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#01

 月面基地を出発し、コロニー外縁周回軌道に乗ってから三十七日目にして、ようやく膨大な作業を終えた。宇宙船と呼ぶにはかなり小さいサイズである〈フレイヤ号〉も、乗り込んでいる人間がたった一人となるとそれなりに広く感じられる。宇宙船を人間十数人が乗り込む漁船とするなら、〈フレイヤ号〉はせいぜいクルーザー程度の大きさでしかない。



 弾丸のような紡錘型をした船体の、中心に設けられたメインシャフトを取り囲むように、シャワールーム、仮眠室、データを貯蔵するサーバー、エンジンコントロール室などが隣接し、円錐型の尖った船体の先端には、船外の状況を把握するために特殊強化アクリルガラスによる三重窓が設けられている。つまり、巨大な筒状の空洞であるシャフトから、すべての部屋へと扉一枚のみで出入りすることができる船体設計なのだ。



 サーバールームの量子通信コンピュータが、ウンウンと唸りを上げる。星間量子通信システムの処理能力と通信速度をもってしても、ペタバイト単位のデータを送受信するためにかかる時間は日単位だ。アイシャは大きな仕事がひとつ終わったことを実感しながら、うんと椅子から立ち上がり伸びをした。部屋全体に何十枚と広げられたホログラム・ディスプレイをすべて閉じ、部屋の隅に置かれたコーヒーメーカーで淹れた月面豆のブラックコーヒーをすする。衛星のプランテーションで採れる食物の中でもこれは絶品で、アイシャは基地へ立ち寄るたびに買い足し、仕事を終えるたびにこれを飲むのが、ひそかな楽しみだった。



「これは船長であるわたしの楽しみなのよ」と、アイシャはコンピュータの上に座り込むクルーの一匹に告げた。「そんなもの欲しそうな眼をしたって駄目だよ、ジュディ、あなたがこれを飲んだりしたらカフェイン中毒で死んでしまうでしょう」



 ジュディはいかにも退屈そうに欠伸をしながら、真っ赤な瞳を細めた。青っぽい灰色の尻尾がゆらゆらと揺れる。すると、物理キーボードの上に乗っていたジュディの身体がかすかにがたがたと揺れ始めた。コンピュータの排熱ファンが猛烈な勢いで回り、船内じゅうに張り巡らされた細い管を通じて、船外すなわち広大な宇宙空間へと熱を放出していく。



「こいつももう駄目ね、新しいのにしないと」



 アイシャはコーヒーを飲み終えると、壁に取り付けられた棚にしまい込み、がっちりと固定する。



「ジュディ、人工重力をカットして。余計な電力消費を抑えて、コンピュータの負担を軽くしなくちゃ、それから、ヴァン、メルク、コロニー内で受け入れ準備の整っているブロックを見つけてピックアップ、リストにしてわたしに送ってちょうだい」



 ジュディはぴんと立ち上がると、尻尾を複雑に動かし何らかの幾何学模様を描いた。同時に耳をぴこっと痙攣させ、ひげで空気を掻く。次の瞬間から、船内の疑似太陽光の出力が三割減衰し、人工重力が弱まっていく。それは数分の後に完全にゼロになり、船内はほぼ完全な無重力空間となった。

 アイシャは椅子の背もたれに引っ掛けたまま、リュウグウノツカイのように宙を漂う白衣を手繰り寄せて無理矢理袖を通すと、そのポケットに入っていた小型タブレット端末を取り出す。下部から伸びる有線プラグを引き出し、こめかみのソケットに埋め込みながらサーバー室の扉を開け、シャフトへと躍り出た。



 同時に、ジュディもまた壁を蹴り、器用にアイシャの後を追ってくる。慣性に従って宙を直進する身体を、手すりに尻尾を巻きつけて器用に壁のほうへ手繰り寄せ、そのまま壁伝いに先端部のブリッヂへと向かう。

 アイシャの網膜の中に、無数のホログラム画面が投影される。メール、ニュース速報、星間通信網の記録、その中の一番上にあったリストを開いた。メルクとヴァンがまとめたリストにピックアップされたポートのうち、最も近く、かつ、最も設備の整っている場所を選んで針路をとらせる。



「ジュディ、針路このまま。二十八時間後にバエル第三(ポート)に接続しよう、あそこからなら月にも連絡付けやすいし、それに便利屋のマクシムもいる。彼に口利きすればきっといろいろ手配してくれるはずだから。そうだ、サム! サム、どこにいる?」船内マップの中で蠢く赤褐色の光点の位置は、「サム、いつも言っているでしょう、外壁区画との隙間に入り込んだら駄目よ。いつ宇宙空間に放り出されるか分からないんだから。それより、バエル第三(ポート)に連絡して、接続の許可を取っておいてちょうだい。それが終わったらみんな、しばらく好きにしていていいわよ。そうだ、ご飯にしましょうか、みんな疲れたでしょう。用意しておくから、出来た人からブリッヂに来てね。ジュディ、手伝って、何を作ったらいいかしら」



 アイシャはタラップ状の手すりを蹴って、メインブリッヂに向かった。







 操舵席に居座るジュディは、無重力の中でも尻尾や四つの足を器用に動かしながら、きちんとバランスを保っている。地球上の一G下において狭い路地裏を駆け回り、ビルの屋上から飛び降りてもしなやかに着地する空間認識力、筋力、バランス感覚は、無重力下の宇宙船内においてもこれ以上なく機能している。

 地球は人間にとって暮らしやすく快適に成長しすぎてしまっているのだ。アイシャは実際、無重力下での生活にはいつまでたっても慣れずにいた。遅めの昼食を終え、ブリッヂに据え付けたソファにベルトで身体を縛り付けてしばしの仮眠をとり、バエル第三(ポート)までの残り十八時間ほどの少し長い移動の間に、溜まっていた仕事を片付けようと目を覚ましたとき、いつの間にかお腹の上に寝転がっていたメルクがうんざりと起き上がった。深緑色の目を細めるとアイシャの身体を後ろ足で蹴ってシャフトの中を泳いでいく。



 眠い目がようやく晴れてくると、目の前で眩しい白い光がいくつも明滅しているのに気が付いた。妙に寝つきが悪いと思ったら、このせいだ。そこには仮眠をとっていたせいぜい数時間の間にアイシャが受信していた大量のメッセージが表示されている。こめかみに突き刺さったままのジャックをうんざりと引き抜いた。つけたまま眠っていたのが良くなかったのだ。



 身体の一部を義体に置き換えた人間は夢を見ることができない。

 未だに解明されていないこの人間特有のメカニズムに、アイシャ・リェも例外なく当てはまっていた。機械式の義足と、地球と宇宙、月、火星を頻繁に行き来するために通信社の保険で施術した心肺機能とは、アイシャから夢という世界を奪ってしまった。眠っている間にアイシャの脳の中でどんな働きが起こっているのかはまったく想像できないが、外部通信機器と接続したままの眠りから覚めた時の不快感は、形容するに如何ともしがたい。



「集合、全員集合よ」タブレットをスクロールしながら、アイシャは呼びかけた。「ジュディ、みんなをブリッヂに集合させてちょうだい。ちょっと聞きたいことがあるわ」



 ジュディは形ばかりの操舵席の上で立ち上がると、尻尾をぴこんと立てて耳を震わせ、みゃお、むぉあ、と短く鳴いた。その間にもアイシャはタブレットに浮かび上がるメッセージにひとつひとつ、目を通し続けた。重要な仕事の連絡もあれば、新たなクライアントからのメッセージもある。巨大企業からの引き抜きの連絡もある。しかし、それらは全体の中ではほんの一握りだった。受信したメールの大半は、文字化けのひどい、いくつもの言語をごちゃまぜにしたような意味不明な文字の羅列で作られていた。例えば、こんな風な文面だ。




慯 慯 Authority Komiku Mikomisemu, Mishimu Misumimikimu Weite Imimiomishi Miomio Mikumishimu? Messen Sie die Zeit? Omikemu? In Abwesenheit der Hälfte IMI jüdischen Bohai? - Denbora miselleomike micelle, Misumio Mikimisumimus besoak hiru Mississauga maite ditu, Miss Mita hiru sufrimendua. Mikaiah Sumyukiren izeba haziak - Amy's half time gum intimate? Imisemiomike three times more than Kim's time and three times bitter? Mimiamisemu lost Semike, without three immediately in the male wizards, miso, three bites, not three miserable three bitter three bitter Misha, Miomio When our software? Mimi beauty? COMτMiemu? - Now Kamiamoo? MI "Mishimiomisumu Misemiemisumi Misomu? You love me Sami Amy is shaking.




 電脳技師の必須技能に暗号解読が挙げられる。それはアイシャも例外ではなく、文字列を見ただけで元の文章がいかなるものか、いくらか想像することはたやすい。十分ほど時間をかければ完全に解読することも可能だろう。重要なのは、このメッセージがなぜかデコードされずに手元に届いている点だ。量子通信の技術が普及した現在では、「文字化け」をはじめとしたメッセージの破損やバグの発生は、事実上起こりえない現象だからである。



 ほどなくしてブリッヂに全員が集合し、アイシャの合図で七匹の猫が横一列に整列した。そしてひとりひとり、点呼を取る。



「ヴァン」金色の瞳の猫が鳴く。



「サム」赤褐色の瞳の猫が鳴く。



「ディマン」空色の瞳の猫が鳴く。



「ラン」銀色の瞳の猫が鳴く。



「マル」青緑と、黄色のオッドアイの猫が鳴く。



「メルク」深緑色の瞳の猫が鳴く。



「ジュディ」真っ赤な瞳の青毛の猫が鳴く。



 アイシャはふん、と安堵の溜息をついた。

〈フレイヤ号〉のクルーたちは、全員がほとんど同じ姿をした、同じ毛の色をしている雌の猫だ。年齢はそろって四歳、一匹を覗いて、黒く長い毛の、尻尾の長い、同じ雑種の猫である。なぜなら、彼女たちはまったく同時に生み出された、同一種のクローンなのだ。とある黒毛の猫の卵子から培養された、まったく同じ七匹の猫だ。

 ただし、外部からの個体認識のために遺伝子に調整が加えられ、瞳の色だけが異なっている。それ以外は黒い毛の色、長さ、毛並みの手触り、どれをとってもほとんど同じだ。例外としてジュディだけは遺伝子異常によって、青白い毛並みをしていた。アイシャはこのジュディを特に可愛がってはいたが、他のクルーたちも差別的な扱いをすることはなかった。



「自己認識に問題はなしね」



 タブレットに表示されるバイタルデータの数値にも全く異常は見受けられない。遺伝子レベルでほぼ同一の個体が、フレイヤ号という狭い船内で共同生活を送ると、誰が誰なのかという個体それぞれ自身の認識が曖昧になってくる恐れがある。それを防ぐために定期的なチェックと、日々のケアが必要なのだ。例えばこのクルーたちのように、それぞれに違った名前を与え、船内での役割をそれぞれに与えることで、自分は何をしている、何という名前の、何者なのかを常に意識させている。

 そこで、だ。キャプテン・アイシャは改めて整列した忠実な部下たちに問いかけた。



「このデータを受信したのはだあれ?」



 アイシャがタブレットを掲げると、七匹のクルーたちはそろって同じ仕草でそれを見上げた。



「差出人も不明。送信元のサーバーも不明。使用言語も不明。ここまで徹底的にクラッシュされたデータが、断続的に受信されている。最初はロンドン時計で三時十七分。次は三時十九分。少しとんで、五時二十一分。その後は五時五十二分、五時五十三分、五時五十五分に、全く同じ文字化けの文面が、それぞれ二通ずつ。ふだんかしこいあなた達が、こんなに怪しいメールをわざわざ受信設定しているわけがないわよね。怒らないから、名乗り出て見なさい。一体、誰がこのデータを受信したの?」



 クルーたちは目を見合わせていた。あるいは、きょとんとした目でアイシャのことを見つめ返していた。アイシャの口からため息が漏れる。クルーたちのうなじの辺りに内蔵されたシリコンチップでバイタル面での変化は事細かに感知できるが、さすがに嘘をついているかどうかまでは分からない。というか、この猫たちが嘘をついたことがあるのかどうかすら知らなかった。なぜなら確認する術がないからだ。



「ディマン、今日はあなたが船内データの管理をする当番だったわよね? このデータを誰から受け取ったのか、教えてちょうだい」



 すると赤褐色の瞳のディマンは、にゃああ、と高い声で鳴いた。誰の方も見ていない。



「あなたが自分でわたしのタブレットに送ったのね? それじゃあ、これはどこから受信したの?」



 今度はだんまりだ。普段は素直で、アイシャの言うことを何でも聞いてくれるクルーたちだが、ここまでかたくなな理由は一体何なのか? それとも、自分がどうやってこのメールを受け取ったのか、本当に自分自身でも知らないのだろうか?



「ディマン、あなたのメディカルチェックをするわ、ついていらっしゃい――ほかの子たちはそれぞれの配置について。今日の通信担当はラン、あなたよね? バエルから連絡が届いたら、すぐに教えてちょうだい」



 猫たちはそれぞれの場所へと散っていく。ジュディはブリッヂの操舵席に我が物顔で居座り、ディマンはアイシャに抱きかかえられ、にわかに身をよじって抵抗を見せていた。



「我慢しなさい、あなたが万が一にも、感染していたりしたら大変なことだわ」

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