2話 2つ目の食材は生命の代わりにならない生命の水
「おいおい、マジかよ……」
俺の名前は山形次郎、41歳。至って思い込みの激しい男だ。いや、男だった。
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「それにしても、ここはどこなんだーッ!はぁはぁはぁ……。ってかこの島に来た時、こんな景色あったっけかなぁ?」
俺は彷徨っていた。彷徨いながら走っていた。俺の直感は、このまま真っ直ぐ行けと言っているが、どう考えても迷っていた。……いや、そうじゃない。俺は迷ってなんかない。絶対にそんな事はありえない。
人は迷ったと思うから迷子になってしまうのだと、どっかの誰かに聞いた気がする。だから、道に迷ってなんかないと思っていれば、迷子になんか一生ならない筈だ。
だってそうだろ?不安な心が人を迷子にさせるんだ。不安な心を持たなければ何も問題は無ぇ。だから、俺は迷子じゃない。考えるな感じるんだ、迷子じゃないと。
ただ今は、時間は掛かっている気がするが、必ずあそこにある筈の断崖絶壁に近付いている事に変わりはない筈なんだ。要するに諦めなければ天は、決して見捨てたりなんかしないさ。
だってさ、天について考えても意味は無ぇだろ?だったら迷子じゃねぇって感じてればいいって理屈だな。
空はもう薄暗くなって来ていた。心なしか腹も減った気がしている。これから夜になるこの状況で……街灯も無ぇこんな暗い中で……断崖絶壁にあるツバメの巣を無事に取れるかは分からねぇが、俺がアンダマン諸島に居られる時間はあまり無ぇんだ。
だから一刻も早くツバメの巣を手に入れる必要があったってのだけは確かな事だった。
「おーい、クレア?そんな所で何をやっているんだ?」
走ってる最中にすれ違ったおっさんが俺に、不意に何かを話し掛けて来たんだ。だが、俺は「クレア」なんて名前はシチューの素以外に知らないし、このおっさんはシチューの素を話している訳じゃないだろう……多分な。
でもよ、見ず知らずの人間に突然シチューの素の話しをしようモンなら、それはそれで新手のナンパかもしれないが、生憎俺はそんなナンパに興味はねぇ。
それに付け加えると俺は今、先を急いでいるし、そもそも……ってそうだ!道を聞けばいいじゃないか!俺ってば天才!
やっぱり迷ってなんかないと思っていれば、天は助け舟をくれるモンって事の証明でしかねぇよな?
「あのさ、おっさん。俺はこれからツバメの巣を取りに行くんだけど、ツバメの巣のある断崖絶壁って、こっちで合ってるよな?」
「おっさん?!おいおい、クレア……何を言ってるんだい?父親に向かって「おっさん」はないだろう?それにツバメの巣って何だい?」
目の前のおっさんが、俺の父親?おいおい、それこそこっちが「何言ってんだ!」って言いたくなったわ!正気か?それに第一、俺の親父はとっくに他界してる。冗談にしちゃタチが悪過ぎるってモンだろ。
全く、最近のナンパ師ってのは冗談キツくて困っちまうね。まぁ、おれはおっさんだからナンパ師がナンパしてくる事なんて無ぇから、知らねぇけどな。
「あ、じゃあいいです。俺、先を急いでるんで」
結局のところ、どうやらタチの悪いヤツに相談した俺が間違いだったようだ。だから俺は取り敢えず、この場を離れる事にしたのさ。怪しいヤツに構っていられる時間は無ぇから、当然の判断でエイダンってヤツだ。ところでエイダンって、営団地下鉄の仲間かなんかだろ?
要するに電車が走り抜けて行く感じで全力ダッシュしたって訳さ。
ってか、それにしてもさ……普通に日本語話せるおっさんも、アンダマン諸島にいたんだな。正直なところ、それが俺の一番の驚きだったぜ。
走れど走れど、行けども行けども俺の視界の中に断崖絶壁は見えて来ない。そればかりか空は暗くなる一方で、空には星が無数に輝いていた。
日本じゃ滅多にお目にかかれない視界を埋め尽くす程の星の煌めきに、これが観光なら良かったのにな……とか考えてる余裕がある訳は無ぇ。そんな考えに時間を掛けてるくらいなら、感じるままに走るのが、俺が今為すべき事だ。
でもな……唐突に俺の腹は……盛大に且つ大音量で空気を読む事もせずに、「ぐ〜〜〜〜ッ」とイビキのような音を鳴らしていったんだ。
まぁ、鳴った所で減った腹が膨れる訳はないから、強過ぎる自己主張はちょっと大人しくしていて欲しいとしか言えねぇよ。そんでもって更には喉も渇いたし、体力的にはそろそろ活動限界を迎えても可怪しくない状況ってのは確かだった。
迷子じゃねぇのは考え方次第でどうにでもなんのは確かなんだが、腹減りと喉の渇きに関しては、どう考えても、感じても解決策は飲み食いするしかありえねぇだろ?
だから、俺はその場に力尽きちまった。41歳のおっさんが目覚めてから、ずっと走り続けられた奇跡に対するご褒美ってヤツだな。
理想的には飲み食い出来るモンがありゃ最高なんだけど、そこら辺も全部バックパックの中だから、今はある訳がねぇ。でも、休む事も大事な仕事だって誰かが言ってた気がするさ。
「はぁ……ホテルの予約、絶対にキャンセルさせられてるよな……腹減ったな。世界一旨い究極のラーメンをこの手で作りたかった……ぜ……。がく……」
俺はその場で本当に力尽きる事になった。いやいやいや、勘違いはすんなよ?死んだ訳じゃねぇからな?
要するに腹減りは限界で、喉の渇きも限界。更に言えば睡眠不足も祟っていたって言うトリプルパンチで、死んだように眠ってたってだけだからな?
ちなみにあのおっさん以外にすれ違う人間はいなかったから、断崖絶壁の場所を聞く事も出来なかった。第一村人の存在って意外と重要だったんだなって思ったし、後悔もちょっとだけした。
天の助けは助けられた時に掴まないと、後ろ頭はハゲてるから掴めないとかって前にどっかで誰かに言われたっけか?
とまぁ、そんなこんなで俺は力尽きた訳だった。
ぱちっ
気付けば朝になっていた。極度の腹減りが目覚ましになって俺は目を覚ました。そして、やって来る……いつものアイツ。
そう、アイツ……だ。
俺は起きたら取り敢えず出すように子供の頃から訓練して来た。それは便秘で緊急搬送された事があったからなんだけど、その後に訓練した甲斐あって起きたら必ずアイツがやって来る。
それは前の日に食べなくてもやって来るのさ。食べてないのにやって来るなんて、律儀なモンだよな?
んでもってそして、とうとう今日もアイツはやって来た。だが、問題は山積みだ。先ず、トイレがない。そして、紙がない。
俺のケツは繊細だから、ウォシュレットじゃなきゃ切れちまうし、その繊細なケツを優しく洗い流してくれた水を拭き取る紙も、ダブルのフワフワじゃなきゃ駄目だッ!
それに何より、外でアイツを解き放つ事に対して抵抗がない訳じゃない。‒‒それが何よりの……問題だ。分かってくれるよな?
流石に男の俺が、お花摘みを外でしていても、見たがるヤツは多分いないと思ってるし、堂々としてれば何も問題はないだろう。
例え見られても多分分かってくれる。我慢の限界を迎えて辛かったんだな……って、同情してくれても可怪しくはないだろう。
いや、そこはむしろこんな外国の地で、「お巡りさーん」とか言われたら、一生俺は人間って生き物を信じられなくなるかもしれない。そこは、人の善意に必死に懇願して、捕まらない事を祈るだけだ。
だけどな……紙は別だ。紙でちゃんと拭けなければ残ってしまうかもしれないし、そんなパンツをずっと履いていたくもない。
ま、俺はボクサー派なので、こんな時こそフィット感が恨めしい。そして何より、すれ違う人に……もしも臭いとかで気付かれたら、俺は一生お天道様の下を歩けなくなるだろう……。
「くっ、状況を考えてくれよ。もっと空気を読んでくれよ。俺は出来る子なんだから、俺の一部である腹も出来る子だろ?流石にここではマズい。腹よ、お前はスッキリするかもしれないが、その後に残されたケツの事も考えてやってくれ」
ま、空気なんて読んでくれたら困りゃしねぇが、そんなに優しく育てた記憶もないのでね……。だからそのまま近くの茂みに、大急ぎで向かう事しか出来なかった訳さ。
俺の気持ち分かってくれるだろ?人間なんて長く生きてりゃ、一回や二回はそういう不運に見舞われるモン……だよな?
「くっそぉ、なんで空気読んで忖度してくれねぇんだよぉ。こんな状況でって……な、な、な、なんだこりゃ?!お、俺のムスコが無い?!ナニが一体ど、どうなって……」
ぐきゅるるる
「いや、駄目だ。今はそんな事より先に出さねぇと。ムスコの心配よりも、今一番大事なのは……先にこの状況を無事に切り抜ける事だッ」
こうして俺は服を脱いだ後で見てしまった、自分の身体の変調よりも先ず、朝の日課を終わらせる事にした。そしてそれからは、目的の為にひたすら走って行く事にした。
残されたケツがどうなったか?だって、そんな野暮なモンは聞いちゃダメだ。特に良い子のみんなは、尚更だぜ?ん?良い子じゃないから聞きたい……だって?!
そんな事を言うなら、一度味わってから同じ事を聞くべきだぜ!
ちなみに、ここに来るまでに使った金額は、自分のムスコがいなくなったからと言って諦められる程の額じゃないし、パスポートの再発行に掛かる手続きや、それにプラスされる諸費用を考えると、ムスコ云々以前に次の食材が手に入らなくなる恐れがあるから俺は走った。
だから走りに走った。空腹と喉の渇きで寝ちまった時間を取り戻すべく、尚更に走れるだけ走った。
親友を助ける為に走ったヤツが、昔どっかの国にいたって聞いた事があるが、俺は違う。次の目的地であるプロヴァンスまで行ける飛行機のチケットが、もう取ってあるからだ。背に腹は替えられねぇし……払ったお金も高額だし……それ以前にケツを腹にも替えられねぇ。
俺の背後から漂って来る臭いを誰かに気付かれる前に、風に乗せて誤魔化すっていう手段しか俺は探せなかった……なんて言う風に勘繰らないでくれると助かるぜッ!‒‒いや、頼むよ。
だってさ……流石にウン十万のチケットを無駄になんか出来る訳もないだろ?パスポートの再発行も、そのチケットを使うまでに間に合えばなんとかなるだろうし、善は急げって言うから急いでたのさ。
だから、ケツの事は気にしたらダメだ。気にしたら負けだからな?考えるなよ?感じるんだッ!
でもよ、間に合わなかったら、そん時はそん時だ。俺は直感を信じてるから、平気だと告げてくれた感性を信じる事にする。
だから不安になる事なんてない。その点は迷子の話しと同じだな。ポジティブな事はいい事だぜ!
だけどどっちみち、アンダマン諸島に長居する事なんて出来る訳もないんだ。長居すればする程、俺の夢は叶わなくなるんだからな。
「しっかし、かれこれ数時間はもう走ってるけど、この島ってデカいのな?島だろ?島ってもっとこう、こじんまりとしてて1時間もありゃ端から端まで行けると思ってたぜ」
流石に思い込みの激しい俺でも可怪しいと思い始めていた。昨日の昼過ぎから夜までと、朝起きてから今に至るまで走り通したのに、海の一つも見えない事にだ。
一方で41歳の俺にこんな体力があるなんて思わなかったが、さっすが俺。やれば出来る子の証明だ。そんな事は置いといて、可怪しいついでに……。
腹減りは一周回って何も感じなくなっていたから助かっていた。ただ、喉だけは凄く渇いていた。
いや、これは全然可怪しい事じゃなかったな。
「流石に日本人は清潔過ぎるから、外国で生水は危険って聞いた事があっけど、背に腹は替えられないって言うしな。飲まず食わずで死ぬよりは生水飲んで死んだ方が、まぁまぁマシだろ?本来ならケツも洗いたいところだが、流石にそれは誰も見逃してくれねぇ……よな」
俺は走っていたコースを外れて、近くにあった小川に向かって行った。
飯は食わなくても暫く生きてられるって聞いてたけど、水は人体の60%がうんちゃらかんちゃらで、取り敢えず飲まないと死ぬ。
最近、日本の夏に大流行りの熱中症ってヤツも、身体の水不足から来てるんだろ?だから、本当かどうか眉唾な生水に毒たって辛くなる怖さよりも……脱水で今にも死にそうな喉の渇きが、その怖さより勝っていたのは確かだ。
まぁ、毒たっちまったら、さっき以上に苦しむ事になるかもしれねぇが、そん時は今度こそ茂みじゃなくてトイレと友達になってやるぜッ!
「おいおい、マジかよ……。な、なんだよ……コレ。コレって俺……だよな?」
喉の乾きを潤すべく近付いた小川のへりで、俺は川面に映る自分の顔を見て絶句しちまったんだ。
だが、まぁいい。ムスコがいなくなった事と同様に、そんな事も大した問題じゃない。だから今は生命に関わる喉の渇きを潤す方が最優先だ。