脱兎
意を決して中庭に向かった琥珀が目撃したのは、作業服姿の小柄な男性(田中)に土下座しているジャージ姿の男子生徒二人(たぶん当番の美化委員だろう)だった。文字通り、平身低頭謝罪する二人からは恐怖と切迫感が滲み出ていた。琥珀は校舎の陰に隠れた。こんな場面にのこのこと現れるほどの胆力は持ち合わせていなかった。
「俺は謝れとは言っていない」
田中は美化委員二名を見下ろした。
「何故来なかったのか、理由を訊いている」
静謐な声音は知性と品格をうかがわせた。話せばわかる。わかってくれると希望を見出せそうな、落ち着いた態度だった。
だがいかんせん、迫力があり過ぎた。無駄に。はたから見たら魔王に命乞いをする平民Aと平民Bだ。
「忘れたのか、急用が入ったのか、当番と知りつつ来なかったのか、考え得る理由はそう多くはない。どれだ」
どれかと問われても答えられるはずがない。命がかかっている。
「本当に申し訳ございません」
「だから」田中は謝罪の言葉を繰り返す男子生徒の前に身を屈めた「サボりの口実はなんだって訊いてんだ。とっとと答えろこのグズ」
凄みを帯びた言葉に男子生徒二名と陰に隠れていた琥珀は震え上がった。
(……他の用務員さんに預けよう)
生徒手帳を手渡しで本人に返却という選択肢は消えた。いや無理怖過ぎる。あんな魔王と対峙するくらいなら残りの二年半ひたすら逃げ回る方を選ぶ。
琥珀は息を殺して去ーーろうとした。
「遅かったな」
背中にかけられた声。琥珀は硬直した。悲鳴を堪え、動悸を鎮め、逃げ出したいのも我慢してゆっくりと振り返る。
「遅くなりまして申し訳ございません」
気づいたら琥珀は深々と頭を下げていた。もはや条件反射だった。
いつの間に尋問を終えていたのか。魔王もとい用務員の田中は「流行っているのか」と呟いた。
「どいつもこいつも、やたらと謝罪をしたがる」
そりゃあんたが怖いからでしょう、とは言えなかった。怖いから。
「責めるつもりはない。他に用事でもあったのか」
いぶくんか柔らかい口調で訊ねられても、琥珀は顔を上げることができなかった。
よくよく考えれば、当番でもなく親切に手伝いを申し出ただけの琥珀が遅れてやって来ようが責められるいわれはない。田中とて道理はわかっているだろう。彼は人一倍以上怖いが、理不尽に責め立てるような人ではない。だからこれは純粋な、全く他意のない疑問なのだ。
しかし恐慌状態の琥珀はそんな簡単なことすら判断ができなかった。ヤバい。殺される。死ぬくらいならまだいい。死よりも恐ろしい目に遭わされる。
「……何か、あったのか」
田中が覗き込む。それが限界だった。
「先ほどはありがとうございましたぁ!」
緊張に耐え兼ねた琥珀は田中に生徒手帳を押し付けて踵を返した。「おい、待て」だの言われたような気もするが、一度走り出した足は止まらなかった。むしろ止まったら死ぬ。肉食動物に捕食された草食動物の行く末なんてみんな同じだ。