空を飛んだ夢
この章始まるところに一話追加されてます。
その方が収まりがいいので。
『それ』は一種異様なものだった。
全体的に赤銅に似た色に、まず目に入るのは大きな『翼』。『それ』には細長い胴体部分があり、その中央から左右に大きく広がる『翼』と呼ばれる扁平な板がある。
中央の胴体部分は丸みを帯びた円筒形で、前が太く後ろが細い。また、前後は滑らかな半球に加工されている。
胴体の最前方にある半球、鼻のような位置には、中心から外側に向けて四本の細長い板が等間隔に広がっている。板は滑らかにねじれており、また中心を回転させることで風車のように動かすことが出来た。
その胴体の中央上部に位置するくぼみに、男が上半身をねじ込むようにして探っている。
手を伸ばすのはくぼみ……『操縦席』の足下にある小さな踏み板。それを掴んで引っ張ると、ブン、と風を切る音が機体前方から聞こえてきた。
「よし、いいな!」
顔をどうにかくぼみから出して、前方を確認すれば風車が回る。引きずられるようにして機体が動きかけたのをどうにか押しとどめ、くぼみの縁で腹を圧迫されていたために詰まっていた息をようやく吐き出した。
「エネルジコさん、こっちも大丈夫です!」
雇った助手が、機体下部の鉤を確認する。通常は『胴体部』の腹に張り付いているそれは、着地する際に開いて地面の縄を掴む。遠い世界では着艦フックと呼ばれる機構に似ていて、エネルジコが苦心して考え出した着地時の工夫である。
うむ、と力強く頷いて、エネルジコは機体の走る先を見た。
機体を乗せているのは台車。前方の回転翼により推進力を得た機体は、台車によって前方へと運ばれ、そして離陸する。その台車を崖下に落としながら、自身は崖を飛び立つべく。
ここはムジカル、サンギエ地方の岩山と砂漠のちょうど境界である。
エネルジコの視線の先、五十歩ほど先までは平坦な岩場が続き、そしてそこからほぼ垂直に崖が落ちる。出来れば下り坂がよかったか、と思いつつも、それも贅沢だと思い直した。
台車の車輪は大きくない。その台車がまっすぐに走れるほどの平坦な場所はそうない。
それに、この機体が飛び立つには向かい風が必要らしい。ならば常に熱風が吹き込むこの崖は、きっとお誂え向きなのだ、と自身を慰めつつ。
苦労した。
この『機体』は大きく、そのままではなかなか長距離を運べない。更にサンギエの岩山は登るのも大変だ。故に一度組み立てたものを本拠地で解体し、運べる大きさの部品に分けてここへと運び込んだ。何度も何度も二十里では利かない距離のある街とこことを往復して、そして最後にはここで組み立てることにした。
エネルジコとしても感慨深い。
運搬だけで一月以上をかけた。その集大成が、今日、成るのだ。
この機体をエネルジコは『木鳥』と呼んで今まで開発を続けてきた。
木材を用いて作った鳥を模したもの、故に木鳥。
だがこれからはそうも呼べないな、と思いつつも、未だにその名に愛着があるのはエネルジコ自身忌々しいものだった。
開発初期に気付いたその名の欠点。それは、名前に『鳥』とあること。
あの憧れつつも忌々しく、そして憎々しい鳥の名を冠している。
まあそれは今更だ、と未だに思いつつも。
木鳥とは、木材を使って作った鳥を模したもの。
だが見つめる先にあるのは、もはや木材を用いたものではない。
「金貨一千枚の価値はあってほしいものだな!」
エネルジコはぼろぼろになった手で機体を撫でる。
その機体は、もはや木材ではない。それよりももっと堅牢で、もっと軽いもの。
滑らかなその色をなんと形容すべきか、とエネルジコは悩む。赤銅色か、薄茶色か、それともやはり、そう呼ばれることもある狒々色か。
透き通るような透明感があり、それでも金属。現在人の扱える金属で、最も強靱とされる高価な金属。『緋々色金』。
機体の表面に使う金属を木材よりも薄くすることで、機体は軽くなる。そして、そうしても壊れない。必要とあらば竹よりもしなやかに曲がり、伸びも破断もしない強い金属。
希少故に高価。更に加工出来る職人も少なく、加工費も高額。富裕層、水守の一族エネルジコでも財産の大半を使ってしまった。
失敗したら次はない。
木材での製作に限界を感じていたエネルジコの、一世一代の賭けであった。
しかし、その賭けにもエネルジコは勝機を感じていた。
誰が信じよう。人間を五人寝かせて縦に並べたよりも大きな羽を持つこの機体が、大人二人で持ち上がるほどに軽いとは。
手に入れられた緋々色金は人の頭二つ分程度のごく少量だった。けれどもそれを職人が叩いて伸ばして、木鳥の機体を作るほどに大きく出来た。
しかも頑丈。エネルジコが今拳で叩いても些かも歪まない。
いずれはこの金属の加工も自前で出来るようにならなければ。
「でも、本当にこんなもの飛ぶんですか?」
「ああ飛ぶとも」
助手の懐疑的な声に、エネルジコは自信を持って答えた。
「この私が飛ぶように作っているのだから。だから、飛ぶ」
その声に揺らぎはない。
自信の元は、材質を変えた新型だからというわけではない。
今まで一度として、エネルジコは『飛ばない木鳥』を作ったことはないのだ。正確には、『飛ぶはずのない木鳥』を。
無論、『飛んだ』ことはない。
けれども、いつもエネルジコは自分を信じて考えて作ってきた。
『次は飛ぶものを』、『今回は飛ぶはずだ』と。結果的に飛ばなかったとしても。
故にこそ、いつでもエネルジコは自信を持って言う。
『飛ぶのだ』と。
今回雇われた二人の助手は、やれやれ、と顔を見合わせた。
飛ぶはずがない。エネルジコの失敗は同じ街に住んでいれば毎日のように聞く話だ。今まで何年も、何十年も続けてきたこの実験が成功したことなどなく、今回も同じだろうに、と。
エネルジコはそれを察しながらも、何も反論しなかった。
彼らは愚かだ、と思う。けれどもその愚かさを今日克すことだろう。
見せてやろう。
人間は空を飛べない。
空を飛ぶのは魔法使いや高位の魔術師の特権だ。もしくは鳥か虫か、羽を持つ生き物たちの。ならば、飛ぶためには人間をやめるしかない。
そう信じている者たちへ。
「では、行くか」
「はい」
今回は確信がある。故に試運転に、いつもの街中ではなくこの断崖を選んだ。
エネルジコは軽やかに運転席へと乗り込んで、いつもの嗅ぎ煙草を吸おうとして、やめた。
そんなもの、あとで吸えばいい。
二人の助手が、翼に刺股状の棒を添えた。
エネルジコは加速のために踏み板を踏んで機体を加速させるが、どうしても機体が動き出すまでは踏み板が重く、加速も緩やかになってしまう。その最初の加速の補助である。
「行くぞおおぉぉぉ!!」
機体のためにエネルジコは大きな声でもう一度言う。その声に応えるよう、助手たちは走り出すために少しだけ姿勢を低くした。
「押せえええ!!」
「っ……!!」
せーの、と心の中だけで助手たちは言い、二人同時に駆けだしてゆく。
二人が同じ速度でなければ機体はどうしても曲がってしまうが、その力への抵抗で台車が軋みを上げた。
エネルジコの踏んだ踏み板が軽やかに回り、回転翼が高い音を立て始める。
段々と加速してゆく木鳥。それにつられるように、エネルジコの身体を僅かな浮遊感が襲った。
「いいぞぉ! いいぞぉっ!! ハハ!!」
頬を撫でる風が強くなり、エネルジコは笑みを浮かべる。何千回もの滑空をして、今までに感じたことのない圧力。台車ががたがたと揺れるが、それもいつもよりも大きい気がする。
やがて追いつけなくなった助手が、崖よりも大分手前で翼から刺股を離す。
駆け足からゆっくりと立ち止まるように歩調を緩めつつ、見送るようにして息を吐く。もう少しで、崖下に。
「ハハハッ……!!」
そして浮遊感が強くなり、エネルジコの哄笑も止まる。
木鳥が崖から飛び出す。台車が離れて崖下に落ちていった。
「……っ!!」
そして台車よりも緩やかに、それでも明らかに斜め下に向けて木鳥が宙を滑り落ち始めた。
エネルジコは感じた。いつも同じ感覚。いつもと同じように、ただ空を滑り落ちるだけの。
「……ぬ……」
いつもと同じではないか。そう感じたエネルジコが、足に更に力を込めた。斜め下に向かうその刹那に、食いしばる歯に痛みを感じた。
嫌だ。
また失敗など。
いつもと同じ思考。一度で成功するなど甘い考えはない。成功するまでに、失敗は重なるものだろう。今回もそうなるのかもしれない。
けれども、失敗などしてたまるものか。
今度こそは成功してやるのだ。
エネルジコは毎回そう思ってやってきた。
そして未だにそう思っている。
「ぬおおおおおおお!!!!」
全速力で足を動かす。操縦桿を手前に引き、最大限に機首を上に向けようとしながら。
失敗などしてたまるものか。
今度こそは成功してやるのだ。
腿が焼け付くように痛い。膝に鋭い痛みが走る。噛みしめた口の中に血の味がする。
やはり誰かの助言通り、最初に闘気使いを乗せるべきだったか。揺れて地上の砂漠が見える視界に、そんな後悔が襲ってくるが、それでもやはり。
だが、それでも。
空を飛ぶのだ!
闘気使いなど恵まれた者などではなく。
凡人の、私が!
回転翼の音が高くなり、そして消える。
ふわりとまた浮遊感がエネルジコを襲う。遅くなったのか、それとも角度が変わったのか。それを読み取れず、エネルジコは足を動かしながらも周囲を見渡した。
いつもと違う風景。いつもと同じ、ではなく。
「おおおおおお……おお!?」
何かの制限が外れたように、足の動きが軽くなる。
何故だ、と思いつつも、これ幸いと動かし続ければ、目の前の回転翼はやはり回り続けている。
頬に風を感じる。視界の中を占めるのは、いつもの見慣れた砂漠の大地、……ではない。
「…………」
一瞬、エネルジコの力が抜けた。
音が全て消えた。目の前の空気が全て瑞々しく、そして眩しく感じる。
これは。
目の前に見えるのは、青空。
砂漠の大地が視界の下四分の一を占めて、機体の揺れに合わせてふらふらと傾いている。
「…………飛んだ……」
本当に? と自分でも信じられない。
今自分は空を飛んでいる。いつものように斜め下に滑り落ちているわけではない。
水平に、または操縦桿の動きに合わせて上下して。
操縦桿を横に倒せば、機体は旋回し斜めに傾く。
まだ落ちることはない。まだまだ、きっと。
視線の先には助手たちがいた。目を丸くして、刺股を取り落として。
思わずエネルジコは片腕を大きく突き上げた。
誰に示しているわけでもない。助手にでも、自分にでもない。ただ、心のままに、きっとそれが心のままに。
「う……うおおおおおお!!!!」
エネルジコの目に薄い膜が張る。その膜が青空を消しているようで、慌てて瞬きをして拭い去った。
エネルジコは、この光景を忘れないと心に誓う。この青空と砂漠と、そして風すらも目に見えるようなこの景色を。
叫び続ける声は悲鳴でも喊声でもない。
ただただ、快哉のために。
見よ、地に縛り付けられている民たちよ。
見よ、地を這う我らを高慢にも見下ろしていた鳥たちよ。
「私は……」
感じるがいい、全ての民よ。
このエネルジコの後に続く喜びを。
このエネルジコのあとに生まれた幸福を。
「………俺はっ……やったぞおおおおおお!!!」
エネルジコの叫びが青空に響き渡る。
地面の軛から解放された幸福を、その声に一心に込めて。
あの幼い日の約束通り、俺は全員を連れて行く。
お望みとあらば、雲の上までも。この空の果てまでも。
老若男女貴賎を問わず、誰でも、必ず。
見よ、見よ、夢を諦めた人間たちよ。
人間は空を飛べぬと信じる愚かな者たちよ。
私たち人間は、かくも見事に、大空を自由に飛べるのだ!!




