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第二十九話  悲劇のヒロインを演じるのは意外と容易で



 バチン。

 打たれたオレステスの頬が、甲高い音を響かせる。


 それだけにとどまらなかった。オレステスの体は椅子から転げ落ち、机にぶつかって激しい音を立てた。

 反動で椅子がひっくり返って、また派手な物音が響き渡った。


「――え……?」


 呆然とした声を洩らしたのはオレステスではなく、侯爵夫人の方だった。

 特に頑強なわけでもない中年女の平手打ちに、これほどの威力があるはずがない。それは侯爵夫人本人も良くわかっているだろう。

 だからこそ、自分の行いと結果との乖離に唖然としたのだ。


「なんの音ですか!? 一体なにが――」


 あれだけ派手に物音を立てれば、近くに居たら様子を確認するために入ってくるのは必至だった。

 扉を勢いよく開け、アレクサンドルが入ってくる。その瞬間、彼は目に飛び込んだ光景に言葉を失った。


 転がった椅子、床に倒れて赤く腫らした頬を押さえているオレスティア。

 そしてその前に立つ侯爵夫人――


 欠片でも想像力があれば、一目瞭然だった。


「母上――」


 名を呼ぶ声に、非難がしっかりと含まれている。

 ――オレステスの計算通りに。


 アレクサンドルは、オレステスがこの身体に宿って以降やけに構ってくる。ここ数日、書庫にこもるオレステスを遅くなる前に迎えに来る日々が続いていた。

 おそらく今日も来るだろうと思っていたし、時間的にもそろそろのはずだった。

 そして部屋の外から足音が聞こえたのでアレクサンドルだとあたりをつけ、あえて侯爵夫人に殴らせたのだ。


 虐げられる「オレスティア」の姿を見せつけるために。


 結果は思った通りだった。

 アレクサンドルはやはり、オレスティア虐待に積極的に関わってはいなかったのだろう。反応を見ればわかる。

 侯爵夫人も、オレスティアを冷遇はしても暴力を振るうところまでは息子に見せていなかったのだろう。それが親として残る、最低限の良心だったのかもしれない。


 もっとも、継子を虐める女を容赦してやるつもりはない。オレステスは、非難がましい目を侯爵夫人へと送るアレクサンドルに駆け寄った。


「違うの、アレクサンドル!」


 きゅっとアレクサンドルの服の裾を掴み、瞳を潤ませて彼を見上げる。


「なにが違うんですか姉さん。これはどう見ても――」

「でも――私がお母様……いいえ、バエビア様を怒らせてしまったみたいで……」

「そうよアレクサンドル! この女、私に向かってババアなんて言ったの! 信じられないわ」


 この場面で「なにもやっていない」と主張するのは、さすがに愚かだ。ならば原因を相手になすりつけるのが得策だと考えるのは当然だった。


「――姉さん、本当に……?」


 こちらを見るアレクサンドルの目に、疑いが宿っている。

 つい先日、「記憶喪失になってから、口が悪くないですか?」と指摘された。もしかしたら侯爵夫人が言ったことも正しいのかもしれない、と思ったのだろう。


 かもしれないもなにも、実際正しいのだけれど。


「そう聞こえてしまったのですか、申し訳ございません。バエビア様とお呼びしたのですが……」

「そういえば先ほどもそんな風に言っていましたが――お母様と呼べばよかったのでは?」


 いつものように。言外の声に、オレステスは意図的に眉を歪めて見せる。


「それが――お母様なんて呼ばないで、と仰られて」


 悲しげに目を伏せるオレステスに、アレクサンドルは息を飲む。

 母がオレスティアを冷遇していたのは彼も知っているはずだ。

 過去にももしかしたら、「あんな娘に母と呼ばれるなんて悍ましい」くらいのことをアレクサンドルの前でも言っていたのかもしれない。


 信憑性のある言葉――事実、侯爵夫人はそう言ったのだし――それを、アレクサンドルは疑わなかった。


「――そう言われたから名で呼んだ、ということですか。そうしたら頬を打たれた、と」


 すがりつくオレステスの肩を支えるように抱き、発するアレクサンドルの声が低くなる。顔を上げなくても、彼の表情が強張っているのがわかった。


「う、嘘よ! アレクサンドル、そんな女の言うことを信じるの……!?」

「母上が似たようなことを仰っていたのは聞いたことがありますから」


 ああ、やっぱり。

 納得するオレステスとは逆に、侯爵夫人はヒートアップする。


「仮に私がそう言ったとしても、義母に向かってババアだなんて――」

「ただ名で呼んだだけだと姉さんは言ってますけど」

「それが嘘だと言っているのよ! さっきのあの顔、あなたにも見せてやりたいわ! 人を馬鹿にした笑い方して――」

「まだ言うんですか、母上、姉さんは――」

「申し訳ありません!」


 オレステスの期待通りの喧嘩をしてくれる二人に向かって、謝罪と共に頭を下げる。


「バエビア様にそう思わせてしまった、誤解させてしまった私が悪いの。申し訳ありませんでした……!」


 顔を両手で覆って、後も見ずに走り去る。

 その様子を見たアレクサンドルがどう感じるかなど、考えるまでもない。


 ――おれ、役者でもやっていけるかもな。


 走りながら、ペロリと内心で舌を出した。

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