表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

業欲

作者: 1次落ちのM

群像新人賞一次落ちの作品です。こんなものが落ちるのかくらいに見ていただければ幸いです。よろしければ、ダメだしなどもお願いします。どんなに辛辣な意見でも素直に取り入れます。


 T地区にあるR公園では、火曜と土曜だけ、あるNPO団体によって炊き出しが行われ、T地区に住んでいる多くの生活保護受給者が集まって来る。雄作もその内の一人だ。雄作はその場に座り込み、四杯目となる卵雑炊を平らげて、周りを見渡してみた。炊き出しに並ぶたくさんの男たちが黒山の人だかりを作る。公園の青々とした葉を付けた木々の下にあるベンチには、寝ている人やワンカップを片手に談笑する者がいた。青いテントの中には皆で一緒にテレビを観ている人たちがいた。

 これらの全ての人に共通していることは、皆生活に余裕がないにも拘わらず、諦めの気持ちから出る妙な明るさを持っていていることだ。そして男たちは皆高齢で、雄作と同い年の三十六歳の人も、それ以下に見える人もおらず、T地区の高齢化が甚だしいことも一目瞭然だった。

「雄作君じゃないか、こんなところで蹲って何してるんだ?」

 話し掛けて来たのは、あーちゃんと皆から言われている、おそらく六十から七十くらいのお爺さんだ。彼は元日雇い労働者の一人だ。年齢の割には、体に筋肉が付いて大柄で立派な体格だが、体毛が濃くて脂っぽい長髪を束ねていて、不潔にも見えた。今の御時勢、日雇いの仕事が少なくなってしまい、彼のような働きたいけど仕事がなく、生活保護を受けて生活する老人が増えていた。

「こんにちは、ちょっと考え事を」

「そんなに悩んでいても良いことなんて降って来ないぞ。まだ、若くて体力があるんだからさ、なんでも良いから職を見つけんと」

「まぁ、それもそうなんですが」

 あーちゃんは何を根拠に言っているのか分からないが、基本楽観的であり、一時的に自分のムダに拘っている考え事を忘れさせてくれはするが、どこか決定打に欠け軟弱な意見に聞こえてしまうので、雄作には響かない。彼はいつも、あーちゃんの機嫌を損ねない程度に聞き流すことにしている。決して悪い人ではないので、軽くあしらったりはしない。

 この人は、昔の、男たちが血気盛んで治安が悪かったときのT地区を知っているのだろう、と雄作は思いながら、本当にそうなのか疑ってしまうほど無害そうな顔を眺めてみた。

「あーちゃんと雄作君じゃない。何してんだ二人仲良く」

「これはこれは、たか坊じゃないか」

 たか坊と言われているオジサンは、五十ちょい過ぎくらいで、ここに住む人の中では比較的若い方だ。あーちゃん曰く、二十年前くらいから、稀にT地区に現れ始めたらしい。おそらく多くの仕事を転々と変えていくうちに、仕事にありつけなくなり、T地区に辿り着いた人だろう、ともあーちゃんは言っていた。T地区には二人のような、決まった住所も持たずに生活している男がたくさん暮らしている。

「今な、丁度、雄作君が浮かない顔をしていたから話を聞いていたとこなんよ」

「あぁ。餓鬼だからな、そりゃあ、悩むがな」

「でもなあ、悩んでいても何にもならんからな」

「雄作君や。悩むことなんてしないで、逆にもう諦めちまえばエエんじゃないか。別に今の生活続けていて死ぬわけじゃねぇんだし」

「おいおい、それは流石にマズいんじゃないか。雄作君はまだ三十代だぞ」

「世の中なんて出たって楽しくなれるって確証ねえんだから。ここにいた方が楽しいかもしれないんだぜ。だってよ、世間の奴らは、皆情のない奴ばっかりじゃねえか」

「まあ、そんなに否定しきってしまうのも勿体ない気がするけどな」

 あーちゃんが、へらへらした表情で雄作の顔を覗き見してくる。どうやら、気を遣っているつもりだろうか。

自分自身も同じような身でありながら、何格好つけて人の心配なんてしているのだ、と心の中で毒づいた。たか坊のオッサンの方がよっぽど説得力あるように聞こえる、と雄作が考えていると、たか坊が顔を赤くさせ、がなりだし、

「それに比べて、ここの連中の方が、よっぽど本来の人間っぽくて面白みがある。見てみろ、あそこに寝っ転がっている爺さん」

 と言いながら公園の外にある立ち飲み屋のくすんだ黄色い壁の下で寝ている爺さんを指さして続ける。

「あんなのは、ここの町ではよく見かけるが、他に行ったらまず見ねえ。しかも、こんな真っ昼間なんて、酒を飲んでる人間すらも珍しい。でも、あの姿が人間本来の自然のものだと思うんよ。そして、そんな人間に対して、ここに住む周りの人間も不信感を抱かねえ。起こしてくるのは、精々警官か野良犬のションベンくらいだ」

「お前さんは、ここの生活にすっかり毒されてしまったようだな。たか坊にとっては、ここは蟻地獄みたいなもんかな」

「あーちゃんや、あんたもあの寝姿をよく見ろ。あの外で無神経そうに寝ている姿が、サバンナで暮らす百獣の王ライオンにも見えるだろ。だから、奴は場所の環境が整えば、王にもなれる人物なのよ」

「サバンナのライオンは昼間から酒を飲まんだろ」

 二人の会話を聞き、雄作は確かにたか坊はすっかりT地区に根付いてしまっている気がした。

 雄作の背後から、別の男の声が聞こえた。だが、男が何を言っているのかは分からなかった。

「おう、キョーヘイさんじゃないか」

 今来た男はキョーヘイさんという七十過ぎであろう爺さんで、彼は歯が一本もないらしく、基本何を言っているのか分からない。

雄作は皆と別れて公園を出て、自分の部屋に帰った。彼が住んでいる部屋は広さ四畳半で、カラーテレビとエアコン、小さな冷蔵庫の付いた、宿泊費が一か月三万五千円の部屋である。生活必需品は一通り全て揃えているので、床は物で溢れ足の踏み場が少なく、歩けば足にズボンが絡まったり、歯磨き粉のチューブを踏みつけて白い中身をぶちまけてしまったりする。

 唯一物が置いてない布団の上に腰を落ち着かせ、ボーっと思案に耽る。先程、たか坊が言っていた発言は、至極真っ当な意見なのだと思ってしまう自分がいる。雄作は自分のようなどうしようもない人間は、ここにずっと暮らしていた方が良いのではないかと考えることが多かった。

 ここに住み始めた当初、生活保護を受けながら生きている自分に対して、心理的な抵抗感や屈辱のようなものを感じていたので、アルバイトなどの面接をたくさん受けてきた。だが、どこにも受からず、仕事を見つけることができなかった。T地区に住んでいるという理由で落とされてしまうことが殆どだった。今になっては、もうどうしようもないと思い、ただ毎日を何となく過ごしているだけになった。そのためT地区での生活に満足していることが、今の自分にとっては正解なのだろうか、と必然的に思うようになった。

 窓の外の景色を眺めてみる。彼の部屋は三階にあるため、窓から町の様子を眺めることができる。町には雄作が住んでいる宿泊所と同じような廉価で泊まれる宿や、四六時中、シミだらけの赤黒い顔をしたオジサンたちを出し入れしているスナックや蕎麦屋、立ち飲み屋が犇めき合っている様が見えた。真下には十字路が見え、その道に沿って生えている染井吉野の木々が景色に色を添えていた。三月の下旬に入った今では、逞しく端然とした若草色の蕾に包まれて固くなっている薄桃色の花びらが、左右から伸びた枝に粒々付いて、満開の桜の予兆のような役を果たしており、春色の淡い甘みを表している。春は生活が変わる節目のような時期なので、昔の学生時代のことなどを、よく思い出してしまい、落ち込むことが多かった。


   ※


 雄作には三つ年上の冴子という名の姉が存在した。冴子からは大変可愛がってもらった過去があり、今でも、ふとした時に、姉の姿を思い出すことがある。だが、当時はそんな姉の存在が嫌いで仕方がなかった。

 雄作が六歳で小学生になったばかりの頃、まだ一人で学校に行けなかった彼は、姉に手を握られて登校した。彼は登校の際、道中にあった駄菓子屋の様々な菓子の紅色や、蜜柑色、紫色、焦茶色などが乱れ溢れている様や、大きな家の庭や公園の花壇などに咲いていた多くの花々の茜色だの、黄金色だの、藍白だのといった絢爛な孔雀が羽を広げたような鮮やかな色彩を横目で見てきた。その色鮮やかな通学路に比べて、手を握ってくれる姉の手が苦手だった。子供の頃の雄作は、姉の毛深い腕が嫌いだったからだ。冴子の腕は、小四の女子にしてはかなり毛が濃かった。毛と毛の隙間から見える小麦色の肌の綺麗なプルンとした質感によって、彼は綺麗なものが汚いものに覆われ犯され消えて行ってしまうような様子を感じ取っていた。その様を見ることで、周りの美しい色彩もいつか消えてしまうのではないかと密かに予感もするようになった。

 ゾッとしている雄作は、そんなことに全く気付かず弾ける笑顔を向ける冴子から妖気のようなものを感じていた。

 現在となっては、とても申し訳なく思っている。こんな自分みたいなつまらない人間の相手を、笑顔でしてくれた姉はとても人格者だったのであろう、と今では考えを改めた。

 下校時間には友達と公園などで寄り道しながら帰宅して、敢えて冴子とは一緒に帰宅はしなかった。だが、雄作が三年生で冴子が六年だった頃、通ってた小学校では、三年は月、火曜だけ六限まであり、六年は月から金まで全て六限まで授業があったので、月曜と火曜には、運が悪いと下校途中の冴子に会ってしまう。しかし自分が嫌われている自覚のない冴子は雄作に会うと、ポケットから小銭を出し、お母さんには内緒だから、と言って駄菓子屋で一つお菓子を買ってくれた。彼は木の小さいスプーンで食べるモロッコヨーグルが一番好きだった。あの白くて一点の汚れもないヨーグルトのような物に冴子を関連付け、少しでも黒い腕毛の不気味さを消したいと無意識に思ったのだろう。

 しかし、彼の予感通り、その数年後には駄菓子屋も近くにコンビニが乱立するようになってくると、自然と消えていった。公園があった場所も駐車場に変わっていた。車の量も増えていき、空気が汚れ、庭に咲く花もどこか拉げた印象を帯びていくようになった。段々と町の景観が悪化することを思い出すと、当時の冴子の優しさと同時に、きめ細やかな肌の上に覆い被さる黒い腕毛をも思い出して、美に覆い被さり呑み込んでいく醜の底気味の悪さを感じてしまい吐気をもよおした。

 姉に対して謝意の心は持っているが、腕毛自体が醜いと思うのは今でも変わらない。



 窓の外はすっかり夜になり、町の外灯が煌々と光り始めた。雄作が外に出ると、まだ三月ということもあり、風が冷たく、歯軋りをしてしまう。スナックの前を通ると、誰かがカラオケで、気持ちよさそうに歌っている声が爆音で聞こえてきた。

 雄作は凍える町の中を歩いて、毎日利用している馴染みの「いろは食堂」という定食屋に入り、百二十円で食べられる格安のカレーライスを注文した。この定食屋も、どこかのNPO団体がボランティアでやっているらしい。店の一番奥のテーブルに座り、カレーが運ばれて来るのを待った。

 現在、午後の七時ちょっと前で、丁度、夕食時ということもあり、定食屋の中は、結構な人で賑わっている。お椀から沸き出る互いに絡み合った湯気が、あちらこちらで浮かんでいる。

 銀の器に入ったカレーが来たので、スプーンで音を立てて食べながら、周りの男たちの話し声をなんとなく盗み聞きしていた。

「お前さんはさ、もし生まれ変われたら、何になりたいか?」

「はあ。遂に気が狂ってしまったか。え、この期に及んで何がしたいとか、そういった欲みてえのは全て消え失せたわ」

「だからさ、そりゃお前さんがもう何もできないことくらい分かってるわ。そうじゃなくて生まれ変わったらだ。もし、今と違う体と脳で生まれてきて、新しい人生になったときの話だよ」

「ナニ、生まれ変わったらだと。バカか。人が生まれ変われる訳ねえだろが。もしな、もし、俺たちが、もう一回精子になれたとしてもな、こんな生活力貧弱人間にもう一回チャンスが回って来ると思うか。ねえよ、ねえ。まったく、お前のバカさ加減は五大陸に響き渡るほどだわ」

「うっせ、お前さんに何が分かるか。もしかしたら、俺だって生まれ変われたら、キレイなねーちゃんと付き合える人間になれるかもしれねえじゃないか。悟りきったような口利きやがって、お前さんに何が分かるというのだ。お前さんの人生なんて大海原に味噌一つまみ落としたような、うっすいうっすい人生だろうが」

「なんだ。俺が悪いのか? このハゲ。お前の頭が大海原じゃ」

「お前に言われたくないわ」

 隣に座っていた金柑頭とジャガタラ芋頭の二人の声が五月蠅過ぎて他は何も聞こえなかった。

 その後、カレーを食べ終え店を出た。十分二百円のコインシャワーで体を洗った後、夜のT地区を散歩するのが彼の日課である。夜のT地区は、男のあらゆる欲を満たしてくれる。

 少し歩けば、白光に灰色の煤けた壁を照らされた簡易宿泊所が何軒も並び、スカイブルーでライトアップした看板に、「一泊千五百円」と白くデカデカとした字で書かれている。この白と青の澄みきった水面のようなライトが、ふわふわした睡眠欲を誘い、皆に安心を与える。まさに町のオアシスである。

この多くの簡易宿泊所の隙間に存在する飲み屋、スナックが艶めかしく白い手で、おいでおいでと人を手招きしていた。その様は、緑に光る「河よし」や桃色の「スナック た江」など書かれた看板の他にも、青や赤、オレンジ、白などの光を放つ看板がたくさんある。青芒が茫々と生える中、たくさんの色を放つ極彩色の蛍の大群が男浪、女浪を作って打ち寄せて来るかのようだ。多くの原色が通りに色彩を加え、人の視界を彩る。更に、茶色い扉を構えて会員制を謳っている店の中からは、絶叫に近い喋り声、笑い声が響いてくる。これらは、皆の食欲を満たしてくれ、生活していく上での土台をくれる。

 また暫く歩くと、今度は一面紅灯麗らかに揺らめき、意識が混濁した男たちが、ふらりと歩く桃源郷へと辿り着く。ここでは、言わずもがな性欲を満たしてくれる。

 そう、T地区とは、男たちのための男たちによる男たちの町だ。

 雄作が歩いていると、黒のレザージャケットを着た、一人の外国人の女が脚をくねらせ、白い髪を紅蓮の明かりに染め、舌なめずりをしてテカテカ光ったピンクナメクジを開いて突き出し、甲高い声で話しかけてきた。

「オニイサン、チョットイイデスカ?」

「あ、今急いでるので」

雄作は、自分はそんな情欲はないのだと思っている。

「イチジカン、サンゼンエンダヨ」

 どうせ嘘である。これに騙される阿呆な男が多すぎるから、こんな立ちんぼなんてものが成立する、人間もっと賢くならなくては、と彼は思う。

「カワイイコイルヨ」

「いえ、時間ないので」

「モウ、シュウデンナイヨ」

 因みに、現在夜の十時半過ぎだ。嘘ももっとマシなものでお願いしたい。こういう明らかな嘘を、カワイイと思う男がいるのだろう。でなければ、女たちはこんなことは言わない筈だ。雄作は我慢ならず女の方を向いて、

「なあ、君はもっと自分の体を大切にしたらどうなんだ? 両親の顔をこの町のネオンの明かりに照らして思い出してみろよ。少しは見え方、考え方が変わると思うぜ」

 と説教して、自分は良心の塊であると思い、すっきりしてその場を離れた。

 女から離れるように、急ぎ気味で風俗街を散歩していると、モスグリーンの電飾溢れる店の壁際で淋しそうに蹲っている、一人の女の姿を発見した。雄作は、この辺にいる女は基本皆、先程の外国人の女のように悪趣味な笑顔を振りまきながら近寄って来る者ばかり、と思っていたので、その異様な姿は、嫌でも目に入って気になった。

 その女が顔を下に向け項垂れているのを良いことに、少しだけ女に近寄り、様子を確認してみた。夜の闇に同化してしまいそうなほどに黒く、盛りの柳のように生えた髪が顔を覆い尽し、つむじのところから数本の遊んでいる毛がホツリホツリと。彼女は猩々緋の袴を穿き、縦縞柄の萌黄色の打掛のような着物を羽織っている。袖からコロリと出ている白い手は、春の杏子の花。

 その姿は淋しそうにも拘わらず、辺りのケバケバしい夜半前の泥沼のような空気の毒牙に掛かることなく、清くも逞しくも見えた。惹かれたと思った。雄作は、なんとなくこの女に惹かれたと感じた。惹かれた理由など見当たらなかったが、この姿を目の前にして理由を尋ねる方が野暮なのだとも思っている。それだけ、彼にとって魅力的に見えた。

 暫く見ていると、すーっと女が顔を上げ始める。徐々に白い皮膚が彼の眼前に広がる。女の黒目勝ちな目と彼の目があった。その瞬間、女は大口を開け、玉を転がすように笑い始めた。彼女は、打掛のような着物を開けさせて、中には何も着ておらず電飾の緑に照らされた乳房を露わにし、雄作の肝を潰した。

(なんで、こいつは乳房をわざわざ出しているのだ? こいつもさっきの女と同じ取るに足らない精子臭い商売をしている人間であったか。何でこんな奴に俺が惹かれなきゃいけないんだ。俺は性欲などない人間にならなきゃいけないんだ)

 と雄作は自分に言い聞かせ、女から逃げるように駆け出し、急いで自分の部屋に戻った。いつも散歩をしているが、あんな奇妙な女を目撃したのは初めてだった。

 部屋に帰ると、すぐに電気を点けてテレビのスイッチも入れた。無音が怖いかった。音がないと、先程の女がこの宿泊所の階段を上ってこちらに来る足音が聞こえてきそうな気がした。

 床に落ちたガラクタを蹴散らしながら、部屋の中を歩き、布団の上に座って、ジッとしてみた。徐々に冷静さを取り戻すにつれて、逆に自分が女に悪いことをしていたのでは、とさっきの自分の行動を反省し始めた。

(あの女だって、生きるために必死なのではないか。あんなところに身を置くなんて、何か事情があるのかもしれない。話くらいはしても良かったのでは。もしかしたら、商売とは全く関係ない人だったのかもしれない。だって、一瞬でも俺が彼女に惹かれたのは事実だし、今まで、商売で誘ってくる女に惚れたことなどないこの俺が、淫欲などとっくに捨てているこの俺が好きになったのだから。

それに、俺は、つい人のことを馬鹿にしたような言葉を頭に浮かべてしまった。あのときの自分に腹が立つ。俺は真っ白な純情を持った人間でなくてはいけないのに)

 彼は、自分に情があることを自分に証明したいためにも、例え誰にも見られてなかったにしても、無情に見える行動と、欲を剥き出しにする行動を慎む癖がある。

(あの後、俺が声を掛けてやらなかったばかりに、女が変な男に襲われてしまったら。申し訳ない、本当に申し訳ない。たか坊だったら、涎だらだら零しながら、話し掛けていただろうな)

 暫く考え事をしていた。漸く落ち着きを取り戻すと、テレビと電気を消し、掛布団を体に掛けて眠りについた。これ以上考えていても何も変わらないため寝るしかなかった。



 厚郎はレディースのスーツ一式とシンプルな白い下着を持って、部屋に戻ってきた。赤土に汚れた白いスニーカーを脱いで、ただいま、と言った。部屋の中で座って彼の帰りを待っていたかず江も、おかえりなさい、と返事をしてくれた。厚郎は彼女の体を抱きながら、

「かず江は本当に可愛い。本当に。その白くて貝殻のような肌を私に撫でさせてはくれないか」

 と、耳元でそっと呟いた。かず江はそれにきちんと返答してくれる。

「マァ、貴方ッテソンナオ人デシタッケ。見損ナイマスヨ。ソレニ、男ノ人ッテ、ナンデ、自分ノ体ガ毛ムクジャラデ汚ラワシイクセニ、ソウ厚カマシク女ノ人ノ体ヲイヤラシク触レルノカシラ。

ソノ、脂塗レデゴツゴツシタ手デ、人ノ顔ヲ触ロウッテイウ行為ハ、トテモ気持チ悪イノ。モット自分ノコトヲ考エテ行動シテチョウダイ。特ニ貴方ハ獣ミタイナノダカラ」

「ごめんよ。かず江、本当にごめんな。これからは、もっと気を付けるよ。でも、どうしても、私は君に心と体を許して欲しいのだよ。ほら、これを見てよ。君のためにスーツを拵えて来たんだよ。かず江は凄く可愛いから、どんな服でも似合うと思うよ。ほら、今すぐ着てみて、美しい姿を私に見せてくれないか。それくらいは良いだろ」

 かず江は少しだけ逡巡する素振りを見せてから、

「ンー、ショウガナイワ。着テ見セテアゲル。ホラ、今着テイルジャケットト、ワンピースヲ脱ガセテチョウダイ。ア、デモソノ前ニ、爪ヲ切ッテカラニシテ。ソノ黒クテ汚イママデハ服ニ触ラナイヨウニネ」

 と、彼に命令するように言った。厚郎は彼女の高飛車な態度を、自分に対する甘えを認めたくないための、抵抗の一種だと判断した。厚郎は、彼女のそういった素直ではないところが好きだった。その抵抗を感じながら彼女の服を脱がせて着替えさせることが、今も昔も大好きだ。

「はいはい、分かってますよ」

「アト、毎回モ言ッテルカラ分カッテイルト思ウケド、絶対ニアタシノ肌ニハ触レチャダメヨ。貴方ハ汚ラワシインダカラ。少シデモ、手ガ、チョコント当タッタダケデモダメダカラネ。モシ触ッタラ」

「うん、分かってる。勿論分かってるって。私を信用しておくれ」

 と言うだけで、彼はかず江の肌にべたべた触りながらスーツを着せてあげた。彼女は不服そうな顔をして文句を言っているが、内心では嬉しいんだろうな、と厚郎は確信している。



 隆幸は四月の早朝の寒さの中、T地区の飲み屋通りを一人で、スコップを片手に歩いていた。路上には、酔いつぶれた人と、子守をしている灰色の野良猫が並んで寝ていた。激安のラーメン屋からはシャボンの香りを纏った男二人が並んで出て来た。

 翌日の飯代が確保できるかどうか怪しかったので、今日は急遽、登録してある荷役会社の日雇い仕事をしに、歩いて二十分ほどにある会社へと向かっている最中だ。今年五十五歳になる身なので、頻繁に過酷な人足仕事に出向くことが体力的な問題でできなくなっているのだが、金の減り具合には抗うことができない。

 暫く歩くと、T地区から抜けるための黒く煤けたトンネルが見えてきた。そのトンネルは、朝にも拘わらず、暗く陰気な気配を発しており、醜悪な豚の肛門のようにも見えた。だが、この黒い穴の向こう側には、富裕者たちが集う、とても綺麗そうでムダにお金がかかっている高層ビルやデパート、レンガ造りのホテルラウンジ、有名な高等学校等がある。

 そのトンネルに向かって、眠い目を擦りながら歩いていたら、そのトンネルの入り口の脇にある旧駐車場跡地であろうゴミ置き場の中に、白くキラキラ光る新雪のようなものがチラリチラリと彼の目を惹いた。

 こんな時期に雪なんて降る訳ないし何が落っこちてるんだ、と思い、時間にも余裕があって気にもなったため、フェンスを何とか乗り越えてゴミ置き場に入った。そこはビニール傘や、壊れた電化製品、ベッドなどのゴミで溢れていた。さっき見た白いものがあったところを暫く探してみた。

 何かの音が聞こえた。その音は、右の方から聞こえたので、何が入っているのか分からないブルーシートで包まれた段ボール箱を退かし、音の聞こえた辺りを見回してみた。少し遠くに、シーツが黒ずんでカビの臭いを発していそうなベッドの上に、萌黄色の縦縞の着物が、そよ風に吹かれて揺らめいていたのを発見した。その萌黄色は、こんな臭く汚い場所には似合わないもので、浮かびあがって見え、夢のような原っぱが草を靡かせながら広がっているかのようだった。その萌黄からは猩々緋や白が溢れ出て、花桃が咲き乱れ、鶯が声高に鳴きながら花を愛でている場面が想起された。

 磁力で引っ張られているかのように引き寄せられてしまう。ここまで来て、こいつの正体を確認するまでは、どこにも行けないと思い始める。

 彼は大量のゴミの山を掻き分け、そのベッドの側まで辿り着いた。

 女であった。着物の前を開けさせ、両の乳房までも朝の日差しの中で露わにしていた。それでも、乳白色の月長石のように純潔な印象を抱かせる女だった。黒鳶のような色の髪をベッドの上に広げ、艶やかな気品すらも感じさせる。

 彼女は目をこちらにしっかり見据え、急に人が目の前に現れたこと対して、一切の驚きの色も示さなかった。それどころか、笑い声を発していた。

 先程見えた白は彼女の肌色で、猩々緋は彼女が着ている袴の色であった。

「おい、おめえ、こんなトコでなにしてやがる。酔っているのか」

 ここは立ちんぼの女が夜に並んでいるエリアと近いので、そこの女なのでは、と初めはそう見当をつけてみた。

「お前さん、家はどこだ」

 朝から女の真っ白な乳房を、罪悪感から見てられなかったので、自分の手が彼女の体に触れないように、そっと着物の前を閉じてあげた。それでも、親切なことをしたという自意識が調子に乗り出し、その親切の延長として、女に家の在り処を尋ねて、おせっかいにも送ってあげようとした。しかし、女は喋らずに、相変わらず喉から音を奏でているような笑い声だけ発している。

 隆幸は女が笑っている様子を眺めているうちに、奇しき風情を感じ取っていた。それは、人から出たものというより、物の怪の類から発せられる異常な趣だった。

(さて、どうする。俺の目の前にいる女は、どうやらある種のやばい奴らしい。俺は最近、やばい奴を抱いたことがないから、試しに抱いてみたくなってきた。この女を自分の部屋に招き入れてみたくなったな。だが、今は完全に無一文の状態で、仕事には行きたい。しかし、俺が仕事している間に、この女がどこかに行ってしまったり、他の男に連れて行かれたりしたらどうしようか。うむ、困った)

 隆幸の旺盛な性欲の中に、仕事に行かなくてはという気持ちが、不純物のように入り込んでいたのだ。

 先程退かした段ボール箱からブルーシートを剝がし、彼女の体に被せた。顔の部分は、箱を解体し、それで隠すように頭の回りを囲んで外から見えないようにした。この処置では明らかに不十分ではあるが仕方がない、と彼は納得しなければならなかった。これ以上ここにいたら仕事に間に合わなくなる。

「夕方の六時には帰って来れるから、それまでここで寝て待ってるんだよ。たっくさん可愛がってあげるからね、おじょーちゃんっ」

 わざと女に不快感を与えるような台詞を残し、フェンスを乗り越え、再び会社へ向かって歩き出した。歩き出してから先程の発言に違和を覚える。

 普段自分はわざと相手に不愉快な思いをさせるようなことを言ってしまうが、心中ではそれに反する思いが渦巻いている。先程の女にしても、別にいなくなっていても、そんなに驚かないだろうなと思う。むしろ女に逃げていて欲しい気が抱きたいという気と半々で生じている。

 でも、やっぱ抱いてみたい、と会社が見えて気分が落ち込むにつれ、淫らな妄想が大きくなっていった。

 会社に着き、目の前に四十人乗りのバスが停車しており、彼はそれに乗り込む。一番奥の三人掛けシートの一番窓側の席に座った。これから辛い肉体労働をしなければならないのに、今日の夜のことを考えては、腰から崩れ落ちそうなくらいに脳髄が甘い考えに浸されてしまう。

(俺が目の前に来ても乳房を隠すこともしなかったんだぜ。それはもう、どうぞご自由にってことだろう)

 と一人で思い出しては、ニヤついて、先程の葛藤が薄い霧のようになくなっていた。頭の中では、既に完璧なストーリーが拵えられており、その内容はあんなことやこんなことまでも描かれていた。

「たか坊さん、おはようございます。もう金欠なんですか?」

 話し掛けてきたのは、坂本という隆幸と同じ荷役会社に登録している四十前くらいの男だ。彼と別に仲良くなった記憶はないのだが、坂本の方から話し掛けてくるので、別段冷たく対応はしない。彼は隆幸が金欠になると仕事に来るということを知っている。

「坂本か。おはよう。そうなんだ、前の稼ぎはなくなった。悲しいことに俺の元からいなくなっちまったのよ。トランクに荷物詰めて俺の部屋から出て行ったんだよ。もう、貴方なんて知らないって言ってな」

「たか坊さんが使い果たしただけでしょう」

「追いかけて行って、待てよって声かけてあげればなあ」

「何の話してるんですか?」

 雑談をしていると、人の数が増えていきバスが動き出した。坂本はコンビニで買ったおにぎりを袋から出して食べ始めた。よくこんなオッサンの汗の臭いが充満した車内で飯が食えるな、と感心してしまう。こういう鈍いところが、他人に対しても平然と話し掛けてくる性質に繋がっているのだろう、と勝手に思っている。

「そういえば、お前のところの息子、今何歳になったんだ?」

「え、ああ、今年で十三ですよ。中学に上がったんです」

 坂本は既に結婚しており、家には一人息子がいると前に聞いたことがある。坂本は生活費を稼ぐために毎日仕事をしているようだ。だが、一日八千円しか貰えない仕事なので、坂本の奥さんも毎日仕事をしなければ、生活ができないそうだ。奥さんは水商売を生業としている、と坂本は前に言っていた。どんな業種かは教えてくれなかった。

「しかしよ、愛する妻が水商売やってるなんて、胸糞悪いことなんじゃないのか。俺にはよく分かんねえけどさ、知らねぇ気色のわりい昆虫みたいな体した男相手に、パカパカやってるんじゃないのか、とか考えたりしないのか?」

 と隆幸は以前、坂本にこう尋ねたことがあった。

「別に。アンタには関係ないだろ。水商売だからって、全部が全部、体を触らせるようなものじゃあないんだからさ」

 と坂本は言っていたので、セクキャバとかそういう類のようなものではないようだ。しかし、坂本はこのとき、隆幸の発言に対してかなり腹を立てていたみたいなので確定はできない。図星だったかもしれないからだ。

 坂本が自らの怒りを隠すようなタイプの人ではなく、他人に露骨に見せつけ、一方的にバリアーを張ってくるような、扱いにくいタイプの人だと思い、それ以上の追求は止しておいた。自分には関係のない話だ、とも思い、黙っておくことにした。

 だが今でも、坂本の心は本当に、そういう妻に対して安心感を持っていられるのだろうか、とずっと疑っていた。

(自分の奥さんが、今朝会った女みてえに、両乳ボロリンコさせて、それを見た汚い親父たちが、阿呆な野良犬みたいに涎ダラダラ垂らして興奮している光景なんて、俺には耐えられねえよ。いくら鈍臭い坂本だからって、そこまで無関心にはなれねえだろ)

「たか坊さん着きましたよ」

 バスはいつの間にか、今日の仕事場である、新築マンションの建設現場に到着していた。今日の現場での作業は、かなりの重労働を強いられるため、皆はハズレだと言い溜息を洩らしていた。皆はバスを降りると、陰で作業服に着替え始め、ヘルメットを被った。

 作業に入ると、流石にあの五月蠅い坂本も黙って働き始める。隆幸は持って来たスコップを使い、砂利山から砂利を手押し一輪車に積んで、運び、砂利を決められたところにひたすら敷き始めた。だが、魂ここにあらず。頭の中では始終、先程の女の艶めかしい姿態を思い描き、ニタリニタリと笑みが滲み出る。

(早く今日の仕事が終わらないだろうか。何とか今日だけは残業はなしにしてもらいたい。しかし、今日の現場は残業の臭いがプンプンするな。あの子が帰ってしまう前には、あそこに戻りたいのにな)

 隆幸の下腹部は、いつの間にか、反応しており、労働中である彼本人より元気いっぱいだ。

 脳裏にちらつくのは、汚いベッドに横たわる綺麗で清潔な体。それは、福岡の銘菓、鶴乃子のマシュマロ生地を思わせるほどに滑らかで白く、陶器のような白さとは違う人熱で柔らかくなってしまう綿の白さを持っている。しかも中に黄身餡が入っているのでただ白いだけでなく、日本人の黄色の肌を極限までに美へと近付けた色だ。どんな触り心地なのかと想像するだけで、彼はワクワクを抑えきれない。

「たか坊さん、どうしたんですか? なんか今日はやけに顔が綻んでいますいますよ。なんかいいことあったんですか」

 昼休みに配られた弁当を食べていたら、坂本が話し掛けて来た。平気で人の気分なども顧みずに話し掛けてくる。興ざめだ。坂本からしてみれば、隆幸が一人で寂しく現場裏の空き地で飯を食べているように見えたのだろう。だが、隆幸からしてみれば、余計なお世話以外の何物でもない。坂本という人間が誰かと一緒にいないと落ち着かない性質を持っているというのは百も承知なので、ここでも別に冷たくあしらったりはしない。この場合でも、そんな性格故に碌に一人で家族の生活費も稼げないくせに結婚したのだろう、と考えれば、坂本自身が一番不幸なのだ、という事実も隆幸が坂本を毛嫌いするまでにならない原因となっている。だが、坂本自身が、隆幸が寂しそうだから来てやっているのだという自意識を持っていることに関しては、彼は気に食わない。文句を言ってやりたいのは山々だが、また坂本が臍を曲げるのは面倒臭いので、言わないことにする。機嫌を悪くさせることは、隆幸にとってメリットがない。本気で怒る人には偽悪的な言葉すら通用しない。

「いや、いいことなんて一つもありゃしねえよ。お前が離婚でもすりゃ、大喜びしてやるがよ」

 冗談っぽく言ってやると、坂本は大いに喜ぶ。隆幸が結婚している坂本に対して羨望を持っていると勘違いしてくれるので、笑いにもなるしプライドも満たしてやれるので、今のは良い返しだった、と彼は一人満足した。

「あはは、たか坊さん、結婚ったっていいことばかりじゃないんですよ」

 もうたくさんだ、と隆幸は限界だった。

 午後の作業も無事終わり、バスに乗った隆幸は会社の前まで帰って来た。時刻は既に午後七時を過ぎていた。結局残業させられてしまった隆幸は、急いで朝、女に出会った場所へと向かった。

豚の肛門みたいなトンネルを抜けるとT地区であった、とテンションが上がり、くだらないことが思い付く。

 早速フェンスを乗り越え、ゴミの山を駆け抜ける。たくさんの汚れたビニールや段ボールなどを掻き分け、目的のベッドまで辿り着く。しかし、朝いた女はそこにはいなかった。

(クッソ、クッソ。やっぱり待ってはくれなかったか。まあ、当然っちゃ、当然だよな。俺が働いている間ずっとここにいるなんて訳ないもんな。勝手に俺が期待と股間膨らませて、勝手に失望してるだけだもんな。はあ、仕方ねぇ帰るか)

 と隆幸思い、踵を返そうとした瞬間、

「くっす、エッ……、ふぇえ……」

 と、女の泣き声のような音が聞こえてきた。隆幸は立ち止まって耳を澄ませた。

 奥の方から声がするのだと分かり、そっちに進みだした。奥に進めば進むほど、ゴミもより古そうになっていき、汚さも増す。暫く進むと、腐った木材や鳥の死骸、ぐちゃぐちゃに壊れた家具類などで溢れ返ったところに出た。その中に、一人二十代くらいの裸の女が泣き喚きながらゴミの山に埋もれていた。朝いた女とは別の女だ。

 翌日、隆幸は昨晩女が寝転んでいたゴミ捨て場へと向かった。そこには警官が何人かいて、周りには野次馬のような男たちが数人いた。彼はその中の一人の片手にワンカップを持ったオッサンに話しかけてみた。

「ここで何かあったんすか」

「ああ、夜に全裸で倒れてる女が見つかったらしいぜ」

「へえ」

「何でも、その女の人は若いOLさんらしくてな。誰かにこのゴミ捨て場まで連れて来られて、暴行されて、服まで盗まれちまったらしいな。可哀そうに、ヘンタイ男の仕業だよ」

 隆幸は、何となく昨晩見た女の身に起きたことを察知した。彼女は追い剥ぎにあったみたいだ。

 昨夜彼が女を見つけたときの様子を思い出していた。彼女の全身の肌からポツポツと気力の泡が噴き出ているかのように鳥肌が立っていた。四月の夜の寒風吹き荒ぶ中で、表情を強張らせ、何かに対し、異常に怯え切っている様子であったことを思い出した。

「おい。あんたこんなとこで何してんだ。何かあったのか?」

隆幸が声をかけても、彼女はさめざめと涙を流すばかりだった。

「おい、聞こえているのか。おい、何かあったのか。誰かに何かされたのか。言ってみ」

 女は両手で目に溜まった涙を拭い、隆幸の方を見たり見なかったりした。隆幸は目が合った瞬間に、彼女が抱いている黒い恐怖感を六感で感じ取った。そのとき、普段は抱かないような何かしてあげたい、という感情が現れた。

 だが、彼はこういう緊急事態に、どう対処したら良いのか分からなかった。女に近付いてしまったら、益々恐怖を募らせてしまうことが考えられるため、手を差し伸べてあげることもできないだろうと思った。下手すると、叫び声を上げられて自分が加害者になってしまうかもしれなかった。自分のようなオヤジに、手といえども体を触られることは、二十代の女にとって、不快以外の何物でもないのだろう、と考えたからだ。この助けてやりたいという気持ちまでも、汚らしい印象になってしまうかもという遣る瀬なさに、自身の爪先から頭のてっぺんまで全てが、このゴミ山の中に重なるゴミと一体化してしまう虚しさが起こり、暫く茫然と立ち尽くすしかなくなった。

「ちょっと、待ってろ。警察に連絡してやるからな」

 もう警察に通報するしか策はないと断念し、旧駐車場跡地を抜け出し、公衆電話に先程稼いだ金から十円玉抜き取り、彼が大嫌いな警察に連絡してやった。

 暫くすると、赤ランプクルクルさせながら、警官が二人やって来た。日頃から不摂生な生活を送っているからなのか、二人とも赤ニキビを鱈腹付けた顔で、汚らしい奴らだった。

(あの女性は、こんな男たちに触られたくないだろうな。俺のしたことは間違いだったかもしれないな。いや、でも、警官って言われている男だったら、安心してくれるのだろうか)

 と隆幸は心配しながら、再び、警官を案内するために、女がいたところまで戻って来た。警官たちは、隆幸に暫く待機するよう偉そうに言いつけて、女の体に毛布のような物を掛けてやりに行った。警官は女に対しては至極優しそうな柔らかい言葉遣いをしていた。その有様は、キモ男が優男気取っているようで、見ていて腹が立つものだった。

 警官は女をパトカーに乗せに行ったが、隆幸にはこのゴミ捨て場で待っているように言いつけた。二人のうち一人の警官が、隆幸のいるところに戻って来ると彼の前で仁王立ちをして、質問をしてきた。隆幸が犯人だと、警察の方でも捜査とかしなくて楽なのでしょう。隆幸に詰め寄り始めた。

「あんた、あの女性とは知り合い?」

 女に対する口調から一転し、反吐が出るような横暴な口調で喋った。声がへの字に曲がった口か、ぽっかり開いたニキビ跡か、どっちから発せられたのか分からないくらい、汚いだみ声だった。

「いや、全く知らん」

 警官は、「なるほどね」みたいな顔をしながら、何度も頷く。自分が仕事できる風を装っていたのだろう。「はい、そのパターンで逃げようとするのね」みたいな、いちいち癪に障る顔だった。

「何で、あんたはここにいたの?」

 これは困った質問だった。隆幸の目的は、朝に会った女なのだから。実際、女が入れ替わっただけだった。

「俺みてえな貧乏人は、ここで必要な物を見つけることもあるから、たまに入って何かねえか探してんのよ」

 全くの嘘だ。そんなことしたことない。

「へえ、それ本当かい」

 隆幸としては、上手く嘘を吐けたと思っていたが、どうやら警官側は嘘であるかもしれないと思う何かを感じ取ったのだろう。目をわざと見開き、鼻の下を伸ばして、ムカつく顔を作り出していた。隆幸は、自分がT地区に住んでいるからっていう理由で馬鹿にされているのだろう、と思った。

「本当だよ」

「へえー、そう。でも、それ窃盗だからね」

「今日の事件とは関係ねえだろ」

「いや、でも、罪は罪だから」

「は。何、じゃあ、俺を捕まえるんか。この薄らトンカチどもに」

「え、怒ってんの。浮浪者のくせに。一応言っておくが俺は警官だからな」

「いちいち癇に障る野郎だな。お前なんて、ただの国家の犬じゃねえか。俺は、犬という奴をよーく知ってるぜ。だって、毎日外を歩いてたらその辺でションベン垂れ流してるからな。お前も、その汚いニキビ面ぶら下げて、顔から油垂れ流してるだけだろ」

「黙れ、俺は警察だぞ」

「何だ、その汚い顔は。夜寝てないのか。風俗の行き過ぎか。はっはあ、そうか夜になったらお前のだらしない警棒をブンスカ振り回してんのか。白いのは、お前の警官としての実績だけじゃなくて、お前の下腹部の皮の汚れもだろう」

「おい、糞ジジィ」

「何だ、言われ過ぎて半ベソ状態だな。国家の犬も遂には袋の中の鼠になったか。チューってな。そんで、夜は女の乳をチューってしに町へ出るんだな。なるほどね」

 警官は困ったように黙って隆幸を見ていた。

「黙ったか。馬鹿が。困ってしまってワンワンワワンも言えないようじゃ、お前は迷子の面倒も見れないダメ警官だ」

 隆幸は、フェンスを乗り越えて意気揚々と帰路に着いた。やっと解放された。気分が良い。自分のことを最初から見下してくるような奴を黙らせることは本当に楽しかった。今頃、警官はもともとニキビで赤い顔を益々真っ赤にして、悔しがっているのだろう。想像してみると笑えてくる。

 結局、昨日は隆幸は警官から何も事件について伝えられなかったために、今日、野次馬のオッサンから事件について聞かなければならなかった。だが、事件の内容が追い剥ぎであることは、隆幸は最初から予想していた。



「かず江が私の目を見ているから、私はそれをしっかり見返してあげる。よく目が合うのは、お互いの生活のテンポが合うからなのだと思うな。だって、お互いの歯車が一致するからこそ、同じ行為をしがちになるのでしょうから。そして、長い間ずっと見つめ合えるのは、お互いの性質が似ているからなのだと思う。人はみんな、すぐ他人から目を背ける癖あるよね。きっと、可哀そうな人生を送って来た人がたくさんいて、そうなるんだろうな。だって、人と目が合った瞬間に、すぐ外しちゃうなんて、勿体ない。少し話でもすれば良いのに。犬だってすれ違うと必ず、お互いに吠え合うではないか。あれはきっと、コミュニケーションの一つなんだろうな。やっぱり、他人は可哀そうだ」

 と言って厚郎は、彼女の顔を覗き込んだ。

「なぁ、かず江、お前さんもそう思わないかな?」

 かず江はシリコンの両目を見開き、同意を示したようだ。

「ソウネ、貴方ノ言ウ通リ。ホントニ貴方ハ頭ガイイワ。アタシ、一生貴方ニ付イテ行コウト思ウワ。デモ、ソノ代ワリ、モットアタシの言ウコトヲ聞イテ欲シイ」

「今日はやけに機嫌が良いみたいだな。私のことを褒めてくれるなんて」

 かず江は、莞爾と微笑み、目を細める。その表情からは、「さっきの最後のお願いにも、ちゃんと返事をして」と言っているかのような厳しさも含まれていた。

「勿論だよ、かず江の言うことなら何でも聞いてあげる。さあ、何かお望みでもあるのかい?」


   ※


 厚郎は二十八歳のときから、T地区に住み着くようになった。彼はそれまで、高校を卒業した後からずっと実家の農家の手伝いをしていた。このときの日本は、工業化が急速に進んでおり、農家の数が年々減っている時期であり景気が悪かった。そのためか、両親は厚郎たち三人兄弟を食わせることがギリギリで、母は皺くちゃになって、彼女の赤茶けた肌が汚さを増していたようであった。彼はそんな母の姿に嫌気がさし、村の中で比較的美しい女性を求めて彷徨っっていた。彼は飢えていた。畜生が餌を探すかのように、性欲の捌け口を探していた。

 そのときに最初に目を付けたのは、家から歩いて十分ほどのところに住んでいた、若くて瑞々しい女子高校生であった。当時二十歳であった厚郎は彼女の姿を一目見て、近所の川で獲れる鮎の身よりも白く、ホロホロと崩れていきそうなほどに脆く儚くも見えて惹かれた。少女の方からも瞳が茶色い猫目をパチパチさせて厚郎の方を見てきた、と彼は思ったので話しかけてみた。

「ねえ、君。ちょっと話だけしないか」

 と、なるべくフランクな感じで声をかけてみたにも拘わらず、少女はアーチ型の眉を顰めただけで、全く取り合ってもらえなかった。厚郎は去って行く彼女の背中を見ながら、満たせなかった肉欲を持て余していた。そのために、無視されたことへの鬱憤が余計に際立っていくように感じ、何としてでもあの少女で解消させたかった。家に帰ると、老け込んで弛んだ顔をした母親が、収穫した茄子の箱詰め作業を父と共にしていた。蒼黒い茄子が艶やかに輝き、厚郎はエロティシズムを感じた。その晩、夕食に茄子の味噌汁が食卓に並んでいたが、その味噌汁は墨色に滲んでおり、茄子の滑らかな表面も皺ができていた。厚郎はその味噌汁の有様を見て、美しく性的なものの中にある汚れを見た気がしていた。彼は少女の軽蔑を表した眉の動きを思い出し、彼女の全てを食らい尽して、美も醜も無にしてやると決心しながら、茄子の味噌汁を飲み下した。

 彼は半年後、季節が日の暮れるのが早い冬になるのを待ち、少女が夜更けに帰宅するところを襲った。彼はその際、少女が着ていたセーラー服と下着を奪い去ることをした。彼女が泣こうが喚こうが関係なしに覆い被さり、厚郎は自身の欲情を満たすことに専念した。だが、この事件は瞬く間に農村中に知られ、警察も動き、指紋捜査で厚郎の犯行であるとされた。このときは示談が成立したが、八十万円を支払うことになった。支払いのため、厚郎の家族は畑の半分以上を失うことになった。

 厚郎はその後肩身の狭い農村での生活に耐えられなくなり、農村を出て、アルバイトをしてその日暮らしの生活をしていた。そんなときに、彼は中学時代同じ学年であった女性と、偶然再会することになった。厚郎は農村を追い出されるようにして出て来たと感じており、人に対して憎しみと甘えと、淫らな気持ちも抱いていたために、彼女と仲良くなろうと努めた。しかし、彼女は一切の興味を厚郎に持っておらず、むしろ冷酷と思われるような態度を取っていた。厚郎は去年の夏に女子高校生の少女の軽蔑を表した顔を思い出した。年増の女がなぜ学生の女と同じような態度を取っているのだ、お前にそこまでの価値はねえんだよ、と厚郎は憤った。

 彼は、今度は用意周到に指にアロンアルフアを付けて、指紋が付かないように注意して、襲うことにした。だが、厚郎は女が嘗ての同級生であることを忘れており、その工夫も意味を成さず、あっという間に警察に捕まった。今度は金を払うこともできず、懲役六年を言い渡された。その後、やっと刑務所を出ることができ、ならず者が集まるT地区で暮らすことにした。彼は、T地区に入ることで過去の自分が一回死んだことにした。T地区での生活において、厚郎という名前を明かさずに、皆からあーちゃんと呼ぶようにしてもらっている。T地区ではそういった者ばかりなので、皆は全く違和感を覚えていないようだ。

 T地区にて、港での仕事やビル建設の仕事を毎日していると、宿も食事も値段が安いために、自由に使えるお金が初めて手に入った。彼はそのお金で、風俗街の方へ行き、性欲を満たした。お金が入る度に風俗に行く生活をしていた。

 そんな生活をしているとき、彼は三十二歳で初めて彼女らしき人物ができた。肉体労働の仕事が終わり、自分の部屋に帰ると、女が待っていてくれた。厚郎が帰って来ると、女はよく箒片手に畳の上の塵を掃いてくれていた。彼は後ろから女に抱きつき、自分の欲求を満たそうと着ていたシャツの裾に手を伸ばした。だが、そんな彼の手を、女は払い除け、愛想なんて元々なかったかのように邪険に扱ってきた。しかし、そのとき彼は風俗では味わえない女性の心に触れた気がして、払い除けられる行為が嬉しかった。彼は風俗に行くことで、性欲を満たす快感が鈍磨しており、次第に女たちの深奥の部分を見たくなっていたのだった。その深奥とは、彼にとって初めて少女を襲った際に聞いた阿鼻叫喚であった。何故それが深奥なのかと言うと、彼は拒絶してくる非力な女性が力以外で抵抗してくるときの叫びの中に、恥辱、憎悪、悔恨、絶望、溜め息、自分が子供のときからの大事な記憶を思い出すことなどが含まれている、と思っていたからだ。それを叫びと共に厚郎に見せつけて、押し返してこようとしてくる。彼はそれらの女性から表れるものを感じ取りたかった。叫びの中のそれらの要素が曼荼羅模様のように彼の目の前に広がって、刺激してくる光景が好きだった。初めての彼女からも触れられることを拒絶された際に、阿鼻叫喚に含まれていたものと同質のものを感じた。厚郎は女性を襲うとき以来の興奮を覚えて、鈍っていた性欲を満たす快感が再び鋭利になった。それから、彼は彼女に抵抗されながらも、性的な行為を強要する習慣ができた。しまいには、彼女に逃げられてしまうことになるのだが、抵抗の中で襲う快楽は消えていかなかった。そのときの快楽が、その初めての彼女本人から遊離してしてしまい、解体され、彼の中で一般化された。

 それ以降出会う女性たちからも、この種の快楽を得ることに躍起になって、全員から逃げられた。厚郎の性欲は満たしても、満たしても、すぐに乾きを覚える。厚郎の性欲は畜生並みである。



(あー、羨ましい。なんて羨ましいんだ。あんな奴が、あんな綺麗で可愛い子を連れているなんて。自分だって、昔はそうだった。あのときの感触が忘れられない。あの手触り。あの匂い。あの色のある声。いいな。いいな。羨ましいな。死ぬ前にもう一度、もう一度だけで良いから、あんな思いをしてみたい)

 と思いながら、京平は花壇に水をあげていた。自分がいつ死ぬか分からないのに他の生き物の成長を促していることに滑稽味を覚えた。

(佳世子に一番に目を付けたのは、完全に自分なのに、なぜ、なぜ、あんな輩に取られたのか。あんな輩に、なぜ。絶対に取り戻したい。あんな奴に、佳世子が触られているところを想像するだけで鳥肌が立つ。あの子の顔にあんなことをしたり、こんなことをしたり。ああ、気持ちが悪い)

 京平は花壇に水をあげ終えて、自分の部屋に帰って行った。誰もいない部屋に帰ることには慣れている。そんな寂しい生活の中、死期が近くなってきて早く死にたいと焦る気持ちに相反して、誰かに看取られたいという甘えた気持ちも芽生えてきた。その誰かを、佳世子に担ってもらいたかった。



 今日は土曜なので、厚郎は炊き出しが行われているR公園へと向かった。途中、染井吉野の木々を彩る、桃色の割合が緑色を凌駕し、花がふっくらと、ポッと赤くなり始めていた。もうすぐ開花する頃だろうなんて考えながら歩いていた。

 公園に着きお椀に入った豚汁を受け取った。厚郎が公園中を見回すと、ベンチには萎んだ茄子のように痩せて蒼黒い肌をした雄作が、禿げ始めた頭を掻きながらボーっと座っているところを見つけた。厚郎にとって、雄作は嫌いな存在である。彼は自らの若さ故の欲望に目を瞑り、自身を空気のように透明で純なものに見せているが、実際は自分が可愛い、大好き人間なのだろうということは、厚郎には目に見えて分かるからだ。今の自分が全てだと勘違いし、変化しようとしない。だから、ずっとT地区に居座り続ける。まだ三十代の身ならば、いくらでも道は作れる筈なのに。

 しかし、厚郎は雄作の隣に腰掛け、敢えて話し掛ける。厚郎の言葉などで心変わりすることなど有り得ないと知っているにも拘わらず、彼に改心するよう勧める。雄作が厚郎のことを煙たがり、聞き流そうとする表情を観察し、彼が益々底に落ちて行くリアルな瞬間を肌で感じて、面白がることができる。

「やあ、雄作君。こんにちは」

「あ、こんにちは」

 厚郎は、相変わらず雄作はお気楽な身分であると思う。自分が今、至極柔和な雰囲気を醸し出していると思うと、可笑しくて仕方がない。

(雄作の奴は、今、心中で私のことを小馬鹿にしているのだろう。以前から私のことをよく思っていないことは気付いているのだぞ、雄作君や)

 と心の中で馬鹿にしながら、丁寧な口調で話しかけてあげることが良い。

「今日は何をしていたの」

「今日は朝飯代を浮かせるために、さっき起きたばかりなのです」

「何だ、そんなことでどうする。どっか勤めに行かんか。どこかの警備の仕事くらいにだったらありつけるんじゃないか?」

「それもそうなんですが」

全くもって見苦しい、と蔑みながらも、若者の堕落を見たいがために、もうちょっと追い詰めてみることにする。

「でも、雄作君の同級生とかは、今しっかり稼いでいる身なんだろ」

 雄作は、割り箸でお椀の中を突いている。怒りを堪えているときの仕草であろうか、と厚郎は分析してみた。そんなことで気を紛らわせると思ったなら、大間違いである。もっと、追い詰めてやろうと思った。

「そういう君の友達が納めてくれたお金で、暮らしているんだよ、君は。恥ずかしくないのかい?」

「それは、あの、あーちゃんもそうじゃないのか」

 珍しく反論があるようだ。下手に抵抗されると気分が下がる。厚郎には、既に雄作の気分をもっと害するシナリオができていたのに、それを変更せざるを得なくなった。

「私は、もう働き終えたのだよ。雄作君の年の頃は、よく港の方とか、ビルの建設現場で肉体労働をしていたんだ。今よりも、ずっと多くの肉体労働の仕事があったからね。でも、今はもう、仕事が減ったのと同時に、体力もなくなってしまってね。定年退職をしたといったところだね」

 雄作は何も言えることがないらしく、俯き始めた。厚郎には、その反応が予想通り過ぎて、楽しくなってきた。

 変に抵抗する自分が悪いんだろう、自分の考えの甘さを痛感すれば良い、と思い、

「まぁ、雄作君はまだ若いんだから、諦めなければ何とかなると思ってるから、頑張るんだよ。私も応援してるんだ」

 と、最終的にはまた甘やかしてあげることにした。

(甘いセリフだ。甘い甘い。口にするだけで、残った歯も全て溶けてしまいそうなくらいだ。若い人はこういう単純な言葉が大好物だから、雄作にはよく効いただろうな。甘ければ甘いほど好きなんだから)

 豚汁を飲み干した厚郎は、ベンチから立ち上がり、帰ろうとした。雄作はもう一杯飲みたいらしく、また列に並びに行った。

何もしてないのに飯だけは立派に食べるんだな、と卑しめた。厚郎はそのまま部屋に帰ろうかと思ったが、もう少し意地悪してやろうかと思い、足を止めて雄作に再び話し掛けた。

「そういえば、雄作君、この前、この公園で全裸の女性が夜中、寝転がってたってこと知ってた?」

 わざと左の口角だけ上げ、意地悪くニンマリしてやった。雄作が性に関して完全に潔癖を貫いていることは分かっているので、わざとそういう話題を振ってやる。どうせ、雄作は昔からずっとモテなさ過ぎて意地を張っている、という理由だけで潔癖を守っているのだろう、と厚郎は考えている。

「雄作君、また現れるかもしれないぞ。早い者勝ちだからね。あ、だからって夜中ずっと公園に張り付いているのはダメだよじゃあね」

 雄作は厚郎を睨みつけてきた。鋭くも何ともなかった。むしろ、その態度が強がっているだけにしか見えず、余計に哀れだ。

 厚郎は、公園から出て、部屋へ帰って行った。



 雄作はさっきのあーちゃんが言っていたことについて考えていた。

夜中の公園に全裸の女性、と聞いて、雄作の脳内には、何日前かの夜、T地区内にある風俗街で見た黒髪の女が浮かび上がっていた。夜の空気と溶け合わさるほどの黒髪が、モスグリーンのライトに照らし出されていた。黒蝶真珠のような重厚感のある光沢が、記憶の中で光っている。もしかしたらのことを考えると、苦く切ない感情を呼び覚ました。

(やはり、あの女性のことなのだろうか。俺のせいなのだろうか。俺があのとき、きちんと話をして、家に帰るように言ってやるべきだったのだろうか。だが、俺の責任なのは百パーセントではない筈だ。なのに俺は、このことを考えると頭がチクチクして仕方がない。一体、どうして俺が自分に責められなければいけないのだろう)

 と思いながらも自分を責めて、雄作は三杯目の豚汁を飲み干し、普段ならもう一杯貰うつもりだが、今日はこれで止めておく。気分が悪くなったからだ。

(多分、あーちゃんは何も悪気なく、俺に冗談のつもりで、この公園に夜、裸の女が寝転がっていたなど言ったのであろう。だけど、俺にとっては、冗談として成立しない。気分を害すものだったのだから。あーちゃんは、俺が顔を顰めてしまったことに気が付いただろうか。いや、あの楽観的で発言が薄っぺらな老人のことだ、何も気付いちゃいないだろうな。今頃は、家でボーっして、ワンカップでも飲んでいるのだろう。気楽なものだ)

 ベンチから腰を上げ、公園から出て、まっすぐ部屋に帰らないで散歩をしていると、キョーヘイさんに出会った。歯がなくなってしまい何を話しているのか分からない老人だ。花壇には、蜜色に照り光るオレンジ色のチューリップや、蕩けてなくなりそうなホイップクリームのように白い水仙と、アルテミスの流した純潔な血液がシャボン玉になったように赤く丸いデイジーが咲いており、キョーヘイさんは、それらに水をあげている。

「キョーヘイさん、おはようございます」

 キョーヘイさんは声のような音を発した。

「綺麗な花ですね」

 彼は花を褒められたことが嬉しかったのか、満面の笑みを見せてくれた。

 これ以上話しても、ムダだと分かっているので、さようならと言い、キョーヘイさんと別れる。

 雄作は散歩を続けていると、T地区から抜けるためのトンネルの傍にあるゴミ置き場に警官が数人いることに気が付いた。ゴミ置き場を囲っているフェンスの前で、二人の警官が二人のオッサン相手に何か尋ねていた。どうせ、オジサン同士で喧嘩して、警官に止められたのであろう、と予測して、何の気なしにそちらの方に近寄って行ったら、一人の警官が雄作の方に近付いてきた。

「すみません、警察の者なんですが、ちょっと話聞いても良いかな」

「はあ」

 どうやら喧嘩があった訳ではなさそうだった。

「あのね、一昨日の夜、ここのゴミ捨て場で一人のOLの女性が追い剥ぎにあって、服を持っていかれたっていう話は知っているかな?」

「いえ」

 雄作の頭に、今日あーちゃんから聞いた話がよぎる。だが、さっきの話ではR公園で全裸の女性が見つかったという内容であった筈だ。あーちゃんが事件の場所を間違えただけだろうか。それとも、それとは別件で同じような事件のことを警官は言っているのか。類似した事件がここでも起きていたのだろうか、と雄作は驚いた。

「知らないか。実は今、聞き込み捜査をしていて、この辺の人たちに怪しい人は見なかったかとか、聞いてるんだけど、ほら、でも、この町って、ある種特別なところじゃん」

「R公園でも、似たようなことがあったらしいですよ」

「ん、ああ、知ってるよ。それは先週の話でしょ。しかも、こういう事件、この辺で最近多発してるみたいだよ。知らなかったの。ここに住んでる他の人は皆知ってるみたいだよ」

 公園の件とは別だと分かった。それにしても、雄作は何も知らな過ぎた。ここに友達なんていないのだから、当然と言えば当然だが。

「そこでさ、これはここに住んでる人、全員に聞いてるんだけどさ、この辺、夜とかに歩いてたりすることってある?」

「一応、夜に散歩するときに、この辺に来ることもありますけど」

「本当に。あっそう。あんたから見てさ、なんかこの人怪しいなって思った人とか見てない?」

「いえ、そういった人はいないと思います」

「そっか、分かんないよね。取り敢えずさ、これも決まりなんだけど、あんたの氏名、住所、生年月日、年齢、携帯電話番号、職業を教えてくれないかな」

「何でですか」

「いや、決まりなんですって、言ったじゃないですか。意味わかりますよね」

「はい」

「じゃあ、お願いします」

 自分の部屋に着いた雄作は、穿いていたジーンズを脱ぎ捨てて、窓から外の景色を眺めた。昼下がりの染井吉野は、陽の光に照らされ、とても無垢で無邪気な存在に見える。カレンダーを見たら、もうとっくに四月になっていたので、もうそろそろ満開の時期かなと、ボンヤリと考えていた。四月に入って咲き始めた若い桜の花はまだ世を知らず、下で歩いているオジサンたちが、補助を受けながら、やっと生きて行けているということを知らなさそうである。それに、このオジサンたちの中に、女性を襲い、衣服を奪う輩がいるということも、知らないだろう。雄作は性欲の恐ろしさを実感し、自分は絶対にそんな欲はないことを誓うことにした。


   ※


 雄作が十七のとき、パソコンの普及率が急激に上がった。それに付随してブログも全盛期を迎え、一般人でもブログを投稿するようになっていた頃、姉の冴子も、そのときは二十歳で好奇心旺盛な年頃だったので、ブログを毎日欠かすことなく書いていた。彼も、高校に入ると学校に置いてあるパソコンが使えたので、なぜか、当時も嫌っていた筈の冴子の書く当たり障りのない内容のブログを毎日放課後、確認するようになっていた。そのブログに載せていた写真に写る冴子は、腕毛がすっかりなくなっていた。

 雄作は、それでも、冴子の腕が好きになれなかった。前に比べて、外見の醜さは消えたものの、毛根は残っており、肌からヘドロのように黒い毛が滲み出てくるように見えた。彼女の外身を整えた体は、仮初の自信だけを沸き起こし、ネットの力も借りて、冴子自身に大きな隙を作りかねなかった。実際、姉の周りには多くの男が集まりだしていた。

 ある日、雄作が高校から帰宅し、夕飯を食べ終え、テレビを観ていると、姉が青瓢箪のような顔をして帰って来たことがあった。家の中では太陽のような存在であった冴子が、そんな暗い顔をしていることは、とても珍しかった。

「おう、姉ちゃん帰って来てたんだ」

 当時の雄作はわざと意地悪をして、気分が悪そうなことに気付かないふりをした。

「俺、もう風呂入ったから、姉ちゃん入って良いよ」

と言いながら、後ろを振り向いた。だが既に冴子は風呂に入りに行ってるらしく、姿がなかった。よっぽどのことが起きたんだなと思いはしたが、冴子に対してそれ以上の関心を寄せず、同情もしてあげなかった。

 浴室からは、シャワーが水を吐く音、その水が排水口に流れる音、洗面器が激しく床に落ちる音、冴子の叫び声が漏れてきた。

 このときの彼は、冴子の身に何か只事ではないことが起きたことを察知していたが、全部自業自得のことである、と見做して、心配して声をかけてあげることもしなかった。その日、雄作は最後まで何事にも気付かなかったふりをして、姉が浴室で泣いているのを無視し、眠ることにした。

 翌日の放課後、姉のブログをチェックしてみると、昨日は更新されていなかったことに気付いた。

 翌々日、学校の昼休みに一人で本を読んでいたら、担任から校内放送で名前を呼ばれた。彼は重い腰を持ち上げ、職員室に向かった。   そこには、担任と一緒に雄作の母の華子もいた。華子は、充血させた目を剥き、彼に無言で何かを訴えかけてきた。

 冴子は死んだのだ。しかも自分で命を絶ったようだ。彼女がネットで知り合った男たちの手によって悪戯されたことを母から聞いた。おそらく、そのときのショックが原因だろうということだった。

 冴子の葬式の二日目の告別式、雄作は喪服を着て、先頭の列の席に座り、一人で俯いて考え事をしていた。黒い毛に覆われた腕を綺麗にすることや、パソコンに噛り付き自らを発信することに躍起になっていた姉は、結果的に間違いだったことになるのだが、それを病的に忌避し続けた自分はどうなのかと考えていた。もし自分も同じように汚いものを徹底的に除き、他人に磨き続けている自分の姿を誇示していたら、大きな隙を生むことになったのだろうか、と思った。

 そんなことはないと否定して、自分は絶対に姉とは違って自分を管理することができる筈だ、と確信していた。冴子の全神経が、腕毛などの見てくれに行っており、自分の周りの状況に目が届かなくなっていたのだろう、と分析した。自分は姉と違う、と何度も頭の中で反芻した。

 俯くのをやめて、頭を上げて前を見ると、親父の元気が喪主として挨拶をしているところだった。雄作は、後ろや隣の席から鼻を啜る音や嗚咽を漏らす音が増えてきた、と感じた。遂に、本格的に泣く者が現れ始めた。それを聞いた途端、今までずっと気丈に振舞っていた元気も、悲しみや脆弱な気が伝染し始めたのか、段々と口角が下がり、瞬きの回数も増え、両膝も震え始めた。彼は、取り敢えず、葬式が終わるまでは、泣き顔を見せまいとしていたのだろう。だが、我が子を失って、平気なふりをし続けるには無理があったようだ。元気は、まだ挨拶の途中にも拘わらず、自分が座っていた席に戻り、両手で自分の顔を包み隠した。父の方から、黒くどんよりしたやり切れない思いが溢れてきた。

 翌日から、ショックと精神的疲れなどのせいだろうか、雄作の家の中は、異常な空気で満たされていた。テレビも点けさせてくれる雰囲気でなかったので、無音の地獄と化していた。家の中で一番明るかった冴子を失ったことによる暗さであろうとも思えた。

 彼は母から聞いたことしか、姉の死の原因について知らなかったので、新聞の縮刷版を調べて詳しく知ろうとした。目的の記事を見つけると、ネットを介して知り合った複数の男から「性的暴力」を受けたという内容が書かれていただけだった。新聞には、ネットとしか書いておらず、例のブログ関係で知り合った人たちなのか、それとも、冴子がもっと他のサイトに書き込み等をしていたのか、分からなかった。新聞からも、母に聞いたこと以上に詳しい情報は書かれていなかった。

 そのときから、雄作の頭から「性的暴行」という文字が離れない。気持ち悪かった。全ての男が犯す可能性を持っていることにも我慢ならない。自分の中にも巣食っていることも嫌だった。自分が、姉を死に追い込んだ人間たちと全く同じ生き物で、同じくらいの価値しかなく、気持ちの悪い犯罪者のような気分になってしまう。実際、学校でも男子生徒たちが、性の話を、ケタケタ笑いながら話しているのを聞くと、虫唾が走る。他の男たちも、冴子と同じく、自分の管理ができていない、と感じていた。彼等は性などのつまらないモノに囚われ、理性を失うのだと、雄作は思っている。

 自分は、他の男とは違う。自分で自分を管理できる人間だ、という感覚は今でもしっかり残っている。死によって姉への嫌悪感がなくなった代わりに、性欲への嫌悪感が生じたからだった。この経験から、雄作は性欲を毛嫌いするようになった。

(性欲とは恐ろしいものである。誰しもの中に存在するにも拘わらず、皆がそんなもの知らないかのような顔をして生きていかなければならないのだから。でも、人間は完璧に性欲を忍ばせて生きていくことはできない。しかも露顕したときが一番醜く、凶悪なのであるから厄介だ)

 と認識しながら、雄作は生きており、彼は女性に少し触れることすらもしなかった。この認識を持ったために、彼は高校を退学して、男ばかりが暮らすT地区に入り込んだと言っても過言ではない。彼はそれほどに人の好色の罪深さを恐れていた。



 隆幸は仕事終わりに、珍しく坂本と二人で居酒屋に行き酒を飲んでいた。せっかく稼いだ金を坂本との酒に使ってしまうのは、損得で考えると、少々勿体ない気もしなくもないが、坂本がどうしても飲みたいと言うので、一緒に飲んであげようと思った。坂本に対して腹が立つことがあって嫌いでも、人と一緒に飲みたいという願望がまだ心の奥底に残っていたのだろう、と気付き、そんな自分に対して呆れてしまう。だが、坂本は相変わらず、ずけずけと人のプライバシーの範囲内に踏み込んでくるので、数十分経った辺りから憂欝になってきた。

「たか坊さんって、昔、結婚してた時期とかないんですか?」

「ああ、あるよ」

「本当ですか。それ初めて聞くな。何年間一緒にいたんですか」

「六年だ」

「何で別れちゃったんですか」

 自分の嫁のことを聞かれるとあれだけ臍曲げるくせに人のことなら良いと思ってんのか、と隆幸は憤りを感じた。おそらく坂本は自分の嫁のことで怒ったことを忘れているのだろう、と彼は思った。

 美果という名前であった。隆幸がサラリーマン時代、結婚し一緒に暮らした女。隆幸が一度やめていた風俗に再度依存し、家計を破綻させた過去の家庭。隆幸は昔を思い出し、胸が痛くなった。坂本と一緒に来たのは失敗だったようだ。

「なんで黙ってんすか? たか坊さん」

 我慢できなかった。大人になって坂本に優しくしてやることを、もうやめようと決心した。そうしなければ、ずっと怒りを引き摺ってしまうと思った。そもそも、T地区に住む人間の過去を、根掘り葉掘り聞こうとする姿勢自体、あまり良くはない。人それぞれ、過去に問題がある故に、T地区に住むようになる人が多いのだから。

 それに関しては、隆幸の周りの大体の人間が分かっており、無闇に聞かれたりすることはない。だが坂本はその辺の神経を持ち合わせていない。余計に腹が立つのは、知らないがために無邪気に聞いてくる顔だった。その無邪気な顔が、隆幸の過去の失敗を聞いて喜んでいるように見えた。こちらが親切に教えてあげよう、などと一切思わせなくさせる。

「特に理由なんてねえよ」

「いやいや、理由なく別れることなんてある訳ないじゃないですか」

「うるせえな。どうでも良いだろ。お前には関係ねえよ、小童が」

「は。別に良いだろ、昔の話くらい聞いたってよ。何キレてんの。馬鹿なの」

「人には聞かれたくねえことくらい一つや二つあんだろ」

「ねえよ。馬鹿なの」

「お前、自分の嫁の風俗事情聞かれて怒ったくせに生意気言ってんじゃねえよ」

「怒ったことねえよ。俺はそんなん覚えてないし。馬鹿なの」

 暫く言い合った後、隆幸は自分の財布を出した。中から二千円抜き取って、テーブルの上に放り投げた。坂本に背を向けて帰ろうとする。

「おい、ジジィ、ウチの息子だってそんな金放り投げて帰るなんて無礼なことしねえぞ。もう一回全部学び直したら? 馬鹿なんだろ」

 隆幸は、店を出て、星が一つもない夜空の下、自室に向かって歩き出した。一体、なぜ自分が怒られたのかが、全然分からなかった。人の過去の失敗を思い出させ、自分の発言については何の責任も持たずに、人のことを馬鹿扱いする坂本は、なんて愚かな奴だと隆幸は憤慨しながらトンネルを潜ってT地区に入る。だが、そんな彼の心のどこかでは、金もないのに家庭を持っている坂本がわざわざ自分を飲みに誘ってくれたのに、あの仕打ちはどうだろうか、という悔悟の気持ちも多少はあった。そしてそんな気持ちを自分に持たせた坂本に対して、また腹立たしくなる。

 一人で考え込んで歩いていると、炊き出しの味噌汁を飲んだときに美果が作った味噌汁の味を思い出すように、過去の失敗に対する後悔を、たった今生まれた後悔と結びつくことによって思い出した。

風俗依存の夫を持つ妻と、本番ありの風俗で稼ぐ妻を持つ夫では、同じようなものなのだろうかとふと思った。もしこれが正しければ、今坂本を通じて昔の自分の妻を蔑ろにしたような気にもなり、またもや不快感を抱いた。このモヤモヤを解消するためには、次坂本に会ったときに謝るのが一番効果的で正当な気もするが、坂本の掌で転がされたような感覚が嫌なのと、もし坂本の機嫌が直ってなかったときのことを考慮して、謝ることだけはやめておこうと考えた。

 T地区内に唯一あるコンビニの前を通り過ぎようとしたとき、丁度コンビニの中から、あーちゃんが出て来て彼とばったり出くわした。

「おう、あーちゃんのジジィじゃないか。こんな夜遅くに出歩いているなんて珍しいじゃないか。散歩かい、それとも徘徊かな」

「なんだ、たか坊か。散歩でも徘徊でもないわ。ただ、ちょっとシュークリームが食べたくてな。たまにしか食べないから、今月の楽しみにしていたんだよ」

 あーちゃんの手にはコンビニの袋がぶら下っており、中にシュークリームが二個入っていた。

「おい、あーちゃんの爺さんよ。お前、夜中に二個もシュークリームを食うのか。そんなに好きなのか」

「いや、違うんだ。その、ええと、片方は明日食べるんだよ。今日食べるのは一個だけ。いやあ、最初は一個だけ買うつもりだったんだが、見てたら、ついつい二個も買ってしまった。私は年寄になっても、甘い物には目がないのだよ」

「そうか、そうなんか」

 急に話すことがなくなり、気まずくなったので、早くこの場を去りたくなった。そもそも、偶然といえども、あーちゃんに会ったことが失敗だったような気がした。

「じゃあな、爺さん、家は分かるな?」

「おやすみ、たか坊、老々介護は御免だよ」

 部屋に着いた隆幸は、早速、お湯を沸かして夜食の百円のカップラーメンを食べ始めた。あーちゃんと喋ったことで坂本との口論によって生まれた傷の痛みが少しは柔らかくなっていたことに気付く。

 美果とのことに関してはすっかり解決したと思っていたが、今になっても、それがまだ古傷として残っていたことが発覚した。嘘を吐けない本当の気持ちの中では解決できていなかった。自分自身、家族を崩壊させた色欲の呪縛から、まだ完全に解放されていないことで、自らの変わらなさに恐怖を抱いていた。

 だが一方で、家庭という留め具がなくなったために、自らの爆発的な性欲を抑える理性すら抱かないようにしている自分もいた。奔流のように止めどなく押し寄せて来る欲の勢いに惚れ、自分の衰えない性欲を誇りにすら思えてしまう瞬間があった。

(俺は、前にゴミ捨て場で会った、乳を丸出しにしていた女に会いたい。坂本との争いで荒んだ気分を、あの女と過ごす時間で浄化させたい。美果ごめんよ。俺はやっぱ、変われねえ。まあ、お前には関係ないことか。坂本が言うには、『昔の話』だもんな。よくも、そんなことを考えなしに対面で言えたものだ。今、美果に会っても、俺も美果も、お互いに相手のことを、昔の人なんて言えないぞ。絶対に。やっぱ、風俗依存の夫を持つ妻と、本番ありの風俗で稼ぐ妻を持つ夫では全然違うんだな。やめだ、やめだ、考えること終了だ。もうそろそろ寝よう)

 と思い、食べていたカップラーメンを汁まで飲み干し、布団の中に入った。



 厚郎は自分の部屋に帰り、電気を点ける。赤土に塗れ、汚れきった白のスニーカーから、引き締まっていて、毛むくじゃらな素足を外し、独り言を呟き奥に進む。

「ただいま、かず江」

 右手には、シュークリーム二つ。

 かず江は彼を凝望し、視線は老いさらばえた心臓を射抜くようだ。顔の皺とシミ一つひとつに冷たい甘露を行き渡らせる。その様は、甘い蜜を吸ことのできない、青紫色に光る体を持った小翅蛾が、躑躅から滲み出る桃色の蜜の海に浸されたような夢まぼろしの感覚だった。

 かず江の瞳は蝋色にうるりとし、向日葵の花弁のような朽葉色の虹彩が美しく、黒緑色の水晶体からは貞操を守る意志の強さを感じさせる。

「アラ、貴方、帰ッテ来タノネ。お願イシタシュークリームはチャント買ッテ来タミタイネ」

「ああ、かず江、買って来たよ。かず江は確かカスタードよりもホイップクリームの方が好きなんだよね。知ってるさ。私は君の全てを知っているんだから」

「貴方ハ、勘違イシテルワ。アタシノコトハ全テ理解シテイルナンテ、バカミタイ。貴方ノ頭ノ中デ広ガッテイルオ花畑デ、ハシャイデイルアタシハ、貴方ガ勝手ニ作リ出シタ、都合ノ良イアタシデシカナイノ。ダカラ、ソレハ空ッポ。タダノ貴方ニトッテノ玩具デシカナイ。ソレデ全テ知ッテイルト勘違イデキルノナンテ、愚カダワ。ダケド、貴方ニトッテハ、ソレデ良イノカモネ。ソンナンデ貴方ノ支配欲ハ満タサレルノダカラ。

 デモ、一応言ッテオクケド、コレ以上ニハ成レナイノヨ。ワカッタ?」

「うーん、かず江ちゃんは、隙がなさ過ぎるよ。でも、厚郎おじちゃんにとっては、そんな隙のない君を捕まえることができたのは、本当に嬉しいことなんだけどね。一応言っておくけど、私にとってそれ以上の喜びはないんだよ。分かった?」

 と言いながら、彼はかず江と名付けた薄汚れたラブドールを抱きしめた。

「私のところに来てくれて、有難うね」

 厚郎とかず江が出会ったのは、約半年前のことだ。普段から、必要な物を手に入れるために、旧駐車場のゴミ捨て場に行き、厚郎はゴミを持ち帰っていた。日雇いで鍛えた筋肉を活かし、フェンスを乗り越え、片っ端から段ボールの箱を開けて中を確認していく。欲しい物があれば、部屋に持ち帰るのだが、大体目星い物などないので、手ぶらで帰ることがほとんどだった。

だが、秋の始まりのある日、たくさんの鈴虫が鳴き始める季節、ゴミ山の中の一つの段ボールを開けると、女の人が入っていた。

 驚きで腰を抜かした厚郎は、一旦周りに注意を払い誰もいないことを確認した。中に入っているのが生身の人間ではなく、人形であることを知り、箱を閉めてすぐに部屋まで持ち帰ることに決めた。幸い、見知っている人には、ほぼ会わずに帰宅することができた。会ったのは厚郎の隣の部屋に住む爺さんで、部屋の扉の前で偶然出くわしただけだった。

「あーちゃんや、こんな大きな荷物はどうしたんだ」

「ああ、これか。これは扇風機だよ。ゴミ捨て場に捨ててあったんだ」

「夏はもう終わるじゃろ」

「え、ああ、今使っているのが壊れたんでね。しかも、来年も使うだろうし」

「クーラーは使ってないのかい?」

「クーラーは体調を崩すからね。いまだに私は扇風機なのよ」

 疑うことを知らない老人と別れ、部屋に入り、扉を閉めた。部屋の中で段ボールを開けて解体し、妖艶なくびれを誇り男の精魂を揺さぶるラブドールを取り出した。どうやら誰かが使い棄てたものであるらしく、彼女が着ていたモノトーンのオーソドックスなメイド服は薄っすら汚れており、皺もあり、フリルは枯れ草を触ったときの感触がした。彼女を抱いてみた。肌触りは、厚郎が暫く忘れていた人間の、特に女性の吸い付くような柔らかいもので、飽くことなく抱き続け、人形の唇に指を添えてみた。

 気付けば、外は月明かりのない新月の夜になっていた。窓は鏡の役割を得て、暗闇の中で、一人と一体が手を取りながら、踊り回っているような光景を写し出していた。だが、抱き続けてからずっと、彼女の服を脱がせることができず、メイド服の袖やスカートの裾から見える白い腕と脚を撫でまわしているばかりだった。

それだけでも愛欲は満たされた。それだけでも、久方の純白な浮雲に乗り、卯の花色の鳩が青空へ羽搏き過ぎ行く景色を眺めているかのような爽やかな快よさを感じた。

 しかし、厚郎は何度も、彼女の服を脱がそうと試みた。だが、フリルに手を伸ばすも、ひらりと揺らめき、誰かが見えない手で彼の手を払っているように感じた。結局、脱がせることはできなかった。

 初めて彼女に声を掛けてみた。

「お前さん、私に肌を見られたくないのかい?」

「ハイ、貴方ノヨウナ汚クテ毛ダラケデ、チャントシテイナイ人ニハ見ラレタクアリマセン」

「やはりそうか。どうしたら、私の言うことを聞いてくれて、私の存在を受け入れてくれるのかね、教えてくれないかい? えっと」

「私ハカズ江ッテイウノ。ソウネ、ドウシマショウ。ソシタラ、アタシノ気ニ入ルヨウナ人間ニナルヨウ頑張リナサイ。アタシガ一体何ヲ考エテイテ、何ヲ知ッテ欲シイト思ッテイルカ。マァ、要スルニ、アタシニトッテ都合ノ良イ人ニナレバ良イッテコト」

「そうか。君の望みはよく分かった。じゃあ、その望みを叶えてあげるためにも、まずは私の望みを叶えてもらおうかな」

 と厚郎は言った。彼は払い除けてくる見えない手の抵抗を受けながらも、彼女のメイド服を脱がすことに必死になった。

彼女を脱がせている際に、解体された段ボールが視界に入った。オレンジと白と赤い花びらが段ボールの上に散らばっていた。

「そうかかず江ちゃんは花が好きなのだな」

 厚郎は、記憶の糸を手繰り、見出した結論に大変に満足した。あの花びらはとても印象的だった。まだ比較的若く水分を多く含んだものだったからだ。

「エエ、ソウヨ、アタシハ花モ好キヨ。デモ、貴方ハ本当ニ花ニ興味ガナイミタイネ。アノトキ散ラバッテイタ花ビラダッテ、何ノ躊躇モナシニ捨テテシマッタ。可哀ソウニ。潔白ナ命ヲ簡単ニ、考エナシニ取リ上ゲテシマウナンテ」

 かず江が悲しみの涙を流したように見えたので、厚郎は立ち上がって、

「分かった。どこかで花を摘んで持って来てあげるから、泣くのは止めてくれよ。私は、そんな君を見ることすら辛いんだ、お願いだ。涙は見せないでおくれ」

 と言った。

「フフフ、分カッタワ。ジャア、花ヲオ願イネ」



 雄作は今日も昼間から窓の外を眺めていた。すっかり満開になった染井吉野の花々が綺麗だ。あちらこちらに飛び散る火花のような緋色と薄桃色の花びらを纏わせ、味気ない町を香らせ、はっきりした四月の濃厚な甘みを感じられるようになっていた。そんな木々が、相変わらず男たちを見下ろしている。一人のオジサンは地面に座って缶チューハイを飲み、もう一人のオジサンは煙草を吸いながら桜の花を見つめていた。今、自転車に乗ったオジサンが二人の傍を通り過ぎて行った。煙草を吸っていたオジサンは、吸殻を地面に捨てて火を消し、まだ紫煙が漂う中、去って行った。

 雄作はそのオジサンの去って行く背中を眺めていると、入れ替わりで別の人物が現れた。オジサンの草臥れた姿ではない、奥の方から、異質なもののシルエットが浮かび上がってきた。一人の少女だった。紺色で長袖のセーラー服に紅色の襟を付け、躑躅色の三本ラインが染井吉野の薄桃色と合わさり、艶やかさを発している。黒紅色の三角スカーフを結び、前箱ひだのプリッツスカートが薫風に揺らす姿がここでは異様だった。

 おそらく、T地区の近くにある高等学校が始業し、そこの生徒だろう。だが、今までT地区の中を通って帰る子を今まで見たことなかった。多分一年生なのだろう、と雄作は見た。

 ところでこんな町歩いてて大丈夫なのか、と彼は心配になってきた。彼女の姿を凝視しながら、T地区が特殊な場所であることを思い出していた。

 少女はスクールバッグを肩に下げ、二つ結びにした髪の毛を揺らしながら、特に顔を顰めることなく、T地区の道を歩いて行く。全く不快感というものを感じていない顔だった。地面に座って、缶チューハイを飲んでいたオジサンも、ほんの一瞬目を見張ったがすぐ酒に目を戻し、自分の世界に戻って行った。

 今ではT地区も他のところも危険さで言ったらそんな変わらないのか、と思いながらも雄作は彼女に注意の目を向け続けていた。少女の姿が見えなくなると、自分の布団の上に寝っ転がり天井を見つめた。彼の中で、抱いた関心がモヤっとするものに変わった。

 あの少女の可愛らしい顔の豊頬を手で包み込んだときに感じられるであろう、温かさと柔らかさ、若さ故のすべすべ感などを想像した。彼の胸の中に、ざわざわと卑猥な虫たちが発生してきた。ただ関心を持っていただけなのが、ほんの数秒で、人生になくてはならないものに変わった。一度触れてしまったら、容易に忘れられないものだ。猿がオナニーを覚えると死ぬまで続けるように、彼も死ぬまで少女のことを考えるかもしれない、と感じた。

 そういえば、と思って立ち上がり再び窓の外を見る。あーちゃんが言っていた、夜にR公園で全裸の女性が寝転がっていたという情報と、警官が言っていた、ゴミ捨て場で追い剥ぎ事件があったということを思い出した。その話が事実だというのなら安心している場合ではないのかもしれないな、と思い体を起こした。

 窓の外を見てみると、先程缶チューハイを飲んでいたオジサンが既に、いなくなっていることに気付いた。少女を追いかけたのではないかと不安になる。男はオジサンになっても若い娘は大好きだ。そんなオジサンたちが特に好きなのが、高校生という年代である。酒に酔ったオジサンが夢中になっても、何もおかしいことはない。全くもって、馬鹿げたことであると雄作は呆れ果ててしまう。

 外に出て何も起きてないことを確かめないと、憂惧してジッとしていられなくなったので、少女が無事なことを確認するために、外に散歩へ行くことにした。彼には友達など一人もいないので、普段から昼の散歩ですら一人でする。だが、一人の少女を追うためにする外出は今回が初めてだ。

 宿泊所から出て、まず周りにさっきのオジサンがいないかどうか確認する。やはり見当たらないので、少女が進んで行った方向に、彼も歩いて行く。灰色のシャッターが閉まった立ち飲み屋などの店が続き、くすんだ白い壁の簡易宿泊所も静かに佇んでいるだけで、ほとんど色味というものはない。色があっても、錆などで汚れ全て茶色に見えてしまう。歩いていると、微かなアンモニア臭が鼻に付く。やはり、こんな中よく一人で歩いて帰れるよな、と少女がこの道を歩いていたことが信じられなかった。彼は少しだけ早歩きで進んでいたために、何とか先程の少女の背中が小さく見えた。彼女は、警官がいた旧駐車場跡地のゴミ捨て場の横を通って、暗いトンネルの中に入って行った。トンネルさえ抜けてしまえば、人通りの多い繁華街に出るので安心である。雄作は自室に戻ろうと引き返しながら、自分が少女に対して、性的な関心を抱いていたことに気が付いていた。だが、この追跡は彼女の身を守るために仕方がなくしたのである、と自分に言い訳をして、自身が潔白であることを自分に証明した。



 染井吉野が段々と緑色の葉を付けていく頃、雄作は今日も窓の外を眺めていた。だが、雄作が外を見ている一番の目的は、染井吉野を見ることではない。少女を見守るためだ。彼はもう毎日のように彼女のことを見守っていた。

 もちっとしてそうな頬を赤らめ、つぶらな瞳が特徴的なあの少女に首ったけになっていた。きっと裕福で平凡な家庭で大事に育てられたのであろう、と一人で妄想を膨らませている。実際彼女の清潔な風貌が、子羊がブドウを咥えているかのように、性など知らず無垢で知的そうな様だったので、雄作の好みな子であった。窓の外を見ていると、昨日と同じようにセーラー服を着た少女が道の奥から宿泊所の下まで来て、そのまま通り過ぎて行くところが見えた。部屋から飛び出し、少女の後を追う。少女を視界に入れることで、T地区の外の世界を視界の中に入れることができたと思い込むことができ、自分が少しだけ世間から見てマシな人間になれた感覚になれる。だが、実際に話し掛ける訳でもなく、きちんとT地区から抜け出せるまで、護衛のようなことをしてあげるだけだ。おそらく、少女は、ここが特別な場所だと知らないのであろうから。

 扉を開けて階段を下り、外に出る。少女の行った方向を見ると、遠くで小さくなった華奢な背中が見えた。何とか見失わないように付いて行き、塵で汚れた建物と桃色と緑に色付いた木々を通り抜け、やっと、外に出るトンネルの前に辿り着いた。少女は元の世界に戻って行く。

 これで、今日も俺の仕事は終わったのだ、と一安心した。外に出たついでに、散歩をすることにした。これも日課だ。勿論、少女のことを考えながら。自分の住む宿泊所があるところまで戻ってそのまま通り過ぎ、R公園の方向に進む。

 暫く歩いていると、あーちゃんの後ろ姿を偶然見つけた。あーちゃんのことはあまり好きではないので、見つからないように後ろを歩いた。あーちゃんが突然歩を止めたので、雄作も止まった。あーちゃんが止まった場所は、キョーヘイさんが水をあげていた花が咲く花壇の前だった。彼は、雄作が見ていることなんて知らずに、腰をかがめ、土を両手で掘り起こし、花を根っこごと抜き取っていた。オレンジのチューリップや白い水仙、赤いデイジーの花の茎のところを右手で握りしめ、立ち上がった。こちらに来そうだったので、雄作は小便臭い路地裏の陰に隠れ、あーちゃんが立ち去って行くのを待ち、良いタイミングで彼も出た。

 あーちゃんが見えなくなったので、花壇を見に行ってみると、一部の土が深く抉り取られており、そこの一部分の花がなくなって、惨たらしい有様になっていた。雄作は直視できずに何度も目を逸らしながら、花壇を見ていた。

 せっかくキョーヘイさんが手塩にかけて育てた花たちが鮮やかに咲いていたのに、と残念に思い、あーちゃんに対して恨みを覚えた。

 ずっと見ていると、ぽっかりと開いた茶色い土の穴から悲哀のようなものを感じ取った。自分から養分を盗み取っていた花がなくなったのだから、土としては、もっと活き活きして見えてもおかしくない筈なのに。見ていると、気分が悪くなってくるほどに悲しい気分になってきた。

 残っていた水仙からは馥郁たる甘い香りが沸き上がる。それが空に浮かぶ夕日の赤い光に熱せられ、砂糖をこんがりと焼き上げたときのように、苦さを含んだ甘みに変わった。苦味を含んだ甘さと、悲しみによる渋みが合わさった空気中の粒子が、雄作の鼻孔を通り脳内に直接働きかける。ぽっかり空いた穴と、悲しみの混ざった甘い香りによって、冴子の失った当時の感覚を思い出した。また初めて毛のない腕を見たときも彼は悲しかったのだろう、と頭のどこかで思っていたことにも考えが及んだ。

 自分の思い出の中での姉は黒々とした腕毛を生やしていたのに、高校生の頃からの姉は腕毛が一本もなくなった。同時に、姉が他の男と楽しそうに手を繋いでデートしたりしていることを、雄作は知ってしまい耐えられなかった。そのときの気持ちは、ぽっかり空いた土の穴に似ていた。当時の雄作は、小学生のときの彼と姉が一緒に登校した通学路の駄菓子や花々の鮮やかな色彩から、姉を奪った男たちの手によって、虹色の雫を絞り取られていく感覚を覚えた。下校途中に食べた白いモロッコヨーグルの甘みが、白い男たちの精液の苦みへと変わっていったかのような、綺麗なものが醜いものに侵されて行く感覚を覚えた。

 冴子が性欲を満たそうとして、男に寄り添うために、除毛をしたと雄作は考えてしまう。実際、性欲のためなのかは、今となっては雄作は勿論、誰にも分からない。冴子本人しか分からないことだ。

 花壇の前で立ち尽くしていると、いつの間にか夜が更けていた。彼は今日もいろは食堂に向かった。扉を開けると目の前のテーブルで、たか坊が豚骨ラーメンを啜っていた。

「おう、雄作じゃねえか。久々だな、元気か」

「はい」

「こっち座れよ」

 雄作はたか坊の隣に座り、彼は醬油ラーメンを注文した。

「今日は何してたんだ」

「いや、別に大したことは」

「そう言うと思ったよ。君は本当に覇気みてえのがないな」

「はあ」

「うん。なんか、既に伸び切ってるもんね」

「はあ」

「しかも、そのラーメンも、一番人気のない塩ラーメンでもないし、一番パッとしない味噌ラーメンみたいな感じだし」

「はあ」

 雄作の元にもラーメンが運ばれてきたので、麺を啜ろうとする。

「そういえば、たか坊さん」

 せっかくたか坊に会えたので、さっきのあーちゃんのことを話しておこうと思った。たか坊は、あーちゃんとよく口論のようなことをしているので、さっきの謎のある行動に意味付けができ、説明してくれるかもしれないという期待と、単純にあーちゃんの悪口が聞きたかったという理由からだ。

「どうした」

「今日、あーちゃんさんを、たまたま見かけたんですけど、なんか、あの人、おかしいですよ」

「どういうこと?」

「なんか、今日、あーちゃんさんを見つけて、前を歩いているのをジッと見てたんですけど、なぜか急に立ち止まって、花壇から花を毟り取っていたんですよ」

「それは人の家の前に咲いている花っていうことかい?」

「はい」

「あの爺さんにとっては、凄く変って訳でもないが、まあまあ気味が悪い話だな」

「はい」

「俺もこの前、あーちゃんのジジィに夜中出くわしたんだよ」

「そうなんですか」

「そのときは、夜中にコンビニの袋ぶら下げて、シュークリームを二つも買ってやがったんだよ。貧乏なくせして。そんときは、明日食べるんだとか言ってたけど、ありゃ、嘘だな。貧乏人がデザートを同じもの二日続けてなんて絶対食べる訳ない。楽しみなことは普通もっと分散させるもん。二週は開けるよな。あと、おかしいのはそれだけじゃねえぞ、その明日食べるんだって発言したとき、ちょっと発言にも迷いみたいなのが見えたんだよな。口を開くと同時に顔を歪ませ、言い淀んだんだ。あれは、多分、俺の予想だけど、女だな」

「えっ」

「まあ女って言っても、多分お婆さん、俺らよりも年食った人だと思うけどな。あんなジジィに若い子がくっつく訳ないだろうからさ」

 そんなことを暫く喋っていると、たか坊は、ラーメンを食べ終わり、会計を済ませて、じゃあな、と言い帰って行った。

 後に残された雄作は、あーちゃんの不可解さなど、たか坊との話のタネにしか過ぎず、悪口を聞くための話題だったので、どうでも良くなっていた。今一番興味がある夕方現れる少女の姿について、一人で思いを巡らすことにした。おさげにした黒髪が幼気で、顎が小さく、ぷっくらとした頬がとても可愛い丸い顔。血色の良い唇。セーラー服から少し覗いて見える鎖骨。小ぶりの膝小僧。

(しまった。俺は、あの少女に対して何を期待しているのか。ダメなのだ。想像するだけでもそそられてしまうから。俺の中にある獣欲が手に負えなくなってしまう前に、何とか、脳みそで抑えられることは抑えなければならない。そうしなければ、俺は他の男と同じになってしまう)

と理性でもって、「性的暴力」という、雄作が忌み嫌い、彼が今まで女性に接触しないようにしてきた、きっかけをもたらした言葉を意識し、自分の興奮を抑えた。その言葉が、今彼の脳内に浮かんでは消えを繰り返し、点滅しているように思える。その言葉によって殺された冴子の姿と、少女の姿を重ねようとしても重ならない。それは、冴子の体を蝕んだ彼女自身の不埒さが、少女の姿からは確認できそうにないことが理由だと考えている。もし完全に重ねることができれば、少女への病的な関心も薄まるであろう筈なのに。

 考えれば考えるほど、自分自身が怖くなり、その怖さにラーメンが喉を通らなくなる。しまいには、食堂内で無表情のままでいることすら難しくなってきた。どうしても眉を顰めてしまう。自分が気持ち悪いからだ。一方で、「性的暴力」の言葉を少しでも考えなくなった瞬間、少女への関心が頭全体を占めて、彼を恍惚とさせる。

 気を紛らわせるために、麺を啜り続けるが、咽返ってしまい、全く落ち着くことができない。

 なぜ本能である性欲は人間の理性と同等か、それ以上の力を持つのだろうか、と彼は疑問に思っている。自分が気持ち悪くて嫌いにもなってしまう。どうすれば性欲を捨てきることができるのだろうか、と頭を悩ます。こんなことに悩まされるのは自分くらいしかいないだろう、と気が滅入った。あの少女に性的興味を覚えるくらいなら、死んだ方がマシだ、と思ってもいた。

 理性が本能を抑え込めれば、誰も損はしない筈だ。しかし本能の力の大きさは、どうやら年をとっても変わらないみたいだった。あーちゃんが、夜の公園にいた裸の女性の話をするくらいなのだから、一生、この呪縛からは解かれない、と雄作は嘆き項垂れた。

 自分の性を否定するように無理してラーメンを食べ終わり、いろは食堂を後にし、夜のT地区を散歩した。



(もう我慢ならない。もとはといえば、私が最初にあの子に目を付けていた筈だ。それなのにあの野郎が奪っていったんだ。私が何回、あの子の想像でマスターベーションをしたと思っているんだ。それなのに、あの野郎が、彼女の体を抱いていたんだって考えたら胸糞が悪い。

 気がおかしくなるところであった。あいつは佳世子をネコみたいに愛撫し愛でているのかな。佳世子は、あいつが帰って来たら、たったったって駆け寄って来て、しっぽをフリフリしながら、何かをねだったりしているのかな。彼女の場合は、そんなことないのかな。でも今は少なくとも、私には関係のない話である。最初に出会ったときに、ちゃんと自分のものにしていれば、こんな後悔しなかったのに。死ぬ間際になってから、こんなことで悩むなんて信じられない)

 と京平は暫く考えを巡らす。

(やっぱり、このままでは耐えられない。良いタイミングがあったら、絶対に奴から彼女を奪い返してやる。でも、それはいつになるのだろう。だけど、奴の隙ができる次の機会には必ずあの子の心を盗んでやろう)

 京平は花壇にできた穴を見つめながら、心に固く誓った。あーちゃんのところにいる佳世子を取り返すことに決めた。



 春雨がずっと降り続いていたある日、隆幸は、その日も仕事に行っており、夜の八時にT地区に着いた。あのとき以来、坂本とは口を利いていない。あんな身なのだから、もっと仕事に精を出したら良いだろうと思っていたので、丁度良いと思っていた。だが、この丁度良いという感想も、仲違いさせた今の自分にとって都合の良いように後付けしたもののような気がして隆幸としては、あまり気分の良いものとは言えなかった。

 坂本のことは自分にはもうどうしようもないことだからな、と考えながら歩いていると、キョーヘイさんの姿が見えた。キョーヘイさんは、雨に濡れながら、土に穴が空いた花壇をじーっと見つめている状態で、全く動く気配がなかった。ただ、何かが沸々と燃えるような内面の激化みたいなものを隆幸は感じた。何かあったのか尋ねてみようか、と一瞬思いはしたが、一昨日、いろは食堂で雄作から聞いた、あーちゃんが花壇から花を毟って行ったという話を思い出して、面倒に巻き込まれたくないので話しかけるのはやめよう、と思った。それに静かに自分の感情と向き合っている人には余計な口を挟むべきではない、と自分に言い聞かせ、キョーヘイさんにバレないようにそっと立ち去った。

(風邪を引いても引かなくても、どうせすることのない人間なのだから関係ないんだ。むしろ、今、声を掛けて、面倒に巻き込まれたら、損をするのはこっちだ。歯すらないキョーヘイさんから得られるものなど、ありもしないんだから、俺の判断は絶対に正しい)

 と、隆幸は損得勘定でものを考えた。人に良いことをした後の良い気分などは彼の中では、かなり価値が低いものだと見做されていた。

 暫く歩いていると、糠雨のせいか体が冷え込んできて不意に人肌恋しくなった。ここ一週間毎日仕事と貯金をしていて金を結構持っていることに気付いたため、風俗に行こうかな、と思い始めた。今来た道を引き返し、二百円でコインシャワーを使い、ネオン街へと向かった。欲情を持て余した隆幸はこれからの気分の良さを想像することで目を血走らせて闊歩していた。

 一頻り、ネオン街の中をぶらぶら歩いていて、無意識に、顔をまっすぐにし、遠くを見ていたら、モスグリーンのライトが光る店の壁の前に俯いている、一人の女の姿を認めた。雨に濡れた着物や黒髪が重たそうである。

 隆幸の頭に、汚れたベッドに横たわる女の姿が浮かんできた。その白妙の乳房が神々しいくらいに輝いていた女が目の前にいた。

「あのー、すみません」

 と走って近付き、生唾を飲み込んでから、声を掛けた。雨に濡れてとても寒そうなのに、身震いすらせずに固まって微動だにしない。肩に手を掛けてみると、くっついてしまうほどに冷たくなっていたので、病気なのでは、と急に気がかりになった。彼は彼女の体を強く揺すり始めた。またしても、女の前で性欲の中に別の感情が入り込んだ。

「おい、大丈夫か。こんなとこで何やってんだ。返事をしてくれ」

 女は、ゆっくり顔を上げ、隆幸の目をまっすぐ見つめる。彼女の黒目は潤い、深い闇の湖のようで、睫毛の一本一本から、緑の電光を反射させた琅玕の珠の如き涙が滴り落ちる。色の薄くなった唇が二つにわかれ、笑い声を上げる。

「何、笑ってるんだ。こんなさみい雨の中で座り込んでいて。いいから立て。俺んちでゆっくり温まっていけよ」

 彼女の恰好は、また両方の乳房を露出したもので、隆幸の性欲を全く擽らないものではなかったが、彼の頭の中には、そんなことよりも、まずこの自分より明らかに年下で困っている女に暖を取ってもらって、体を休めることが大事だという考えが浮かんでいた。

 女の腕を掴み、体を持ち上げてあげようとしたが、全く動こうとしない。

「どうした。俺が怪しいのか。怖いのか」

 そう言った瞬間、彼女の雨で濡れた乳房が目に入り、果汁が滴る白桃を連想させられた。二十五年前、隆幸と美果がリビングで向かい合って座って、彼女が包丁で器用に切り分けてくれていた白桃の記憶が甦ってきた。彼女は食後によく果物を切ってくれた。その白桃を一口齧ると、ほろほろと繊維がほつれ、口の中でじっくり自然と溶けていく。他の何よりも甘かった。口の中で果肉の甘みを転がしていると、目の前には夫婦二人でお金を出し合って買ったソファとテレビが配置された部屋が浮かび上がり、また改めて美果の顔に視線を戻す。美果は楽しそうに隆幸に話し掛けていて、彼女の手は果汁で濡れていた。彼女の手の皮膚は、黄みを帯びており、黄色く光って見えた。もっと過去の記憶に遡り、今度は出会ったばかりの頃の美果が目の前でベッドに腰掛けていた。二人は事が済んだ後で、彼女は汚れた手をティッシュで拭き取っていた。ベッドの側に置いてあったライトから黄色の光が放たれ、二人の顔を照らす。黒と黄色の世界が広がっていた。

 彼女は、満面の笑みで、こちらを見ており、しまいには声に出して笑っていた。玉を転がすような笑い声だった。

 隆幸は意識をしっかりさせ、五十代の自分に戻った。隆幸は今なぜ過去の出来事を思い出していたのか分からなかった。

 目の前の女はもう立ち上がっていた。彼は過去の思い出を振り払い、気分を切り替え、自分が着ていたジャンパーを彼女に着させてやり、前のチャックを閉めてあげた。また、コインシャワーのあるところに戻って来て、女に四百円を渡し、二十分間温かいシャワーを浴びて来るように言いつけた。彼女が戻って来るまで寒い外で待った。シャワーから戻って来た女の体からは、なぜか花のような香りが漂ってきた。

 二人で隆幸の部屋に戻ると、女に洗濯したばかりのグレーのスウェットの上下を貸してあげた。ウエストがゴムになっていて、誰にでも着れると思ったからだ。

「それ着て、今日はもう遅いのだし、早く寝ときな」

 今夜彼女を襲うつもりなど、さらさらなかった。それを感じ取ったのか、女も彼の言葉に従い、背後で着替え始め、黙って布団の中に潜り込んだ。仕方ないので、彼は毛布だけを体に掛け、床に敷いてあるカーペットの上で眠ることにした。

 損得勘定が好きな隆幸は、なぜこんなに女に対して、自分が良くしてあげようと思ったのか考えてみた。おそらく、彼が昔、自分のせいで妻を絶望させ、離婚までさせたことが、少しは影響しているのだろうと悟っていた。別の女を良くしてあげても、美果の傷に対しては何も効能がないことは分かり切っているが、勝手に過去に犯した間違いの補填をするかのように、自分の存在を正当化させるように、他の女相手に正義の者気取りをしてしまう。だが、こうする度に美果のことを思い出し、自責の念に駆られる苦痛を味わう。自分はこの蟻地獄から、一生抜け出せないことは、もう分かっていた。心のどこかではヤケクソになっていて、こんなことをするのだろうか、とも考えられた。

 彼は女が寝ている方に顔を向けて見た。女は鼾を一切かかずに眠っていた。そのおかげで、隆幸も一緒に安らかに眠りにつくことができた。

 翌朝、雨が止んでいたので、女を連れて立ち食いうどん屋に行き、朝食兼昼食を食べた。勿論、食事代は隆幸が出してあげた。

「今日は、町の方に出て、君の服を買ってあげよう。いつまでも、あんな恰好してられないだろう」

 女は、困ったような顔で彼の顔を見た。

「いいよ。気を使わなくて。俺は普段金使わないし、仕事もできる男だからね」

 女は少しだけ眉を動かす。

「何疑ってんだ? ほら、財布持ってみ。重いだろ。これはまだ全財産のほんの一部だ」

 女は苦笑いみたいな口をする。

「本当だって。他所でマンション持ってて金がわんさか入ってくるんよ」

 実際は、明日から仕事に行かなくては食べていけない。だが、なるべく女に気を使わせたくなかった。気前よくお金を使ってしまうことも、現状を益々地獄にさせることも分かっていたのだが。

 根負けしたのか女はゆっくり頷き、うどんを食べ終わり、店を出た。二人は、一旦部屋に戻り、隆幸は洗ったばかりの比較的綺麗な白いTシャツとブルージーンズを穿き、女にもデニム生地のシャツを渡してあげた。

 トンネルを潜り抜け外の町に出た。そこは、T地区と違い、富裕者たちが集まって買い物をするお洒落な町である。真っ白な壁の建物からはパンの香りがし、レンガ造りの建物からはコスメの匂いが漂う。道に沿って生えた木々は青々とした葉っぱを纏い、たくさんの車が排気ガスの臭いをばら撒く。そんな道を暫く進むと、ショッピングモールがあり、二人はその中の二階にある婦人服売り場へと直行した。

 その中の色々な店を見て巡り、女に様々な服を試着させた。元々が美しい見た目なので、どんな洋服でも似合っていた。

 隆幸は女の足腰の曲線の優美さを服の上からも匂わせる白い長丈のシャツワンピースを手に取って女に着させた。これを着て歩くと服自体がふわりと靡き、女が歩いて傍を通り過ぎて行くだけで余韻を残してしまうほどに魅力的になる。

 綺麗な胸元を強調したグレーのざっくりニットの上に、大きめのジージャンを羽織らせ、女に今度はあどけなさを演出させた。袖から細い指の半分しか外に出ていない様は、その見せていない手から腕へかけての丸く滑らかなシルエットを連想させた。濃いピンクのギンガムチェックスカートを穿かせ、女が足首をチラリと出すと、踝に見とれてしまうほどだった。

 白Tシャツに黒のライダースを羽織らせ、黒のミニタイトスカートを穿かせ、モノトーンでシックなお姉様な感じに仕上げた。今まで色味のある和服を着ていた女と真逆な印象を持たせる恰好も良い。スカートから伸びた腿が意外と肉付きが良く、袴に隠れていて日に焼けていないため、隆幸は大人な雰囲気になった女に甘えて頬擦りをしたくなったほどであるが、なんとか我慢した。

 結局買ったものは、その黒のライダースジャケットと、白のニット、白地に大きくてカラフルな葉っぱと花が混じり合ったボタニカル柄のスカート。靴も一つ、ウェッジソールのサンダルを一つ買ってあげた。先程色々試着させた服装はどこかに性の匂いを孕むものだったので、露出を少なくしたものを買ってあげた。昨日風俗に行かなかったので、躊躇うことなく、金を出してあげた。だが、何より、女が洋服を着れば着るほどに可愛く見えてきて、彼自身が楽しんでいた。

 洋服を身に纏った彼女から、今まで柏の葉にしか包まれていなかった上新粉でできた桜色の柏餅が、アカンサスの蔓草のような西洋の葉に包まれた感じがした。複雑な葉などが一色しかなく単調な餅に装飾を施してくれ、昔から見た目が変わらない伝統的な柏餅の新たな境地を開拓してしまうという、禁忌を破ったかのような感覚を覚えた。それがとても蠱惑的に思えた。

 隆幸は女に服を買ってあげたことで、女に対して心配事がなくなった。安心を覚えると、欲が芽生える。彼は昨日、風俗に行こうとしていたことを思い出した。部屋に女と一緒に帰って来た隆幸は、目の前の女で自分の性欲を満足させようと決めた。彼は女の背中から抱き締めて、項に口を近付けようとした。

 女は隆幸の腕の中で、振り返ってこちらを見てきた。彼女の口を塞ごうとした瞬間、女は笑い始めた。笑い声が漏れてくる口もとに見とれてしまい、動けなくなった。腕の中にいる女の顔が視界の中いっぱいに広がって見えてきて、奇妙に歪んできた。声は耳の中で雑音に変わってきて、耳の中で反響するようになってきた。薄い赤色の唇が近づいて来ると興奮が収まらなくなり、自分が色欲に溺れていく認識をありありと持つようになってきた。彼は可笑しくなってきた。今抱き締めている女性は、美果に対する償いの気持ちもあって、良くしてあげた人である。そんな人に性的欲求を持つことはご法度なのではないか、と思った。そのため、彼は一生女性を抱くことは許されないのではないか、と思い至った。彼は、自分は結局美果に縛られて哀れに死んでいくだけだ、と思うと、笑えてきた。隆幸はいつの間にか、女に身をまかせて、女と一緒に笑っていた。

 気が付いたとき、外は夜になっていた。隆幸はカーペットの上に寝転び、天井に吊るされた電球を見ていた。部屋の中に女はいなくなっていた。女がシャワーを浴びた後に発していた花のような香りだけ残っていた。その香りを嗅いでも、何も思わなかった。今までの隆幸なら、女に逃げられたことを悔やんでいたであろうが、今の隆幸は何も後悔していないし、思考もしていなかった。酷く体がだるいことだけは分かった。起き上がって、食堂に行くことすらも億劫だった。

 彼は漸く体を起こした。部屋は全く何も変わっていないにも拘わらず、今まで感じたことないほどに、落ち着けていた。彼は何の気なしに、自分の下腹部を触ってみた。覇気が全くなくなっていた。彼は自分の性欲が全くなくなっていることを自覚した。今までに一度も辿り着いたことのない境地にいた。暗くなった外を見ようと窓の方を見た。窓に反射した、自分の干からびた顔が写っていた。

 隆幸の淫らな欲望は女に吸い取られていた。一人の男から肉情を除かれてしまうと、生きる気力までなくしてしまう。隆幸は、今後の人生、何もすることができないだろう、とぼんやり考えていた。何もできないことを否定する力すら残っていなかった。



 厚郎の部屋に、デイジーとチューリップと水仙が刺さった花瓶が置いてある。この花瓶は、勿論、ゴミ捨て場で拾って来た物だ。

「かず江、花を持って来てあげても、まだ私に心を許してくれないのかい。この花は、前にかず江が落とした花びらと全く同じものじゃないか。私は君のことを愛していて、だから、あのときの花の種類だって覚えていたんだよ。ねえ、もう足りないものはないでしょ。私のもとに来てくれ、さあ」

 と言って、厚郎は彼女の着ているジャケットを脱がせようと、手を掛けたが、かず江は彼の手を払いのけた。

「マダ。マダ足リナイ」

「じゃあ今度は何が欲しいんだい」

 女は一瞬黙り、また口を開く。

「アタシネ、過去ガ欲シイ」

「過去?」

「エエ、ダッテ貴方ノ知ッテイルアタシッテ、出会ッテカラ今マデノアタシダケデショ。アタシトイウ存在ガ欲シケレバ、アタシノ過去を作レルヨウナ物ヲ持ッテ来テチョウダイ。

ダッテ、人間ッテ過去ガ現在ヲ作ッテイルト言ッテモ過言ジャナイデショ。ダカラ、アタシトイウ人ガ欲シケレバ、過去ガアッタトイウ証明ニナルヨウナ物ヲ持ッテ来テチョウダイ」

「かず江や、そんなこと言っても、過去があったという証明になる物って、一体どういう物のことを言ってるんだい」

「学生時代ヨ」

「学生時代?」

「エエ、人ハ皆、学生ダッタ頃ガアルノデショウ。ソシタラ、アタシニモ学生時代ガアッタトイウ証明ガデキル物ガアレバ良イノヨ。

ダカラ、アタシニ学生服ヲ持ッテ来テ。オ願イネ。ソシタラ、アタシトイウ存在ハ貴方ノモノ」

「学生服か。分かった。きっと持って来てあげる」

 と言って、彼はラブドールを抱いた。



 雄作は平日は毎日少女の下校の護衛を務めていた。いつしか彼は、彼女のことを仮名でサトミちゃん、と名付けて、彼女の生活を勝手に創り上げていた。この架空の生活を想像することは気持ちの悪いものではなくてT地区の外の世界に出るための訓練だ、と雄作は考えていた。

 サトミちゃんが学校の教室にいるところをイメージする。健気な姿で席に座っていた。彼女が見つめる黒板の上に掛かっている時計の針は午前十一時を指している。四限目の、始業のベルが鳴る。サトミは英語のテキストを開き、二ページに渡って書いてある英文を、重要なところや、知らなかった単語に下線を引きながら読んでいる。新学期が始まってすぐなため、シャーペンや消しゴム、ノートなどの文房具は全て綺麗で、勉強していて気分が良くなる。黒板の前に立っているオバチャンの先生は、とてもハキハキした口調で説明をしてくれて分かりやすい。さらさらとノートにメモをしていると、いつの間にか一時間経っており、終業のベルが鳴った。

 サトミは、いつもの仲良し五人で、一緒に弁当を食べる。皆は、いつも通り、楽しそうに談笑しながら弁当を食べると、友達の一人が彼女に向かって、こう問いかけた。

「サトミが応募したアイドルのオーディションって、たしか今日だったよね?」

 実際にそうだった。だが、サトミはそのことを考えると緊張してしまうので考えないようにしている。

「ちょっと、今まで気にしないようにしてたのに、なんで言うのさ。緊張するじゃん。そう、今日の放課後、面接に行くの」

「へえ、じゃあ、書類の一次審査はもう通過済みだったってことだよね」

「うん、そうだよ」

「知らなかった。すごいじゃん、サトミ。絶対アイドルになってね」

「うん、ありがとう」

「ねぇ、サトミは、どんなアイドルになりたいの」

「うーん、実際入ってみて、どうなるかは分からないけど、私は、四、五人くらいの少数で成り立ってるグループの一員になりたいかな」

「え、それはどうして」

「だって、今って結構大人数で結成されているグループがすごい売れてんじゃん。代表的な例で言うと、日光いろは坂フォーティシックスとかさ」

「あー、そうだね。そしたら、入るのも大人数のところの方が良いんじゃないの」

「いや、ここは敢えて、少数のグループに入って、最初は歌とダンスの練習をたくさんして、上手くなるの。そして、時代が変わって。ほら、時代は繰り返すって言うじゃない? だから、次、少数のグループが注目されるようになると思うから、そこで私は時代が巡って来て大勢の人に目を付けてもらえるように頑張るんだ。それが、私が、もしアイドルになれたらの理想」

「なるほどね、サトミも色々考えて、アイドルになろうとしてるんだ」

「ねぇ、サトミ、オーディションで言う特技には何を選んだの」

「私、玉乗りできるんだよね。だから、それにした」

「玉乗りか」

 と、友達皆が驚いたところで、昼休み終了のベルが鳴り、午後の授業が始まった。サトミは、友達にオーディションのことを聞かれたためか、今日の面接のことを考えてしまい、緊張で授業の内容が全く入ってこなくなっている。心臓の音が耳の奥で響いてしまう。そのため、二時間ずっと、上の空で黒板を眺め、ペンを走らせている。

 やっと授業が全て終わり、サトミはオーディションに間に合わすためにいつもより大分早く学校を出る。その際、友達から、今日の面接頑張って、や、サトミは超可愛いから絶対にアイドルになれるし将来絶対スターだよ、や、今日は絶対に合格してね、など、いろんな言葉を掛けられた。実際、高校一年の少女にとって、まだ会ったばかりの友達から、こんなに応援されていることは凄く恵まれていると思い感動してしまい、面接を受ける前に感傷的になる。

 あの少女はアイドルになりたがっているのかもしれないな、と雄作は一人で勝手に作った物語に、一人で納得していた。彼女がアイドル志望だという空想は、自分が目を付けた女の子に価値を与えたかったからだ。何もない平凡な少女よりも、アイドル志望という分かり易いレッテルが付いていた方が良い。

 テレビのリモコンが側に落ちていたので、何の気なしに久々にテレビを点けてみた。画面には、丁度平日のお昼の主婦向けのワイドショーが放送されており、右上の端っこの方に現在の時刻が示されていた。十三時四十分。あと三時間後には、少女の下校時間である。暫くテレビを眺めた後、なんとなく、窓の外を眺めて見た。春陽がポカポカと降り注ぐ中、染井吉野の花びらは、いつの間にか、大分散ってしまい茶色い木に若々しい葉っぱが美しかった。道を行き交う人々の恰好も、シャツ一枚や、薄手のジャケットなどの、温かい季節のものになっていた。この四月中旬の春疾風も吹き荒れていない日に、散歩をして気分転換をしようと思った。

 朗らかな陽気の外へ出て歩いてみても、どんなに天気の良い日でも、T地区の穢れは消えていなかった。日の光を浴びることで、余計に汚くも見えた。サトミちゃんは、こんな小便臭い場所を捨てて、早く輝かしいステージの上で歌うアイドルになるべきだ、と彼は良い香りの香水を付けて踊るサトミちゃんの様子を想像した。

 雄作はR公園に入り、ベンチに座ってサトミちゃんが歩いて来る様を想像していた。彼女はまさか雄作が監視しているなんてことは知らずに無防備な顔をしているのだろう、と自分の力を感じた。

 空が暮れてきたので、雄作がR公園を一旦出てみたら、サトミちゃんがこちらに向かって歩いてきた。逆の方向に歩いていた雄作は彼女とすれ違う形となり、彼女から三メートル範囲内のところを通ることになった。空想ではなく現実世界においては、初めてサトミちゃんの顔を近くでしっかり見ることができた。彼女のことを目で追い過ぎてしまい、不快感を与えたかもしれない、と後で反省するほど目で追っていた。すれ違いざまに、少女の髪が真っ黒ではなく、風に吹かれて光が当たると、少し苦めなチョコに似た焦茶色になることを発見した。

 振り返って見て、少女の背中が小さくなると、雄作は引き返してまた元の道を戻った。少女が帰り道で事故に遭わないか見守ってあげる。雄作は彼女に対して淫らな感情を抱いていることを自覚していながら、護衛という名のストーカーをやめなかった。見守りの最中に感じる、T地区の外の世界と繋がっている感覚を得る目的もあった。いつもは自分の宿泊所から彼女を追っているので、R公園からトンネルまでの長い距離を見守ることは今日が初めてであった。

 彼女が今日もトンネルを潜ってT地区から出て行った。今日大丈夫でも、明日以降はどうなるか分からない。明日からもR公園で彼女を待ち伏せして最後までは見守ってあげようかな、と思った。だが今日はそのまま自分の部屋に帰ることにした。

 それから毎日、午後二時にはR公園のベンチに座っているようにし、セーラー服姿の少女が通り過ぎて暫くしたら彼女の後姿を、一定の距離を開けて、追って行くようにした。だが、幾日かが経ったが、これまでのところ、彼女の身に危険が迫って来たことも、その気配すらも感じられなかった。良いことなのだけれども、彼は次第に意義を失っていった。追い剥ぎ事件など本当にあったのかも疑い始めた。 



 厚郎は、T地区から歩いて十五分ほどのところにある有名高校の通学路に立っていた。彼はT地区の方に近付いて来そうな女子学生を探していた。今、立っている場所は、通学路の途中にある、T地区方面へと向かう道への曲がり角である。そこを曲がって行く女生徒に付いて行けば良いので見張っていた。

 でもなるべくなら可愛い子が良いな、と厚郎は思う。かず江に着てもらうのだから、可愛い子の所有物であるべきだ、と拘りを持っていた。今まで、厚郎が襲って、服を奪った女性は皆美人であったり可愛かったりした人だ。なぜなら、かず江の美を極めるためである。服装というものは、その人の皮膚を媒介にして、着ている人自身の魅力と合一するものだと彼は考えている。もし着ている人が魅力的でなければ、服の良さは、皮脂が汚れとして作用してしまい、朧になってしまう。だから、綺麗な人から綺麗な服を盗み、綺麗な服をかず江にあげ、かず江を益々綺麗にさせる。そうすることによって、かず江に美しい人生を授けることができるのだ、と彼は結論付けていた。

 厚郎が立っていると、目の前を何人かの女子生徒が通り過ぎて行くが、まだ彼のお眼鏡に適う人はいない。どう見ても、かず江の学生時代の姿にも見えない。

 それでも粘り強く待っていると、一人の可愛らしい生徒が一人きりで曲がり角を曲がった。厚郎は目で彼女を追い、丁度良い具合に離れたところで、彼も動き出した。容姿は申し分ないと思った。身長もかず江と同じ百六十センチくらいであろう、と計算した。おそらく、この少女はそれよりも少し高い百六十二、三であろうが、服のサイズには影響しないくらいの差である。何回も服を盗んでいると、女性の身長を見極めることが自然にできるようになっていた。

 厚郎が追っていると、少女はT地区の方へと向かって行った。

 少女はどんどん進んで行き、R公園の前を通り過ぎて行った。そのとき、厚郎は視界の端で雄作がベンチで落ち着かずに座っているところを捉えた。雄作は先を行く少女のことをチラチラ見ては、鼻からフッと空気を出してニヤついていた。

(あいつも、あの少女を狙っているのか。いや、そんなことはない筈だ。あいつは女という存在から逃げ続けた男なのだから。性欲を恥だと思う生き恥。まさか、あんな女子学生を襲うとは思えない)

 と雄作を馬鹿にしながらも、厚郎はR公園から見える場所で襲うことはできないなと気付いた。今日、雄作がいるということは、決行する日もいる可能性があるからだ。

 もう少し、追ってみると、以前かず江のために花を摘んできた花壇から少し行ったところに路地裏へと続く狭い隙間があり、そこには汚い段ボールなどのゴミが大量に落ちていた。路地裏に隠れられそうなので、そこで行うことにした。そう決めると、今日は引き返して自分の部屋に戻ろうとすると、丁度、雄作がこちらに向かって歩いて来ていた。明日盗みを実行するときに少しでも清々しい気分でやりたかったため、雄作に話し掛けて不快感を与えてやろうという気になった。彼が少しでも嫌な顔やこちらを見下してくる顔をすると、若い人間の上の立場に立っているのだと実感できるので面白い。

 雄作からも厚郎が向かってくるところが見えている筈である。だが、雄作は全く表情を変えない。

(多分、警戒心を強めたのだろう。これまで私が彼にやってきたことを考えれば、普通そうだろう。だが、雄作は相当鈍臭くて、脳に味噌が入っているかも怪しいくらいだ。だから、何も考えてない可能性もある。そういうところが逆に面倒だ)

 と厚郎は考えていると、雄作は彼のことを相手にせず、横を通り過ぎて行った。その様子は、どこかいつもの雄作と違い、顔付きがきつくなって、緊張している感じがした。そして同時に、何かに期待するような甘い気配も察せられた。

 何が具体的に違うかは分からないが、そんな雰囲気が醸し出されていた。雄作の後ろ姿を見てみると、いつもに比べて若干早歩きになっており、しっかりと歩いて行く目的がある人間のように見えた。

 やはりあの少女と関係があるのだろうか、と思えて仕方がなかった。厚郎は雄作のことを取り敢えず追ってみることにした。雄作の背中を追っていると、彼の肩越しに小さくなったセーラー服姿も見える。少女がトンネルの中へと入って行くと、雄作は立ち止まり、ボーっと突っ立っていた。厚郎はその姿から推理してみた。

(あの少女が目的か。聖人君子を装っているが、それは自分の性癖を隠すためのダミーであったか。気持ちの悪い男だよ。じゃあ、あの態度は、自分は他の男とは違うアピールをしていただけの、ただの格好つけだったというのか。

 でもやっぱ、それはちゃんと自分にも性欲があるから成立していたのだろう。そうじゃなきゃ、アピールの仕方が分からないからな。でも、なんで、あの子が外へ出るまで見ているだけなのだろうか。自分の聖人君子だという自意識に引っ張られて襲ったりできないのだろうか。つまり、あいつは今、その聖人気取りの縄に雁字搦めになって身動きが取れないでいるという、全く哀れな有様ということだろうか)

 雄作がこちらに向かい始めたので今度こそ話し掛ける。

「やあ、雄作君。さっきはなんで無視したんだ。せっかく会ったのなら、最低限挨拶くらいはしてくれないと。犬だって擦れ違うときには吠え合ったりしているんだからさ。君もできるでしょう」

「あーちゃんさん。ごめんなさい。全く気付いていなかったです」

「まあ、良いんですよ。しかし、雄作君、何をしていたんですか。散歩ですか。散歩にしては歩くスピードが大分速く見えたのですが」

 雄作の目が戸惑いを表していた。右に左に目線をキョロキョロさせている。

 やはり、見られてマズイところであったらしい、と確信を持った。もう少し追い詰めてみるかとも思ったが、今日は何となく手加減してあげることにした。

「そうですか。何か答えたくないことがあるみたいですね。いや、いいのいいの。そんなこと誰にだってあることなんだから、恥ずかしいことじゃないさ」

 心の底から楽しさが込み上げて来た。雄作に理解を示しているふりをして、彼の格好つけに対して少し触れてみた。

 雄作はどうして良いか分からないのか、俯き始めた。厚郎はこんな男が自分の性欲に弄ばれているのだと想像すると、可笑しくて仕方がなかった。彼は満足してきた。今はすぐに部屋に帰って、明日に備えようと考えていた。

「別に答えたくないことという訳ではないですけど」

 雄作が反論みたいなことを言ってきたため、少し苛ついた。年が大分下で馬鹿な奴が一体何を守るほどの自我があるのか分からない、と厚郎は思った。言い訳などいらなかった。

 彼はわざと嫌そうな顔をして見せる。雄作はこの顔を見て、どうするのだろうかということに興味がある。

「すみません、何か気に障りましたか」

 普通でつまらない反応だったが、優しくしてあげ、

「いや、別に。何か隠してるんじゃないかなってちょっと思っただけで、他に何か特別気になった訳ではない。ないならいいや。じゃあ、また今度ね」

 と言って別れを告げた。

「はい、また今度」

 厚郎は雄作と別れ、自分の部屋に帰った。扉を開けると、かず江がお出迎えに来てくれる。

「ただいま。かず江」

「オ帰リナサイ。ネェ、過去ノ私、見ツケラレタ?」

「うん、完璧だ。かず江に昔の姿にぴったりな少女を見つけたよ。楽しみにしててね。そしたら、かず江は本当に私のものになってくれるんだろうね?」

「フフ、ソンナコト考エテナイデ、チャント学生服ヲ持ッテ来ナサイ。話ハソレカラヨ」

「もう、意地悪なんだから」

 かず江を抱きしめる。暫く抱いていると外は夜になっていた。彼女の体の柔らかさを全身で感じるため、なるべく離れたくはなかった。彼女の近くから動きたくなかった。これには、気持ち良さと自身の老いのどちらがより大きく関わっているのかは、厚郎にも分からなった。

 このまま死んでも良いと厚郎は思った。自分の好きなように生きてきて、好きな女に抱かれながら息を引き取っていく。こんな死に方できる人間が地球上にどれほどいるのであろうか。普通の人は皆、それぞれストレスを抱えて生きており、死ぬときも病院の堅いベッドで寝かされているだけ。最悪、好きな人にすらも見守られることなく。しかも、そうなることを人は恐れずに、当たり前のことだと思っている。自分はそうなるまい、と彼は決めていた。この決意はかず江が現れたことによって抱いたために、彼女には感謝している。かず江と会わなければ、彼はきっと一人で部屋の中で死ぬことに疑いを持つことはなかったであろう。かず江のいることといないことは、厚郎と他の男たちとを大きく隔てさせている。

 そんなかず江に男として認めて貰うためには、明日の計画を必ず成功させなくてはならない。今日、T地区にはもう警官の姿は見えなくなっていると歩いて分かったため、タイミング的にもバッチリである筈だ。

 だが、今日、あの少女のことを追っていた雄作のことに関しては気掛かりであった。

(なぜ、あの男が少女のことを追っていたのだろうか。しかも、追いつける速さであったにも拘わらず、何も手出しをしなかった。意味が分からない。やはり、別にあの少女を追っていた訳ではないのか。そうとしか考えられない)

 やっと、かず江から体を離し、電気を消して、布団の中に潜り込んだ。明日のために早く寝ようと思った。夜の九時だった。年を重ねるにつれ、寝る時間が早くなってきている。彼の部屋は一階にあるため、外の明かりが全て窓から入ってくる。ピンクや緑、オレンジなどの光がチラチラ、かず江の白い顔に色付ける。熟れたイチジクの果肉のようにてらりとろり。

「待っていてくれ、かず江よ。明日絶対に君を生きた人間にしてあげよう。そしたら、私の正真正銘の家内となってくれよな」

 と呼び掛けるも、彼女も既に眠っているようで、返事はなかった。

 翌日、厚郎は十五時にはR公園のベンチに座って待っていることにしていた。まだ、雄作の姿はなかったので一人で空想に耽りながら時間を潰すことができた。元々、厚郎は高校生に関心を持っていたので、今日の計画は俄然やる気が沸いてくる。

 セーラー服を着たかず江の像を想像してみた。無事に着せてあげられたら、高校生のかず江が自分に対して抵抗してくるのかな、と興奮してきた。学生に手を出すことはタブーであるがために、セーラー服の彼女の反抗に今までと違う趣を感じられるのではないか、と期待していた。その期待には、もちろん彼が二十歳のときに襲った女子高校生の記憶も含まれている。

 公園の外に目を向けていると、例の少女が少し急ぎ気味で前を通り過ぎようとしていた。その可愛らしい顔は、自分の身に危険が迫っていることなど、全く気付いている様子もなく、まっすぐ前しか見ていなかった。

 ベンチから立ち上がり、公園の外に出た。足音で危険を察知されたら元も子もないので、爪先に力を入れ音が出ないように工夫してそろそろと歩き、徐々に距離を縮めて行った。少女が花壇の前を過ぎ、路地裏の前も過ぎた辺りで、タイミングを逃すことなく、厚郎はダッシュする。少女に近付くにつれどんどん鼓動が早くなり、足音と拍動とが一緒のリズムになる。耳の奥で鳴る音が、もう引き返せないという厳しさを示しているかのようで、全身に緊張が走る。やはり、幾ら計画を練って行う犯行でも、いざやろうとすると、体が勝手に意識外で止まろうとしてくる。完璧にこなすために意識をしっかり持って体を動かす努力が必要になってくる。

 少女の口と両目を抑え、じたばたする体を無理矢理引っ張り予定通り一面闇で、ゴミで埋まった路地裏の中へと連れ込む。肉体労働で鍛えた筋肉が活きる。掌で、少女の両目から滲み出た水が彼の手汗と混ざり、彼女にとっては不愉快極まりない状態なのだろうと少し同情した。だが、勿論、紅色の涙が彼にとっては嫌なものではないので犯行を続ける。少女はとても可愛らしいので、むしろ手が湿れば湿るほど、彼の心の中に喜びや興奮の突風が吹く。煽られた染井吉野の濃染めの花びらが吹き乱れ、花びらの雨が降り注ぐ。その桃色の桜花が老人の欲求の色を塗り潰し、自身の桃色で染め上げてしまうくらいに強烈だ。

 少女は抵抗虚しく、路地裏の陰に連れ込まれた。逃げようとして振り回される彼女の両手などの露出している肌は、白い雪のようだ。少女の頭を脇で抑え、その淡雪に手を伸ばし茶色い土で汚してしまう。あくまでも目的はセーラー服、余計なことはしたくはないが、衝動が抑えきれなく、毎回やってしまう。どうせならばの犯行である。

(悔しかろう。こんな爺に体を触られるなんて。自分の体を自分のものだと思いたくなくなるのでしょう。今日から意識ある内は、ずっと、脳に犯された記憶、精神的苦痛がこびり付き、ふとしたときに思い出しては頭掻き毟り激しい懊悩に苛まれるのだろう。可哀そうに。しかも性的な被害なのだから、人にも相談できないんだよな。そんな事実が余計に整理の付かないものにさせるんだ)

 セーラー服のファスナーを開こうとしたとき、通りの方から物音が聞こえた。人の笑い声と足音。太陽の光を逆光にした黒い人影が、こちらを眺めている。厚郎は誰かと思い、目を凝らしてその正体を暴こうとした。もう、犯行の現場を見られたなら仕方がないと思い、落ち着いて顔を確認することができた。

 一人の女がこちらを見ていた。黒のジャケットを羽織り、白のインナーに花柄のスカートを穿いた女だった。

 彼女は路地裏の中に入って来る。女は喉笛から出ているような細く気味悪い笑い声を出し続けながら近付いてくる。顔の表情は、依然としてはっきりとは見えず、本当に笑っているのかも厚郎には分からない。でも彼女の笑いを聞いていると、彼もどこか可笑しくなってきた。今まで入れていた全身の力が抜けてきた。自分が必死で追い求めていたのは、ただの人形の女だった。その人形の操り人形になっていたのだという自身の愚かな姿が、今まで屑だと思っていた雄作の姿と同じように思えてしまい己の卑小さが急に面前に現れたようで、可笑しくなってきた。

 彼は女につられて、遂に笑い出した。

腹が痛いのに笑いを止めることができない。顎が外れたようで、口の端から涎が垂れているのに閉じれない。拭くこともできずに路地裏の中で抱腹絶倒している。

 セーラー服を着た少女が笑い続けて気味の悪い女の脇を潜り抜け、逃げて行くのが見えた。追い駆けねば、と思うも、体が言うことを聞かず、徐々に視界も狭くなってくる。



 雄作は、布団の上で自慰行為をしていた。少女を見守る直前には必ずやるようにしている。先に出しておくことによって、少女に対して、少しでも魔が差すことがないようにしていた。だが、自慰するときに思い浮かべるのはセーラー服の少女のサトミちゃんの姿である。

 行為が終わった後、彼は眠ってしまい、気が付くと十六時になっていた。もう部屋を出なければいけない時間を過ぎていた。

 彼は急いでR公園に向かって歩いていると、向こうの方からサトミちゃんが向かって来るのが見え、心臓がキュッとなった。こんなに早くに見えると思っていなかったからだ。もう彼女はR公園も過ぎている。

 なんで、こんなにも早くと思っていたら、少女はどこか焦った様子の真っ蒼な顔をしながら、セーラー服のスカートがバタバタと乱れるのを気にせずに走って、雄作の横を通り過ぎた。横を通り過ぎる際、乱れた呼吸の音が彼女の喉から聞こえてきて、何か只事ではないことが起きたのは間違いないと思った。今までにあんな恐怖におののいている彼女の姿なんて見たことなく、走って帰っているところも見たことがなかった。

 後ろを振り向いてみたが、少女の姿は既に見えなくなっていた。

 取り敢えず、今日はここにいてもしょうがないので、自分の部屋に向かって歩いて帰ることにした。少女を守るという仕事を失ったために、今日は自慰行為のみをしたという事実が、彼の頭の中で膨らみ、自分の不出来具合に可笑しさが込み上げて来た。女性に告白し、あっさりフラれてしまった後に、その女性で自慰をした時に感じるであろう、滑稽味を客観視できたような気がした。

 暫く歩いていると、やはりそれではダメだと道中で思い直した。取り敢えず何があったのか知りたかったので、R公園の方に行ってみることにした。追い剥ぎ事件のこともあったので、見て見ぬふりをすることはできない、と珍しく正義感が生まれた。

 R公園に向かっていると、見たことのある女性を目撃した。色の白い肌に、漆黒の髪を持つ女性だ。雄作は目の前にいる女性は、以前風俗街の中で蹲っていた女性であるということを思い出した。だが、恰好が変わっており、和服を着ておらず、洋服を着ていた。その変化のため、一瞬誰だか分からなかった。

 女性の横にあーちゃんもいた。この二人が知り合いであったことに衝撃を受けた。だが雄作があーちゃんの姿を確認してすぐに、あーちゃんはその場で意識を失ったかのように仰向けになって倒れた。その際、後頭部を地面に打ったようで、鈍い音が響いた。雄作が駆け寄ってみると、彼は頭から血を流していた。真っ赤で鮮やかな血であったために、雄作は、毛むくじゃらで汚らしいあーちゃんの体の中にはこんなに綺麗な赤い液体が流れているのか、と驚いてしまい、また見とれてもいた。

 雄作は急いで、公衆電話のところに行って、救急の電話をした。雄作があーちゃんの倒れた現場に戻ると、救急車と同時に、なぜかパトカーまでが来た。T地区だからだろうか。パトカーからは二人のニキビ顔の警官が降りて来た。

 雄作と警官が倒れているあーちゃんに近寄ると、彼は目を開いた。あーちゃんは気がおかしくなったように、白目をむきながら、顔を真っ黒にし、こめかみに青筋を浮かせながら、宙に手足をブンブン振り回した。血の気を失って紫に変色した唇からブツブツ独り言を繰り返し漏らしている。

「廻る、廻る、私の魂。畜生の道から外に連れて行って。他に何も願いはない」

 警官が話し掛けても、何も返事をせず、独り言を言うことに専念している。その狂態の異常性と哀れさは、見る者から言葉を奪い始める。警官と雄作は何も喋れなくなり、お互いに顔を合わせながら、無言で何かの確認をし合った。その確認の中に、この男が自分ではなくて良かったな、というものも含まれていたように思える。

「はー、新しい世界がこっちに近付いてくるよ。よく見える、よく見える。きっと天上の世界だろう」

 急に裏声を交えた大声を出し始めた。そのとき、体をピンっと伸ばし、緊張したように顔が強張る。目は真上に広がる青空だけを見つめ、警官の存在に気付いているのかどうかも分からない。あーちゃんは人の形を地上に残しながら、魂のみどこかに失くしたように見えた。

「体が軽いや。ははは、楽しいな。あっ、向こうにでっかい卵があるぞ。いいな、いいな。 外の世界に連れてってくれ」

 あーちゃんは体をピンっとさせたまま、じたばたし始め、地面の土埃を巻き上げる。そのまま暴れていると、頭から血はどんどん流れていき、力を失くしていくように見えた。彼は遂に動かなくなった。

 あまりの呆気なさに、彼らはジーっとあーちゃんの倒れた姿を見つめていた。依然として、地面に積もっていた土埃が舞い上がっており、雄作は、午後の光に照らされて白く光る埃を手で払った。雄作は、何か事情を知っていそうな先程の女の姿を、周りを見回して探してみたが、埃臭い空気の一点に花のような香りを残したまま、いなくなっていた。初めから彼女はいなかったかのように姿を消していた。花の香りがキョーヘイさんが育てていた水仙の香りであることを嗅ぎ取った。あーちゃんは救急車に運ばれたため、雄作は今度こそ、ここにいてもすることがなくなったので、部屋に帰ることにした。



 京平は、ラブドールを負ぶって、自分の部屋に帰るための道のりを歩いていた。擦れ違う人、皆に驚かれ、見られたが、そんなことは問題ない。人からどう思われようと、自分の生活のためなのだから、今更気にしていられない。

 部屋に着き、人形と、元気をなくした花が挿してある花瓶を床に置くと、京平は彼女の真正面に座り、顔を見つめ続ける。やっと自分のもとに帰って来た。お帰りなさい、と声は出ないが、喋ったように口を動かした。

 彼はこの人形と初めて会ったときのことを思い出す。彼が朝、トンネルの横にあるゴミ捨て場に行って、何か使える物が捨てられてないかと思い、ゴミを物色していると大きな段ボール箱を見つけ、中にラブドールが一体入っていることを確認した。

 一目見ただけで、今まで眠っていた淫情が覚醒し、急に下腹部が反応し出して自然と興奮していた。捨てられていた彼女を自分のものにしてあげようと考えた。

 段ボールの中に入っていた彼女は窮屈な空間で体を丸くして座っており、どこか不憫に思えてきたために、彼はどうせなら、広い外の世界に出る記念として何か一つ彼女に似合う美しい物をプレゼントしたいと思った。

 大事に育てている花をあげるのが良いだろう、と迷うことなく行動した。花壇に咲く花を数本採って、贈ってあげることに決め、一旦花壇のところに走って戻り、チューリップとデイジーと水仙の花を摘んで、段ボール箱のある場所に戻って来た。

 元の場所に戻ると、段ボール箱の中にその花を置いてやり、箱を閉めて持ち帰ろうとしたが、体の大きさ的に一人で段ボール箱を持ち上げることができなかった。

 誰かに手伝ってもらうことも考えたが、中に入っているものがものなので、他人に頼むことは憚られた。このときは、段ボール箱から出して人形を裸で持ち帰ることは、恥ずかしさが邪魔してできなかった。なので今持ち帰るのは諦めて、部屋から布団を持って来て、人形をそれでくるんで運ぶことにしようと考えた。彼は自分の部屋に戻るために、またその場を離れた。

 だが部屋から布団を背負ってゴミ捨て場に戻って来ると、大柄なあーちゃんが先程の段ボール箱を軽々と持ち上げ、去ってしまうところを目撃した。

 京平はこのとき以来、老体における厄介な性欲を持て余してしまい、そのやり場のなさからか、あーちゃんのことを心底恨むようになった。

だが今はもうそんなことどうでも良かった。目の前に私が愛する女がいるのだから、とラブドールを愛撫した。  

 人形の目が何かを訴えてくるかのように、まっすぐ京平の目を見つめる。彼は懐かしい若い女の感触のようなものを思い出した。自分が四十歳の頃、ある飲み屋で出会った女性、佳世子の名前をこの人形に付けようと前々から考えていたので、佳世子、と呟きながら人形を再び愛撫した。

 佳世子は青い畳の上で静かに、京平のことを見つめている。

「可愛いな。なんて可愛いんだ」

「有難ウ、京平サン」

「佳世子よ。私と話してくれるのか」

「エエ、当タリ前ジャナイノ。デモ、モウ約三十年振リネ。懐カシイワ。貴方ト出会ッタトキガ。覚エテル? 貴方、バーノカウンターノ一番隅ッコノ席デ、スゴク酔ッパラッテ泣キジャクッテイタンデスモノ。ソレデ、アタシ、貴方のソンナ姿ヲ見テイタラ、可哀想ニナッチャッテ話シ掛ケタンデスヨ」

「忘れる訳がない。あのとき、私は佳世子とは初対面であった筈なのに、どこか不思議と結び付くことのできるような気配を感じたんだ。君からは本当に良い匂いがしてね。多分、お互いに惹かれ合っていたのでしょう。私は完全に酔っぱらってしまって、声を出すことができなかった。だけどそのとき、好意と感謝の想いだけは伝えたいから、朧になった意識の中でも、君のことを想っているという意味を籠めて、君の膝を三回ポンポンポンと叩いたんだ。覚えているかな。覚えていてくれたなら嬉しいいな」

「ハイ、勿論。コノ右膝ヲデショ。覚エテマスヨ、ソウイウ大切ナ思イ出ハ。三十年経ッタトシテモネ」

「有難う。有難う佳世子。好きだ」

「アタシモデスヨ、京平サン」

 この瞬間を、どれほど待ち望んでいたことか。佳世子との体と心の隙間を縮めるため、強く抱きしめる。昔に戻った気分だ。赤い血潮が燃え上がる。青い春がやってきた。白い乳を求めた。

 彼女の温もりが、使い古した敏感な彼の皮膚を通って染み込み、背骨まで蕩けそうになった。京平は自分の身体が崩れ、滓のような残骸のみになりそうで、感極まって叫び声を上げた。己が消え去った後もこの感動だけは、ここに残そうとした。

 思慮深い佳世子は私が消えたとしても私を抱き続けてくれるのだろう、と満足感を得た。この満足感を噛みしめながら、また叫び声を上げた。来世は今までのように辛い思いをしないように、自分の肉欲を叫びと共に捨てようとした。

 京平は、花瓶からオレンジ色のチューリップを一本抜き取り、花びらを開いて花弁の中を覗き始めた。それを人形の股間にあて、貪り付いた。口の中に何枚かの花びらを含ませ、歯がないので上と下の唇で咀嚼するように挟んで、細かくなっていない花びらを飲み込んだ。

 花びらが刃のように食道を傷つけ、血の臭いが鼻の奥から突き抜け、天へも昇っていくようだ。意識が朦朧としながらも、彼は彼女の右膝を、手で探り、見つけ出し、ポンポンポンと三回叩いてあげた。こんな幸せな最期を他の連中は送ることはできないだろう。京平は、とても幸せだった。



 日が暮れたので、雄作はいろは食堂に行くことにした。外に出ると、夜にも拘わらず少し暖かかった。染井吉野も緑色の葉を揺らして、夜でも四月後半の風光る様を表していた。食堂の中は相変わらず男たちが沢山いた。その中にたか坊がいることに気付いたので、雄作は近付いて、

「たか坊さん、こんばんは」

 と挨拶した。

「おう」

 とたか坊はそれだけ言って、目の前の焼き魚をつついていた。以前のたか坊に比べて、全く覇気がないように感じた。雄作は、隣に腰かけて、

「たか坊さん、どうしたんですか。元気ないですね」

 と尋ねてみた。たか坊はこちらをチラッと一瞥しただけで、何も答えようとしなかった。その目はあーちゃんの気が狂ったときの目と似ている気がした。雄作はたか坊の変化が恐く、また無理に話を広げる必要はないと思ったので、注文した豚丼を待っていた。

「あーちゃんの奴死んじまったみたいだな」

 たか坊は急に喋り始めた。その声には張りがなかった。以前より十歳ほど老けたようだ。

「ええ、そうみたいですね。僕はその場を見ていたので、警官から色々聞かれましたよ」

「そうか」

「あーちゃんさんの部屋には何一つものがなかったみたいですよ」

「貧乏暮らししてたんだろう。お菓子を二つ買ってたりしてたのにな。不思議な爺さんだよ」

 たか坊は徐々に元気を取り戻しているように見えた。だが、まだ本来のたか坊とは全然異なっていた。

「でも、何もなかったって言っても、部屋には大量の女性ものの服と、アロンアルフア一本だけあったみたいですよ」

 雄作はこの事実をたか坊に伝えるべきか分からなかったが、あーちゃんは死んだ人間であるから良いと見做した。

「そうなのか、じゃあ、あの事件の犯人はあーちゃんの野郎だったわけだな」

「警察はそう判断してるみたいですね」

「ふうん」

 たか坊は、焼き魚を食べ終え、食堂から出ようとしていたが、

「あ、そういえば、雄作」

 と声をかけてきた。

「何ですか」

「やっぱ、T地区って良いところだな。俺一生ここにいようと思うわ」

 彼はその言葉を残して、帰って行った。

 雄作も、そのことには大いに賛同している。あーちゃんの発狂以降、T地区でサトミちゃんを見ることがなくなり、完全に外の世界との繋がりを失った。護衛をする仕事もなくなり、生きる意味をなくしたのだった。雄作は運ばれて来た豚丼を何の感想も抱かず、悩むこともなく食べ終わり、食堂を出た。彼は人生なんてこんなもんだ、と見做し命を投げ捨てることをきちんと誓った。自分は死んだも同然であると前向きに考えて、姉も苦しみ続けるように自分を発信していくよりも、早めに人生の幕を閉じれて良かったのではないか、と本気で思っている。

 外に出てから、また夜の散歩をする。雄作は今日も夜の闇の中に消えて行った。彼は一生女性を知らず餓鬼のまま死んでいくことを決意した。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ