【4】報告と沈黙
報告書を書く手が途中で止まっていた。
ペン先を紙に置いたまま、しばらくのあいだ視線だけが虚空をさまよっていた。
頭の中では整理できている。何が起きて、何を見て、何を言われたのか。だが、それを“適切な言葉”に落とし込もうとすると、ひどく億劫になる。
“背教者の印を確認。接触を試みるも、対象は転移術により逃走。被害なし。以上。”
――これだけで済ませることもできた。
事実に嘘はないし、問題の発生はなかった。けれど、あれは本当に“何もなかった”と言えるのか。
「……迷ってるの?」
「いや。ただ、少し考えごとをしていただけだ」
ペンを置いてそう答えると、手に持っていたカップを差し出してくる。中には冷たい水がなみなみと注がれていた。
「お疲れ様」
「……ありがとう」
受け取って、喉を湿らせる。
冷たい水が身体の芯まで染み込むような気がした。
「報告書、進んでないの?」
「進められないと言うべきかな。報告すべきことと、すべきでないことを分けるのに、手間取っている」
「正直ね。騎士団向けの報告書なんて、建前と印象操作のかたまりみたいなものなのに」
クロエは自分の椅子を引いて腰かけると、軽くため息をついた。
「……でも、分かるわよ。今日のはおかしかったでしょ」
「印のことか?」
「それも含めて、あの男の言葉も。普通じゃない。“語る”なんて、ただの賊なら使わない言葉でしょ?」
たしかに。
あの男は俺のことを“後継者”と呼び、まるでこちらの内面を見透かすような口ぶりだった。そして――
「“光なき預言者”は、再び語ることを選ばれた」
俺は小さくつぶやくように口にした。
「その言葉が、耳から離れない。……意味がわからない。だが、あれはただの挑発じゃなかった」
クロエは何も言わず、俺の顔をじっと見つめていた。
その視線に、少し居心地の悪さを感じる。
「……何だ?」
「黙ってるのは、あなたらしいけど。そろそろ私の問いに答えてくれてもいいんじゃないかしら」
「……問い?」
「アルフォンスと、あなたとの関係よ」
彼女の言葉は、静かだった。強く詰め寄るわけでもなく、咎めるわけでもない。ただ、そこにある事実として問いかけている。
俺は返答に迷った。けれど、迷った時点でもう何かを悟られている気がして、結局、正直に言葉を落とした。
「……昔の話だ。もう終わったことだと思っている」
「でも、相手はそう思っていなかったように見えたわ」
そうだ。
あの男の言葉、あの目――
あれは、俺を“選ばれし者”として見ていた。まるで、何かを引き継がせようとしていた。
「それでも、今の俺には関係のない話だ。騎士団の一員として任務を遂行するだけの存在。それ以上でも以下でもない」
「そう思ってるの、ほんとうに?」
クロエの声には、どこか寂しげな響きがあった。
その顔を見ると、不思議と心がざわついた。
「シルヴァン。私はね、何があっても、あなたのことを信じるって決めてるの」
その言葉は、思っていたよりも静かで、思っていたよりも重かった。
「……理由は?」
問い返すと、彼女は少しだけ困ったような顔をして、それから目を伏せずに答えた。
「理由なんて、必要?」
俺は返せなかった。
それは、あまりにも真っ直ぐで、俺のような人間が受け取るには重すぎる言葉だった。
「私だって、あなたが何を抱えているか、全部を知っているわけじゃない。でも、それでもいいの。知っているから信じるんじゃない。……信じたいから信じるの」
クロエの視線が、まっすぐに俺の中を射抜いてくる。
「だけど……」
「……だけど?」
「もし、あなたがこれから何かを“語る”つもりなら、それは、あなた自身の言葉であってほしいの。誰かに与えられた言葉じゃなくて、あなたの中から出てきたものを、私は聞きたい」
その目は、強く、そしてどこか切なげだった。
「……分かった。できるだけ、そうするよ」
それが精一杯の返答だった。
クロエはそれで満足したのか、小さく息を吐いて立ち上がる。
「じゃあ、私は寝るわ。あまり遅くまで起きてると、明日の朝の訓練で倒れるわよ?」
「肝に銘じておく」
皮肉のつもりで返したけれど、彼女は微笑みもせず、ただ静かにうなずいて立ち上がった。
椅子を引く音が、妙に重く響いた。
俺は改めて机に向かい、報告書に目を落とす。
“異端の痕跡を確認。敵性存在と接触。被害なし”
事実だけを並べれば、それはすっきりとした報告になる。
けれど、そこに“語られなかった”何かが残り続けていた。
ペンを手に取り、数行の追記を加える。
“対象人物は明らかに思想的背景を持ち、異端に類する発言を確認。敵意は不明。再調査の必要あり”
それが、いまの俺にできる限界だった。
……いや、限界ではない。ただの逃げかもしれない。
それでも、今すぐにすべてをさらけ出す勇気はなかった。
窓の外では、王都の鐘が九つを告げていた。
街は静かに夜を迎えていたが、俺の心には眠れぬ何かが残り続けていた。