亡くなった姉
曰く給料日前などに見られる光景らしい。最初は鉢植えのミニトマト程度のささやかなものだったのだが、それでは飢えを満たせないと判断した田中は、用務室の裏に畑を開墾し、四季折々の作物を育てはじめたのだという。
「あそこの金木犀の苗も予算オーバーして自腹切ったから、来週の給料日まで自給自足で乗り切るつもりなんじゃないかしら」
信じられない。あの田中が。逆らったら次の朝日を拝むことができなくなると生徒達から恐れられる田中が。果ては『敬愛する偉大な用務員・田中様』だのと呼び慕う信者さえいる田中が、サツマイモで飢えをしのぐなんて。
「なんで!?」
「あなたのため以外に何があるのよ」
素っ気ないとは思っていたが、そこまでの特別待遇は求めていない。そもそも昼食代を削ってまでもてなされる理由が琥珀にはなかった。
「それだけ嬉しいってことよ。素知らぬ顔で美味しく食べて差し上げなさいな」
「いや、さすがにそれは……難しいかと」
「あなたが気にする必要はないわ。好きで勝手にやってるだけなんだから。その方が田中くんも喜ぶと思うけど」
軽く言ってくれるが、琥珀の気は重くなるばかりだ。
(あのハイウェルが、ねえ……)
合理主義で計算高くていけすかない野郎。至聖神殿の権力闘争に自ら飛び込むような野心家が、生まれ変わったら学校の用務員。畑で自ら育てた野菜を食べてささやかに生活しているなんて、アミィが知ったら笑うだろう。
(私が死んでいる間に何があったんだろ?)
コルネの記憶では、ハイウェルは至って元気でとても死期が近いとは思えなかった。殺しても死ななそうな男が何故死んだ。そして何があったら、用務員・田中になるのだろう。
「田中さんは、金木犀がお好きなんですか?」
大切にしている記念樹は金木犀。昼飯代を削ってでも植えたのも金木犀だ。
「植物全般が好きみたいよ。ただ、あの金木犀は……」
服部は言葉を濁した。
「以前、理事長のお嬢さんが亡くなられた時に植えたものなの。だから特別に大事にしているわ」
「え、あれ卒業記念に植えたんじゃないんですか?」
初耳だ。琥珀は立派に育った金木犀を指差した。
「違うわよ。正確には理事長がお嬢さんの入学のお祝いに用意したものだったのだけど、事故で亡くなられて」
それがそっくりそのまま若くして亡くなった本人を忍ぶ木になったのだという。
つまり自分は、死者を悼むための思い出の木に足を掛けて登ろうとした、ということだ。田中が血相を変えたのも頷けた。
「もしかして、知らなかったの?」
琥珀は頷いた。知っていたら登ろうとなんてしない。田中はともかくとして有人は教えてくれてもいいものをーー待て。ちょっと待て。琥珀は思考を停止させた。
「夜光理事長のお嬢さん?」
「ええ、そうよ」
「つまりある……じゃなくて夜光先生のお姉さん」
「そうなるわね」
有人の姉。学生の時に事故で死んだ。そんな話は一度も聞いたことがなかった。
「いつ、お亡くなりに」
「十五か……二十年ほど前だったかしら。そこに植えた年月日があると思うけど」
服部は困惑しているようだったが、気にする余裕すら琥珀にはなかった。
不意に、田中が持っていた生徒手帳が脳裏に浮かんだ。名前の部分が黒く塗り潰されていた。あれは誰の生徒手帳だったのだろう。
琥珀は吸い寄せられるかのように、金木犀の方へ寄った。背中に悪寒がはしった。心臓が大きく脈打ち始める。本能的な恐怖だった。触れてはいけないものだと知りながらも、琥珀は確かめずにはいられなかった。
根元近くに立てられた小さな記念碑。亡くなった年月日と思しきものと名前が刻まれていた。有人が伏せていた、十六年前に死んだ姉の名。
『夜光琴音』と刻まれた文字を、琥珀は指でなぞった。




