壱話目
何もなかった。そこには、何も。充足、安寧、安心、安全、満足も何も。血煙が蹂躙して、なにもかもを飲み込んでいくように人間性だったり、理性だったり、知性だったり。全てを吞んでいく
「嗚呼、満たされない」
腹が減る。何を食べても満たされない。べっとりと染み込んだ血潮色の髪が無造作に風に靡き、日の光に鈍く光る。冬の初めの乾燥した風が頬を撫でて過ぎ去る。そろそろ雪の降る季節だ。
「落椿、ここにいたのか」
「……。嗚呼」
「引き上げだ。帰ろう、俺たちの国に。」
雪解けの季節が廻り、我が国_日出処帝国_に春が来た。戦争と侵略、蹂躙を好む王が二つ近く季節を跨ぐのは珍しい。
__ジャラジャラと金属の擦れる音が耳に入る。
高い位置に設けられた鉄格子付きの窓に白い小鳥が止まって囀っている。換気用に開け放たれたそこから中をキョロキョロと伺っている小鳥の動向を目で追う。赤い目がこちらを覗いて小首を傾げて小さな羽を広げて近寄ってくる。町で餌付けされているのだろうか、妙に人懐っこい。
「来い」
人差し指を立てて呼びかける。ピピっと鳴き声をあげて、機嫌よさげに白い塊が止まり木代わりに羽ばたいて着地する。丸々としたあたたかな体温に生命を感じて、そっとつつみこんで撫でてやれば頭を擦り付けてもっともっととねだられた。
「何もやれるものはないぞ」
ピィ、と小首を傾げて掌に頭を擦り付け続けている小鳥にくぅ、と腹が鳴る。少しだけ。少しだけ。そうっと口を開いて小鳥に歯を近づける。
__コンコン
「落椿、起きてるか?」
「朱桜か。」
小鳥を窓へ放して答えて、水差しから水を注いで飲み下す。
「朝からすまないな。急ぎの用件なんだ」
「構わん。どうした、侵略か、蹂躙か」
「いやいや、違う。それはもうやらなくていいんだよ」
「はぁ。処刑でも決まったのか」
「半分当たり。まぁ聞け」
茜色の長い髪を束ねた直属の形だけの上司、朱桜が扉越しに語る。
曰く、侵略好きの前国王が亡くなったこと。新たに即位したのは平和主義の次男であること。新たな王は俺を処分したいが、侵略した諸外国への戦力、抑止力として手元に置いておきたいとのこと。
「なら、手っ取り早い方法をとればいいだろうに」
薬やら、と腕に注射器を打つジェスチャーを交えて苦笑して見せれば、扉の向こうで朱桜が首を振る気配がした。
「我らの新しい王は臆病であらせられるからな、もっと平和な方法をお望みでな。そこでだ」
重厚な音を立てて扉が開かれる。そこにいたのは朱桜と知らない子供。
「この子と過ごしてもらうことになった。お前は自由が手に入るし処刑されなくていい。この子は親ができてハッピー。な、平和的だ。」
「は」
寒中の椿のような鮮やかな紅の髪。白雪のような肌にリンゴのような朱を差したような小さな唇。おびえるように見開かれた緑柱石の瞳は零れ落ちそうなほどで。
「此奴は」
「お、興味示したな。ほら、自己紹介できるか?」
はくはくと恥ずかしそうに口ごもる子供に目線を合わせる。
「俺は、落椿。お前は」
「べに……、紅椿、です…」
「そうか」
赤い髪に指を通して混ぜるように撫でてやると最初は固まっていたが段々と肩の力が抜けてきたようで遠慮がちに頭を預けて擦り寄せてきた。
「露連合国の戦争孤児、紅椿。選ばれた理由は……まぁそのうちわかるよ落椿。さて、こんなところで子供を生活させるのはよくないから移動するか。ほれ手ェ出しな」
魔力封じの手枷をチラつかせる朱桜に手首を差し出す。ガチャンとはめられた重たい戒めは不健康に細い腕には不釣り合いが過ぎる。何より重量を支えきれずに腕が上がらなくなる。何より魔力をガンガンに吸い出してくる此れは魔力量を極端に制限されている俺には相性が良くない。魔力とはヒトが生きる上でなくてはならないモノなのだから、常に其れを枯渇させられている人間からさらに絞るのは如何なものか。
強大且つ人殺しに特化した俺の魔力の属性は《悪喰》《暴食》《傾国》の三種の魔属性_スリーコア_と呼ばれるもの。ここ日出処帝国では陰陽師と呼ばれる軍人の最高戦力。個人で国家非常事態宣言級災厄と呼称される俺はその身に余る絶大な暴力をふるうためだけの兵器として運用されていた。
それも戦争が無くなってしまっては無用の長物。国内に置いておくのも恐ろしい兵器に温情をかけるなど、新たな王はなるほど臆病に見えて中々に強かだ。戦争はしたくない。だから俺を殺さずに諸外国への圧力として置いておく。ただ国内で爆発されても困る。なので牙を抜いておこう。そのつもりなのだろう。
「はぁ。体が重い」
「文句言うなー。なんだ、抱き上げて連れて行ってやろうか」
「楽でいいかもしれんな」
「おれがヤだよ。なんで野郎を姫みたいに運ぶんだよ、おれは嫁しか抱き上げないぞ」
「じゃあ言うなよ」
石造りの冷たい廊下を歩く。他の人間の姿は見えない。ここには俺しか収容されていないからだろう。堅牢な石の塔は魔力で動くエレベーターで快適な上り下りが可能だが、俺は入るときにしか使ったことがない。
魔力式エレベーターに乗り込むと朱桜が魔力を流し込み下の階へのボタンを押す。男二人に挟まれた紅椿は居心地が悪いようでそわそわと俺たちの顔を見ている。
「朱桜、外せ。」
「馬鹿野郎が俺の首飛ばす気か」
「此奴を抱き上げる。俺の出力じゃ吸い尽くすぞ」
「言葉が足らん奴だな。それにそもそもお前の手枷の出力じゃ紅椿は死なないぞ。お前位の魔力があるからな」
「は」
朱桜が声をかけ、紅椿を抱き上げて俺に差し出す。
「三種の魔属性、《傾城》《寵愛》《玉藻之前》。そうだな、お前の呼び名風に言うなら国家緊急事態宣言級災害ってとこか?甲乙丙でいうなら乙。お前の一つ下だ」
「先に言え」
紅椿を受け取って抱き上げる。
「お前すごいんだな」
「あう…、そんな…」
「三種の魔属性なんてそうそういない。もっとふんぞり返ってもいいくらいだ」
「変なこと教えるな落椿」
「変なことじゃないだろう」
チン、と静かな音を立ててエレベーターが地上へと降り立つ。朱桜に続いてエレベーターから出て出口へと向かう。
「さてさて、外に出ていきなり何かするなよ。首がサヨナラするからな」
「そこまで理性なくしてないぞ。なんだと思われているんだ」
「やべーやつだと思っているぞ」
「手が出るぞ、流石に」
よ、と声を出して紅椿を抱えなおす。しがみつく紅椿を落とさないようにそっと支えて重たそうな扉の前で止まる。
「日出処帝国陰陽師、第壱席次朱桜。第零席次落椿と共に出る。開けてくれ」
半透明の操作盤に手をかざし朱桜が宣言する。ズン、とした体の芯に響く重低音とともに扉が開かれる。柔らかな日の光が扉の隙間から段々と差し込み、長らく日に当たっていなかった肌をチリチリと焼いていく。大量の光に瞳が耐え切れず目が眩む。
「眩しいな」
「まぁ慣れろ、引きこもり。あ、靴忘れてきた」
「最悪だ…、お前が脱げ」
「嫌だね。後で持ってきやるからとりあえず来いよ。おれの家よりデカい家用意してあるんだ」