第九話 ディアノイアの人たちの話
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テントのすぐ近くにその舞台はあった。
古代ギリシャのエピダウロスの劇場のように開けた野外ステージ。
扇のように客席が広がっていく巨大な舞台。
舞台道具を運んで設置していく。
団長さんが言ったようにそこまで辛くないけど久々の肉体労働。学生のとき以来だ。腰に疲れが溜まる。もう加齢か運動不足か考えるのはよそう。
この舞台は音響の設備など何も見当たらない。
ここから一番奥の席まで声は届くのか。いや、この世界は魔法もあるのか。もしかしたら声を響かせる魔法があるのかもしれない。常識にとらわれちゃダメだな。
でも気になることは他にもある。
「不思議そうな顔をしてどうしたの?」
「背景とか場面ってこれだけしかないのか? 演劇って幾つも場面が変わるイメージがあるんだけど」
物珍しそうにしている俺を気にしてシャンタさんが尋ねる。
気になってたのは舞台背景だ。
場面転換が多い舞台も珍しくない。激しく変わる場面を武器にしている劇団もあるぐらいだ。
でも“ディアノイア”ではたった一つ、街の情景だけを徹底的に作りこんでいた。
俺の演劇知識は素人に毛が生えたようなものだけど気になるものは気になる。
「もしかして魔法でなんとかするのか?」
「ううん、場面は一つで十分だよ。これが幾つも変わるとお客さんが着いて来れなくて困っちゃうし、神様だって怒っちゃう」
「え……ええ? 神様?」
「うん! よし、次は柵だね!」
シャンタは笑って答えるがふざけている様に見えない。
さっきからこれが続く。どうにも話が噛み合わない。やっぱり地球と価値観の違いがあるのか。うーん、難しい。
次は指示に従い、舞台の奥に柵を立てる。
「そういえばツバサ君はどこかで劇を見たことあるの? おじいちゃんの知り合いだしどこかの役者だったりする?」
「劇は月に一度仕事で見に行ってたぐらいかな。でも劇の知識は一般人レベルだと思う」
芸術的な記事を書くときには、なるべく専門的にならないように、わかりやすく、面白く。
そして素人が見て興味を惹かせるように書いた。
俺に知識がないのもあったけど。
「仕事? 仕事で劇を見るの?」
シャンタさんは訝しそうに覗き込む。甘い匂いがしてどこか落ち着かない気持ちになった。
そういえばおっさんたちは自分が異世界から召喚されたことを吹聴しないように言っていた。理由は教えてくれなかったけど不味いことがあるようだ。
これ以上厄介ごとに巻き込まれるのはごめんだ。注意しよう。
シャンタさんに怪しまれないようにぼかして説明する。
「そ、その舞台記事とかインタビューを書かされて」
「キジってなんだろう。よく分からないけど南ではそういうのがあるの?」
「え、あれ? おっさんたちと同じ反応? 雑誌とか知らない?」
コクリと頷くシャンタさん、というかさっきから墓穴を掘りまくってる気がする。
おっさんたちは世捨て人だから知らないだけと思ってたが、この世界では文字媒体が低く見られているかもしれない。
「ま、まあ南ではそれが仕事になるんだよ」
嘘をつくのは心苦しいけど仕方がない。
俺は南から来た行き倒れ、米沢翼。イシュバルト=ゴーシムハを捜しにきた男。
そういうことにしておこう。
「へえ、向こうはいろんなことやってるんだね。負けてられないなあ。でも演劇ならウチを見なきゃ話にならないよ! ここを使うことが出来る劇団なんてそうそうないからね!」
確かに。こんな広いステージは初めてだ。
舞台は広い。でもそれ以上に何千、何万人も入れそうな広大な客席。波のように舞台に向かってくる様はこれだけで名物になりそうだ。
客席をうっとりした目で見つめるシャンタさん。その目は夕日が挿し、紅く光る。
「ウチの公演は毎回ここが満員になるんだから、本当にすごいことなんだよ。そんな劇団世界中探しても絶対にディアノイアだけ!」
酔ったように喋るシャンタさん。
独り言のような未熟さを残す言葉と素朴な顔立ちが夕焼けに照らされて、何故か妖しく婀娜に映えた。
男を惑わす傾国の美女もここまで妖艶に笑わないだろう。
彼女は素で行っているのか、何かを演じているのか。傍から見ても分からない。
どこか官能的なその様に何かが駆り立てられるように胸が高鳴った。
「いつか私も幾万人のお客さんを前に演じてみたい、謳ってみたい。踊ってみたい。まだ何かを演るには経験が足りないけれども。いつかきっとここで、――ってあ痛!」
いつの間にか背後に忍び寄っていた虎耳の団長がシャンタさんの頭を叩くと、先程の少女の顔に戻る。
「馬鹿かてめえは! お前ェにはまだ早ェよ、気安く夢を語るな!」
「え、え、うわっ! もしかして口にしてました?」
「もしかしてもなにも全部口に出してるぞ! 寝ぼけてんじゃねえぞ顔洗って出直して来い!」
「うわっ、うわああ、は、恥ずかしいいい」
真っ赤な顔を隠すように手に顔を埋める。
恥ずかしいのは俺もだ。なにやってるんだろう、自分よりも年下の女の子に見蕩れてしまった。
高鳴る胸を無理やり抑える。まさかロリコンの気があるまいな(反語的表現)。
「それと、おい、兄ちゃん。そんぐらいでいいぞ。クソじじいがお前を呼んでる」
「へ?」
「さっきな、人が尋ねてきたと言ったらすぐ連れて来いってよォ。あの老いぼれ、こんなときだけ口出してきやがって。てめえが手伝ってくれてもいいのによ。大体いつも適当に……」
ぶつぶつと愚痴り始める団長。
溜まってるものがあるのか。勝手に恐ろしく感じていたが、愚痴っぽいだけの人かもしれない。
人は見かけによらない。
怖い顔の団長が愚痴っぽかったり。元気一杯の演劇少女が怪しく移ったり。
固定概念に縛られているなあ。
「もう手伝いはいいんですか?」
シャンタさんが俺の言いたいことを引き継いで聞いてくれる。
「そもそも引退しても、特例で劇員として置いてやってんだから少しぐらい助言してくれても……。ってああ、手伝いだァ? 終わりだ終わり! もうあがっていいぞ。それにサィボーリが見つかったらしくてな、これなら人手が足りそうだ」
「よかった、見つかったんですね。サィボーリさん、今度はどこにいたんですか?」
「街から脱走して芋虫に食われかけていた。涎まみれで、湯にブチ込んでる。しかしあんな雑魚モンスターにやられるとかどんだけ軟弱なんだ。情けなくなってくる」
「うわああ、芋虫ってあの弱いやつですよね。……うわあああ」
溜息混じりの二人。
サィボーリ何某が捕まったらしいけど、芋虫に食べられかけていたとかどこかで聞いた話だ。
というか屈強そうな団長さんなら兎も角、ほっそりとしたシャンタさんもあの芋虫を雑魚扱いするのか。
二度も芋虫に追いかけられて倒れたとか言わないようにしよう。
「じゃあ私もこれであがってもいいですか?」
「ああ? ってお前は…… 舞台準備だけなのに朝から買出しもやってくれたんだったな。この後もどうせ見るんだろうし…… うん、あがれ、あがれ! っと言いてェが、この兄ちゃんをクソじじいのところまで連れていてくれよ」
「いいですよー。どうせ何もする事ないですし」
「兄ちゃん! 突然だけど手伝ってくれて助かった。ゆっくりとクソじじいと話してくるといい」
追い払うように手を降ると「さて」とせっせと働く劇員に向かって、
「お前ら! こんな少ない人数でよくやったな! あと少しで舞台も完成だ! お前らは舞台にあがりはしないがふて腐らずよく付いて来てくれた! “ディアノイア”3代目団長として貴様らを誇りに思う! 最後まで気を抜くんじゃねえぞ!!」
声高に叫んだ。
役者らしい力強い声が通ると、「「「おおっ!!」」」と劇員の声が重なった。
「ほら、恐い人じゃないでしょ?」
それを見て自慢するようにシャンタさんが言った。
上司に不可欠な求心力とマメさがある団長だ。団員やシャンタさんも慕っているようだし。
「うん。初めは恐い人だと思ったけど、今は愚痴っぽいけど下に気を使える恐い人に進化した」
「恐いところは抜けないんだね……。厳しい人ではあるから外れてはいないけどね」
苦笑するシャンタさん。なにか思い当たることがあるのかもしれない。
舞台から降りて振り返ると団長が怒声を出し、本番前の緊張感が漂っていた。
日本ではこういうところを見なかったが、もったいないことをした。
それを見たら記事も変わったのかもしれない。……って何を考えている。
「じゃあおじいちゃんのところに行こう、ツバサ君」
「うん……。ってあれ変な音が聞こえて……?」
舞台の袖から裏に回ると変な声が聞こえてくる。まるで幼稚園児のような駄々を捏ねた泣き声。
「…… 嫌だあ、舞台にはもう上がらないぞ。団長には屈しない、芋虫の一部になってやるううう。このまま芋虫に溶かされてやるはずだったんだああ」
「サィボーリさん! いい加減にしてください! あんたが主役なんですよ!」
「やだよ、やだあ。団長に噛まれるのも嫌だけど、御客のまえで恥を晒すのも嫌なんだよお! 芋虫になって一日うごうご蠢いてやるんだ…… 」
「あ、こいつまた逃げようと……。しょうがねえ、一度シメるか」
「貴君、そんなシメるなんて冗談止してよ。全然笑えないってなんで首に手をまわすんだ、貴君? きく……」
話の途中、ぐっと何かを締め付けるような音と蛙を踏み潰したような「ぎゅう…… 」という不自然な音が聞こえた。
おい、大丈夫か。
「全く。余計な手間駆けさせやがって。これで才能さえなけりゃ団長も無理に上がらせねえってのに」
「…… た、たすけ」
「こいつまだ息がありやがる。しぶとさだけは一人前だなあ。全く」
「や、やめ…… うぎゅ」
ふう、という溜息のあとずりずりと引きずる音。
冷や汗が止まらない。俺は聞いてはいけないものを聞いたのではないか。
「どうしたの? ツバサ君。汗かいてるよ?」
「いやそんな…… あ、ははは…… 」
「?」
言い争いを気にしていないシャンタさんの目を真っ直ぐ見れない。
どうも一筋縄ではない劇団のようだ。
何かを引きずる音を聞きながら、笑いを浮かべるしかできなかった。