第2話 放課後の悪夢
5時限目の授業が始まる。
しかし、俺は授業に全く集中できなかった。教師の声は、薄いBGMのように耳を通り抜けていく。
俺の頭の中は、白崎麗奈とポケットの中にある彼女のハンカチのことでいっぱいだった。どうにかして、彼女にこのハンカチを返さねばならない。
だが、今まで一言も会話したことないのに、突然俺が話しかけたら彼女はどう思うだろうか。彼女だけではない。俺は、クラスの誰ともほとんど話したことがないのだ。
そんな筋金入りのボッチから突然ハンカチを渡されたら……
絶対に気味悪がれるに違いない。どうすればいいんだろう?
そんな事を考えている間に、5時限目の授業は終わった。6時限目の授業が始まるまでの10分間の業間休み。白崎麗奈に直接ハンカチを返すなら、今がチャンスなのだが。
結局、俺にはその勇気がなかった。
考えてみれば、彼女に気軽に話しかけられるスキルがあるなら。今頃、ボッチになんかなってない。コミュ障のボッチを甘く見ないで欲しい。
6時限目の授業も終わって放課後になった。生徒たちはワイワイ言いながら教室を出て行く。
「ねえねえ! 今日さぁー。カラオケ行かない?」
「ええー!? あたしはタピオカミルクティー飲みに行きたい!」
一段と騒がしい黒川詩音が率いるギャル軍団が教室を出て行き、徐々に教室は静かになっていく。白崎麗奈も友人と帰ってしまった。
そして、教室にはポツンと俺だけ残る。
待っていたぜぇー! この瞬間をよぉー!
俺は、わざと教室に一人残ったのだ。いつもなら誰よりも先に帰宅する。部活なんてもちろん入っていない。
俺は、ポケットから白崎麗奈の白いハンカチを取り出した。よく考えたら直接返す必要はなかったのだ。彼女の机にこっそり置いて返せばよかったんだ。
そして、白崎麗奈の机と向かって机の上にハンカチを置こうとした。その瞬間だった。
カシャッ!
カメラのシャッター音を模した電子音が背後から聴こえた。誰もいないはずの教室。慌てて振り向くと、そこに立っていたのはギャル軍団の長、黒川詩音だった。
キャバ嬢のように盛った派手な茶髪。耳にはピアス。整った顔に薄い化粧。胸元を開いたシャツに短いスカート。ギャルのお手本のような恰好をしている。
いつも取り巻きを連れている彼女が、現在そこに1人で立っていた。
「ねえねえ。何してんのー? 灰谷ー!」
そう言いながら彼女は、俺をスマホで撮影している。もう一度「カシャ!」とシャッター音が聴こえる。
俺が今手に持っているのは白崎麗奈の白いハンカチ。そして、彼女の机の側にいる姿を撮影されたのだ。
俺は、頭が真っ白になる。慌てて弁明しようと試みる。
「ち、違ッ! こ、これは……」
言葉が上手く出てこない。他人と話すのは久しぶりすぎる上に、相手は今まで一度も話した事のないギャルの黒川詩音だ。いきなりハードルが高すぎる。
「ねえねえ。灰谷ー。あんたが手に持ってるの、白崎のハンカチだよねー? あたし見た事があるよー。彼女がそのハンカチ使ってるとこー。何で灰谷が持ってるのー?」
ギャル特有のイントネーションと語尾を伸ばした話し方で、黒川詩音は話しかけてくる。その顔は小悪魔のような涼しい笑みを浮かべていた。得体の知れない不気味さを感じる。
「違ッ! ほ、本当に違うくて…… これは…… あの!」
どう見ても黒川詩音は俺のことを誤解している。しかし、俺は未だに状況を上手く説明できないでいた。黒川詩音はニヤリと口角を上げた。
「あんたさぁー。もしかして白崎のハンカチ盗んじゃったの―? うわー! マジ最低!」
「ま、待ってくれ! 違うんだ! た、たまたま拾ったんだよ! トイレの前で! そ、それで! 返そうと思って! 今! その……」
何とか状況を説明しようとするが、ぎこちない言葉しか出てこない。俺の言葉を聞いて、黒川詩音は目を細めた。
「ふぅーん」
黒川詩音は半信半疑の目で俺を見る。そして、ニヤリと笑ってから話し出した。
「でもさー。あたしがこの画像をみんなに見せてー、灰谷が白崎のハンカチを盗んだって言ったらさー。クラスのみんなは、あんたとあたしの話。どっちを信じると思う―?」
背筋が凍りつく。とんでもない恐怖感を感じた。俺は黒川詩音をすがるような目で見た。
「ま、待ってくれ! そ、それだけは…… マジでやめてくれ! 頼む!」
そんなことをクラスの生徒に広められたら、俺は変質者扱いをされて高校生活を送ることになる。ただのボッチどころか、他人から白い目で見られるのだ。それは耐えられない。
黒崎詩音は、クスクスと悪戯っぽく笑った。その可愛い顔からは悪魔的なオーラが滲み出ている。
「じゃあさー。灰谷―。あんた、あたしの言うこと何でも聞いてくれるー?」
これは、もうダメなヤツだ。とんでもないヤツにとんでもない弱みを握られてしまった。どちらにせよ。俺の高校生活はもう終わってしまったようだ。
彼女に逆らう術はなかった……
俺は、うなだれるように頭を下げた。
「わ、分かった…… 何でも言うことを聞くよ……」
そう答えると、黒崎詩音はニコっと笑う。
「決まりねー! じゃあ、また明日ー!」
そう言いながら、彼女は俺の手からハンカチをサッと奪い取った。そして、ヒラヒラと揺らす。
「そうそう。これは、あたしが預かっとくわー。明日、あたしが白崎に返しといてあげるー! じゃあねー。灰谷ー!」
そう言い残して彼女は去って行った。俺はポツンと教室に取り残される。
終わった……
まるで悪夢のようだ。いや、夢ならばどんなによかったか。これは現実なのだ。
俺の心は、暗い絶望で満たされていた。