【5】過去と証明
夢を見ていた。
けれど、それは夢というより、ただの記憶だった。遠すぎて、手を伸ばせば崩れてしまいそうな冬の日の断片。
あの村。あの空。あの沈黙。
俺とクロエが育った寒村には、孤児院があった。
教会が運営はしていたが、鐘の音も、祭壇も、聖句を唱える神父の姿もなかった。ただ、煤けた石壁と、小さな火の灯りだけが、子供たちを包んでいた。
「……寒いわね」
毛布にくるまりながら、クロエがぽつりと呟いた。
「ああ。火が弱くなってる」
「薪、もうなくなっちゃうわね」
「……祈れば、天使が届けてくれるだろうか」
クロエの口調は冗談めいていたけれど、目は真剣だった。
彼女はあの頃から“信じる力”を持っていた。
神を、救いを、そして人の中の善意を。
あの村では、信仰心は奢侈品だった。
けれどクロエは、どこかで拾い集めた教義の断片を、子供たちにそっと語っていた。
天使は見る者の目に応じて姿を変える、とか。神は最も寒い場所に降りる、とか。
俺には、それが理解できなかった。
信仰とは何か。それが力になると、なぜ思えるのか。
――そんな冬の日。
彼は現れた。
アルフォンス・デ・リュミエール。
金の髪に、灰の瞳。
その出で立ちは村の空気にあまりに馴染まず、誰もが息を呑んだ。
背に外套をまとい、書物を抱えて、まるで巡礼者のようだった。
「ここにいる子供たちは、まだ“神”を知らないのだね」
彼の第一声に、空気が固まったのを覚えている。
その目は優しげで、しかしどこか他人事だった。
温もりを持ちながら、同時に冷たい。そんな奇妙な違和感があった。
「違います」
そう言ったのは、クロエだった。
「私たちは、神を知らないんじゃありません。……ただ、神に気づかれるほどの場所にいないだけです」
アルフォンスはその返答に目を細め、ゆっくりと微笑んだ。
「……なるほど。では、君は神の存在を信じている?」
「はい。信じています」
クロエは真っ直ぐに答えた。
あの時の彼女の声は、妙に大人びていて、少しだけ震えていた。
「神はすべてを見ておられます。ただ、時々……手が届かないだけだと、私は思ってる」
沈黙が落ちた。
アルフォンスはしばらく何も言わなかった。
そして、ぽつりと呟いた。
「その考えは、美しい」
だが、その言い方は称賛ではなかった。
まるで“過去に信じたものを見ている者”のような、少しだけ哀しみを帯びた目だった。
アルフォンスは、それから数日だけ孤児院に留まった。
村に用があったわけではない。ただ、雪のせいで身動きが取れなかったのだと、彼は言っていた。
そのあいだ、彼はよく子供たちに語りかけていた。
寓話のような話もあれば、神学の逸話のようなものもあった。
でも、どの話にも共通していたのは――“神は人間の創った物語である”という前提だ。
「祈りとは、声に出す自己定義だ。
語る者がいなければ、神は存在しない。
神は、君たち自身の内側にしかいないんだよ」
その言葉を、俺はあの頃、理解できなかった。
いや、理解しようとしなかったのかもしれない。
クロエは、その話を聞いた夜、俺にこう言った。
「……あの人、怖いわ」
「怖い?」
「ええ。言葉は綺麗なのに、中身が空っぽな感じがする。あんなふうに“信仰を否定する”言葉って、普通はもっと尖ってるはずでしょ? でもあの人の言葉は、柔らかくて、なぜか……冷たいの」
そのときのクロエの顔は、今でも覚えている。
怒っていたわけではなかった。ただ、どうしようもない哀しみのようなものがにじんでいた。
俺は、何も言えなかった。
アルフォンスの語りが、どこか胸の奥を打っていたからだ。
やがて雪が止み、彼は去っていった。
何も告げずに、誰にも別れを言わずに。
彼が残したのは、一冊の本と、あの不可解な言葉だけだった。
そして数年後――
王都で再びその名を耳にする日が来る。
“背教者”。
“アルフォンス・デ・リュミエール”。
“光なき預言者”。
教会の聖堂でその名が囁かれ始めたころには、彼はもう“禁句”になっていた。
そして今、また“彼の言葉”が俺の耳に届く。
語れ、と。
語るべきだと、あの男のような者が言う。
夜明けが近い。
窓の外が白んできていた。夢から目覚めてなお、心は夢の中にいた。
クロエは静かに眠っていた。
同じ部屋、別々の寝台。間に置かれた距離は近くて、でも越えてはいけない線のようにも思える。
(俺は、何を信じている?)
そう自問したとき、すぐに答えは出なかった。
けれど確かに、何かが胸の奥で言葉を求めている気がした。
それが“俺自身の言葉”になるには、まだ少し時間がかかりそうだった。