表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
騎士の黒猫と背教者の白狼  作者: 鯵ヶ沢連邦保管庫
第2章 影を継ぐ者
12/17

【12】消された巡礼者

 ここ、王都ヴァランスの春は、どこか鈍い。

 空は澄んでいても風が重く、鐘の音だけがよく響く。


 この街で静けさが訪れるとき、それは大抵“何かが隠されている”時だ。


 


 「ねえ、ほんとに“巡礼者”が一人でここへ来たの?」


 クロエがそう尋ねたのは、城門を出たばかりの頃だった。

 彼女はいつも通りきっちり鎧を整えていたが、その声には少し不安が混じっていた。


 「記録上は、そうなってる。

  三日前に城下の《聖カラン礼拝堂跡》へ向かい、そのまま戻らず。

  名前も、素性も、わからないまま」


 「なのに、私たちに調査命令? 何か変ね。普通なら巡察隊の仕事でしょ」


 「“なにかある”ってことだな。……わざわざ新人ふたりを送るあたり、裏がある」


 


 歩きながら、俺はクロエの様子を横目でうかがった。

 口数は少ない。眉の動きで大体の心の揺れが読める。


 礼拝堂の調査――それ自体が珍しい任務だった。

 特に今回の場所は、街でも一部の信者しか訪れない、忘れられたような場所だったはずだ。


 


 「“あそこは神が去った場所だ”って、言ってたな」


 門番の老人が言った言葉を思い出して、俺はぽつりとつぶやいた。


 クロエはしばらく黙っていたが、小さく首を振った。


 「祈りの場所から神が去るなんて、おかしいよ。……そうじゃない?」


 


 そう――彼女は、今でも信じているのだ。

 教会を、神を、そして“祈りは必ず届く”ということを。


 その姿勢が、どこかまぶしくて、少し痛い。


 


 聖カラン礼拝堂跡は、街はずれの小高い丘にあった。

 建物は半ば崩れ、雑草に埋もれている。けれど、不思議なことに誰かが最近ここを訪れた痕跡が残っていた。


 


 「……焦げ跡?」


 クロエが指先で触れたのは、黒く焼けた石材の壁跡だった。

 祭壇の一部だろうか、すすけた破片が地面に散らばっている。


 「巡礼に来た者が、火を?」


 「儀式か、あるいは……何かを消したか」


 


 手をのばすと、ひとつの壁面に不自然な溝があることに気づいた。

 それは、蔦と苔で覆われていたが、よく見ると――


 


 三重の輪に、中心に刻まれた“目”。


 懐かしさと、嫌な記憶が、同時にこみあげた。


 


 「それ、何?」


 クロエが覗き込む。


 「……ただの模様だよ。誰かのいたずらか、古い信仰の名残かもな」


 嘘ではない。ただ、真実も言っていない。


 


 俺はその印を知っていた。


 ――あれは、“語る者”の残したものだ。


 俺は、言わなかった。

 あの印が何なのか。かつて誰が使っていたのか。

 口に出すには重すぎて、軽々しく説明できるようなものじゃなかった。


 


 クロエは黙ったまま、印をじっと見ていた。

 小さく、でも真剣に考え込むような顔。

 彼女の中にある信仰が、この風化した石の模様をどう捉えているのか、俺には分からなかった。


 


 「ここ、神殿っていうより……記憶の跡みたい」


 クロエが、ぽつりとつぶやいた。


 「祈る場所って、神とか関係なく、“誰かが信じてたい物のために存在する”のだろうって、ふと思った」


 「……それでも、神はそこにいると思うか?」


 彼女は少しだけ、俺の方を見た。

 その瞳の奥には、揺れがあった。けれど、濁ってはいなかった。


 「いると思いたいよ。

  だって、そうじゃなきゃ、祈った人が報われないじゃない」


 


 その言葉が胸に引っかかる。

 報われない祈り。誰にも届かない信仰。

 それを、俺は誰よりも近くで見ていた。


 


 「でも、あたし、最近ちょっとわからなくなる時があるの」


 クロエは続けた。


 「祈っても、何も変わらない時。……誰にも聞かれていないような気がする時。

  そういう時に、“それでも信じてる”って言える自信、いつまで持てるんだろうって」


 


 俺は返す言葉を持たなかった。

 それがどれだけ正直で、どれだけ強い言葉か、わかっていたから。


 


 「それでも、私……信じてるんだけどね。

  それが全部崩れそうになった時でも、ひとつだけ信じてることがあるの」


 「何だ?」


 「……あなたは、嘘をつかないってこと」


 


 ……それは、沈黙にすがる俺にとって、いちばん重い言葉だった。


 嘘はついていない。

 けれど、本当も言っていない。


 


 クロエの信頼が、俺の沈黙を肯定してくれる。

 けれど同時に、その沈黙が彼女を苦しめているのかもしれない。

 俺の中の“語らぬ理由”が、彼女の“祈る理由”を少しずつ削っていってる気がして、怖くなる。


 


 「クロエ。……つらかったら、言えよ」


 「……言ってるよ、もう。今こうして」


 彼女は優しく笑った。

 少し、疲れたような笑みだった。



 礼拝堂の裏手には、崩れかけた集団墓地の入口があった。

 鍵は壊されていて、扉は半開きになっていた。

 何かに呼ばれるように、俺たちはそこへ足を向けた。


 


 中は思っていたより広かった。

 昔を生きた人の名前がいくつも並び、壁にはひび割れた聖人像が祀られていた。

 けれど、空気が違っていた。――“誰かが最近ここに入った”気配がある。


 


 クロエが足を止め、何かを見つけた。


 「これ……?」


 壁のすみに、焦げた布の切れ端が落ちていた。

 灰色の粗布。手で持ち上げると、ぱらりと灰がこぼれ落ちた。


 「何かを、燃やした?」


 「いや。これは――“身にまとっていたもの”かもしれない」


 その布には、かすかに刺繍が残っていた。

 輪を描く文様。崩れかけた記号。

 それは、以前見た印と通じるものだった。


 


 クロエは黙ってそれを見つめていた。

 何かを悟ったような目をしていた。

 そして、そっと口を開いた。


 「“語る者”って、どんな人たちだったの?」


 


 俺は答えなかった。


 答えようとすれば、どこまでも話せる気がした。

 でも、話してしまえば、取り返しがつかなくなるとも思った。


 俺が知っている“語る者”は、偶像でも悪でもなかった。

 ただ、世界を違う角度で見ていた。

 神ではなく、人の言葉で人を救おうとしていた。


 


 でも、その言葉は――あまりに強すぎた。


 


 「……わかった。黙ってていいよ」


 クロエは、そう言った。

 責めるでもなく、あきらめでもなく。


 「あなたが語らないのなら、私は……祈って、探してみる」


 


 俺は、ふっと息をついた。


 彼女の祈りが、どこにも届かないものではないことを願って。

 少なくとも、俺の沈黙がそれを否定するものにならないように。


 


 そのとき、風が吹いた。

 奥、朽ちた壁の隙間から、冷たい空気が流れ込む。


 壁に、何かが刻まれていた。


 短い言葉。

 見慣れない古い文体で、こう書かれていた。


 


 ――「言葉を奪われし者に、焔を」


 


 クロエが息をのむ。


 俺は、その言葉を知っていた。

 あの人が、かつて書き残した“最後の語り”の断片だった。


 


 あの印、焦げた布、そしてこの言葉。

 すべてがひとつのことを示していた。


 


 ――“語った者”は、まだどこかで息をしている。


 


 クロエが俺を見た。


 「これって……」


 「わからない。ただ、まだ終わってないってことだけは確かだ」


 


 そして俺たちは、静かに墓地を出た。

 もう日は落ちかけていて、王都の空には薄い雲が広がっていた。


 風の中に、どこか懐かしい声が混じっている気がした。


 語られなかった言葉が、いま、風を伝って届こうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ