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歴史とDNA

古代中国の謎の影

作者: とびうお君

 私は中国農耕オリジナル説は妥当性は高いと思ってる。ただ完璧って言うほどのものじゃない。それと言うのもアワキビの起源ってのが未だにごちゃごちゃと異論を唱える人が居る。ただし、肯定否定で熱い議論にはならない。それはまず第一にアワキビ農耕の遺跡の年代が古いからになる。農作物としての起源と、考古学的な起源って意味でかみ合ってない。これが議論になる根幹になってる。


 考古学の学者はとにかく考古学的発見が無いとまともに取り合わない。もちろん近年目覚しい分子生物学の進歩により無視するような事は無い。ただ重視してくれない。この点では中国政府の自画自賛とかそういうレベルの話じゃない。考古学的には日本の学者も中国農耕オリジナル説は常識化してしまって再考するようなテーマではない。それと言うのもそんな事をやるぐらいなら他にやる事があるから。


 ヤンシャオ文化の発見から2000年になる前にすでにもう1つ前の段階の遺跡が見つかっていて、ヤンシャオ文化の前駆的なものとされている。これがとにかく古い。確実か?は言えないけど、妥当常識の範囲では約8000年前は固いとなってる。中東に農耕の起源があるとして、そこから伝播するのに何年掛かる?となる。中東の農民が中国に着いたときにはもう中国では農耕が始まっている。それぐらい古い。


 ここから長江文明が発見されて、その後遼河文明が発見され、今中国は古いものより、そういった多元的な関係を捉える方向に移ってしまっていて、もう中国オリジナルで良いだろ?みたいな形になってる。何故なら考古学的発見が出ないからになる。いろいろと推論は多いが、他に考える事があれば、基本考古学者は考古学的発見=物証が出るまでは無駄に考えない。推測や憶測するテーマがもう移っている。


 最近の話しはこれに分野外とも言える人たちが疑問を投げかけてるのが多い。新しいアプローチと言っても良い。私もその方向性で見てるので、考古学的的常識とは随分ずれてると思ってる。私はその中で思想的に捻じ曲がった虚偽を撒き散らす輩が我慢できないので、それを強く批判してるが、私はどっちかと言えば常識外れの話をする事が多い。


 アワに関してはキビよりも多元起源説が強くなっている。おそらくキビよりアワの方が農作物として全世界的に発達してるためよりその地域で栽培化されたようにしか見えないだと思う。常識的にはキビよりもアワは多元的起源での中国起源説に異を唱えるのが常識外れだと書いておきたい。


 それでも私はその方向性で見てしまう。アワに関してもそういった視点での研究があった。アワはエノコログサが野生種らしい。このエノコログサに近い種を探していくと、アフガンの種が中々良いらしい。またアフガンだ。インド北西部も含めても良いのだが、キビと異論で出てくる起源が重なってるのは偶然だろうか?中国の最初の栽培作物はアワとキビになる。


 何故こんな怪しいのに中国起源説がまかりとおるのか?そこが最初に話した考古学は考古学的発見=物証によって学説が捕らえられるからになる。ルートもさっぱり分からない。誰が栽培化したのか?も分からない。農作物の起源としては変だと思っても、それが突然中国に飛んできたのか?考古学的には中国起源にしかなりようがない。それを私も分かってしまう。


 このあたりが限界かな?とは思うけど、古いものがかなりポコポコ出ていて、これは結構新しいが、遼河文明に属する文化でも新たにアワの栽培の可能性に繋がる発見が合ったらしい。遼河文明は狩猟採取が特化して進化した文明になる。高いレベルの狩猟採取文化として、日本の縄文文化にも影響を与えた可能性が示唆されている。


 もちろん、他の地域が一番古い。だがその差が500年程度しかない。C14分析だと思うが、これずれがかなりある。それを見越して幅が設けてあるが、お互いのずれが逆転した場合因果関係が180度変わってしまう。もし北方の遼河文明が古かった場合私は問題だと思ってる。外から伝わった可能性を残すから。


 正確に年代を示してるなら、後の時代になるから、黄河文明の農耕が伝わったと見れば良いかと思う。以前私が示唆したけど、満州は中国のO2系で偏って出るのを話した。これは初期の頃に焼畑雑穀農業を伝えたものが原中国人で居ると見てるから。しかも満州だけじゃなくて、他の周辺地域もこれがあって、チベットも似たような系統、鮮卑に属するO2系統もこの子孫になる。


 最初は周時代に広がったと思い込んでいたけど、おそらくもっと前。先史時代に広がったものじゃないか?と見ている。分岐年代も古いのも理由になる。


 ただ中原を中心に広がったものと、回りからやってきて定着したものがどっちが多いってほどじゃない。歴史時代になるほど中国発が多くなって、初期は回りからの影響がすごく多い。


 以前から問題になっていた彩陶はなんとも言えない。系統の違いが言われてるけど、これは中国内部の系統の違いで、外部による影響なのか?なんとも言えない。ただ河南と山西省と陝西省。この3つに遺跡が中原の中心になる。陝西省の歴史が古くて、西方から伝わったとする説が過去あったが、アワキビとともにここから彩陶の起源とも言えるようなものが出土する。


 農耕は確かに中東は古いので、まだなんとも言えないが、中東で彩陶が現れたのはメソポタミアで、ほぼ同時になるような時代だとちとまずく無いか?となる。可能性としてはまだ年代測定が信じきれないのでそこに問題が残るのと、アワキビが来たならついでにと言ってしまいたくなる。ただ中東における農耕の起源の古さと、メソポタミアと言う限られた地域の起源の古さじゃまるで違う。


 彩陶西方起源は、ヤンシャオ村の遺跡が発掘された時のヤンシャオ文化の時代が古くてBC5000年程度だったのが大きい。今は幅を持たせたもので、古くてBC8000とか7000がこれらの陶器の起源として発掘されている。正直西方からの影響はかなり苦しいと思う部分がある。可能性としては否定できない。ルートが特定できないだけで、様々なものが西方起源なので、簡単には否定できない。


 私は起源よりも、途中で西方由来の文様が混ざった場合どうなるのか?と見てる。それと言うのも、例のコーカソイド集団の問題で、山西省と陝西省で時代も違うのだが微妙に文様が違う。古い陝西省の彩陶は具象的な絵柄が多いらしい。それに対して山西省は抽象的らしい。一応もう統一されたと言う常識になってるけど、別の東の文化からの影響じゃないか?といわれていて、河南や山東に近づくほど、コーカソイドがハプロで出ている点がどうにも気に成る。


 通常は西から影響があった場合にコーカソイドになる。だが偏って河南からRハプロが出て、過去山東省の人骨から集団そのものが西方由来のもの強く出た発見を重ねると東こそ怪しいと見てしまう。


 後の時代に甘粛省で幾何学的な模様の彩陶が多く出たのは、初期の頃に地域差がすでにあって、そういったものが偏って創られたからじゃないか?と見てる。ただ微妙に甘粛省のは素人目に見て違う部分が合って、妙に直線的な模様も多い。山西省のものは抽象的でも曲線が多い。この点幾何学模様は中東の物に近くなる。


 ただ無いわけじゃない。そこがややこしくなる。後の時代になるのと、後に甘粛省の付近でも別の古い遺跡が出てそっちで発展したものかもしれない。西方の影響があったのか?といわれるとなんともいえない。時代が後過ぎて、かなりいろいろな模様が出土してて、私もいろいろ見たけど、甘粛省だけが西方の影響だと考えるより、過去中原で作られた模様が偏って描かれただけじゃないか?と見てしまうから。


 甘粛省だけ西方の起源の可能性があるは他にも言ってる人がいるけど古い。それからたんまり古い遺跡が出てしまったので今更アンダーソン仮説は懐かしいものになってしまっている。私は地域的文化差に西方集団の影響があったのじゃないか?実体は一切無いが、西方集団の影みたいを探ってる感じが有る。曖昧模糊として実体が無い。


 そういえば朝鮮と中国のアワが近いというのが合った。なおかつ、朝鮮の雑穀農業が古い話も別の話しであった。先史時代に移動したはずだと書いたけど、その読みが当たった一つの例。原朝鮮人としてNは中間になるかも?と書いたけど多分これ。旧石器時代じゃなくて、新石器時代に移住してきた集団。近いのは、中国をルーツにしてるから。朝鮮に来てるなら満州にも当然来てるはずだから。


 骨が出ないのは定住稲作が多い海岸部の集団じゃないからだと思う。Nがそれなりに韓国もいるのでおそらくこの集団かと。


 後仮に来たとしたら?としてアフガンやインド北西部からのルートを考えてみた。南方のインドルートがあるらしい。南方ゆえにアワの栽培なんて可能か?と思ったら。焼畑なら可能らしい。アワは過酷な環境でも良く成長するので重宝するが、逆に他の植物でも生育可能ならそれに押されてしまうそうだ。でも焼畑ならそれが除去可能。


 ただ山岳焼畑って、長江文明なら繋がってるけど、黄河文明だと怪しい。言ってる事違うじゃないか?となるけど。後の時代になるとアフリカからやってくるんだけど、農耕初期に焼畑によって四川省のあたりを通ってインドから伝わったって話はちと苦しい。焼畑はほとんど遺跡が残らないらしいので、確かに好都合だけど。


 後は、キルギスのあたりを通る山岳ルートと言うのがあった、タリム盆地の集団このルートも考えられるって話しでかなり後の時代になる。それでもBC3000、40000付近の話しなので、青銅器やパン小麦の伝播に関わるルート。後アワキビは発見されて無いけど、アフガンで1万年前に農耕牧畜があった可能性があるらしい。ルートさえ特定できたら、可能性がすごく高まる。


 新しく分かったルートは両方とも後の時代なのでかなり問題。特に山岳ルートは山岳民族の発展と言う形で伝播してるため、もっと前の時代だと標高が低くなってしまっていろいろと不都合が生じる。天山北方ルートの方がそれなら有名。山脈を避けるルートとしてあるけど、キルギスの高地をそのまま使うってのが斬新で、かつ、遺跡も発見されてて、考古学的にはタリム盆地のルートの可能性がかなり高くなったと見てる。


 農耕の中国起源説を単純に疑ってるわけじゃない。今回のテーマは何故考古学的には無視されてるか?になる。そして私が何故常識外れの話しが多いか?にも繋がっている。だから私の書いてる事は考古学的には非常識な話しだから。


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