知識は財産、知恵は力
コルネ=ナイトレイ。姓は母から受け継いだ。父の名前は知らない。母に訊ねたら「権門勢家のどれか」と大ざっぱに返答された。致し方ないことだった。コルネを生んだ母自身でさえ父が誰なのかわからないのだ。
コルネの母は高級娼婦だった。それも街で一番の人気を誇る娼婦だった。サロンには知識人と呼ばれる学者や権力者達が集まり、深い教養に裏打ちされた母との会話を楽しんでいた。柔和な語り口、美しい容姿、洗練された所作、豊富な知識とそれを活かす知恵が母の魅力であり、武器だった。
母は『恋人』から贈られた屋敷でコルネとアルトを育てた。乳母を雇い、家庭教師を招き、貴重な書物を買い集め、学校に通わせた。歴史、文学、数学、政治、思想芸術と分野は多岐にわたった。平民女性の大多数が読み書きできない国において、宮中の文官や学者と差し支えないほどの教育を二人の子に施したのだ。
「知識は財産。知恵は力」
事あるごとに母はそう言った。声を荒げたり、涙を流したりしない母が、唯一頑として曲げなかったのが『教育』だった。
良家の子息が通う学校で、娼婦の子であるコルネとアルトがどんなに蔑まれようと、耐えかねたアルトが泣き喚こうが連れて行った。時にはサロンの隅にコルネとアルト二人を座らせて、研究者の講釈を聴かせたりもした。家業を手伝ったり、職人の徒弟になったり、下働きとして奉公に出される年頃に二人がなっても、屋敷に様々な分野の学者を招いて講義を受けさせた。
やがてコルネとアルトが医術に興味を示すようになると、母は高名な医者達を教師として呼び寄せた。この点においても母は徹底していた。医術のこやしになりそうなものは片っ端から揃えた。二人は、正統派の医術はもとより、数少ない解剖を専門とする者から人体の構造を教わり、辺境の地で呪術師と呼ばれている者から多種多様の薬草について学んだ。
アルトが八歳になった時、母は彼を養子に出した。宮中で配室長をしている者に口をきいてもらい、代々王家の主治医をしている家の嫡男として。娼婦の子では想像できないほどの大出世だった。頭脳明晰なアルトの将来性を買ってのことだ。母が施した英才教育の賜物といえよう。
千載一遇の好機をしかしアルトは泣いて嫌がった。たった一人の弟だ。もちろんコルネだって寂しかった。同時に、たった一人の大切な弟だからこそ、ずっと一緒にはいられないことをこの時既にコルネは知っていた。
母にならってコルネは笑顔で、弟を送り出した。アルトに引けを取らないほどの知識と知恵を持っていながら、コルネはただ見送ることしかできなかった。女に生まれた。生まれながら他人よりも不利を背負っている。たったそれだけの理由で、医者にも学者にも、宮殿の文官にもなれない。別離の侘しさ、家族を失う悲しみ、そして嫉妬を覆い隠して、コルネは微笑んだ。いつも微笑んでいた母と同じように。
コルネは十を過ぎても母の元にとどまっていた。
口さがない人達は「娘を権門勢家の妾にしようとしている」だの揶揄していたが、それにしてはコルネの容姿は母に比べてあまりにも平凡だった。母も娘を着飾ろうとは考えていないようだった。高い化粧品や流行の髪染めをするのは母だけで、コルネには職人階級の子と同じような服しか与えなかった。その代わり、作法はしっかり叩き込まれた。掃除や洗濯、裁縫も一通り仕込まれたので、生活する上で困ることはなかった。
コルネ自身も綺麗な服や髪飾りよりも古代語で書かれた歴史書の方に興味があったので、別段不満に思わなかった。お嬢様が嗜むような絵画、歌や楽器になど興味はないーーないが、やはり疑問ではある。
『私はいつ嫁ぐの?』
なんの気無しに訊いたら、母は「好いた方でもいるの?」と訊ね返した。いるわけがない。毎日母と母が呼んだ有識者や恋人としか顔を合わせていない。街を出歩いてもコルネの生い立ちが広まっているからか、遠巻きに好奇の眼差しを注がれるだけ。コルネには恋人どころか友人すらいなかった。
「好いた方がいないのなら、無理に嫁ぐ必要はないわ。女だから必ずしも誰かと結婚せねばならないものでもないでしょう」
その通りだ。しかし手に職がなく、学のない女性は男性に傅いて生きるしかない。コルネのような人間ならばなおさらだ。
「卑屈になるのはおやめなさい。弟を妬んだところであなたは医者にはなれないのです」
不条理だとコルネは思った。いくら努力しても自分は報われず、弟は男だというだけで報われる。生まれた時点で定められている。ならばいっそ最初から夢など見なければいい。
コルネの心中を汲み取ったのか、母は苦笑した。
「理不尽で、不公平で……それでも努力を怠ってはなりません」
母は商人の家に生まれた。コルネと同じように着飾ることよりも算術に興味があり、才能もあった。しかしやはり、女だからという理由で家督は継げなかった。弟が商売に失敗した負債を帳消しにしてもらう見返りとして、姉の自分をどこかの商人の妾にしようとしていることを知り、家を飛び出した。
「夢を見て、貫きなさい。どんなに辛くても貫き通しなさい」
母は瓶に差している花束に手を伸ばした。恋人からの贈り物。咲き誇る大輪の花が母に似合うと言っていた。
「草は枯れ、花はしぼむ。それが世の道理」
たおやかな指が花弁を撫ぜる。
母は娼婦になる道を自ら選んだのだという。貪欲に知識を求め、容姿から所作まで美しさを磨き上げ、自分の価値を最大限に高めた。全ては世を牛耳っているーーと思い込んでいる男達をのぼせあがらせて、金と権力を引き出すためだ。それが母の生き方であり、戦い方だった。
「私の若さも美貌もやがては失われる。でも重ねた研鑽は失われない」
それは諦観ではない。覚悟だった。母は持ちうる全ての力を尽くして、普通の人よりも負担を背負って生まれたコルネとアルトに知識と知恵を与えた。不条理な世を生き抜く力を子どもに授けたのだ。
コルネの母は、この世で一番美しく、そして強かだった。