いつか山の上で
ハイロの友人には、〈奇跡〉と呼ばれる者がいる。
重たい鞄を持ってハイロは歩く。
この頃戻った外回りの業務は、彼にとっては既に慣れたもの。むしろ戦争中という異常事態の最中で従事していなかった分、何も変化が感じられないつまらないものだ。
そして、つまらなくても楽しいものだ。
「次は……あそこん家いつもいい匂いすんだよな」
呟き、木の壁、角を曲がればいつもの巡回先が見える。平屋だが少しだけ大きめの家。そこに住む老年の夫婦は、最近買い物が億劫になってきているのだという。
「すんませーん!」
裏口から呼びかけるのも慣れたもの。
奥のどこかで声がして、木の床をどたどたと走る音がして、扉が開いて一人の老婆が顔を見せる。
ハイロは肩にかけ背中に回していた鞄を前に回し、一枚の紙を取り出した。
「あら、いつもご苦労様」
「いえ! で、今日は……」
ハイロの仕事は御用聞き。
いくつかの商店や工房から依頼を受け、また契約している家庭を回り、要望を聞いて資材や商品を必要なところに届ける仕事。
手紙を受け取り配達し、注文書を携え飛び回り、時には足りないであろうものを売り込むこともある外交販売員の顔も持つ。
それは今までと変わらない。
以前は主に職人街を飛び回り、工房間のやりとりを行うことが主だった。けれどもそこで喧嘩をしてしまった今、飛び回るのは民間人の家々に変わっていた。
そしてそれでもやることは変わらない。
日々の足りない日用品や困りごと、その相談を受けて、ハイロが所属する商店の情報網を使って過不足なく解決する。工房相手とやることは変わらない。
けれども、それは謹慎以前のこと。
今は一つだけ、違うことがある。
「それとねぇ……油が一瓶ほしいのと……」
「……はい、……はい……」
ハイロは手元の墨壺と筆が一組になった筆記具を使い、細かく注文を書き取ってゆく。
以前は紙だけ差し出して、相手方に書いてもらっていた。ハイロはそれを口頭で聞くだけで、書いてある文字が真実その通りなのかもわからずに受け取っていた。
けれども今は違う。
「それで、大丈夫……っすか? そろそろいつもの感じなら炭もってところですけど」
「あ、それはいいのよ。この頃いつもより使わなくて済んだみたいで。まだ余ってるの」
「はーい」
今のハイロは文字が読める。書ける。
それはこの半年以上の謹慎中、先輩に習ってようやく習得出来たハイロの技能。
そしてそれが出来るようになったからこそ、今この九番街の一般人の家を回るように任されたのだ。
「ありがとうございました」
「はいはい、どうも……あ、そうそう」
御用は聞き終わり、もう帰ろうかと思った段。
老婆はハイロを呼び止めた。
そしてすぐ横、裏口に置いてあった籠から布を取り払う。中に十ほど入った青い粒は、旦那の体調不良に備えて用意してある飴。普通の人間であれば毒にも薬にもならないただの甘み。
「見回りさんもいつもご苦労様、一つどうぞ」
「えぇ? いいんすか? あざっす!」
ハイロは受け取りつつ頭を下げる。
見回りさん、というのは彼らのあだ名である。
石畳の道。少しだけ強い風が灰色の髪の毛を靡かせる。
また立ち寄った客先では、裏庭で子供が二人遊んでいた。
客であるその親は、先日壊れてしまった瓶の残骸をハイロに示すために奥へと引っ込んでいってしまっていた。もうすぐ戻ってくるだろう、そう思いつつも、想像する時間よりも長くなっていてハイロは手持ち無沙汰に周囲を見回した。
立派な家だ。広さはハイロの歩幅で百歩四方はあるだろうか。
二階がある、というだけでそれなりの家格であろうし、その上でハイロの勤める商店と契約しているというのは富裕層の証だ。
無論、本物の『富裕層』ではない。もしも彼らならば家には使用人がいて、彼らが雑務を行うのだからハイロなどの御用聞きは必要ない。ハイロの勤める商店が狙いとしている客層は、裕福だが使用人を持てない程度の富裕層。
風で揺れない家屋に、雨風の吹き込まない穴の開いていない壁や屋根。
近くで泥を投げ遊ぶ子供はまだ幼く、仕事の手伝いも出来ないくらいだろう。自分にもあれくらいの時があったのだ、とハイロは目を細めた。
そして、あれくらいの時だったのなら、この家は御殿のように感じていただろうに。
住んでいた廃屋はこの家の物置よりも小さい。どこからか手に入れた小汚い大きな布で補修した屋根は雨が降ればその用を為さず、その中で薄汚れた自分は周囲の目から逃れるように縮こまっていたのに。
「うわあぁあぁあ~……」
「大丈夫かー!」
見ている間に悲鳴が聞こえた。
その悲鳴にハイロは慌てて目を向ける。
出所は先ほどから遊んでいる子供たちだとすぐにわかった。そして倒れ込んだ一人の子供に一瞬ぎょっとしたけれども、二人共の明らかな演技と、胸を押さえて倒れた一人の動作に可笑しくなった。
なるほど。いまはその『ごっこ』遊びか。
「今助けるからな!」
とう、ともう一人の子供が短く跳んで。それでも子供からしたら森を飛び越えて、倒れた子供に駆け寄る。また「大丈夫かー」と叫びつつ揺するが、倒れた子供は半笑いで目を瞑ったままだった。
「うわー、死んでますー、うわー」
小声の演技はあからさますぎるが。
そして肩を揺すろうとも起きない一人を見て、もう一人は拳を掲げて叫ぶ。
「奇跡を起こしてやるぞ!」
見栄の大きな声を上げて、勢いよく拳を振り下ろして胸の前でかざす。
倒れている子供はそれで胸を反らすように地面から僅かに跳ねて目を開けた。
「はあはあ、ありがとう」
「どういたしまして!」
助けた子供は妙に礼儀よく頭を下げた。
それを見て、ハイロは笑う。『本物』はたしかに……そこまで腰が低かった覚えはないが。
演じられているのは半年以上前の戦争の一幕とされているものだ。
戦後しばらくはその噂が酒場でもよく聞こえた。ハイロの友人の一人が、戦場で奇跡を起こして人を生き返らせたという話。
その光景を実際に見たという者の話。熱心な聖教会信者がその話に憤ったという話。また詐欺師が自身の名を広めるために嘘をついているのではないかという話。様々な立場の者たちが、その噂に推測を重ね、そして思い思いに考察をしていた。
しかし、半年という期間はその噂を沈静化させるのに充分なものだ。
いつしか面白半分の推測や揶揄は消えていき、そしてある一つの事実と関連付いて新たな側面を見せる。
その当時、遙か遠くの街で戦争終結の会談を行っていた一団が、〈大妖精〉アリエルの起こした奇跡の事象によりこの街へ派手に帰還したということ。
空にかかる黄金の絨毯。陽光を編んで作られたという道は千年前の英雄譚にも載る凄まじい事象。
奇跡は起きたのだ。
そしてその奇跡を起こしたのは、古の英雄〈大妖精〉アリエル。
ならばその事象を奇跡と呼ぶのに何の呵責もなく、そしてその事実の中に『奇跡』が登場するのならば。
その『奇跡』で運ばれた者たちの中に、先の戦争の一幕を引き起こした者がいるのならば。
探索者カラスはこの街では嫌われ者だった。
ある日このイラインに現れた彼は、それから出世街道をひた走り、探索者として名声を恣にした。あまつさえ先の戦争では王女から大抜擢を受けて一つの部隊を任せられた者。
そんな彼を羨む者たちの中で、彼の存在は目障りだった。
貧民街出身のくせに名声を得ている。貧民街出身のくせに魔法使いという力がある。貧民街出身のくせに地位ある者から目をかけられている。
羨望とは簡単に嫉妬に変わる。もとより嫉妬を羨望と呼んでいるだけなのだろうか。
彼への嫉妬は悪意を孕み、羨む者たちの目を鱗で覆った。
名声を得ている。きっと何か汚い手を使ったに違いない。
魔法使いだという。きっと嘘をついてそうなりきっているだけに違いない。
地位あるものから目をかけられている。きっと甘言やその身体で取り入ったに違いない。
貧民街出身である。だから悪いやつに決まってる。
彼を噂する者はそのように自身を思い込ませ、自身を説き伏せようとしてきた。
その結果先鋭化した噂は被害妄想までも生み、彼に向けた暗殺者までも無関係の者が放つようになった。
裏を返せば、噂している者たちは、『自身たちは善人』なのだという思い込みを拠り所にしているだけなのだが。
更にその噂は、『彼』の話をする者たちにまで被害が及ばせた。
決して彼を『好人物』として取り扱ってはならない。取り扱ってしまえば、その話をしたものまでも彼と同類になってしまう。
男すら振り向かせるほど見目麗しい。しかし褒め称えるわけにはいかない。
騎士にも負けぬほど強いのだという。しかしそれに憧れを示してはいけない。
探索者である彼が採取した生薬により助かった者たちも大勢いる。けれども感謝をしてはいけない。感謝をすれば、きっと自分も彼と同じになる。
彼を嫌いな者たちがこの街には大勢いる。
しかし、それだけではない。全員がそうというわけでもない、というのは、彼を嫌いな街の者たちが理解を拒み、そして彼自身も理解していないことだ。
そして彼を嫌わない者たちは、〈大妖精〉アリエルの行いで、ようやく彼を語る術を得た。
中でも子供たちは素直に『それ』を獲得した。
それが即ち〈奇跡〉。彼、もしくは彼の行いを表す隠語である。
「もいっかいやろー!?」
「えー、次俺奇跡起こすほうやるー!」
戦争の一幕を演じるごっこ遊び。平和な世では些か生臭いものだが、しかし子供たちというのは得てしてそういうものに憧れるものだ。
剣や槍。盾や弓。そういうものを模して、叩いて転げ回って遊ぶ。その本物を手に取る日が来るかどうかはわからずとも、誰しもに経験があってもおかしくないものだ。
そして中には、大人たちの噂話をそのまま形にしたものがある。
今回のもまさにそれ。
戦中、カラスが起こした〈奇跡〉の一幕。
死んだ人間を蘇らせたという奇跡。
探索者カラスを嫌う者たちは、そのごっこあそびに眉を顰める。
そうであってはならない。彼はそのような『凄いこと』をしてはならない。したとしても、そんなものはいかさまで、でっち上げで、汚らしい何かでなくてはいけないのに。
だが精々がそれを止める程度が限界だ。
子供たちが行っているのは、親や誰かが噂で話した〈奇跡〉の一幕のごっこ遊び。けっして、探索者カラスが行った偉業の再現などではないのだから。
子供たちの親が戸口から顔を見せる。
ハイロはその親へと向き直りつつ、その手に持たれていた瓶を確認しつつ、それでいて子供たちが目の端から消えなかった。
自分たちは、あんな風には遊べなかったな、と懐かしむように。
「ここに飾りがあったんだけどさ」
「はい」
豪華な瓶だ。高価というわけではないが、普通のものよりは一段上の価格帯のものだろう。
家屋。それに持ってきた親の身につけているいくつかの装飾品。そこまで含めて、何故こんなものが必要なのだろうか、と不思議に思う。そう思っても、ハイロは口に出さない。
ハイロは孤児だ。
気付いたときには貧民街で暮らしていた彼は、誰にも教わらずいつからか引ったくりをして生計を立てていた。これもいつの間にか近くにいた幼なじみのリコと共に。
小さな時から周囲の視線に怯えて暮らしてきた。
貧民街の中では安心出来る場所などない。暮らしていた廃屋も自分のものではなく、正しく言えばそれは『縄張り』程度のもの。自分たちよりも身体が大きく力が強い大人たちが来てしまえば、容易く追い出されてしまう場所。
何か物を手に入れれば、次に考えるのはそれを奪われないための方策だ。出来るだけ早く石ころ屋へ持ち込み、小さく隠すのが容易な貨幣に替えるか、もしくは食料にして腹の中に収めて隠すか。
あの街では誰しもが敵だった。奪われないかと必死だった。信用出来るのはいつも近くにいたリコだけ。いつの間にかそこに一人加わったのだが。
「これとね、同じ形のやつを」
「はい、なるほど、はい……」
幼い日は、何も気にすることはなかった。服は着られればいい。もっといえば、冬の寒さを僅かでも和らげ、壁や床のささくれが肌に直接刺さらなければ問題はない。靴などは、地面にある突起が足に刺さらなければ。
食べ物は腹が膨れればいい。膨れるほど食べられなかったこともあるし、それに味など生きることには関係のないことだ。
今日生きられるのならば、他のことは関係がない。そんな生活だった。
今回の客が指定している瓶の形や材質など、幼いハイロにとっては気にすることでもない。
ものというものは、そのものが為す用だけ満たせばそれでいい。
瓶などその典型だろう。水を汲む、もしくは土や他の物を入れるとしても、それを中に入れる器であればいいし、気にするとしても零れることはないか程度で他にはどうでもいい。
「はい、じゃあ手に入りましたらご連絡しますー」
「よろしく頼むね」
瓶の形などどうでもいいだろうに。
適当にあるものを使えばいいのだ。こだわり、というらしいがそんなもの何の役に立つのだろう。
「みまわさん、さよなら!」
「おう、じゃあな」
泥だらけの子供が、出て行くハイロに辿々しく挨拶をする。
親の真似だろう、頭を下げて、得意げに笑いつつ。
あの年頃のときには、自分はそんなこと出来なかったな。
ハイロは笑いつつ、そんなことを思った。
腰の隠しに入れていた飴を取り出し、ハイロはカラコロと口の中で転がした。
香料の入ったさわやかな飴。今日見回りに行った家の老爺が定期的に治療師からもらっているらしい。冷や汗が止まらないときに、手足が異常に冷たくなったときに。放っておけば意識すら失う持病、その対症療法薬として。
だがハイロには関係がない。またその妻である老婆にも関係がない。
ただのそれは甘い飴。事実、生薬と呼べるものは何一つ入っていないそれは、おやつとしてときどき老婆に消費されていた。
歩くのは住宅街だ。
すれ違う通行人はまばらにいるが、しかし繁華街や商店街のような賑々しさはない。
ただ人の気配がする。どこかの家で、人が今歩いている。座っている。あくびをしている。
貧民街で怯え育ち培われた感覚が、この街の『安全さ』をハイロに存分に伝えてくる。
それにしても。
「〈奇跡〉かぁ……」
あいつも出世したもんだ。そう言葉に出さずに付け足して、ハイロは重たい鞄を担ぎ直した。
貧民街にいたときから、カラスをハイロは気にしていた。
同年代ではなく、年下で、かなりの後輩。
自分よりもリコの方が早くに知り合っていただろうか。そんな気がしたが、その辺りの出会いは覚えておらず苦笑した。初対面で石を投げつけた気がする。最初、リコと話している姿を見かけて、リコが何か因縁を付けられているのかと思って頭に血が上ったのだったと思う。
それから、自分たちが引ったくりを繰り返して糊口を凌いでいるのに、彼はそのような苦労を見せることがなかった。
彼は魚や獣を獲ってくることを生業にしているらしかった。そのような商品を石ころ屋に売っている姿を度々目撃した。
正直、衝撃だった。それで生活が出来るのであれば、人間相手よりも大分楽に思えた。
そして、真似をしてまた衝撃を受けた。
同じ事をしているはずなのに評価が違う。同じ魚を売りに行った。なのに、石ころ屋の店主グスタフはそれをカラスよりも数段低く見積もって買い取った。
贔屓しているのか、と思い、怒りが満ちた。あの無表情の生意気な子供にどうにかして嫌な思いをさせてやりたいと思った。
それで、嫌な噂をばらまいた。あの子供が売りに出している鳥は臭くて硬くて不味い烏肉だ。だから石ころ屋で今扱っている鳥の干し肉は酷く不味い、と。
今思えば、石ころ屋が怖くなかったのか、と身震いする思いだ。
石ころ屋。カラスへの私怨を果たすためだけに敵対するにはあまりにも恐ろしい相手だった。それを見逃したのは、自分が子供だったからか、それともあまりにも小物だったからだろうか。そのどちらにせよ幸運だった、とハイロは思う。
だがやがて、彼と自分の差は『真摯さ』なのだと理解していった。
リコにも諭され、自身でも実感し、腑に落ちるまでに時間はかかったが。
そのうちに、彼を自分の手本にするべきなのではないかと思った。
魔法使いである彼であろうとも、食べなければ死ぬ。だから彼も必死だったのだ。
高く売れる魚はどのようなものか、貴重な草木とはどのようなものか。更に魚を高く売るためには。草木を利用して価値を上げるためには。そうグスタフに学び続けて自分たちの上をいった。
自分もリコも、明日を知れない身だった。だから明日のことなど考えないでいいと思っていた自分にはないものを持っていた。
後から来て、追い越して、いつの間にか空を飛んでどこかへ行ってしまった古い友。
だが彼が空を見せてくれたから、自分はここに来た。彼がいなければ、きっと地面を見つめて生きているだけだったのだから。
彼のおかげでグスタフに縋ることが出来た。
どうにかして貧民街を脱出しようという気になった。きっと彼がいなければ、自分はまだあの街にいただろう。もしくは、死んでいただろう。
なるほど、たしかに奇跡だ、とハイロは思う。
今目の前に見ている光景が、あいつの起こした奇跡の産物だ。
普通の街だ。
歩くだけでは誰にも襲われず、誰に奪われることもないのどかな街。
今自分はここにいる。
ここで歩き、飴玉を口の中で転がしている。
ただそれだけが、あの日の自分にはどれだけの贅沢なのだろうか。
もう着ているものは襤褸じゃない。
今日の昼飯を何にしようか悩む余裕がある。
帰れば雨風のない家がある。
そんな贅沢が、あの日の自分には堪らなく嬉しい。
もちろん、ハイロは満足などしていない。
働かないで暮らしたい。着心地の良い服を身に纏いたい。お腹いっぱい美味しいものを食べたい。美女を侍らせ、無駄に広い家で寝台から出ずに寝て暮らしたい。
みんなに褒められ好かれたい。誰かの助けになって、ありがとうと心から言われたい。
そんな、誰しもが望む日常を願わない日がないとはいえない。
けれども今目の前にある奇跡の日常。
今日も働いて、少し疲れて家に帰る。帰る前にどこかの食堂で酒の一杯でも飲んでから。そうしてゆっくりと眠り、明日には日の光に起こされ目覚めのいい朝を迎える。
そんな幸せな日々は、きっとあの日の自分が望むことすら考えられなかった奇跡の日々。
これからも、もっともっと幸せでいられるようにいたいとハイロは思う。
文字の読み書きが出来るようになった、という喜び。
新たな仕事が任された、という不安と期待。
それを楽しみだと感じられる日々を与えてくれた奇跡。
いつかお礼を言いたい。そして謝りたい。
羨望を嫉妬に変えて、不義理を働いた彼に。
リコたちに連れてかれるのではなく、きっといつか自分の足で。
彼の結婚式には行かないことに決めた。
その選択に、ハイロは勇気を持って。
「幸せになれよ、〈奇跡〉さま」
次の目的地が見えて、ハイロは小さくなった飴玉を噛み砕く。
目的地である剣術道場。その中から、門下生たちの威勢の良いかけ声が響く。木剣の発注が主だが、他にも雑用品があるだろう。彼らが必要とするものを、とハイロは頭の中でいくつも推測して想像してゆく。それは日用品を扱うようになってからハイロが考えた仕事の進歩。
「……ごめんくださーい」
裏口の門から、ハイロは中に声をかける。
戸の前を掃いていた金の髪の女性が、声にふわりと振り返った。
人は奇跡を見たいと願う。自分の身に起きてほしいと密かに思う。
そして奇跡など起こらない。大抵の場合は。
だがそれは、起こらないのではなく気付かないだけで。
見えないのではなく見ていないだけのことで。
人が生きる日常の中で。誰しもの周りに。
見回せば、それなりにはあるものだ。




