第23話 ごめんね、突然
隣に立つミライは、流石に額から汗を流していた。マナの使えない者が使える者の集団に立ち向かったのだ、運動量はもちろんのこと、その緊張感は半端ではなかっただろう。
「それにしても汗塗れだが、大丈夫か?」
「……ふふ、ガイア君こそまだ血止まってないし、息も荒いよ?」
意地悪っぽく冗談を言ってみたのに、彼女は小悪魔な笑顔で返してきた。自然と、ガイアの口角が上がる。汗と混じってぬるぬると垂れてくる血を拭い、前方にいる3人の敵に視線を向けた。
中年の男と、若い女性。そして、怒りの表情を浮かべながら首を鳴らすゼアス。直後、観客席の方から聞こえる轟音。その場にいる全員が目を向けた。
ボロボロになった観客席に立つは、ルカだ。
「流石ルカだねー。ところで、ガイア君本当に大丈夫?」
「……正直、キツイかもな」
口の中の血が混じった唾を吐き出し、ガイアは呼吸を整え始める。
しかし、呼吸が整ったとしても彼には問題が残っている。それは、マナ量。
ミライたちが来る前からずっと戦っている彼のマナは既に限界に近い。これ以上魔法を使うならば、動けなくなってしまうだろう。
マナは人間の体内に存在するエネルギーのようなもの。切れれば、当然身動きが取れなくなる。
だから、ガイアの呼吸が一向に整わないのだ。
「私は槍持ってる人とは流石に戦えないから……うん、じゃあ確認」
ゼアスたちはまだこちらの様子を伺っている。というより、観客席にいるルカを警戒しているのだろうか。
ミライは、ガイアのほうに顔を向けて、自分を見るように言ってきた。従い、ガイアは彼女の顔に視線を移す。彼女の宝石のような灼眼は、真っ直ぐにこちらを見つめていて、今にも吸い込まれそうだ。
「ガイア君は、本気で王女を守りたい?」
その問いに、ガイアは唾を飲み込んだ。
確かに、それこそがこの学校に来た理由。だが、肝心の王女も見つからず、挙句の果てには命の機器に晒されている。
しかも、今の今まで頭からそのことが抜け落ちていたのだ。本当に本心だと言い切れるか。
一瞬の間。それでも、彼は真剣な表情で告げる。
「ああ……守ってみせるさ」
ゼロの顔が浮かぶ。最後に見た彼の顔が。
ガイアは耳のイヤリングに触れた。その思いは、今もこの胸に。
何より、ここまで来て今更退くことなど出来ない。
「……合格だよ、ガイア君」
直後、彼の思考が止まった。
後頭部に回されたミライの華奢な手が、ガイアの顔と彼女の顔を近づける。次の瞬間、彼の唇に柔らかいものが当たった。
驚いて見開いた目には、彼女の瞳と鼻しか映っていない。ならば、この柔らかいものの正体は。
気付いた時には、口の中にミライの舌が入ってきていた。ねっとりと絡みつく粘液。これは、一体どちらのものなのだろうか。
甘い匂いに、甘美な痺れ。何もかもが、ガイアの頭の中を真っ白に塗り替えていく。
抵抗など出来なかった。ただ、動き回る彼女の舌に従うのみ。
「ぷはっ……ごめんね、突然。でも、これしか方法が無いから……」
頬を紅潮させながら、ミライは唇を離す。2人の唾液の混じった糸が、弧を描きながら垂れる。ガイアはまだ混乱していた。何が起こったのか分からず、目をぐるぐると回しながら、
「お、あ……は? ミ、え……ミライ……?」
その混乱に、更なる試練が。
ミライがガイアのものも混じった唾液を飲み込む仕草を見せた途端、心臓が大きく跳ね上がり、ガイアは苦しそうに胸を押さえる。
「が……っ!? なん、だこれ……」
脈打つ鼓動が早くなる。何かが、体の中に満ちていくのが分かる。それはありえないほど膨大で、今にも体の穴と言う穴から噴出してきそうだ。
直後。
太刀の淡くなりかけていた緑色の光が、暴走したかのようにその輝きを取り戻した。否、取り戻したとかいうレベルではない。寧ろ、戦う前よりも煌々と、この闘技場を埋め尽くすほどに。
その時には、ガイアの呼吸は整っていた。そして、胸の苦しみも無くなり、彼は背筋を伸ばして地に立つ。
「これは……」
「説明は、全部終わってから。あのリーダー、お願いね!」
マナだ。マナが体に満ち溢れている。しかも、ガイアの本来のマナ量とは比べ物にならないほど膨大。
「……ここに来てから、よく分からないことだらけだよ」
「えへへ、じゃあ……行くよ!!」
何が何だか分からない。ただ言えるのは、今は負ける気がしないということだけ。
ならば、立ち向かおうではないか。太刀の光に呆然としているゼアスに、今度こそ。
2人はそれ以上何も言わず、それぞれの敵に向かって駆け出した。
そこで、ガイアは気付く。
「足が、速くなってる?」
太刀を持ちながら走る体に当たる風がいつもと違う。しかも、それだけではない。
ガイアを止めるためにゼアスが放つ乱れ突きの軌道がはっきりと見える。その槍が纏う水の動きすら、完璧に。
右に、左に、さらには体を屈ませ。ゼアスの槍は掠りもしない。
「うおぉぉぉぉぉ!!」
遂に、捉えた。
槍と太刀の競り合い。ゼアスが刀なら、鍔迫り合いと言えただろう。
だが、太刀と競り合うゼアスもやはり一流。槍を短く持ち替え、その先端のみで対抗しているのだ。とはいえ、拮抗状態はそう長く続かない。
徐々にガイアが押し始める。
「少年、一体あのお嬢ちゃんとイチャコラした後何があったんだよ……こんな力じゃなかっただろ!?」
「俺にだって分からない。でも、今はそんなことどうだっていい。お前を打ち倒す!!」
至近距離でにらみ合う2人。不利だと判断し、ワザと力を緩めたゼアスを、ガイアは躊躇無く太刀を振り抜いて吹き飛ばす。
激しい風圧に飛ばされたゼアスは壁にぶつかってようやく止まった。破壊音と共に、彼がめり込んだ部分の壁の破片が床に落ちていく。
「くそ……なんなんだよお前」
片手をついて立ち上がるゼアス。俯き、呟いた言葉には明確な怒りが篭っていた。
「だったら、これでも喰らえよ……」
槍を構える。纏われていた水は、槍の先端に集まっていく。
「『水葬』……死んじまえクソ餓鬼がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああっ!!」
放たれる、巨大な水流。ステージに触れた部分はその表面を抉りながらガイアへ一直線。
今までで最大の威力となった『水葬』。それを前に、ガイアは必殺の刃を放つ体勢を作った。
鞘に沿って切っ先が地面に向けられた太刀に、風が集まっていく。その量は、甚大。ガイア自身も驚いたほどだ。
さらに彼が驚愕したのは、マナの動き。普通、マナは体内にある量が消費されていくのみ。その消費が大きくなれば、マナが使われる感覚も分かるようになる。
だからこそ、この違和感に気付けた。
マナが消費されるのと同時に、マナが何処からか湧き上がってくる。しかも、消費された量を補うどころか寧ろ、それ以上に。
故に、遠慮することなく太刀にマナを籠められる。
「さあ、風に乗ろうぜ」
負けない。もう、2度と。
「『疾風斬』!!」
逆袈裟に振り抜かれた太刀から放たれる、観客席の高さすらも軽々と越えるほどの巨大な風刃。それは、迫る水流に向かって一直線。
2つの轟音が重なる。
そして――
ぶつかる2人の渾身の必殺技。しかし、結果はもう見えていただろう。
ガイアの『疾風斬』は、ゼアスの『水葬』を遥かに凌駕していた。大きさはもちろん、威力すらも、目に見えるほどに。
拮抗することすらなく、『疾風斬』は『水葬』を斜めに斬り裂きながら突き進む。その先には、槍を突き出したままマナを籠め続けるゼアス。
「この、ふざけるな! 俺たちはまだ、まだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああっ!!」
どれだけ叫ぼうとも、風刃は止まらない。迫る、迫る。敗北の知らせが、眼前に。
激しい風に、ゼアスの青髪が大きく揺れる。同時に、その顔は恐怖に歪む。
空気が震え、槍が砕かれ、ゼアスのあらゆる感覚が消える。確かな衝撃と共に、後方に吹き飛ばされ、鮮やかな色の血を大量に噴出しながら。
破壊音は、ゼアスの気絶による人払い魔術の消滅によって周囲にいた全ての人間の耳に届いた。
あまりにも巨大な風刃はそのままの勢いで観客席を砕き、晴れ渡った空の彼方へと消えていった。残されたのは、怪獣でも通ったのかというほどの破壊の跡と、瓦礫の中に横たわる青年だけ。
決着。
その味を、ガイアは太刀を鞘に戻しながら噛み締めていた。
残る短剣は1本。それをいつ取り出すか、ミライは迷っていた。
幸い、眼前の敵は2人とも魔術師ではない。そう簡単に魔術は使ってこないだろう。ならば、近付く暇はある。
「はあっ!!」
走りながら、両手を天高く挙げ、勢いをつけてロンダート。何度も飛び跳ねながら敵に近付く。
得物は剣とハンマー。属性は風と土。
ミライが迫ったのは、後者だ。
ハンマーを持つ中年の男性は、彼女が着地するであろう場所に向かってハンマーを構えた。茶色の光を発するそれは肩に担がれ、威力を挙げる溜めに入る。
それは、ミライにも見えていた。だから彼女は逆立ちの状態になった瞬間、両腕を曲げ、天高く飛び上がった。流れは、さながらムーンサルトのように。
体を捻らせながら宙を舞うミライは、そのまま男性の頭上を越えて背後に着地。すかさず男性の膝の裏を後ろ蹴り、バランスを崩した彼の後ろ襟を掴んで、引き倒した。
重心を失った相手に力は要らない。故に、ミライのように華奢な腕でも十分倒せるのだ。仰向けに倒れた男は後頭部を強打。
その後再び跳んだ彼女は縦に回転し、勢いをつけたまま男の少し出っ張った腹に着地。吐しゃしそうな声を漏らした男はそのまま気絶。
残るは1人。
振り返ると、若い女性は風を纏わせた剣を正面に構えていた。
「この小娘!!」
そう叫びながら、女性は躊躇無く剣を振るう。すると、纏われていた風が無数の棘となって襲い掛かってきた。
ミライの戦い方は、魔法を使われる前に倒すというもの。逆に言えば、使われると状況は不利となってしまうのである。
棘が、来る。
この一瞬では避けられない。
(……マズっ――)
だが、棘は当たらなかった。当たる直前に、上空から落ちてきた稲妻にかき消されてしまったからだ。
驚いたような表情を浮かべたのは、敵だけではなくミライもだ。だが、ミライはすぐに悟る。誰が援護してくれたのかを。
「ありがとう、ルカ」
舞う煙。少しずつ晴れていくその隙間に、女性の姿が見えた。
それだけで十分。ミライはポケットから最後の短剣を取り出し、元の大きさに戻して投げつける。
土煙で視界を遮られていた女性は反応が遅れ、決して豊満とは言えない胸元に短剣が突き刺さった。そして直立のまま、後ろ向きに倒れる。
「……終わった。ふう、やっと――!?」
ミライは突如体の中を巡った感覚に、全身を震わせた。
自分の体内のマナが、大量に吸い取られていくような。そんな経験が少ない彼女は、妙なくすぐったさに体をクネクネさせ始めた。
「ガイア君……使いすぎだよ……」
苦笑しながらガイアの方を向くと、丁度決着がつく瞬間だった。あまりにも巨大な風刃が触れるものを破壊しながら、上空へと。
束の間の静寂。
安堵感に、ミライは大きく息を吐いた。
ちなみに、観客席に立つ黒髪の少女だが。
とある光景を見てからずっと顔を真っ赤にしている。しかも涙目。
親友を手助けしつつも、唇をブルブル震わせながら、恨めしそうに金髪の彼女を睨んでいる。向こうは気づいていないようだったが。




