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『かわいい』を、わたしは愛してる 3


 引き続き、学校の校庭。

 周りには柔軟をする生徒たちの姿が。

 ストレッチ。本格的にエクササイズを始める前の準備体操。

 グラウンドの中央では、すでに何人か走っている。さきに柔軟を終えた女子グループは、レーンに沿ってジョギングをしている。

 マラソンに励む女子の姿。

 柔軟体操にいそしむ女子生徒の姿。

 オレの目の前には、きょとんとする麻衣の姿。

「えっ?」

 麻衣は呆気に取られたかのような顔をしている。

「……」

 その場で黙り込むオレ。じっと口を閉ざした。

 恥ずかしさに灼けた脳が、言葉の編集作業を拒絶する。心が言葉を紡ごうとするのを拒んでしまう。

 とたん、麻衣の顔がブワッと赤くなった。まるで、茹であがったタコのように。

「『かわいい』って、あ、あたしのことっ?」

 オレは一つ頷いて答えた。

「う、うん……」

 ほっぺを赤く染める麻衣。

 ピンクかがった赤に染まる頬っぺた。かぁっと頬が赤らんでいくさまは、秋に色づき始める紅葉を思わせた。白磁のように白い肌が熟した桃に変わっていくさまは、薄桃色の唇に赤赤しい紅をさすリップティントのよう。

 あ、かわいい。

 おろおろする麻衣、すっごくカワイイ。小動物感ある。

 とたんにアタフタする幼なじみ。おたおたと慌てふためく麻衣の姿を見て、オレはちょっぴり落ち着きを取り戻した。『目の前にアセってる人いると、逆にコッチが冷静になるよね』的なアレ。

 そういうの、あると思います。

「ど、どどどっど、どしたの急にっ?」

 麻衣は突然どもり出した。

 いや、うろたえすぎでしょ。「どしたの急に?」はコッチの台詞なんですけど。これまで見たことないくらい狼狽えてる。

 初めて見る幼なじみの姿に、オレは少し笑いそうになる。

「え、えっとね……麻衣の笑った顔、すごく可愛いなって思ったの」

 すっかり冷静さを取り戻したオレ。

 言葉がスラスラと口から出ていく。これまで喉に引っかかっていたのがウソのように、なんの抵抗もなく滑らかに流れ出ていく言葉たち。ずっとノドにつっかえていた魚の骨が、するりと抜け落ちたかのような感覚だった。

「ほんとはね、朝から思ってたんだけど。『麻衣、女の子だな』って」

 言葉にすれば陳腐。

 シンプルな言葉。なんの変哲もない、ありふれた表現。

 それこそ、女の子が日常的に交わす言葉の一つだから。女子高生が挨拶がわりに口にする表現の一つだろうから。

 でも、オレにとっては違う。

 ずっと口にできなかった言葉。ずっと心の奥にしまい込んできた言葉。

 みんなが当たり前のように口にする言葉は、わたしにとっては宝物みたいに大切なもの。全然ありふれてなんかいなくって、ずっと手に入れられなかった希少品。きらきら宝石みたいに輝く、かけがえのないものだから。

 だから、わたしは言う。

 おろおろする可愛い幼なじみに、ちゃんと自分の言葉で伝えるんだ。

「かわいいね、麻衣」


 心が溶けていくような感じがした。


 口をパクパクさせる麻衣。

 さきほどから口を閉ざしていたけれど、今度は魚のように口を開閉させている。酸欠ぎみのお魚さん。

「そ……そうなんだぁ〜っ」と麻衣が言った。「なんか『視線感じるなー』って思ってたけど、あ、葵からの熱烈ラブコールだったんだぁ〜っ」

 恥ずかしさを誤魔化すかのように、めずらしく早口でまくしたてる麻衣。

 普段、おっとり口調なのに。どことなく、強がってるように見えてくるからフシギだね。

 こくり、ひとつ頷いて返すオレ。

「そうだよ」

「そうなのっ⁉︎」

 すぐさま、麻衣は驚いたような声をもらした。反応かわい過ぎません?

「そっ、そんなこと言われたの、あたし初めてなんですけどっ……?」

 照れくさそうに敬語まじりで話す麻衣。もじもじと手を遊ばせながら、恥ずかしそうに俯く姿が愛らしい。

 困惑めいた麻衣の声を聞いてか、遠くのほうから注意が飛んできた。

「そこー、イチャついてないでマジメにやれー」

 オレたちのほうを見ながら、体育の先生が気だるげに言う。アンタが言うなっ。

 反論するかのように、麻衣が狼狽えながら言う。

「いいっ、いいいイチャついて、まそんっ!」

「え、どっち?」と返す先生。

 どっちつかずな麻衣の言葉に、先生が困惑めいた声をもらした。

 ふと気づけば、周りの女子たちが笑っている。

 いくつかの楽しそうな表情。こちらを見ながら控えめに微笑む、数人分のシルエットが視界に映り込んだ。

 くすくすと忍ぶように笑う女子たち。嘲笑するタイプの忍び笑いではなく、微笑ましいものを見るかのような笑いだった。

 ひそやかに笑う女子集団のなかに、見知ったシルエットを一つ見つけた。

 唯香。クラスメイトの一人。

 ほかの女子たちと同様、唯香もまた笑っていた。見慣れた笑みを浮かべている。

「せんせーっ」

 割り込むように、唯香が口をひらく。

 声に釣られるように、先生が唯香のほうに顔を向ける。腕を組んだまま顔だけを向ける姿は、多少なり教師としての貫禄を感じさせた。中身は不真面目だけど。

「葵と麻衣がイチャついてんの、いつも通りってかデフォですよー」

「ほー、そうだったか」

 納得したような声をもらす先生。そんなわけないでしょ。

 横目でチラッと唯香のほうを見るオレ。

 満足げな笑み。伝えたいことを伝え終えた唯香が、満足したようすで明るく笑っている。そんな顔されましても。

 さも納得したような表情を浮かべながら、くるりとコチラに向き直った先生が言った。

「まぁ、アレだ。ほどほどにしとけよー」

 こちらに注意を促したあと、先生は再度そっぽを向いた。ぷいっと。

「あ、ぅ……」

 途切れ途切れの声に誘われて、オレは麻衣のほうに顔を向けた。

 視界に映り込む真っ赤なリンゴ。

 真っ赤に染まった頬。熟れに熟れきったリンゴさながらに、ほっぺを赤く染めた麻衣の姿が見えた。

 赤らんだ頬。まぶたに溜まった雫。

 麻衣は恥ずかしそうに頬を赤く染め、肩をプルプルと小刻みに震わせていた。衆人環視のもと、辱めを受ける幼なじみの図。まぁ、状況的にはオレも一緒なんだけど。

 助け舟を出すかのように、オレは麻衣に声をかけた。

「そ、そろそろ走ろっか。ストレッチも終わったし、ね?」

「……」

 茹でダコ状態の麻衣は無言で頷いた。肯定&了承を示す仕草。

 じゅうぶんにストレッチを終えたあと、オレと麻衣は逃げるように走り始めた。どこか逃避行するみたいな気分になるから不思議。

 グラウンドを駆ける複数の影。

 年輪のように引かれた白いレーンに沿うように、各々グループに分かれてジョギングする女子生徒。

 地表に降りそそぐ陽の光に照らされて、校庭に墨色のシルエットが映し出される。タッタッと地面を蹴る軽やかな音に合わせて、いくつもの影がリズムを刻むように揺れ動く。

「はっ、は……っ」

 規則的な息遣い。

 すぐ隣を走る麻衣の口から、リズミカルに吐息がもれる。

「は、ふっ……」

 麻衣の息遣いに合わせるかのように、オレの口からも規則的に息がもれた。

 授業前に髪とめといて良かった。

 さっき更衣室で着替えてるとき、麻衣が「ヘアゴム使う?」って声かけてくれて助かった。幼なじみの女子力に感謝です。

 さっきの麻衣、ずいぶん動揺してたなぁ。

 あんなに動揺するところ、はじめて見るくらいかも。いくら過去の記憶を掘り起こしても、ちょっと思い当たるフシないかなって。

「はっ、はっ……」

 楕円を描く白線の内側を走りながら、オレは頭上にひろがる空を見上げた。

 晴れ。

 青空と浮雲。

 さんさんと陽が差していて、運動するには気持ちいい天気。絶好のジョギング日和。

 マラソンは別に好きじゃないけど、この時期に身体を動かすのは好き。自分の身体と気候が調和してるような感じで、月並みだけど『いい汗をかく』気がするから。

 秋から冬へ。

 冬から春へ。そして、季節は初夏へ。

 季節が移ろうのと同じように、目の前に広がる景色も移ろう。

 一歩ずつ足を進めるたびに、目の前の風景が移り変わる。流れゆく景色が別の顔を見せてくれるおかげか、フシギと『飽き』を感じずにマラソンを続けられた。

 そういえば、前に本で読んだことがある。

 運動習慣と健康レベルの関連を調べた研究によると、週二〜三回ほどの有酸素運動を長期的に行うことで、被験者の認知機能が改善される傾向にあったのだそう。

 とくに健康的な影響が大きかったのは高齢者グループで、運動前と比べて脳の灰白質領域が肥大する傾向にあった。背外側前頭前野を中心とする各領域の血流の増加も確認され、脳全体の神経ネットワークも活性化しやすくなっていたのだとか。

 ひとことで言うと、運動は脳を若返らせる。

 日常的に身体を動かすことは、無料でできるアンチエイジング。ヘタな健康食品に頼るより、よっぽどコスパに優れている。

 年を重ねるにつれて、基本的に脳は劣化する。加齢によって認知機能の低下が見られるのは生物として自然な傾向で、どれだけ対策をしようとも『老い』の影響をゼロに押し留めることはできない。

 それでも、科学は『定期的な運動』を勧めている。

 習慣的なエクササイズによって脳機能の低下を緩やかなカーブにすることで、うつ病やアルツハイマー病といった認知機能の低下に伴う病気の罹病リスクを改善できる。脳は遅かれ早かれ劣化するものだけれど、きちんとした対策は機能低下の速度を遅らせる。

 健全な心は、健全な肉体に宿る。

 若々しい脳は、習慣的な運動に宿る。定期的に身体を動かすことによって、みずみずしい果実のような脳が手に入る。

 ほかにも、エクササイズと長期死亡率の関連を調べた二十年にわたる追跡研究では、習慣的な運動によって全体的な死亡率が三三%改善される傾向が確認された。八十万人を超える被験者を対象にしたメタ分析&系統的レビューなので、定期的なエクササイズの有効性を示すデータとしての科学的な信頼性も高い。

 ——と、ここで学生さんに朗報。

 身体を動かすことは、学生にとっても嬉しい。

 エクササイズと成績向上の関連を指摘するデータは多く、とくに運動の影響が大きいのは『国語力』と『数学力』の二つ。

 じっさいに、有酸素運動が学業成績にもたらす影響を調べた研究では、数学スキルとの関連を示す効果量はES=〇.二八ほどの大きさ。言語スキルに関してはES=〇.二七程度の効果量だと証明された。

 どちらも「運動は勉強に役立つ」と示唆できるほどの数値で、定期的なエクササイズが成績向上に貢献する可能性を示した。

 かんたんに言うと、よく動く人ほど勉強がデキる。

 学校の授業に体育を取り入れるのは、科学的な観点からもオススメできる施策。学生たちの成績アップに関わる活動の一つなので、よりアクティブに取り組んでもらうほうが望ましい。文科省の沽券にも関わりそうな問題だし。知らないけど。

 ま、眠くなるけどね。

 科学的なメリットうんぬんは分かるけど、体育の後の授業ってフッツーに眠いよね。しょせん睡魔には勝てません。ぐっない。

「はぁ、はぁ……っ」

 口からもれる吐息。

「ふ、ぅ……はぁ……っ」

 ふたつ重なる吐息。

 オレと麻衣の息遣い。二つぶんの呼吸が重なる。

 しばらく走っているうちに、しだいに呼吸が重なってきた。調子を合わせるかのように重なり合うお互いの息遣い。

 番う呼吸。

 重なる吐息。寄り合う息遣い。

 吐いた息が空気中で重なり合い、欲に駆られた雌雄のように番う。

 走りながら、校庭の端に目を向けた。オレの視界に何人かの女子の姿が映り込む。荒く呼吸しながら天をあおぎ、フェンスにもたれかかっている。みな一様に息をきらして——

 や、そうでもない。あきらかサボった感じの女子もいる。

 手ぇパタパタさせて扇いでる意味よ。よく女の子がやる「ふぅー、あっつぅ〜……」のヤツだけど、ナイトプールで遊んだ後かなってくらい涼しい顔してんじゃん。

 しれっと誤魔化してるけど。「いやー、いい汗かいたわぁ〜」みたいな雰囲気かもし出してるけど、生まれて間もない赤ちゃんみたいにお肌ツヤッツヤに輝かせてる女子もいる。息もあがってないし、ぜったいサボったね。さぼたーじゅ。

 まぁ、それはいいとして。

「ま、麻衣……」

 荒く呼吸しながら、となりを走る麻衣に声をかけるオレ。

「う、ん……っ?」

 吐息まじりに返す麻衣。

「そろそろ、終わりにしよっか……?」

 オレからの提案に、麻衣が一つ頷いた。だんだんとお互いの走るスピードが緩まる。

 走りから歩きへ。

 ジョギングからウォーキングへと切り替えるオレたち。「タッタッ」から「てくてく」に移行。

 クールダウン。

 エクササイズの後におこなう整理運動。

 歩きに切り替えたことで、移ろう景色もスローになる。オレの目の前に広がる風景が、途端ゆったりと移ろい始めた。

「はぁっ……はぁっ……」

「ふぅっ……は、ぁ……」

 二人ぶんの呼吸が重なった。

 二本の糸が一本に撚り合うように、わたしと麻衣の呼吸が一つになる。ふたつ重なり、ひとつになる。

 息をととのえる。

 オレの意識が呼吸に向かう。すっかり荒くなった息遣いが、意識を好気呼吸へと向かわせた。

 解糖系の躍動。

 生き生きと働き出すクエン酸回路。走り幅跳びさながらに飛び跳ねる電子伝達系の躍動を感じる。感じません。

 オレはチラッと横を見た。

 すぐ隣を歩く麻衣は少しだけ汗をかいていた。

 頬に一条の線を残す汗。ほっぺを伝うひと筋の雫が、日差しに照らされてキラめく。宝石のような照り返しを見せる水滴。

 汗は好きじゃない。

 オレ、ひと一倍ニオイに敏感みたいだから。

 たぶん、前世は犬。もしくは、二千個近くの嗅覚受容体遺伝子を持つアフリカゾウ。わんわん、ぱぉーん。

 ニオイにも種類がある。

 苦痛を感じさせる臭い。快感を覚えさせる臭い。

 不快感をもよおすニオイがある一方で、幸せをもたらすハッピーな匂いもある。『快感』と『不快感』を秤に乗せた匂いの天秤。

 汗は好きじゃない。

 好きじゃないはずなのに、どうしてか目を奪われる。

 麻衣の頬を流れるひと筋の雫が、恍惚にも似た感覚を覚えさせる。見惚れてしまうような、うっとりしてしまうような。美術館で心奪われるアート作品を観たときと似た感覚。

 きれい。

 かわいくて、だけどキレイ。

 麻衣の髪の毛みたいにまあるいのに、ピンと背筋を伸ばす茎みたいに真っ直ぐ。

 白磁のような肌を流れる汗を見て、オレは思わず麻衣の姿に見惚れた。ほっぺを伝うひと筋の雫に魅入られて、クリアなはずの意識が現実感を手放した。心迷い、花惑う。

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