ひとり
対面しても弟は決して姉の方を見ようとしない。会いに行っても門前払い。何度手紙を送っても返事はない。ここまでくればいくら鈍い者だって理解するだろう。
アルトは、自分の出生を伏せたいのだと。娼婦の息子であることを恥だと思っている。毎月送られる金は口止め料。無視黙殺は関わるなという意思表示だ。
「そんなに弟が心配なら忠告してやったらどうだ」
ハイウェルは嘲笑った。
「アニスの託宣が下ったから神獣毒殺は諦めろとな。姉からの忠告ならば耳を傾けるかもしれんぞ」
コルネは歯噛みした。六年前に養子になってから全くといっていいほど関わりを持たなくなった姉をアルトが信じるはずがない。わかっていてハイウェルはけしかけている。
ライナス司教の時と同じだ。ハイウェルは問題を解決するつもりはあっても救う気はない。罪を犯さないように諭すよりも罪を裁いた方がずっと楽で利のあることだからだ。
コルネはペンを取ると、机の上に開かれたまま置いてあった聖典に書き殴った。
『くだらない』
と書いただけでは飽き足らず、聖典を投げつける。とっさに避けたハイウェルをかすめ、聖典は盛大な音を立てて床に落ちた。
「コルネ」
呼び止めようとする声を無視して、部屋を飛び出した。どこをどう歩いたのか覚えていない。気づいたらコルネは〈アニスの微睡〉の境界前にいた。
昼の狩りに出掛けているのか神獣の姿はない。不在でよかった。今、あの黒い猫が呑気に日向ぼっこをしていようものなら、自分が何をしでかすのかわからなかった。獣のような荒い息遣いが聞こえる。それが自分の呼吸だと認識した時、コルネの心の奥がしんと冷え切った。
何だったのだろう。
この四年間、アニス神への信仰心はなくとも誠心誠意仕えてきた。
アルトの気持ちを、コルネは痛いほど理解できた。誰だって好き好んで苦労は背負いたくない。生まれという、自分ではどうしようもないことならばなおさらだ。名家の養子になったアルトにナイトレイに戻れとはとても言えなかった。でも、だからといってコルネまで母を捨て去ることはできなかった。
だからコルネは娼婦の娘と蔑まれてもひたすら耐えた。声が出せなくとも、生まれが卑しくても、それが自分の宿命だと、誹謗中傷に負けまいと、神獣とアニス教徒達のためにーー何よりも自分を生んで育ててくれた母のために働いてきた。
それがたった一つの託宣によって踏みにじられようとしている。こんな馬鹿げた話があるか。こんな不条理なことがあるか。
茂みが微かな音を立てて揺れる。すっかり見慣れた神獣がいつものように顔を出した。間が悪いにもほどがある。コルネは叫び出したい衝動に駆られた。絶望や怒り、憎しみが溢れて止まらない。
私はお前の無実を証明したのに、お前は何もしてくれないのか。何が神獣だ。何がレギア〈恩寵〉だ。私に何をしてくれた。何の恩恵があった。
恩恵なんて最初から期待していなかった。ましてや神獣からの見返りなんて求めていない。生まれた時からコルネは他人よりも劣っていた。理由もわからないまま声を奪われていた。それでも偉大なる神の御心が人の身で慮れるはずもないと割り切って生きてきた。
なのにこの仕打ちか。声や尊厳だけでは飽き足らず、なおも奪おうというのか。
コルネは手元にあった石を掴んだ。何も知らずにアコルの木の下で腹這いになる神獣目掛けて、石をーー投げつけようとした。しかし勢いよく振り上げた腕は固まった。
アニス教の信仰心がまるでないコルネだ。神獣への畏敬の念などあるはずがない。だか、いや、だからこそコルネにとって神獣は、至聖神アニスが遣わした神でも、最強の生物兵器でもなかった。ただの獣だった。自分と同じく言葉を話すことのできない生き物だった。
力なく垂れ下がった腕。手から石が滑り落ちた。コルネは身を折って、地面に伏した。胸が苦しくて、大きく息を吐いたら涙がこぼれ落ちた。
母に会いたい。アルトに会いたい。命があるだけマシだと、大したことじゃないと笑い飛ばしてほしかった。
泣いても悲鳴一つあげることができない。嗚咽も、嘆きも、コルネの口から漏れることはない。
静かな森の中、コルネはたった一人だった。