第七話 芋虫に襲われる話(二回目)
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社畜は不屈の精神を持っている。
決定権を会社に託し、無理な納期に笑顔で答え、何かを堪え仕事に励む。時には将来の漠然の不安に悶え、仮眠室の枕を濡らす。堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍ぶ。不屈の精神ここにあり。不況の時代に望まれて生まれた悲しき兵士こそ社畜だ。我らに求められるのは本当の意味で血税であった。
では、過去の実績に裏打ちされた精神を称えるならば、その体力は一体如何なるものか。
無理な連勤に堪えられる精神は鋼。強靭な意志力に起因されているのであれば、身体はそれに着いていけるのか。
否、社畜についていけるのは、あくまでも精神だけである。肉体は当然の如く疲弊している。いつの間にやら身体は錆びる。去れど精神だけは若いまま。そして気付いたときには時遅し。学生時代のように仕事に励むが搾り取られた体力は回復する兆しもなく。
「マジかあ……」
頭がガンガンする。河口に辿り着いて遠くに町並みを捉えたとき、すでに息も絶え絶えだった。
舗装されていない道があれほど疲れるとは。スニーカーがボロボロになった。コンクリートの道が懐かしい。落ちてた棒を拾い、杖代わりに歩く様は惨めに見えることだろう。
ようやく街が見えた――と思ったとき、後ろからあの懐かしい声。威嚇のような、うなり声。振り返らなくてもわかる。
こいつはあの――
「ガアアアアアアアアアアアっ!!」
「やっぱりアイツかよ!!」
後ろを見ずに走りだすあいつらと一緒に食べた芋虫だ。どうやらこいつとなにか因縁があるらしい。辛い。
もう動けないと思っていたが、死ぬとなれば話は別だ。町に向かって一心不乱に走り続ける。
「はあ、はあ、はあ」
命辛々芋虫を振り切り、ようやく辿り着いた町の外壁の目前に倒れた。
まただよ、また。異世界に来て二回目だ。癖になったのかも。行き倒れが癖になるのは厭だ。
しかし体力は完全に尽きた。もう本当に動けない。
俺は悲しんだ。彼は棲家である地球の外に出てしまったのだが、如何せん体力はなかったのである。
なんたる失策であることか、と言いたかったが声に出せなかった。ふざけてる余裕も無さそうだ。
ああ、視界が黒く染まっていく――
父さん母さん、兄姉弟妹共よ、
山岡さんと同僚よ、
友人の有象無象よ、
米沢翼はここで往く。
では去らば――
「お兄さん、大丈夫? こんなところで行き倒れ? ダメだよー、お金とか盗まれちゃうよ?」
不意に温かい声が真上から。声に温かいって感想を持ったのは初めてだ。黒い世界に光が差したようだ。
「おーい、起きてますかー?」
どうやら誰かが俺に声をかけているみたいだ。地獄で仏に逢うとはこの事だけど、既知感。救ってもらうのはおっさんとのファーストコンタクトと合わせて二度目だ。
目を開ける気力も無く、軽く口を動かすが、喉が渇いて言葉にならず、口をパクパクと動かす。
「ああ、大丈夫みたい。でも何言ってるか分からないよ。お口パクパクして、なんだか魚みたいね」
死にかけの人を見てでた言葉がそれか。真上居る人は優しいけど、多分変な人だ。
「うーん。何か欲しいの? 折角お口が有るんだから話そうよ」
喉がカラカラで声が出ない、と言いたいが無駄を省いて力を振り絞り自身の欲求を言葉にする。
「み、みずを」
「み、ミミズ? 行き倒れに求められたのがミミズ? ……うーん、無視していくべきなのかな? 虫だけに。あ、うまい」
「ち、ちが……」
「違う? よかったあ、申し訳ないんだけど。ミミズはあんまり好きじゃないんだよね」
こんなところでベタなボケをかますなよ。ミミズが好きな人はあまり居ない。
なんとか目を開くと、飛び込んだのは水色の下着。固まる。
「ねえねえ、何が欲しいの? できることなら何でも聞いちゃうよ。はい、言ってみて!」
と言われても、目に映るのは水色の下着。この人の情報はパンツの色しか分からない。
というかこの人パンモロしてることに気付いてないのか?
「ぱん……。み、みずぃ……」
視線を逸らし、伝えようとするけど。
「ぱ、パンとミミズ? やっぱりミミズなの? さっきも言っていたけど本当に好きなんだね。しょうがない、ちょっと……いやだいぶ厭だけど探してくるね。ちょっと待ってて!」
「ま、まって……」
なんとか止めようとするが時遅し。視界に移るのはバタバタと走る女の子。相変わらず水色の下着も見えた。
……死ぬ前に女の子のパンツが見れた事を喜ぶべきなのかも。でもあんまり嬉しくない。むしろ辛い。
馬鹿なことを考えていると目の前が再び暗転する。もちろん比喩ではない。色々なものが限界だったに違いない。
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「…… っ」
「よかった。やっと目を覚ましたね。ここはどこだか分かる? ほら水飲んで?」
目が覚めると優しい声がかけられた。意識を失う前のあの声だ。
「確かタカハシティ……」
「当たり! 意識はハッキリしているようね。よかったあ」
どうやらたどり着けたようだ。運ばれたようで皮作りのテントのような建物の中で寝かされていた。なにかの道具がたくさん置いてある。
目の前にはあの水色パンツの少女。その側頭部に変なものが。ぴくぴく動いているけど、これってケモ耳?
「え、み、耳? 犬の耳が着いてる?」
「昔、犬に呪われてね。そしたら耳が生えたの。…… 冗談だけど」
「うん…… えっ、ああ、冗談か。驚いた」
「私こそ驚いたよ。いきなりそんな事言われるなんて。ああ、お兄さんもしかして南から来たの? 獣人族があまりいないって聞いたけど。これそんなに珍しい?」
「こう、なんというか。異世界ってすげえ…… 」
「そう感動されてもねえ」
想像はしていた。していたんだけど実、際目撃すると驚いてもしょうがない。
目前の少女の側頭部にはケモ耳がしっかりと。水を飲みながらじっと少女を観察する。
茶色のウルフヘアにケモ耳。ビー玉のような大きい目。そして素朴な柔らかい表情。高校生ぐらいの年かな。この年の娘ってすごいな。生命力が抑えられなくて生き生きと。俺にもこんな時代があったのか。
「そういえば、お兄さん言ってたミミズとパン持ってきたけど、どれから食べるの?」
「うっ」
「パンはともかく、ミミズは大変だったよー。わざわざみゅーちゃんのご飯を分けてもらったんだから」
目の前に差し出されるのはパンと……うねうね動くミミズ。
なんか地球にいたのよりも数倍大きいのだが。あとミミズを見ると股間が痛くなるのはどうしてだろう。
「う、いや…… あの…… 」
「みゅーちゃんから貰うのすっごく大変だったんだから。何回もお願いしてようやく分けてもらえたんだ。ねえねえミミズどうやって食べるの?」
うわ、すごく断り難い。あとこの少女は目をキラキラさせてるんだろう。あれか、期待してるのか?
芋虫は食べれたがミミズを食べたら、こう、流石に人として失格のような。でも昔は風邪の薬として使われてたみたいだし、みゅー何某ちゃんもミミズを食べているようだ。もしかしてこの世界のミミズは食べられるものなのか?
僅かな期待を込めて尋ねる。
「その、みゅーちゃんって?」
「ん? ミュトスのこと? ウチで飼ってる豚さん。お肉美味しいよ?」
明らかに家畜だ。つまりはミミズは家畜用の餌になる。ミミズといえどもこっちの世界でも食べないやつに違いない。
「うぅ……許してください…… 」
「え、どうして急に泣き始めたのかな? そんな土下座までしなくても」
この後事情を説明してミミズは許してもらえた。
パンツを見たことは隠したままだけど、まあ仕方ない。今更言われても困るだろう。墓場まで持っていってやろう。