遅刻
辞書と教科書、ノートと筆記用の必要最低限の一式を持った琥珀が視聴覚室に飛び込んだのと、チャイムが鳴り終わったのはほぼ同時だった。ギリギリセーフ。琥珀は胸を撫で下ろした。
「宮野、遅刻とはいい度胸だな」
凄みのある低い声音が咎める。英語担当の望月影臣だ。今日も今日とて凶悪そうな面構え。歌舞伎町くんだりでみじかめ料でもせしめていた方がよっぽどお似合いだと思った。これで国立大学卒業で、海外の留学経験もあるというのだから驚きだ。
「お言葉ですが、本鈴は鳴り終わっていなかったので」
「五分前行動を心掛けろと何度も言ったはずだが?」
琥珀の言い分など歯牙にも掛けない。影臣は腕を組んで「それで、遅刻の理由は何だ」と訊ねてきた。完全に遅刻扱いだ。
「ちょっとお手洗いに」
「昼休み中、ずっとか」
そんなわけがない。わかっていながら訊ねる影臣の意地の悪さに琥珀は腹が立った。クラスメイトの失笑混じりの視線も恥ずかしい。かといって正直に有人と話していたと告げれば余計にややこしいことになる。
一体どうしたものか。有人に注意されたばかりなのにこの失態。問題の転校生がいないことだけが唯一の救いだった。
「どうなんだ」
「授業に遅刻して申し訳ございません」
「理由をきいているんだ」
言いたくないから謝っているんだ。そんな琥珀の都合を知るよしもない影臣がさらに追及しようとしたところで、視聴覚室のドアが控え目にノックされた。
「授業中に失礼いたします」
突然入室した教師にクラスメイト達がーー特に一部の女子がざわつく。琥珀は目をしばたいた。先ほど別れたばかりの有人が現れたからだ。
「夜光先生、何かご用でしょうか」
「落とし物を届けにあがりました。大切なものですので早めの方がよろしいかと思いまして」
有人が取り出したのは、生徒手帳だった。
「昼休みに雑草取りをしていた際に落としたようです」
「雑草取り?」
「美化委員会の活動の一環ですよ。熱心に手伝っていたそうで……予鈴が鳴って慌てて戻ったので、落としたことに気づかなかったのでしょう」
影臣とクラスメイト達の前で有人は琥珀に生徒手帳を手渡した。琥珀の生徒手帳ではない。自分のは胸ポケットに入っている。だからこれは誤魔化すための口実なのだ。
「熱心なのは結構ですが、学生の本分を疎かにしてはいけませんよ」
教師らしく、優しく微笑みながら注意。しかしその目は全く笑っていない。一番近くにいる琥珀だけにしかわからないだろう。有人の視線を直訳すれば『言ったそばからよくもまあ遅刻なんてやらかしてくれますね。呆れてものが言えません』だ。
「……以後、注意いたします」
蚊の鳴くような声で謝罪した。有人が席につくように促し、琥珀も素直に従った。
その間に放課後の予定にもう一つ『有人への謝罪』を付け足した。弟が根に持つタイプであることは前世からの教訓でよく知っていた。
「では私はこれで。望月先生、失礼いたしました」
有人によって勝手に解決された影臣は消化不良だろう。しかし席に座ってしまった琥珀をもう一度立たせて責めるのも不自然だし、やり過ぎという批評を受けかねない。
影臣は取り繕うように「教科書の百二十ページから始めるぞ」と声を張った。
「私達の当番は先月……でしたよね?」
琥珀の後ろの席ーー海宝聖良が小声で訊ねる。同じ美化委員なので気にしているようだ。
「そう。でも今日当番の人がサボったみたいで」
「私の記憶では二年五組だったかと。学年もクラスも違う宮野さんが何故代わりをしなければならないのですか」
琥珀は苦笑した。生真面目な性格はアミィを思い起こさせる。
美化委員会担当の教師に報告してサボった委員達に当番を守らせる。それが一番正しいことだというのは、琥珀もわかっている。しかし現実問題として、当番をすっぽかす委員は後を絶たない。守らなくても内申には大して響かないし、結局用務員がやってくれるからだ。担当教師にしても、毎日大勢の学生が使う寮の清掃当番ならばいざ知らず、庭の草むしり程度にいちいちかまけてはいられないというのが本音だろう。
根本的な解決策がない以上、目の前の当番を誰かがこなさくてはならない。そして琥珀の前世で培われた下働き根性が炸裂した。ただ、それだけのことだ。
「たまたま通りかかって、大変そうだったから用務員さんを手伝っただけだよ」
「……その『用務員さん』というのは、まさか」
そのまさかだ。琥珀は一層声をひそめた。
「例の、田中さん」
「それはまた命知らずな方がいらっしゃいますわね」
聖良は深々とため息をついた。
十中八九、サボった美化委員は田中が今日の裏庭清掃担当だとは知らなかったのだろう。もし知っていれば、こんな愚かなことをするはずがない。