生徒手帳
「呆れてものが言えません」
案の定、放課後お詫びと生徒手帳返却のため準備室に伺うと有人から冷たい視線を浴びせられた。
「言った直後の授業に遅刻とはどういう了見ですか。姉さんの見識を疑わざるを得ませんね」
「大変申し訳ございませんでした」
平身低頭で琥珀は謝罪した。言い訳はすまい。役に立つどころか弟に助けられている始末。自分でも情けない。
「ところでこの生徒手帳って有人の?」
大切に保管されていたようだが、経年劣化でカバーが少し色褪せていた。スケジュール欄には平成の文字。記載されいる校則や緊急連絡先などの情報から察するに、少なくとも十年以上は前のものだ。
そしてこの生徒手帳、氏名欄が黒で塗り潰されていた。書いた後で誰かが消したのだろう。
「いえ、それは……」
珍しく有人は口ごもる。
「有人のじゃないの」
「僕はこの高校出身ではありません。それは田中さんからお預かりしたものです」
予想だにしなかった名前の登場に、琥珀は手に持った生徒手帳をまじまじと見た。
「田中さんって、用務員の田中さん?」
「それ以外の田中さんがいますか」
有人は首をかしげた。
「一緒に草刈りしたと伺いましたが。あなたが教室から視聴覚室に向かって全力疾走しているのを見たそうですよ。それで生徒手帳を口実に助け舟を」
驚いた。田中がこの学校出身であることもそうだが、何よりも自分を助けてくれたことが、だ。
「ちゃんと返しに行ってくださいね。忘れずにお礼も」
「え……」
たしかにこの後、草むしりすると(一方的に)約束していたが。田中とは特別親しいわけでもないので、さっさと作業を終わらせて寮に帰るつもりでいたのだ。
「まだ引きずっているんですか? 半年近く前のことですよね」
「そうだけど、なんか……どうも苦手で」
琥珀は視線を泳がせた。
おそらく田中自身は覚えてもいないだろう。非常に些末な出来事だった。
琥珀が入学して間もない頃にさかのぼる。事の発端は、聖良のプリントが何かの拍子で裏庭の木にひっかかったことだった。
途方に暮れた聖良に助けを申し出たのが琥珀だった。背丈よりは高いが、太い幹だし折れはしないだろうと軽く考えて琥珀は枝に掴まってよじ登った。
よもやその木が、この学校の理事長がじきじきに植えたもので、用務員達が手塩にかけて育てている大切な木だとはまったく気づかずに。
新入生が記念樹の枝にぶら下がっている。恐るべき光景を偶然目撃した用務員・田中の行動は早かった。彼は枝にしがみついていた琥珀の首根っこを問答無用で掴んで引きずり下ろした。
ここで模範的な人気教師の有人みたいに「スカートで木登りするなんて」だの「そんな危ないことをして、怪我したらどうするんですか」だの小煩くも気遣いの言葉を掛けられたのなら、琥珀も素直に反省して終わっただろう。
しかしそこは用務員の田中氏である。生徒の都合なんて知ったことではない。目を白黒させた琥珀を冷たく見下ろし『てめえは猿か。ふざけんのも大概にしろ』と忌々しげに吐き捨てた。
騒動の最中、聖良のプリントが風で飛ばされてしまおうが全く頓着しなかった。無理矢理引っ張られた琥珀の手が擦れたことよりも、木肌に傷がついていないかを田中は心配した。そこまで生徒を蔑ろにするとはいっそ清々しい。
大切な木の無事を確認してから、田中は琥珀含めその場に居合わせた生徒全員を整列させて事の経緯を説明させた。怒鳴り散らすわけではないが、誰にも有無を言わせない程の圧力を掛けてくるのだからたまったものではない。あれではまるで尋問を受ける犯罪者だ。風紀委員よりも、厳しいと有名な体育教師よりも、静かな声音で凄む用務員の方が何倍も怖かった。
その後、美化委員会に入ってから先輩に教えてもらったのだが『用務員の田中さん』は、秋霜高校における不文律の一つなのだという。
曰く「単身で事務所に殴り込み、ヤクザの組一つを壊滅させた」
曰く「素手で熊を殴り殺した」
などなど真偽不明の武勇伝には事欠かず、よくわからないけど恐いからとにかく逆らうなという暗黙の了解がまかり通っている。
「深く考える必要はありませんよ。誰に対しても彼はああです」
わかっているのだが、一度植え付けられた恐怖は払拭し難い。すっか黙りこくってしまった琥珀を気遣ったのだろう。有人は軽い口調で言った。
「どうしてもというのなら僕が代わりに返しておきます。でも田中さんとはこれからも遭遇するでしょうから、その度に気まずくなるくらいなら一回で済ませることをおすすめしますよ」