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その日の収益を確認するように現金を念入りに数え、倉に仕舞い厳重に鍵を掛ける仕事はいまだかつて誰にも任せた事がない。
仕事がどんなに忙しく夜遅くなろうとどんなに疲れていようとも、他の誰かに触らせ任せるなど絶対にできなかった。
リーシェンにとって日々増え続ける現金を数えるのが唯一の楽しみであり、命より大事な現金を他人を信じ任せるなどあり得ない事だった。
「お前達は絶対に私を裏切らない、これからも期待しているぞ。巡り巡って私の元へだけ集まるがいい」
現金を木箱に数え入れながら呪文のように呟くと気分が高揚し力が湧いてくる。まるで何かに取り憑かれたような毎日のルーティンだった。
しかしその日だけはいつもと少し様子が違った。
「旦那様、この紙切れは何ですの?」
隣で不思議そうに首を傾げる少女が卓の上に置かれた銚子を手に取ると、リーシェンは当然のように杯を差し出し満足そうな笑顔を浮かべる。
慣れない手つきで銚子から杯に酒を注ぐ少女に自然と顔を綻ばせる。いつもなら念入りに現金を数えている時間を少女と過ごしていた。
「あはは。これはお前にはただの紙切れにしか見えないだろうが儂にとっては大事な大事な物なんだ」
リーシェンはすこぶる機嫌良さそうに笑いながら杯の酒を呷る。
「この紙切れがそんなに大事ですの?」
いつもなら石造りの倉の奥に油紙で包み耐火性の強い壺に隠すように仕舞っている大事な大事な証文だ。
それを事もあろうに酒を飲みながら誰かに見せるなどいつもなら絶対に考えられない事なのだが、何故かこの日はこの少女に自慢気に広げて見せていた。
いつもなら念入りに数える大事な現金をそそくさと倉に仕舞い、隠すようにしていた証文を取り出す気になったなど、不可解な行動でしかない事にリーシェンは気づいていない。
(やはり女は純真無垢な少女に限る)
リーシェンは表向き職業斡旋や人足出しをしているが裏では高利貸しや奴隷取引を生業にし、特に借金の形に女を郭に落とす際の目利きには自信があった。
しかしその弊害か普段は女を見ると自分に利益をもたらす商品か使い潰すしかできない道具かの判断が先に立ち、なかなか一人の人間として見る事ができなかった。
たとえ街一番の綺麗どころが猫撫で声でしな垂れかかって来ようと、妖艶な美女が露出度の高い薄着で豊かな胸を強調しようと、リーシェンの目には自分の大事な現金を食い潰すだけの有害な相手でしかなかった。
無垢で従順で少々足りないくらいが丁度良いという価値観から、そこに少しでも女の匂いがすると一気に冷めてしまう。
そんなリーシェンの前に珍しく心の一角を許してしまう少女が現れたのだ。つい気を緩め酒の相手をさせながら自慢話の一つもしたくなったのは仕方のない事だろう。
しかしそれは破滅の始まりで雪玉が坂道を転がるように徐々に早く大きく襲い掛かる事になるとはこの時はまだ気づいていなかった。
「これは証文といってこれ一枚にこの家以上の価値があるんだ」
リーシェンが苦労して貴族を罠に嵌め手に入れた特別な貸し付けの証文だ。使い方次第ではこの家どころでは済まない価値を生む。
「へぇ~、それはスゴいですの。でも旦那様、あそこに置いてある証文とは何が違うですの?」
「あれは貸し付け台帳・・・」
リーシェンはほろ酔い気分を一気に吹き飛ばし、少女の姿をマジマジと凝視する。
何も知らないはずの純真無垢な少女が疑問に思う質問とは到底思えなかった。
「・・・お前。何者だ!」
「あららバレちゃいましたの? フフッ失敗ですの」
少女は可憐な笑顔を浮かべテヘペロッと平然と戯けて見せた。
女の気配をたっぷりと含んだ少女の振りをしていた目の前の女にリーシェンは怒りから体が震え、思わず顔を赤くし大声を出した。
「であえであえー!」
リーシェンが卓上に置いた鈴を派手に鳴らしながら叫ぶと、複数の足音が部屋へと向かってくるのが聞こえ始める。
「それじゃぁ私はこれで失礼しますの~」
少女が逃げようとするのをリーシェンは慌てて止めにかかるが、少女の掌で簡単に突き飛ばされ部屋に置かれた灯火具を倒してしまう。
あっという間だった。灯火具が倒れ一瞬驚いたあっという間に火が燃え広がり、判断が追いつく頃には大事な大事な証文も貸し付け台帳も帳簿も、この部屋にあった物のすべてが燃え始めていた。
リーシェンは慌てて火を消そうと試みるが既に大事な証文は燃えカスへと姿を変え、帳簿も貸し付け台帳も次々と燃えていく。
「あぁ、あ、あああぁーーー」
「だ、旦那様お逃げください」
燃え盛る部屋の中で呆然と立ち尽くすリーシェンの体を数人の使用人が助けようと外へ引っ張り出し、服を焦がし始めていた火を懸命に叩いて消した。
余程のショックが痛みすら感じさせないのか手足と首筋を赤く爛れさせているのが痛々しい。
「盗賊だ~」
突然倉の方から聞こえる声にリーシェンはハッと我に返り今度は顔を青くし、火傷で爛れた足を引きずりながら駆け出した。
そしてリーシェンが息を切らし倉の前に到着すると、厳重に掛けたはずの鍵は外され扉も大きく開かれ盗賊の姿はどこにも見当たらない
「か、金はどうなった!!」
リーシェンは急ぎ倉の中を確かめると既に倉の中は空になっていた。
「・・・・・・」
力なくその場に崩れ落ちたリーシェンは、空になった倉をただ呆然と眺めるしかできなかった。これがリーシェンを襲う破滅の始まりでしかないとは知らずに。
この国は火事を出すと罪人として罰せられる上に、隣近所に延焼があれば賠償金を支払わなければならなかった。
火事で何もかも燃え、倉にあった現金もすべて盗まれたリーシェンには痛手だったが、この時はまだ貸した金の回収ができると思っていた。
しかし火事で証文も貸し付け台帳も燃えてしまった事は瞬く間に知れ渡り、今まで暴利で苦しめられた者達は借りた証拠が無いと言って挙って借金を踏み倒した。
いつもなら少々荒っぽい使用人を使い無理にでも回収するのだが、その使用人達はこうなることを予測していたのか火事のどさくさに紛れ金目の物を持ち出し逃げていた。
火事の火を消そうと夢中で足を使ったのが災いとなり、右足の火傷は見た目以上に深く足を引きずる事になり、手足と首筋と顔に残った火傷後の痛々しさを見ても誰一人同情する者はなかった。
リーシェンは仕方なく土地を売らなければならなくなり、この時点で商売もままならなくなる。
(また一からやり直すだけだ。人脈まで無くした訳じゃない)
自分を奮い立たせるが、今まで誰も信用して来なかったリーシェンを信じてくれる者はなく、金に物を言わせた関係が終わるのは実に簡単だった。
火事を出した罪も普段なら簡単に揉み消せる程度だったのに、最終的に賠償金の支払いが滞っている事を理由に強制労働を言い渡され不自由になった体で鉱山送りに決まる。
賠償金も自分が散々してきたように無理に吹っ掛けられ、土地を手放した程度では払いきれなかったのだ。
しかし普段から付き合いのあった郭の女将がそれを不憫に思い、賠償金の肩代わりをしリーシェンを奴隷使用人として買い上げどうにか鉱山送りは免れた。
そうしてこの日から毎日リーシェンは自分が借金の形として売ってきた郭の女達に蔑まれる事になる。
立場が逆転した女達の恨みはとても深く残忍で、今まで自分のしてきた事の罪深さを身をもって惨めに知る事になった。
築き上げるのは大変なのに崩れ落ちるのは本当に簡単だとリーシェンが気づいた時にはすべてが遅かった。




