ずっと欲しかったもの 1
女の子に産まれたかった。
ずっとずっと、オレは女性として生きたかった。
——♦︎——
一
朝。
オレは目を覚ます。
まっくらだった世界が明るみを帯びていく。
ゆっくりと覚醒する意識。だんだんと明瞭になる視界。カーテンの隙間から漏れ入る微かな光が、部屋のなかを薄ぼんやりと照らしている。
耳をすませば、スズメの鳴き声。窓の向こうから小鳥のさえずりが聞こえてきて、起床をうながす目覚まし時計のように機能した。ちゅんちゅんちちち。
ぼやけたピント。
起き抜けのせいか、目の焦点が合わない。
ボヤけたピントを合わせるべく、くり返し両目をパチパチさせた。ピンぼけした視界を調節しつつ、そっと右腕を目の前に持ってくる。
右手首に巻かれたスマートウォッチ。
時計を見て時間を確認する。ディスプレイに表示された時刻は——午前六時二三分。いつもより少し遅めの起床だった。
液晶画面を上から下にスワイプして、オレは届いたばかりの通知を確認した。手首に巻かれた腕時計の画面に「先日と比べて、十八分ほど遅い起床です。規則正しい睡眠習慣を心がけましょう」という文字列が表示される。
いや、お母さんかっ。
どこぞの軍隊ばりに起床時間に厳しい教育ママンか。
分単位で子どもの起床時間を管理する親、そうそう世の中にいないと思いますけど。機械にツッコむなんてヤボだけど、まぁまぁ余計なお世話なんですがー?
ゆっくりと上体を起こす。
ごしごしと寝ぼけ眼をこすりながら、むくりとベッドから起き上がったオレ。
「ふぁ、ぁあぁ〜……」
組んだ手をクルッと裏っ返して、天井に向かって両腕を伸ばした。ぐぅーっと伸びをして、固まった筋肉をほぐす。
んなぁー、よく寝たぁ。
とっても良い気分。しっかり寝た翌日の朝は気分がいい。
なんて穏やかさ。悟りをひらいたブッダさながらに凪いだオレの心。どんなことにも動じない不動の心という点において、このたびのパーフェクツな睡眠を経たオレ氏の右に出る者はいな——
ふと、あくびの途中で気づいた。
とたん、オレは自分の胸に違和感を覚える。いつもと比べて、胸部がズッシリしていることに気づいた。何このズッシリ感……?
「ん、なんだコレ……」
おもわず、困惑めいた声がもれた。
ふにょんと弾むソレは、本来ならありえないもの。およそ男性の身体には付いていないはずのもの。
男のオレの身体には付いていないはずの物体が、まるで初めから存在していたかのように胸にある。デフォルトで付属するアタッチメントのようにピタリとくっ付いている。
フシギに思いつつ、そっと触れてみる。
おっぱい。
しかも、かなり大きめの。
胸筋の硬い感触ではなく、ふにふにと柔らかな感触。触れるたびに指が沈み込んでいく、やわやわとした胸の感触があった。
ぷよん。
ふにふに、ふにゅん。
リアルな感触。だいぶリアルな手触りだった。すでに覚醒したオレの脳内を、本で読んだ知識が駆けめぐる。
乳房の構成成分は、九十%が脂肪らしい。皮膚細胞や乳腺などを構成するタンパク質を除けば、おっぱいの大部分は脂肪組織で出来ているのだそう。前に読んだ生理学の本に、そう書いてあった気がする。多分ね、たぶん。
もう一度、オレは胸の感触を確かめてみた。そぉ〜っと、そぉ〜っと。
たゆん。
ぽよんっ、ふにゅふにゅ。
オレは自分の胸を何度も揉みしだいた。そっと持ち上げてみたり、もにゅっと寄せてみたり。はじめてスライムに触った人さながらに、くり返し何度も胸部の感触を確かめてみる。
お、おぉ……。
ぷ、ぷよぷよしてるぅ〜……。
リアルな手触り。
夢のなかにしては、かなりリアルな感触。
ついに夢にまで、性転換願望が反映されるようになったもよう。
オレどんだけ「女に生まれたかった」と思ってたんだよ。女性化願望っていうか、TS願望ありすぎだろ。
いや、引くわ。
われながら自分の願望の強さに引くわ。
自分で自分に引くわい。胃の中にあるものヴォミットする直前みたいに青ざめた顔で、思わず「うわぁ……」って声がもれそうなくらいドン引きです。
「はぁ……」
おもわず、ため息がもれた。心なしか、自分の吐息に虚しさが溶けているような気がした。
毛布をどかして、ベッドからおりた。
オレは首を左右に振って辺りを見回した。周りに敵がいないかどうかを確認するミーアキャットさながらの動き。周囲の状況を注意深く確認。きょろきょろ。
オレの部屋だ。
ここは間違いなくオレの部屋。この場所で長らく過ごしてきた。ぜったい見間違えたりしない。
見慣れたカーテンに、見慣れたクッション。いつも使っている木製の机に、安定感のある足付きのベッド。背の高い木製の本棚には、所狭しと本が並んでいる。
棚にズラリと並んでいる読み物は、ほとんどが科学系の雑誌や学問書。数少ない小説ですら、科学との親和性が高いSFモノ。文系より理系学問が好きなオレの本棚には、読み応えのある専門書が数多く並んでいる。
生物学しかり、神経科学しかり。分子遺伝学しかり、素粒子物理学しかり。大学で習うような内容の本も沢山ある。
最近の個人的なトレンドは認知科学。
脳って面白い。脳って小宇宙。人間の頭のなかにあるミクロな宇宙は、オレの知的好奇心をグサグサ刺激する。ぐさぐさ、ぶすりっ(※好奇心が刺激される音)。
まぁ、それは置いといて。
本棚から視線を逸らして、窓辺の姿見に目を向けた。そっぽを向いている全身鏡に、まだオレの姿は映っていない。
彫りの深い顔。
ホームベース型の輪郭。典型的なソース顔のオレ。
自分の顔に大きな胸が付いてると考えたら……正直、鏡を見るのが恐ろしい。アンバランスにも程があるもんな。『地獄絵図』とは、まさにこのこと。マジで誰得なんだろ?
とはいえ、現状から目を逸らすのも難しい。
鏡を見ないってわけにもいかないよな。自分の身体に女性的なパーツが付いているという事実が、科学少年さながらのオレの好奇心をグサグサと刺激した。
見たいけど、見たくない。
ほんとうに心の底から見たくないけど、ちょっとだけ見てみたいと思ってたり。
相反する二つの気持ち。草陰からヒョコッと顔を出すウサギみたいに、怖いもの見たさ的な心理がひっそりと顔を出す。アンビバレントな感情に振り回されるオレ。
くそぉ、生来の好奇心が憎い。
鏡で自分の姿を確認するのが怖いはずなのに、恐怖心と同じくらいの好奇心がうごめいてる。「いまの状況を確認したい」って思ってる。
好奇心と恐怖心のはざまに立つオレ。どうして朝から、こんな気分にならなきゃいけないんだぁ。こんな辱めを受けるいわれはないぞぉ。ちっくしょー。
まぁ、どうせ夢なんだろうけど。
っていうか、夢なら早く覚めてくれよ。ほんとマジ夜中うなされるレベルの悪夢だよ。ばっど・どりーむ。ないとめあ。
オレはベッドから下りた足で、鏡のほうへと向かって歩いた。
鏡に自分の姿が映る直前、一瞬だけ強くためらった。「ちゃんと今の状況を確認しなきゃだけど、おっぱいがついた自分の姿なんて見たくない」という葛藤がオレの足を止めた。
とりあえず、その場で深呼吸。
ひとまず気分を落ち着かせようと、オレはスゥっと深く息を吸い込んだ。
お腹がふくらむ感覚を覚えたあとで、風船をしぼませるイメージで息を吐く。「吸って、吐いて」を何度も繰り返す。
収縮して、膨張して。
小さくなって、大きくなって。
お腹にそっと手を当てて呼吸をすると、収縮と膨張を繰り返す感覚が直に伝わった。「手に取るように分かる」って、多分こういうことを言うんだろね。え、全然チガウ?
まぁ、それはいいとして。
そういえば、前に本で読んだことがある。
即効性が高いストレス改善法を調べた研究によると、不安や緊張といった心理的なプレッシャーを解消する方法として、もっとも優れていたのは『深呼吸』だったのだそう。研究者たちが言うには、息をととのえることによって、乱れた自律神経のバランスを調整することができるのだとか。
自律神経はシーソーのような働きをする神経群。『興奮』をコントロールする交感神経と、もう一方の『リラックス』を司る副交感神経の二つから成る。深呼吸には自律神経のバランス——偏りすぎた天秤のバランスを元に戻す働きがある。
かんたんに言うと、シーソーを平行にするってこと。深呼吸には興奮とリラックスのバランスを平行に保つ働きがあるんだってさ。
昼夜問わず働いてくれてる自律神経。
人間みたいに土日休みも有給休暇も必要なく、身体のために休まず働いてくれる自律神経さん。ワーカホリックの疑いあるね。ありません。
深呼吸は交感神経の活性化による興奮のレベルを下げて、リラックス神経たる副交感神経のはたらきを優位にする。「ゆっくり吸って、ゆっくりと吐く」というシンプルな対策法によって、身体の内側からストレスがグングン解消されていく。そういったリラックス効果が、深呼吸には期待できるらしい。科学的な豆知識。
すぅー、はぁー、とオレは深呼吸をくり返した。
各種の研究データが示すとおりに、ゆっくりと時間をかけて息を吸う。お腹が膨らむ感覚が心地いい。
まるで、空気を注がれる風船さながらの気分。いまなら宙に浮かべそうな気がする。水の中をたゆたうクラゲみたいに、ぷかぷか出来ちゃいそうな気がする。出来ちゃいません。
あ、そうだ。
あまりにもヒドい絵面だったら、ほっぺたつねって目ぇ覚まそう。
そうだ、そうだよ。なにも長々と眺める必要ないじゃん。美術館に展示されたアート作品を鑑賞するわけじゃあるまいし、わざわざ地獄絵図を時間をかけて見る必要なんて全然ないじゃん。ちょっぴり作家泣かせかもだけど、気に入らない作品はスルーでOK。時間は有限なのですから。
「……よしっ」
ようやくオレは意を決して、今の自分の姿を鏡に映した。
とたん、脳みそがフリーズする。
姿見に映し出された自分の姿を見て、氷漬けされたように思考が停止した。
鏡の中にいるのは、オレじゃなかった。自分の姿をした人間はどこにもいなかった。
姿見に映し出されたのは、目の大きな可愛い女の子。茶色がかったボブヘアーがよく似合う、見目麗しい女性が鏡の前に立っている。
よ、よかったぁ。
地獄絵図じゃなかったぁ。『おっきな胸+ソース顔の男』なんていう、地獄のような掛け合わせを見ずに済んだぁ。阿鼻叫喚を未然に回避してひと安心。ほっ。
安心して一息ついたのも束の間、ひとつの疑問が脳裏に浮かんだ。
この娘、だれだ?




