現国がニガテって人もいるけど、やっぱり総じて人気ないのは数学だよね。
学生を対象にしたアンケート調査(※オレ調べ)によれば、二位と大差をつけて圧倒的に嫌われてるのが『数学』らしい。下から数えたほうが早い不人気アイドルみたく、総選挙で万年ビリみたいな扱いになってるよね。
数式とかグラフとか、苦手な人はからっきし。
時間割に数学がある日の教室の空気ったら、ホントもう目も当てられない感じだもんね。唯香が泣く。
数学、わた……オレは嫌いじゃないんだけどね。
数学って、パズルみたい。ぎゅんぎゅん頭を働かせて一つの答えを導き出すの、暗号とかパズルを解くみたいな感じがして割と好き。みんなからは嫌われがちな教科だけどね。
そういえば、よく『女は数学が苦手』って言うよね。
♂は論理的で、♀は共感的。女子に数学ニガテな人が多いのは、そもそも男女の脳の構造が違うから。男性のほうが論理的思考が得意な数学向きの脳みそしてて、女性は言語スキルに長けた共感的な脳をしてるからみたいな。
じっさいは、そんなことないみたいだけど。
昔は『女子=数学が不得意』みたいなこと言われてたけど、最近の研究だと「そうでもなくない?」って否定されてる。
ちょっと前に言われてた『男性脳・女性脳』みたいなものは実際には無くて、文化的な影響とか個々人の遺伝的な傾向のほうが大きく関係してるみたいなんだって。
偏見。
思い込み。
ステレオタイプ。
先入観ってヤだよね。とくに、男女間の溝を深めるようなモノの見方は尚更。
偏った思い込み、ホントよくない。ありのままに物事を見ないで、目を曇らせちゃう感じあるもんね。サングラス越しに世界を見るみたいなさ。
女性でも数学デキる人はいるし、男性でも国語が得意な人はいる。麻衣だって数学ニガテ系ガールを自称してるけど、学校のテストの点数は上から数えたほうが早いしさ。唯香は泣く。
かくいうオレだって、別に数学嫌いじゃないし。
べつに数学のこと、夏場にキッチンの下から唐突に姿を現すGだと思ってないし。そんな天敵に遭遇したときの動物みたいに飛び上がって「ぎゃーっ!」って叫んだりしないし。唯香は泣き叫ぶ。
ふと、ひとつの疑問が湧いた。
ひょっとして、数学好きだったのかな。この世界で生きてきた『葵』も、数学は得意なほうだったのかなぁ。
疑問を持ったところで、実際には確かめようがない。
だって、存在がないんだから。かつて男だったころのオレは居なくて、代わりに女の子の『葵』が居るんだから。
なんなんだろ。
ほんと、なんなんだろ。
みんな、知ってるのに。知ってるものばっかりなのに。
見知った顔も、見慣れた景色も。クラスの友だちも、別クラの知り合いも。得意な科目も、ニガテな教科も。ぜんぶ知ってる。ちゃんと記憶にある。
全部ちゃんと覚えてるのに、オレ自身にだけ見覚えがない。オレがオレを覚えてない。いっさい記憶がない。
ちぐはぐ。
なにもかもチグハグ。
ツギハギだらけの衣服みたいに、周りと違ってオレだけがアベコベ。まるで、並ぶべき商品が陳列されてないお店みたいだ。
ひとりでモンモンと悩んでいると、やがて麻衣がオレの席にやってきた。
「葵、いっしょに帰ろ〜」
今朝と変わらず、らんらんと笑顔を輝かせる麻衣。
まぶしっ。
幼なじみの笑顔が眩しい。目ぇ眩んじゃいそう。
「あ……うん、帰ろっか」
いちど考えるのをやめて、オレは麻衣の声に答えた。
「唯香はいいの?」
ごく自然に訊ねると、麻衣はキョトンとした。
「唯香は部活だよ?」
「え?」
思わず、オレは聞き返した。
「バスケ部の休み、平日は水曜だけだよぉ」
「あ、あぁ〜……そ、そうだったね……」
ひとり納得したような声をもらすオレ。
そっか。
唯香、バスケあるじゃん。これから部活の時間じゃん。
さっきも体育のときに話してたしさ。「コーチのイヤラ視線がキモい」って。「教育委員会に訴えて懲戒解雇に追い込んでやる」って言ってたもんね。「月に代わってお仕置きよ!」って言ってたもんね。それは言ってない?
口元に手を当てながら、くすくすと微笑む麻衣。お上品な笑い方。
「やっぱ今日の葵、ちょっとフシギちゃんだね」
「ふ、不思議、ちゃん……」
ひかえめに笑う麻衣に釣られて、オレも引きつった笑みを浮かべる。「あはは……」と乾いた笑いがもれる。苦笑い。
不思議ちゃん。
今朝、朋花にも言われた言葉。
いまのオレ、どんな風に映ってるんだろ。みんなの目には、メルヘンな感じに見えてるのかな。お花畑で蝶々追っかけるみたいな?
「と、とりえず下おりよっか……?」
ひとまず、オレは麻衣に教室を出ようと提案した。
「おっけ〜」
机の上にある鞄を手に取り、逃げるように教室を後にする。渡り廊下を歩いている途中で、先ほどの麻衣の顔を思い出した。
今日は色んな人に不思議そうな顔をされる。フシギな生き物を見るかのような目を向けられる。
鈴木も、朋花も。
父さんも、母さんも。
そして、いまオレの隣を歩く麻衣も。
「……」
折り返し階段を降りながら、オレは今日のことを回想した。上履きが床を打ち鳴らす音が、やけに大きく響いて聞こえた。
まぁ、わかるけどね。
今日のオレの言動、いつもと違うだろうし。
みんなが知ってる『葵』とは、違う振る舞いしてるだろうから。不思議そうな目を向ける理由、オレにだって分からなくはない。
とはいえ、いちばん戸惑ってるのはオレなんだけど。当事者だからね。
折り返し階段を降りきったあとは、靴を履き替えるべく昇降口へと向かう。
途中、何人か見知った顔とすれ違った。元気よく手を振る麻衣とは違って、オレの挨拶は若干ぎこちなかった。壊れかけのロボット再来。
やがて昇降口に着いた。
げた箱に上履きを仕舞って、代わりに革靴を取り出した。
こげ茶のローファーを下に置いて、差し込むように靴の中に足を通す。先っぽを地面にトントンと叩いて収まりをつけたあと、仕上げとばかりに踵をグリグリして履き心地を調整した。
今朝も思ったけど、ローファーが少し細い。
女性用のローファーって、男性用と比べると細いんだね。シュッとしてるっていうか、スラっとしてるっていうか。全体的にシャープな印象。
オレはコッチのほうが好き。かわいい。
それとも、モノによるのかな。女性用のローファー全部が細いんじゃなくて、女の子の『葵』が履いてたものが細いってだけ?
オレは疑問を胸に抱きながら、昇降口を後にして外へと出た。
外に出たとたん、辺りの空気が変わる。げた箱のホコリっぽい空気から一転して、初夏特有の澄んだ空気が身体を包み込んだ。
オレは目いっぱい息を吸い込んでから、身体の毒素を排出するように吐き出した。でとっくす。
すぅー、はぁー。
すぅー、はぁー。
すぅー、
「はぁ〜……」
鼻から吸った息を、そっと口から吐く。
あぁ、きもちいい。
初夏の空気、すごく気持ちいい。
身体と空気が調和してるっていうか、なにをするにも丁度いい感じがする。
春と秋も似たとこあるけど、オレは初夏がイチバン好き。これから来る夏に向けて、世界が明るくなる感じがする。いろんなものが明るさを増していく感じがする。初夏さいこー。
「いーっちにーっ、いっちにー……」
低めのかけ声に誘われて、オレは校庭に目を向けた。ふいっと。
視界に映り込む複数のシルエット。
すでにグラウンドでは、部活が始まっているもよう。校庭を走る運動部の男子が、揃って掛け声を口にしている。昇降口の近くにある体育館のほうからも、ポンポンとボールの跳ねる音が聞こえてくる。
男子の野太い声。うぇーい。ボールが勢いよく弾む音。だむだむ。シューズが床を踏みしめる音。きゅっきゅっ。
そっと耳をすませば、楽器の音も聞こえる。吹奏楽部が練習してるのかな。
低音と高音。
管楽器が奏でる低い音に、弦楽器特有の上品な高い音。
遠吠えのように鈍い低音に混じって、ヴァイオリンの品のある音が聞こえる。弦楽器の奏でる高音が、オレの鼓膜をふるわせた。
ヴァイオリンの音って好きだなぁ。
楽器のなかではヴァイオリンとピアノが好きかも。どっちも品があるっていうか、お城を思わせるような音がする。格式高い宮殿を訪れたかのように錯覚させる雅な音。
そういえば、うちの学校って吹奏楽が有名なんだっけ。
たしか、全国レベルだって聞いたことある。たまに遅くまで練習してるとこ見るから、けっこうチカラ入れてる部活なのかもね。
毎日、大変なんだろうなぁ。
サッカー部と同じで、朝練もあるらしいし。勉強との両立が大変そう。文武両道の鈴木がスゴいよね。
それでも、やめられない。
やめたくても、やめられない。どうしたって手を伸ばしちゃう。かっぱえびせんみたいな。
きっと手放せないんだよね。ツラくても、苦しくても。心のどこかで『やめたい』って思っても、それでもついつい手を伸ばしちゃうもの。
きっと『夢中になる』って、そういうことなんだろうね。
もう一度、オレは息を吸い込んだ。目いっぱい吸い込んだ息を、はぁーっと勢いよく吐き出す。何度も呼吸をくり返す。
うん、きもちいい。
すごく気持ちいい。初夏の陽気、ホントさいこー。
空間を震わす響き。辺りいっぱいに広がる音が有毛細胞を刺激する。聴覚野に伝達された信号が報酬系と連携して、オレの心に恍惚にも似た快感を送りとどける。
音、きもちいい。
音も、風も。耳を撫でる音も、そよりと吹く風も。
肌を滑り抜ける風。ふわりと吹く風が皮膚表面の触覚を刺激して、神経系を這う電気信号が腹側被蓋野へと至る。各種の脳エリアが快楽物質を分泌して、昼下がりのように穏やかな快感を届ける。安心感と心地よさを運び込む。
しあわせ。
いま、すごく幸せ。




