第三十三話 安堵と絶望と(オレスティア視点)
絶望、などという単語は、気軽に使うべきではない。
考えてみればオレスティアの生い立ちは、決して幸福ではなかった。
生まれこそ高貴ではあったけれど、父にも義母にも邪魔者扱いされてきた。その影響で、片親だけとはいえ血を分けたはずの弟にも軽んじられている。
使用人たちも、一応の礼節は守った態度ながら疎んでいるのは火を見るよりも明らかだった。
そして決まった縁談は、態のいい厄介払いにすぎない。
遠目で見た辺境伯は、岩のような大男だった。オレスティアとは身長で1フィートほど、体積ならば倍以上はありそうだ。
家族からは疎まれ、誰一人として信用できず、頼りにもならない。その上あのような恐ろしげな男性に嫁がされる自分は、不幸だ。
そう思ってはいても、「絶望」とは思えなかった。
世の中には今日食べるものにも困る人たちもいるという。その人たちに比べれば、生活に困らずに済む分、まだましなのだと。
――なのに今、その「絶望」という単語が頭に浮かんだ。
オレスティアが現在わかっているのは、自分がオレステスという男性の体に入ってしまっているということだけだった。
ここはどこなのだろう。
右も左もわからない。
そもそもオレスティアには、生活能力もない。なにもしていなくても、身支度から食事の用意まで、周囲がすべて用意してくれていた。
そして一緒に居た、あのルシアという少女は何者なのだろう。
自分のことから話した方が状況把握には早いかと思っていたが、やはりルシアの話から先に聞いていればよかった。
そうしたら少なくとも、置かれた環境くらいは把握できたかもしれないのに。
このまま、ルシアが戻って来なかったらどうなるのだろう。
オレステスに所持金はあるのだろうか。あったとして、それを自分が使ってしまってもいいものだろうか。
ルシアに見捨てられたら、たとえこの宿らしきものを出て行ったとしてどうやって生きて行けばいいのか。
なにもわからず、なにもできず、今までできていた「生きる」ということすら無理になってしまったら。
不安でどうしようもなくて、涙が滲むのを自覚したときだった。
「お待たせ。――ってどうしたの、そんな涙目になって」
ガチャリと扉が開いて、呆れを隠そうともせずに言いながらルシアが入って来たときには、心の底から安堵した。
「――ありがとうございます」
「いやなにが」
涙声での例に、ルシアは苦笑しながらベッドの端に腰を下ろした。向かい合って、顔を見て声をかけてくれる。それだけで涙が出るほど嬉しい。
「――で?」
感無量で言葉も出ないオレスティアに、ルシアが首を傾げる。つられて、オレスティアも首を傾けた。
「で、とは?」
「これからどうするつもり、って訊いてるの」
当然と言えば当然の質問なのに、オレスティアは答えることができなかった。
見捨てられなかった、よかった。そこで思考が停止してしまっていたからだ。
どうしたいのか、どうするべきなのか。
仮にしたいことがあったとして、それは実現可能なのか。
そのために、自分がなにかできるのか――こんな、なにひとつ自分ではできない人間が。
――どう、しよう。
再び俯く。膝の上で握りしめた拳がまた、不安そうに震えていた。
ルシアの口から洩れるため息が聞こえて、びくりと身が竦む。煮え切らない態度が彼女を怒らせてしまったのかもしれない。
どうしよう、怖い、怒られたくない。
――けれど、迷惑をかけたくないのに、頼ってしまいたい。
そして怒らせるのか。思うほどに、口を噤むしかできなくなる。
そんなオレスティアを見かねたのだろうか。ルシアが、ごく軽い口調で言ってのけた。
「侯爵邸に行ってみる?」




