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「おっと、その椅子には座らないでくれ」

 テーブル前に置いてあった椅子のひとつに腰かけると、遊間は気難しそうな顔でそういった。

「ごめんね。その椅子、彼のお気に入りなのよ」

 突然の謂れなき苦情に私が困惑していると、後から部屋に入ってきたマスターが私のお尻の下を指さして言った。

「え? でも向かいにある椅子も同じ型の椅子ですよ」

 私がそういうと、マスターはしまったという表情を見せた。

「全然、同じじゃない」

「また始まったわ」

 マスターは肩をすくめて、お店の準備をしてくるわね、と言い残し、部屋を後にした。

「いいか。この部屋は、その椅子を中心にすべてが最適化されているんだ」

 部屋から去っていくマスターの様子を気に留めることもなく、遊間は話を続けた。

「まず、その椅子はこの部屋の中で一番雑音の届かない静かな場所を選んで配置している。思考に深く没頭するには、何より静寂が大事なんだ」

 遊間は、こんこんと椅子を叩いて見せた。

「次に、最小限の移動で最大限の知識にアクセスできるよう、この部屋にある本はすべてその椅子を中心に整理されている。そこに座る僕は、さながら巨大なデータベースを駆使して事件の真相を導き出す、高性能の演算装置といったところか」

 そう言われると確かに、乱雑に散らばっているかに見えた本の山々も、そのソファを中心に何らかの秩序を持って並べられているようにも見える。しかし、それが整理されている、と言えるかどうかは人によって意見が別れそうだ。

「そして、その場所はダイニングからも程よい近さで、気分が乗らないときには気軽に気化酒を摂取できる。きみ、気化酒は知っているか? 気化酒はいいぞ。お酒を蒸発させて、気体にして吸うのだがな。気化酒は僕の頭脳にとって、ガソリンのようなものだ。それがなければ、素晴らしい閃きは降りてこない」

 気化酒というのは聞きなれない単語だが、彼の話から察するに、恐らくお酒の嗜み方の一種なのだろう。バーの上に事務所を構えるくらいなので、彼も相当な酒好きなのかもしれない。

「まだまだあるぞ。その場所から天井を見上げたときに見える天井のシミが、ほら、天井のあれだ。どうだ? 猫に見えるだろう? あれがまた心を癒してくれて……」

「分かりました。分かりましたから」

 このまま放っておくと、永遠にしゃべり続けそうな気配を察して、私は彼に席を譲った。

「分かればいいんだ」

 ひととおりまくし立てて満足したのか、彼は「お気に入りの椅子」にゆっくりと腰を下ろした。しかし、椅子に腰をかけた瞬間、その満足気な表情はすぐに不満げな表情に変わった。

「きみが座っていたせいで、生温かくなっているのだが」

 彼は悪態をつくと、不機嫌そうにため息をついた。

 散らかった室内とは対照的に、かなり神経質な性格のようだ。

 私は、マスターの言っていた変人の意味を少しずつ理解し始めていた。

「それで?」

 遊間はそれだけいうと、足を組んで膝の上に両手を乗せ、目を瞑ってそれっきり黙りこくってしまった。

「あの、それで……とは」

 彼の言葉の意図を理解できずに私が尋ねると、彼は動物園の猿でも見るような目をして私を睨みつけた。

「きみの頭のなかには脳味噌が詰まっていないのか? この僕の優れた頭脳の助けが欲しいのだろう? ならば、さっさとそこの椅子に座って、僕に依頼の説明を始めることだ」

 初対面の人間相手に、なんと酷い言い草だろう。

 彼の強い態度に、私は思わずたじろいでしまう。

 この人を頼って本当によかったのだろうか。

 彼の一連の行動を間近で目撃した今、私の心の中に不安な気持ちが広がってきていた。

「ええと、そうね。どこから話せば良いか……」

 私が、どう話を切り出すべきか、考えあぐねていると、足元から「にゃあ」と猫の鳴き声が聞こえてきた。

 いつの間に、部屋に入ってきていたのだろうか。そこには、先ほど血まみれになっていた三本足の黒猫、バエルの姿があった。

 マスターが洗ってくれたのだろうか。血はすっかりと落ちており、毛がしっとりと濡れてまとまっていた。

 空洞になっていた右目にも、赤い瞳の義眼がしっかりとはめ込まれている。生身の左目と合わせて、赤と青のオッドアイだ。

 バエルは私と目が合うと、ごろごろと喉を鳴らし、すっと私の膝上に飛び乗ってきた。

「珍しいな。バエルが僕とマスター以外の人間になつくなんて」

 その様子を見ていた遊間は、先ほどとは打って変わって、とても愛おしそうな表情でバエルを見つめながら、感嘆の声を漏らした。

 ――なんだ。そんな表情もできるのか。

 彼のその表情を見て、先ほどまで彼に対して抱いていた不安はすっと溶けて、どこかへと消えてしまった。

 ――大丈夫。ちょっと……いや、かなりの変人だけど、根は悪い人じゃないわ。

 二階へ上がる前に、マスターが私にかけてくれた言葉をふと思い出す。

 確かに、彼は変人だが、しかし同時に悪人でもなさそうだ。

 私は、バエルの腰を撫でながら、例の悪夢のことを彼に打ち明けた。

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