第88話 ローベのお祭りと奇跡
「こ、侯爵夫人が…ご、ご回復されたぞ!!!!」
「奇跡だ!!!! 奇跡だーーーーーー!!!!」
「奇跡が起きたぞーーーーー!!!」
治癒師の治癒魔法でも手遅れで、息を引き取ったかに見えた侯爵夫人が息を吹き返し、おまけにさっきまで死にかけていたのが嘘のようにひょっこりと上半身を起こしてにっこりと微笑んだのだ。
一瞬驚きのあまり時が止まったようになった現場一帯は、先ほどまでの沈鬱な空気から一転、歓喜の渦に包まれた。
治癒師と救護のために夫人を取り囲んでいた人々も、その周りで固唾を飲んで見守っていた人々ももちろん、状況はよくわからないけれど「なんだか事故だと聞いたけど、え、なに? え? 奇跡ってなに?!」と思っている人々まで、皆が皆、大歓声を上げてのお祭り騒ぎである。
「こ…侯爵夫人!! だ、大丈夫ですか!!!」
理解の範疇を超える突然の出来事に呆然としていたマリーだったが、ハッとして夫人に声をかける。
「ええ、マリーちゃん…ありがとう。もう大丈夫みたいだわ」
夫人はそんなマリーを見て、ぎゅっと手を握り返して優しく微笑んだ。
その微笑みを見たマリーは安心したのか、全身から一気に力が抜けて…と、次の瞬間、涙が溢れ出した。
「ふぇぇぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
マリーにとっては前世から通して、初めて自分の目の前で人が命を失うかもしれないという場面だったのだ。
気づかないうちに余程気を張り詰めていたのだろう。侯爵夫人がもう大丈夫なのだとわかり、緊張が一気に解けたからか、安心感からなのか、ボロボロと次から次に涙が溢れてきて止まらない。
「こ、こうしゃくふじん〜〜〜〜〜!! よがっだでず〜〜〜〜〜〜〜!!!」
「あらあらまあ…心配をかけてしまってごめんなさいね。でも、もう大丈夫よ。マリーちゃん、本当にありがとう」
涙で顔中をぐちゃぐちゃにしながら泣くマリーの手をもう一度しっかりと握りながら、侯爵夫人はそう言った。
夫人は事故が起きた瞬間の記憶はなかったが、救出されてからは意識が戻り、朦朧とする中でも朧げながら自分の状況は理解していた。
治癒師が治癒魔法をかけてくれていることもわかっていた。痛みを感じていないのはそのおかげだろうということも。
身体から全ての力という力がみるみる抜けて行くのを感じ、命が消えるというのはこんな感じなのかと思っていたのだ。
身体はぴくりとも動かせない。しかし、朦朧とする意識の中でも、孫たちの顔が思い浮かんだり、懐かしい人たちの顔や思い出が頭に浮かんだり、年に一度の大事な祭りの最中だというのに申し訳ないことを…と夫である侯爵に心の中で謝罪したりと『意外と冷静なものなのね』などと思ってもいた。さらに、近日中の幾つかの約束事が頭をよぎり、『約束が果たせなかったわね…』などと思っていたところ、聞き覚えのある可愛らしい声が聞こえた。それでなんとか目を開けてみると、数日前に会ったばかりのマリーがいたのだ。
マリーとはまだたった一度会っただけだったが、夫人はこの少女のことを気に入っていた。素直で可愛らしくて礼儀正しく利発で、少女にも関わらず大人顔負けのしっかりした一面もあり、裏表なく隠し事など出来なさそうで、ちょっと抜けているような危なかしいような、どことなく放っておけないような雰囲気のある不思議な少女だった。
最後にこんな可愛らしいマリーに看取られるなら、と思う一方で、この素直な少女の心に自分の死が傷跡として残らなければ良いが…とも思った。
そして、マリーが必死な顔で自分に呼びかけているのを聞いているうちに、なんとも言えない良い香りに包まれて身体が優しく癒されているように感じ、ついに別れの時が訪れたのだと思ったのだ。
しかし次の瞬間、訪れたのは別れの時ではなく、不思議な力だった。
マリーがぎゅっと握っている手から、治癒師の治癒魔法ともまた違う、暖かくて優しくて、そして力強い何かが流れ込み、身体の隅々まで行き渡るのを感じた。
あまりの心地良さに一瞬意識を手放してしまったものの、ハッと気がついてみると身体にはどこにも違和感がないどころか、身体中に生命力が溢れているような感覚がしたのである。
『…変ねえ、さっきお迎えが来たと思ったのに。…あら?…なんだか、私、起き上がれそうよ?』
そう、思ったままの言葉が口をついて出てしまい目を開けてみると、目の前のマリーも治癒師も、救護に当たってくれていたであろう人々も、呆気に取られたような表情を浮かべ……次の瞬間、大歓声に包まれたのだった。
「夫人、ご気分はいかがですか?」
「ありがとう。まったく問題ないわ。今すぐ踊れそうなくらいよ」
治癒師はようやく安堵したという感じで大きく頷く。
「本当に…お身体が……侯爵夫人がご無事で何よりでございました。これはまさに奇跡と言わざるを得ません…」
声を詰まらせながらそう言う治癒師とは長い付き合いだった。
ふと、侯爵夫人と治癒師は隣の少女を見る。
ピンク色のお仕着せ…にしては少しスカート丈が短いが…を着た少女は、絶賛大号泣中で可愛らしい顔は涙でぐちゃぐちゃだ。
声をかけようにも、少女はなかなか涙が止まらないようでボロボロと涙をこぼしながら、隣の少女から背中をさすって慰められている。
「治癒師殿、侯爵夫人のお身体が差し支えないようであれば、一度場所をご移動いただいた方が宜しいのでは?」
いつのまにか警邏がそばに来ていたようで担架を持って控えていた。
侯爵夫人は上半身を起こした体勢のまま、救護の一人に身体を支えられている状態だ。
「これは!大変申し訳ございません! 侯爵夫人、お身体は治癒していますが、安静にしていただいた方が良いですからご移動を。ここからですと治癒院よりも公館の方が近いですので、公館へお連れするということで宜しいでしょうか?」
「ええ、そうします。でも、大丈夫、歩いていくわ」
「え?!いえ、それはさすがに…!」
「問題ないわ。あなたも私の身体に問題がないことはお分かりでしょう? それに私、先ほども言った通り、今すぐ踊れそうなくらいなの。念のため付き添っていただくけれど、歩くわよ」
その方が皆様もご安心なさるでしょう?と言いながら、侯爵夫人は小声で警邏に尋ねる。
「ところであなた、事故の状況と被害状況はご存知?」
「はっ!目撃した者によりますと、馬車の前に出てきた子供に馬が驚いた拍子に馬車がバランスを崩して横転した模様です。子供は軽症で無事。あちらの馬車には乗客はおらず、双方の御者も馬も軽症でございます」
侯爵夫人の声に合わせて小声で答える警邏の説明に、夫人は小さく安堵のため息をつく。
「よかったわ…それでは、迷惑をかけますが事故の後処理をお願いしますね。怪我人の方と馬車の被害などについては後ほど公館で詳しく聞かせてください。治療もあるでしょうから…あなたの方で関係者の皆様の状況も考慮していただいて公館へご連絡くださる? 皆様にご無理のないように、お願いしますね?」
そう話をつけた夫人は、駆けつけていた侍女からローブをかけられ、 警邏の手を借りて立ち上がった。
夫人の姿に、周りからは再び歓声が上がった。
「皆様、お騒がせいたしましたわ。ご迷惑をお掛けしてしまいましたが、どうかこの後も、出来る限り祭りを楽しんでくださいませ」
そうしてローブ姿ではあるものの、侯爵夫人が淑女の礼を取ると、周りの人々からはひと際大きな歓声が沸き起こったのだった。




