圧勝
走って走って、逃げ続けてーー我に返った時、琥珀はどういうわけか一年二組の教室前にいた。放課後なので誰もいない。静まり返った教室に入って、息を整えたところで、ようやく冷静さを取り戻した。
「ない、あれはない。ありえない」
琥珀は自分の席に突っ伏した。どっからどう見ても先ほどの自分は挙動不審だった。田中もさぞかし驚いただろう。驚くだけならいいが、さらなる怒りを買ってしまったかもしれない。何しろ、まともに礼も言わずに生徒手帳を突き返して逃げ出したのだ。
「……終わった」
気分は死刑宣告を待つ被告人だった。一体どんな報復措置が取られるのだろう。想像するだに恐ろしい。
ひとしきり恐怖の想像をしたところで、琥珀はふと思う。何故自分はこんなにも田中を恐れているのだろう。
入学早々に説教されたからか。あの独特の威圧感に恐れをなしているからか。どれも正しくないような気がした。もっと根本的な、生まれる前ーーそれこそ前世から植え付けられた本能的な何かが、琥珀の身体を竦ませるのだ。
(むかし、どこかで)
会っていたのかもしれない。可能性としてはある。転生したのが自分と弟だけとは限らない。何らかの理由で前世関わりのあった人が『田中』として生まれ変わったのかもしれない。
(誰だろう。有人が気づていないとすれば、神殿関係者か)
アルトは王宮に勤めていたので神殿のことにはあまり詳しくない。反対に、下働きとして神殿に住み込んでいたコルネは関係者を大抵知っている。
とはいえ、すべては憶測の域を出なかった。
転生の法則すら未だにわかっていない。アルトよりも何年も先に死んだはずの自分が、何故転生したら有人よりも年下で、他人になっているのだろう。
そもそも自分は転生できないよう、神獣に食べられたのではなかったのか。永遠の命を持つ神獣に吸収されれば、神獣が死ぬまで解放されないはずだった。
どうして、神獣は死んだのだろう。
「コルネ=ナイトレイ」
「ごめん。今それどころじゃあ、」
顔を上げて、琥珀は絶句した。
中肉中背のこれと言った特徴のない男子生徒。会うのは今朝以来だった。転校生の佐藤幸助が机の前に立っていた。
「……や、やあ」
防衛本能なのか驚くほど滑らかに言葉が滑り出た。
「迷ったの? 男子寮だったら下駄箱出て左の中庭突っ切った先にあるよ構内案内板もあるから迷うことはないと思うけど不安だったら警備員さんの控え所が」
「やはりコルネか」
立石に水のごとくまくし立てていた説明が遮られる。誤魔化されてくれないようだ。
ヤバい。これは本当にヤバい。
先ほどまでとは違う類の危機を琥珀はひしひしと感じた。シラをきるのは無理だろう。ではどう切り抜けるか。せめて有人の存在だけでも隠さねば。
幸助は琥珀の爪先から頭のてっぺんまで一通り眺めた。
「大聖女様のおっしゃる通りだな」
「それってアミィのこと?」
訊ねてから琥珀は自分の馬鹿さ加減に頭を抱えたくなった。認めているようなものではないか。
「アーミテージ大聖女様だ。御命令により罪人を捕らえにこの世界へ来た」
琥珀は弾かれたように席を立った。椅子が倒れるのも構わず大きく後退る。
「その様子だと、素直に協力する気はないようだな」
処刑なんて一回されれば十分だ。二回も裁かれたくない。
にじり寄る幸助。距離を詰められた分だけ後ろに退く琥珀。が、一番後ろの席のためすぐさま背中に壁が当たる。逃げるとすれば右か、左か。左は窓、右は廊下となれば右の一択ーーしかしそれは向こうもわかっているだろう。
どうする。どう逃げる。幸助が油断なく琥珀の動きを目で捉えたその折、琥珀は強く手を引かれた。
「突然逃走したかと思えば、教室で異性交際か」
右腕を掴んだ用務員もとい田中が底冷えするような声音で言う。追いかけてきたらしい。琥珀はこれまた別の意味で震え上がった。
「いや、これは、その……洞爺湖よりも深い事情が」
「言い訳は後で聞く。まずは中庭の雑草取りだ」
佐藤幸助の存在などお構いなしに琥珀の腕を握ったまま引きずっていく。
「待て。部外者が何を」
引き止めようと伸ばした幸助の手を田中が無造作に払ったーーと思った刹那、幸助の身体が半回転した。琥珀の目にはそう映った。
床に倒れた当の本人、幸助は何が起きたのかわからなかっただろう。まさか用務員が格闘家よろしく最小限の動きで、しかも片手で自分を投げ飛ばしたなどとは。
「部外者はどっちだ」
目を白黒させる幸助に、田中は無機質な声で告げた。
「校内での不純交際は禁じられている。転校生だから規則を知らないというのは言い訳にならない」
幸助の胸ポケットから真新しい生徒手帳を取り出し、持ち主に押し付ける。
「校則を頭に叩き込んでから出直せ」
生徒手帳には校内規則を事細かく記載したページがある。熟読するように言い捨てて、田中は教室から出て行った。琥珀の手を引いて。
なおも食い下がるかと思いきや、幸助は追いかけて来なかった。やはり彼も用務員・田中に恐れをなしたのだろうか。
「あの、田中さん」
怖いなどとは言ってられない。琥珀は覚悟を決めて田中に話しかけた。
「ちょっと確認させていただきたい、ことが、あり、まして」
「それは中庭の整備作業よりも重要かつ急を要することなのか」
「もしかしたら私の命がかかっている……かもしれないので」
田中は足を止めた。振り向いた顔は至極真面目な表情を浮かべていた。
「最優先事項だ。用務室で詳しく話を聞こう」