運命
一瞬の出来事だった。
黒い疾風が熊を直撃。まともに喰らった熊の巨体が、まるでぬいぐるみのように大きく横へ吹っ飛んだ。木々をなぎ倒して地に落ちた熊は、その後ぴくりとも動かない。
コルネはアミィの元に駆け寄った。強く目を閉じていたアミィの背を撫でる。
「あ……こ、コルネ?」
恐る恐る目を開けたアミィは、コルネの姿を認めるなり抱きついた。
「大丈夫? 怪我は?」
いや喰われそうになったのは君だよ。ぎゅうぎゅうに抱きしめられたコルネは宥める意味を込めて、アミィの背中に腕を回した。
「何があったの? さっきの獣はーー」
「そこで何をしている」
鋭い声に咎められた。首だけを動かして後ろを向くと、コルネよりはいくぶんか年上の少年が修道士と思しき大人を数人引き連れていた。短く刈り上げた金色の髪。やや吊り気味の翡翠色の目。血気盛んな若者といった風貌だった。
「お兄様、何故ここに」
「それはこちらの台詞だ。今朝忽然と姿を消した修道女が何故聖なる山にいる」
「聖所の参拝はアニス教徒としての責務よ」
「なるほど。至聖神殿の修道女としての責務は放り投げたようだが?」
アミィはぐうの音も出ない。婚姻が嫌で逃げ出したことがバレている。アミィの兄はコルネに視線を移した。
「そこの女は?」
「無礼はやめて。私が無理を言って聖地まで案内してもらったの。今だって私を守ろうとーー」
言い掛けた言葉が途切れる。先ほど吹っ飛ばされた熊を思い出したようだ。
「そう言えばあの獣は?」
少年もといアミィの兄の指示に従って、修道士二人が熊に慎重に近づく。伏したまま全く動かない熊に触ったりして調べはじめた。コルネも気になって立ち上がる。
「死んでいます」
屈んで熊の様子を確認した修道士が報告する。アミィの兄はコルネの方を向いた。
「何があった」
コルネは仕方なく手で教えた。アミィの祈祷中に獣と思しき咆哮を耳にしたこと、怖くなって逃げ出したこと、そして熊に襲われたことを。
「……喋れないのか」
一通りコルネの話を読み取ってから呟く。妹同様、手話は体得しているらしい。
「耳は聞こえるわ。それにとても優秀なの」
アミィは自分のことのように誇らしげに言った。
「字はもちろん算術もできるわ。修道士見習いよりもずっと博識よ」
「名は?」
ずいぶんと高圧的な態度だ。コルネの意思を汲み取ったアミィが嗜める。
「お兄様、私はこの方に命を救ってもらったの。然るべき礼儀があるのではなくて?」
「愚妹が迷惑を掛けた」
アミィの兄はコルネに頭を下げた。意外に素直な性格のようだ。
「先ほどの非礼も詫びる。俺の名はハイウェル。ハイウェル=ノイ=クラスター」
『コルネ=ナイトレイ』
「ナイトレイ?」
ハイウェルは細い眉を寄せた。母の名は有名だった。アニス教徒にとっては悪い意味で。
『高級娼婦の』
「……聞いたことがある」
口調には若干の軽蔑が混じっていた。致し方ないことだ。それよりも何故熊が死んだのかが気になった。
「ところでお兄様は何故ここにいらしたの? 神獣の世話はどうなさったの?」
「その神獣が脱走したから追って来たんだ」
偏食で凶暴なだけでなく脱走までするのか。たしかにとんでもない神獣だ。
それでもハイウェルが落ち着いているのは、神獣は必ず至聖神殿に戻ることを知っているからだ。神獣はレギア〈恩寵〉によって力を得ていると同時に縛られている。アニス神が眠るとされる聖域の外には長くいられない。
「帰郷していたようだな。おそらくもう至聖神殿に戻っているだろう」
「どうしてわかるの」
ハイウェルは熊の死体を指差した。首元が鋭い刃か何かでざっくりと削がれていた。一目でこれが致命傷だとわかる。
「一撃で熊を倒す獣がいるか?」