握手
深い理由はなかった。銅貨一枚で動くと侮られたこと、乞食とみなされたこと、どれも不快ではあるが見ず知らずの子を匿うほどのことではなかった。気まぐれとも言い難かった。
ただコルネは男の理解を求めるのが面倒だった。それらしき気配を感じ取ったことを伝えるには、コルネの事情も伝えなくてはならない。初対面の他人にそこまでの手間を掛けたくはなかった。
コルネは踵を返した。
「ま、待って」
少女が袖を掴む。とっさのことだったのだろう。コルネが一瞥すると、少女は慌てて手を離した。
「黙っていてくれてありがとう」
折り目正しく一礼すると、無邪気な笑顔を向ける。
「あなた、この街の子よね? しばらく身を隠せる場所を知っていたら教えてほしいんだけど」
あいにくだが、そんな都合のいい場所なんてない。何も答えようとしないコルネに、少女は怪訝な顔をした。
「……どうしたの?」
仕方なく、コルネは喉に右手の指を当てた。簡単な手話だった。修道女なだけあって、少女は意図を察した。
「もしかして、耳が聞こえないの?」
コルネは首を横に振った。耳は聞こえる。むしろ良い方だ。言語も理解できる。意思もある。しかしコルネには『声』がなかった。
驚いても恐怖にかられても悲しくても、コルネは声を出すことができなかった。母の胎に声を忘れたのか。もともと発声器官がないのか。精神的なものなのか。原因は不明だった。生まれた時に誰もがあげる産声すらコルネにはなかった。そのせいで産婆には死んでいると勘違いされたという。
意思疎通はもっぱら筆談か指文字や手話だ。識字率の低いこの街において、コルネと会話ができる者は限られていた。馴染みの店ならば事情を知っているので上手く意思疎通をしてくれるのだが、初対面ではどうしてもお互いに苦労する。
少女は悲痛に顔を歪めた。
「かわいそうに」
憐憫の眼差しはコルネの心を騒がせた。今まで何度も向けられてきた、眼差しだった。同じ年頃の子にさえ見下されている。不快だった。アルトも母も自分をそんな風には見ていない。
コルネは乱雑に神殿への道順を手で示した。自分でも意地が悪いと思うほど素早く。理解できるのは慣れているアルトか母くらいだろう。少し手話を嗜んだ程度の修道女に読み取れるはずがない。それでも構わなかった。
声が出せるからといって何が偉いのだろう。多少便利なだけではないか。
コルネは手を振って、今度こそ少女に背を向けて立ち去った。正確には、その場から去ろうとした。
「神殿に帰る気はないの」
コルネは足を止めた。思わず振り返る。
「すごいわ。そんなに早く手で話せるなら、たしかに声がなくても困らないわね」
少女は再び「本当にすごいわ」と言った。純粋に、ただ感心していた。
「さっき偉そうなことを言ったのは謝るわ。ごめんなさい」
少女は理解していた。あの高速手話を。何故コルネが不快になったのかも。
コルネは茫然とした。同年代の子はおろか、大人ですらもコルネの心情を汲み取ってはくれない。理解を求める方が間違っていると思っていた。
「あなたを見込んでお願いがあるの。私を助けて」
まじまじと見つめるコルネを物ともせず、少女は流れるような仕草で名乗った。
『私の名前はアミィ。あなたは?』
自分の名前を訊ねているのだと気づくまで、時間がかかった。コルネは我に返り、慌てて名前を示した。辿々しい指文字になってしまった。
「……コルネ?」
コルネが首肯すると、少女ーーアミィは満面の笑顔で手を差し出した。
「よろしく、コルネ」
握手を求められたのは生まれて初めてだった。施しか請求か、差し出される手はいつだってコルネを下に見ていた。家族以外で、初めて対等に扱われた。
コルネは了承の意味を込めて差し出された手を握った。