第5話 歌うのが、好きだった
あわあわあわあわあわあわあわあわあわあわあわあわあわあわ。ぱくぱくぱくぱくぱくぱくぱくぱく。
静寂の中、少女の顔がどんどん変化していく。
日の光を反射しているかのように輝く碧眼をひん剥き、酸素を求める金魚のように口を開閉。そして、頬から始まって次第に顔全体が紅潮。黒子1つない肌からは大量の冷や汗。
遂には全身を震わせ、純白のスカートを両手で力一杯握り締める。ゆっくりと俯き、少女――ルカ・フォールティアは低い声で静寂を破る。
「……聞いた?」
嫌な予感がした。具体的には、ガイアが着ている騎士の高潔を表す白い制服が真っ赤に染まりそうな。
だから、答えるのを躊躇った。ここで答えを間違えてはならない。況してや、逃げることなど以ての外。
一瞬の間。しかしそれはガイアにとって数十秒くらいに感じられた。思考が研ぎ澄まされる。そして導き出された答えは、
「き、聞いちゃったっ?」
最悪である。
語尾に星マークでも付きそうな言い方。しかも疑問系と来た。引きつった笑顔を浮かべ、額から大量の汗を垂らす。首を傾げてはみたが、正直イライラをプラスさせる要素としか思えない。
「……せ」
「え?」
「その記憶、寄越せぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇええええええええええええええ!!」
飛び掛ってくるほどの勢い。目に涙を浮かべたルカが両手をガイアの顔面に突き出してくる。何らかの魔術で記憶を消そうとでもしているのだろう。
ガイアは彼女の突進を避けるために後ずさり。しかし、これ以上下がると階段から転げ落ちてしまう。つまり、物理的な記憶喪失が待っているのだ。
さらに踏み込んで来たルカを避け、ガイアは屋上へと逃げ込む。位置関係の反転。だが、ルカは諦めない。ゆらりゆらりと動きながら、屋上へと戻り、ドアを閉める。
「しまった……逃げ場が……」
「うふふふふふふふふふふ、大丈夫、すぐ終わるから……」
ルカは瞳を怪しく光らせながらおよそ人間とは思えないような挙動で近づいてくる。まるで悪魔。その表情は笑顔なのだが、これほど恐ろしい笑顔が存在するのか。
「ちょ、待てルカ、落ち着けって!」
「落ち着いてられるかぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「ルカだけにぃ!?」
ピタリと。
一瞬。
悪魔の動きが止まった。
そして、明らかに怒りが増大。
「バカにしてんのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!?」
逃げ回る哀れな子羊と追いかけ回す無慈悲な悪魔。悪魔は何かの魔術を使ったらしく、走るスピードが速い。いくらガイアが男だと言っても、魔術により強化された脚力には勝てなかろう。
即ち。
「ツ・カ・マ・エ・タ」
半ば抱きつくような格好で床に押し倒されたガイアは後頭部に鈍痛を感じながらも、馬乗りになるルカを見上げる。
口から湯気のように白い息を吐き、今にもその拳を振り下ろそうとしている。
「おい、頼むから話を聞いてくれ!」
必死の懇願。
と、ここでルカの動きが止まった。束の間の静寂。風に、彼女の黒髪が靡く。よく見ると、ルカの顔が赤くなっている。
口をへの字に結び、必死に涙を堪えているらしい。冷静に戻ったからこその反応か。
ガイアは上体を起こし、両手を床について体を支えながらゆっくりと口を開く。
「その、大丈夫か?」
「……大丈夫に、見える?」
「まあ、見えてたらこんな質問しないわな」
「幻滅したでしょ。あたしなんかが歌なんて……」
いつになくしおらしい少女。力なく呟き、彼女はガイアの言葉を待っている。
ガイアはため息1つ、真剣な顔で答えた。
「俺は最初、歌姫が学校にいるのかと思って驚いた」
「…………へ?」
「だから思わずドアを開けてしまったんだ。その……それについては反省してるが、歌ってたのがルカだったと分かって、衝撃を受けたよ。あのルカが、こんなに綺麗な歌を歌うんだって」
これはガイアの本心。嘘偽りのない、本当の感想。それが伝わったのか否かは定かではないが、いずれにせよ、ルカの瞳から今度こそ大粒の涙が零れ始めた。
それは太陽の光を吸収し、煌びやかな光を纏って床を濡らしていく。
「うおい!? な、何かマズイこと言ったか!?」
分かりやすくアタフタするガイアだったが、彼にそれ以上のことは出来なかった。俯いて、肩を小刻みに震わせるルカを見ていることしか。
数分経って、ようやくルカが顔を上げる。目は充血し、頬も紅潮。普段からのギャップとも相俟って、ガイアは不覚にも(?)心を揺さぶられてしまう。
「……歌うのが、好きだった」
か細い声。直視出来ないのか、ルカは視線をガイアに合わせずに言葉を継ぐ。
「小さい頃から、ずっと歌ってた。両親もミライも、褒めてくれた。もちろん、歌姫が現れた時には衝撃を受けたわ。あたしもこうなりたいって、憧れた。でも……誰も認めてはくれなかった」
次第に、彼女は両親や幼馴染のミライが同情で褒めてくれていたのではと思うようになる。
「いじめられた事もあったわ。それはもう、酷いくらいにね。だから、歌が怖くなった。歌はあたしを傷つける」
しかし、彼女の中の歌が好きという感情が消えることはなかった。二律背反の想いを抱きつつ、彼女が至った道は、誰にも見つからない場所で、1人で歌うこと。
「ミライの前ですら、歌えなくなったわ。あの子は歌が聞きたいって言ってくれるけど、でも……やっぱり無理」
「……それで、滅多に人の来ないここで歌ってたと?」
ようやくガイアが口を挟む。
「ええ……あんたにここを教えたのは間違いだったかもね」
「俺はラッキーだったと思ってるけどな」
「……よくもまあ臆面もなく言えるわね、そんなこと。でも、その……少しだけ、気持ちが楽になったわ」
ありがとう、と彼女は言ったつもりだったが顔を逸らし、しかも小声だったためガイアには聞こえていなかった。
「ルカは、歌姫になりたいのか?」
「あんたのそのズケズケと人の心に入ってくる根性、恐れ入るわ。さっきも言ったけど、もう人前で歌いたくないの」
「さっきも聞いたが、歌うのが好きなんだよな。それに、歌姫にも憧れてる」
「――っ!」
「俺にはお前の抱えてるものの重さなんて分からない。けど、抱えてるままなのは良くないんじゃないか? 別に俺じゃなくてもいい、そうだな、ミライが適任か? とにかく、話してみろよ。それだけで心が軽くなるぞ」
柔和な笑顔。ガイアは諭すように話す。
何年も、非日常の中にいたからこその言葉か、それともこれがガイア・ユーストゥスという男の人柄なのか。いずれにせよ、その言葉は彼女の心に響くためには充分だった。
一瞬躊躇い、ルカは恥ずかしそうに、
「じゃあ、あんたに責任をとってもらうことにするわ」
「はぁ?」
「乙女の秘密を暴いた責任よ」
「……具体的には?」
「あたしの……練習相手を……してくれないかしら。まだ気持ちの整理がついてないけど、やっぱりあたしは歌姫になりたい。怖いけど、それでも歌を諦めることなんてできない」
それ故に、ここで歌っていた。誰にも聞かれぬようにしつつも、誰に聞かれてもおかしくない閉鎖的ではない空間で。
「それくらいなら、引き受けるよ。なんなら、ミライにも……」
「ダメ。これは、あたしとあんた……だけの秘密」
唇に細く長い人差し指を当てて、ようやくガイアを正面から見つめる。今度はガイアの方が思わず視線を外してしまった。
ひとまず、これで一件落着――と、思っただろうか。
思い返して欲しい。今現在、2人は何処で、どのような体勢で向かい合っているのか。
「ところで、その……そろそろどいてくれないか? 今見られたら、絶対に誤解されるぞ」
「え? あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
制服姿の女子が、同じく制服姿の男子に馬乗り。それも、下腹部の辺りに。かつ男子は上体を起こして女子と向かい合っている。なんなら、女子の方は目が充血、かつ頬が紅潮。
これを【自主規制】していると勘違いせずにどう言えばいいのか。
ところで、大抵こういうときは運悪く誰かが来たりするのだが……?
「ちょ、ちょっと待って、魔術の反動で足が上手く動かない……あっ」
ルカがバランスを崩す。その結果、彼女の頭はガイアの胸に。
その直後だった。
屋上の入り口の方から、聞き覚えのある声が。
「ルカ? もしかしてガイア君もそこにいる?」
その瞬間、名を呼ばれた2人の背筋に悪寒が走った。体温が急激に下がるのを感じる。なのに、額からは汗が噴き出る。
最早、なんとかして動こうという考えも浮かばない。完全にフリーズした2人はそのまま運命を受け入れることに。
ドアが、嫌な音を鳴らす。嫌、の意味がいつもと異なっているのは言うまでも無かろう。
絶望の足音が、迫る。
「どうしようか迷ったんだけど、やっぱりガイア君がここに行ったんじゃないかと思って、ルカの邪魔しちゃダメだよって言おうと……し、た……のに……?」
目と目が合う。静寂に包まれる。
ミライは満面の笑みを浮かべた。呼応して、ガイアとルカも(引きつった)笑顔を浮かべる。
直後、ミライは後ずさり。ゆっくりと入り口へと戻っていく。そして放たれる、あり難き王女の一言。
「ご、ごゆっくりー……」
「おぉぉぉぉい、待て待て待て、誤解だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
なんとか立ち上がり、ミライを追いかけるガイア。
王女を説得するのには、十数分を要した。




