第十八話 チョロい弟
夜は、驚くほどにぐっすり眠れた。
やはり良い寝具はいい。これから先のことを考えればもちろん不安がないわけではなかったが、それらを忘れてしまううほどなのだから、すごい威力だ。
本当は朝食の前に軽くトレーニングするのが、筋力増強のためには効果的なのだが、仕方がない。まったく効かないわけでもないのだから、とりあえずはよしとする。
「そういえば、あなた、お名前は?」
朝食の準備が整いました、と呼びに来た侍女に問いかける。倒れたときに居た、あの侍女だ。
「――ネラですけど」
怪訝そうな顔で侍女――ネラが答える。どうしてそんなことを、と思っているのがまるわかりの顔だった。
「そう。――ごめんなさいね、ネラ」
眉を歪めて笑うのは、オレスティアの美しい顔を利用する気満々だからだ。
オレステスであれば無理だろうが、オレスティアの顔でこんな表情をすれば、それだけで儚げに見せることができる。
「私、本当になにも覚えてなくて。ずっと傍で仕えてくれたあなたのことも、あなたとの思い出も、忘れてしまっているの」
「――はぁ」
「もしかしたら今までの私と違う言動をするかもしれないけど、これからも、これまで通りよろしくお願いしますね」
最後にはにっこり笑って見せる。
なんということはない。プレッシャーをかけたのだ。
倒れたふりをしたときに支えず逃げたり、身支度を手伝っていたときの冷めた態度を見ている限り、決してオレスティアとネラの関係は良好ではない。
とはいえ、立場をわきまえた言動はしているように見て取れる。
こうやって宣言することでより丁寧に接してくれるようになるならよし、ぞんざいな対応を続けるのなら「今までもずっとこうだったの!?」と叱責してやるつもりだった。
表面だけの扱いではなく、「侯爵令嬢」たるオレスティアの立場を、確立しなければならない。
オレステスのかける圧に気づいているのかいないのか、はい、と頷くネラはどこか気まずそうに見えた。
昨夜、食事のことで文句を言ったからか、今朝はちゃんと侯爵たちと同じ物がオレスティアの前に並べられていた。
具だくさんのスープとパン、卵と鳥肉の入ったサラダ、林檎のコンポート。簡素ではあるが、トレーニング前にはちょうどいいものだった。
正直、「オレステス」の朝食はこんなこじゃれた物ではなく、肉! パン! 野菜! みたいな感じだったので、充分すぎるほどではある。
味も美味しく、完全に満足だった。ただ、一緒に食事をとっている割には家族間でなんの会話もされていないことが、気になると言えば気になるところではあるが。
会話もないまま食事を終えて、それぞれの部屋に戻る。
――のだが、オレステスはアレクサンドルの後をついて歩いていた。
「――なにかご用ですか」
部屋の前で足を止めたアレクサンドルが、問う。心底めんどくさそうな顔ながら、無視して部屋に入らないところが律儀だ。
「ズボン、貸してほしいなと思って」
「――は? なんですって?」
「ズボン、貸して? これじゃ動きにくくて」
両手で、ぴらりとスカートの裾をつまんで広げて見せる。
朝起きてすぐ、オレスティアのクローゼットを開けてみたのだが、中には今着ているようなドレスしか入っていなかった。
まぁ当然の話だとは思うが、さすがにこの服ではトレーニングなど思うようにできるはずがない。
てっとり早く用意するなら誰かに借りる、よし弟だ、となったわけだ。
「動く必要ないでしょう。そもそも体格が違いますから」
ハッ!
言われて、たしかに、と思い直した。
いくら細いとはいえ、アレクサンドルは男だ。身長も彼の方が高い。オレスティアの体にそのまま当てはまるわけはなかった。
そしてそもそも、女物のズボンが既製品ではほぼないだろう。侍女や農家などで働く女たちもスカートを穿いているのが普通だった。
冒険者御用達の店ならば、女剣士のために用意もあるかもしれないが、そこまで侯爵令嬢が買いに行けるはずもない。
「じゃあ仕方がないかな」
するっとアレクサンドルに一歩近づく。
彼が足を後退させるより早く、その腰に差してある、護身用と思われる短剣を抜いた。
「なっ――」
なにをするつもりですかと叫びかけたのかもしれないが、それよりも速く、自分のスカートを縦に切り裂いた。
ビリィ、という、文字通りの裂帛が響く。
「いや待って! 作らせるから!」
もう一カ所切り裂いて、太腿辺りで結んでおけばとりあえずは動きやすくなる。
動作からオレステスの考えを読んだのか、アレクサンドルが顔を真っ赤にさせて叫んだ。
「でも、時間かかるでしょうし……」
「僕のを手直しさせたらそんなにはかからないから! だから待っててください!」
叫びながら、バタバタと駆けて行くアレクサンドルの後ろ姿を見送り、思わず呟く。
「――やっぱりチョロいな」