第十話 たとえ偏見と言われようとも
記憶喪失ともなれば、さすがに一大事らしい。「父上と母上に知らせなければ」と弟が出て行った。
事ここに至って、医者がオレステスの瞳孔の様子や後頭部のこぶの具合などを診始める。侍女に、どこでどうやって倒れたのかなどと聞きこみをしたりもしているが、行動が一々遅かった。
急激にざわざわと騒がしくなったけれど、当のオレステス自身はほったらかされたままだ。記憶を失っている人間にあれこれ問いただしたところで何もわからないだろうとの判断は、ある意味無難だっただろう。
蚊帳の外に置かれ、先程までの気絶したふりよりは幾分マシだけれど、暇を持て余してしまう。とりあえずベッドの背もたれに寄りかかったまま、少し距離はあるけれどぼうっと窓の外を眺めていた。
「どういうことだ!」
一段と騒がしい足音と共に大きな声が響き渡る。ノックもなく、バタン! と激しい音を立てて開かれる扉に、顔をしかめた。
仮にも、ケガ人だか病人だかがいる部屋で出す音ではない。オレスティアが軽んじられている証拠にも思えた。
ゆっくりと視線を入口へと向ける。足音高く、乱暴に歩み寄ってくるこの中年男がオレスティアの父親なのか。
体格は中肉中背、これといって特筆すべき点はない。ただ顔立ちだけは、さすがはオレスティア姉弟の父親だと思われる美形ではあった。
だがその容姿が気に入らない。若いうちはともかく、中年くらいになればその者の生き様や性格が顔つきに表れる。
そう考えたうえで判断すれば、この中年男はオレステスの嫌いなタイプの人種に見えた。
「先程侍女に話を聞いたところ、貧血を起こされたとき、かなり激しく頭を打ちつけられたご様子で――その衝撃で、記憶を一時的になくされたのではないかと推測いたします」
「推測も憶測もいらない。確定事項だけ言え」
イラ立ったように告げる父親らしき男に、医者は深々と頭を下げた。
「記憶喪失の症状が見られます。原因はわかりません」
医者の声が微かに震えているのは、恐れか怒りか。言葉少なに、端的に言った医者に、確定事項だけ、と言われたらこれ以上はなにも言えないよな、と軽く同情する。
「結婚が嫌で、記憶を失ったふりをしているだけでは?」
騒がしい男が目立ち過ぎて気づいていなかったが、その後ろ、やや離れたところに女が立っていた。男と同様、オレスティアを心配する素振りは欠片も見えない。
この女が母親か。オレスティア姉弟やその父親の美貌ぶりと比べれば、やや劣る。とはいっても十人並みの美人ではあるのだが。
もっとも、オレスティアを見下す嫌悪の眼差しがあからさますぎて、その美しさよりも心根の醜さを強調しているように見えた。
「記憶を失っても嫁ぐことに変わりはない。意味のないことくらい、これでも知っているだろう」
長い栗色の髪をくりくりと自分の指先に巻きつけながら問う女に、男は吐き捨てるように答えた。
今、娘に対してこれと言ったのか?
オレステスに一瞥だけ向けて、次は医者に向き直る。
「それで? 記憶はいつ戻る」
原因不明ならわかるわけねぇだろ。
咄嗟の毒づきを、口に出さなかったことを褒めてほしい。
阿呆か、との感想はおそらくオレステスだけでなく、問われた医者も思ったのではないか。無言で頭を振る医者に、男はチッと舌打ちを吐き捨てた。
「役に立たんな。進展が望めないのならお前はもう下がれ。お前もだ。今日の外出はなくなったのだから、他の仕事に戻れ」
前半は医者に、後半は侍女に向けての言葉だった。
オレステスが嫌いな、典型と言っていいほど高圧的な「お貴族サマ」だ。
命令に従い、二人が出て行く。
「アレクサンドル!」
ついで、男が目を向けたのは出入り口付近に立っていた、オレスティアの弟だった。
父母と一緒に入ってきていたのか。影が薄くて、まったく気づかなかった。
「おまえが説明してやれ」
医者や侍女に命じたのと同じ、一方的な指示だった。弟――アレクサンドルと呼ばれた青年は、はいと頷く。
オレステスが呼び止める暇もなかった。父親はもう振り返りもせず足早に部屋を出て行き、母親らしき女もそれを追って行った。