よし
この街は三日後火に焼かれる。
それがソラリックたちに伝わった全てのことだった。
「…………」
また、ぺこり、と頭を下げて三人の家族が治療院に足を踏み入れる。治療院の周りをぐるりと囲まれた赤い線を踏み越えるだけでも、想像以上の精神力と気力を消費する思いだった。
今治療院の周囲には、既に焼け焦げた臭いが漂っている。
まだ街に火をつけたわけではない。けれども確かに周囲に漂う肉の焼けた臭いは、人々に今のこの状況の凄惨さを伝えさせた。
『線』は治療院の奥に据えられた〈生き残りの枝〉により作られた結界だ。
地中にも空中にもある見えない境界線は、ただ地面に引かれたごく細い線でその存在を示している。
その線は、通常の人間であれば踏み越えるのに問題はない。
けれどもそれが通常の人間でないのならば。
「ぎゃあああああ!!」
また一人、治療院の裏手で悲鳴を上げた者がいる。
治療院へと侵入しようとしたのだろうか、それとも助けを求めてここに来たのだろうか。わからないが、それでもソラリックは耳を塞いだ。
〈生き残りの枝〉で作られた結界は、『悪しき者』を焼くという。
しかしその基準は、対象の善悪や、倫理的なものではない。
悪しき者ではないということは、健康である、ということ。
少々の体調不良であれば反応はしない。しかし、瘴気に満ちた身体を持ち、周囲にその瘴気を振りまくような者であると〈生き残りの枝〉が―実際にはそれを起動した術者が―判断した場合、その線を跨ぐことは許さない。
捕らえた獲物を一片の躊躇なく焼き焦がす。骨が焼けて崩れるまで。もう瘴気を振りまかないとわかるまで。
無論、それを防ぐために、ソラリックたちは治療院から出て治療を行っていた。
どんなに健康そうに見える者でも、《賦活》をかけて、《抗毒》をし、病を振りまく要因を消す。
その甲斐あって、ほとんどの者はその線を越えられる。
だが、一部の者に関しては。
今回指定された特定の病に感染した者は、この治療院へと入れられない、と最初から皆に告げている。
けれども、今から街に火をつけるとして、やはり人は助かりたいものだ。人面疽を、境界融解症を、白変症を、その他様々な病を隠して皆避難しようとする。治療師に見つからぬよう、もしくはわからぬよう嘘をつきながら。
そうなった者たちは、焼かれてしまう。神の慈悲により苦痛なく一瞬で、無慈悲に命が燃え尽きる。
元々いた患者は既に外へと移設された。
どうせ燃えるのだから、と家屋が打ち壊された空き地に天幕が張られ、そこで最後の時を待っている。
治療院に逃げ込もうとする者たちは、その橙色の天幕を見ようとしない。目を伏せて横を通り過ぎる。自分たちが助かるということ、即ちそれは彼らを見捨てるということなのだから。
治療師たちは陰鬱な表情で治療院へと人々を招き入れる。
既に聖騎士団や騎士団、王城の兵によって王都は封鎖された。誰も逃げられず、逃げ込むのならば治療院しかない。
それぞれの治療院で避難出来る人数に限界はある。四十ほどある王都の治療院はそれぞれがそれぞれの収容人数一杯になるまで受け入れて、それから王都の焼却が始まるのだ。
(また……人が死んでいく……)
ソラリックは人目も憚らず蹲りそうになる。
この数ヶ月、ずっと抗ってきた風景。どうか人が死なないように、人が苦しまないように、と考え続けてきた日々の中で。
もちろん、それでも目の前で人は死んできた。腫瘍が腹を食い破り、身体が蕩けて崩れてゆく。自らの舌や頬を食いちぎり、美味しそうに咀嚼しながら失血して死んでゆく。
だがそれは、力及ばずのことだ。
今現在のものもそうといわれればそうではあるが、しかしそうではない。
(どうすればよかったんだろう)
目に涙が溜まる。もう諦めろ、と言われたも同じだ。
エンバーの指示で、聖教会はこの街を焼却処理することに決まった。今はそのために動いていて、そしてそのために人は死んでゆく。
知らぬ間に何かしらの病に罹患していたせいで、線を踏み越えられずに戸惑いつつも死んでいった者たちも大勢いた。
狂ってしまっているのだろうか、とソラリックは目の前の光景に悪態をついた。
人が死ぬ。それを先導しているのが聖教会。
神託を受け、人を正しい道へと導き、救うのが治療師。そのはずなのに。
狂っているのは世界なのか、自分なのか。それもわからず、何度かソラリックは嘔吐しそうになった。
わかっている。今目の前を通って治療院に入っていった者たちはまともな人間たちで、そうでない人間が今外にいる。
第一治療院から自分の勤める第二十五治療院に戻るときに、ソラリックは見た。
街中を歩く死者の群れ。返り血かもしくは吐血かわからないほどの血に胸元を濡らしながら、誰かを探すようにゆっくりと道を歩く死者の群れ。
腐乱し千切れそうな腕をぶらぶらとぶら下げながら、げ、げ、と不気味な声を漏らしながら歩く姿。
人間だけではない。きっと他にもそのような姿に変わってしまったものもいるのだろう。
路地の中、食堂の裏手で何も置いていないゴミ置き場に鼻先を突き入れるようにして漁っていた犬は、黒い毛の腹にあばらが見えて腸の先が地面を擦っていた。鼻が利いていないのか、それともソラリックたちに興味がないのか、警戒する僧兵たちに目を向けることもなく、一心不乱にゴミ置き場で暴れているように見えた。
そんな腐った人間や犬に襲われた者が、助けてくれ、と治療院に入ろうとすることがある。
引き留められずに中に入ろうとした彼らが、即座に焼け死んでいくのをソラリックは何度も見た。
やはり、彼らから感染が起こるのだろう。そう判断出来るのも皮肉だった。
犬の遠吠えが何度も聞こえる。
きっとそれもまともな犬ではない。人間たちの叫び声と、何かを叩きつけるような音が街からたまに響く。それもきっと、まともな者たちではない。
きっと今『線』の外にいるのはまともな者たちではなくて、きっと今『線』の内側にいるのがこの街で最後に残ったまともな者たちなのだろう。
ソラリックは、そう思って俯くように目の前を暗くした。
ならば、今『線』の外にいる自分は。
悪いと思いつつも、ふらふらとソラリックは治療院に入る。『休憩を取れ』と言われて、先ほど取らなかった分だ、と内心言い訳をしながら。
同僚が見送るが呼び止めはしない。彼女の働きは知っている。彼女には休憩が必要だ、と無言で背中を押しながら。
治療院の中を歩くソラリックは、直線のはずの青い廊下が曲がっているように感じた。
ぐにゃぐにゃと曲がる廊下に、自分がまっすぐ歩けている気がしない。
それでも助けを求めるように、ソラリックは歩き続けた。避難してきた人間たちが蹲る部屋や、厠や、休憩所を無視して。
辿り着いたのは、治療院の中の聖堂。長椅子が規則正しく置かれて、その間に出来た道の先には祭壇がある。
聖教会で信徒たちが祈る場所。いつもならばここで多くの人が祈っていたのに。
ここもしばらくしたら椅子を撤去し、避難民たちを収容する部屋になるだろう。そう思いつつ、ソラリックは静かなその部屋の中央を歩き、手近な椅子に腰掛けた。
木の長椅子は全て同じ方を向き、そこにある祭壇と、その後ろの窓を見せる。
窓からは日が差し込んでいる。
それはそこで説法をする聖職者が、光を背負うという演出のために。
はあ、と深い溜息をつきながら、ソラリックは俯いた。
どうすればよかったのだろう。自分は力を尽くしたはずだ。病を見て、調べて、学び、手を尽くして救おうとした。
けれども救えなかった。今この街は滅びようとしている。救えるのは少数の『まとも』な人間だけで、その他大勢の『悪しき人間』ごと全てが焼かれようとしている。
(……せっかく)
成果が上がり始めたのに。
カラスから渡された薬は奏効していた。ならばそれを起点に、きっと一つの病に対しては対抗策が作られるはずだったのに。
どれほどかかるかわからないが、きっと病は克服出来たはずなのに。
いいや、病は克服される。
これから病は街ごと、人ごと全てを焼かれて消える。ならばもう病の治療法など探さなくてもいいのかもしれない。
諦めてもいいかもしれない。
力不足。研究不足。その全てはあろうとも、人間はきっとこの災害に勝利するのだ。
だから、今はきっと。
諦めるしかないのだ。
敗北ではない。ただ、これが一番有効だから。
諦めるしか……。
「諦めてしまうのかな?」
ぽつりと声がかかった。
ソラリックはその声に顔を上げる。今の今まで誰もいなかったはずの聖堂に、人がいたのだろうか。
この、もはや誰も神に祈ろうともしない場所に、人が。
だが、妙な気分だ、とソラリックは思った。
人の声というのは特徴的だ。個人差こそあれ、声からは多くの情報が取得出来る。男性か女性か、などは多くの場合わかるし、声の高低から身長や年齢も推測出来ないわけではない。
しかしその声は、どちらともわからない。
まるで特徴のない声。その出所は、と見れば、祭壇に立つ誰かがいた。背後からの明るい日に顔も見えずに、その体型すらもわからずに。
誰かがいる。そう思いつつも、立ち上がる気が何故だかしなかった。どこかぼんやりと痺れた頭の中で、そのほとんど揺れない人物の影を目で追った。
「諦めるって……どういうことですか?」
「あれ? だって君は今、そう考えていただろう? もう病に対し、どうすることもない。君が何をしようとも、きっと事態は解決する、なんてね」
影が笑った気がした。楽しげに、嘲笑うように。
ソラリックは俯いて、しかしその言葉に腹が立って言い返す。
「でも、これで病の伝播は止まります。だから」
「だから、人が死んでも構わない?」
くすくすと楽しげに笑い、影は祭壇に寄りかかるように片手をついた。
そこでようやく、『細身』という情報だけがソラリックに伝わった気がした。
「死んでも構わないなんて、そんな」
「別に嘘をつかなくてもいいんだよ。そう思ってるなら、構わない、と胸を張って言えばいいのさ。それで、元気な人間だけを残して、この街はまた元に戻る」
「私は……構わない、なんて思ってなんていません」
最後の抵抗をするように、ソラリックは唇を噛みしめる。
いいわけがない。人が死ぬのだ。それがどれほど辛いか、など戦争で嫌になるほど思い知った。
だから今も。
「じゃあなんでやめるのかな?」
だから今も、やめたい、なんて思っていない。なのに目の前の誰かは、自分を詰ろうというのだろうか。
「やめるわけじゃありません。……必要ないから」
ソラリックが小声で答える。ほとんど発音出来ずに、自信なさげに。
「もう、何もしなくても、きっと病気はなくなるんです。これが一連の伝染病群で亡くなる最後の死者なんです。だから、もう、薬も……」
ソラリックの右の隠しの中で、薬の瓶が一つ重たく存在感を主張する。
カラスが作った薬。もう中身はほとんどなくなってしまったが。
「そう。なら、それでいいんじゃないかな。君は何も思い悩まず、これからのことを考えるといい」
それでいい、という言葉。
影が本心からそう言っているのはなんとなくソラリックにもわかった。
きっとその言葉は、優しげな笑みを浮かべて口にしている。声も口調も、きっとそうだと告げていた。
「でも君は多分、そうじゃないと思っている。そうだと自分に言い聞かせながら、そうじゃないって誰かが言っている」
言葉を切り、影はソラリックを見た。
どこか外で鳥が鳴いている。
「自分に嘘はつかないように。それが幸せに生きるための唯一のこつさ」
ぼんやりとソラリックは影を見つめて、やけに饒舌だ、と思った。
楽しげで、快活で、しばらくこの王都では見なかったほどに明るい声。
浮き世離れしていて、そしてその光は。
この窓は、こんなにも強い光を発する窓だっただろうか。
「一つ、助け船を出そうか」
ああ、と影が指を立てる。綺麗な指、とも思った。輪郭すらも曖昧なのに、何故だか。
ソラリックはその影がじんわりと滲むようにも感じた。存在が薄い、もしくは、ない。
「今の君が抱えている感情は、もどかしさだ。未練や後悔なんかじゃない。まだ終わってはいないんだから」
言われたことが、どうしてだかソラリックの中で腑に落ちる。なるほどそうなのか、と反論する気も起きないほどに。
「君は、自分にまだ出来ることがあることを知っている。なのにそれを選べないことがもどかしく思っている。その執着を、諦めたいと願っている」
「……貴方は、いったい……?」
なんとなく、ソラリックはもしやと思う。
少なくとも普通の人間ではない、と思う。ならば、と薄々思ってしまう。
「もう一度自分を見つめ直して、自分に嘘はつかないでごらん。そうして心のままに、自分を信じて進めば、きっと上手くいく。上手くいくように、きっと力を貸してあげるから」
未だに影の姿は見えない。
けれども、その顔はにっこりと笑っているようにソラリックは感じた。
温かな笑み。優しさを全身に帯びているような。
「そうだね、助け船というならもう一つ」
「……なんでしょうか」
「君はきっと、もう全ての答えを持っている。あいつのことだ。隠し事なんか出来る質じゃないからね」
うん、と自分の言葉に影は頷いた。
だがソラリックの方は怪訝に思う。誰か特定の人物について口にした。それが誰かというのならば……。
「あいつ、というのは?」
「この事態を作り出した犯人」
「つまり、これはやっぱり誰かの?」
「そうだよ」
こつん、と影が爪先で床を叩く。
質問を重ねようとしたソラリックは、それで何故だか言葉に詰まった。
「……君は、何のために治療師を続けているのかな?」
「何で、って……」
「治療師になったのは七歳の頃。貴族の家に生まれた君は、その頃魔力を扱う才能を見込まれて聖教会の門を叩いた」
ソラリックは唾を飲む。
この『影』は、何故そのことを知っているのだろう、と不思議に思う。更にそして不思議に思えず、思うことすらも不敬なある可能性に思い至っていた。
「でもね、いつでも君はやめられたんだ。家とは既に縁が切れている。魔力の才能を使うなら、魔術師でもいいし、それに魔力を使わない他の道だって君には多く開かれている」
「私には、……力があったから」
「力があるからやらなくちゃいけない。この世界は、そんなに不自由ではないよ」
くつくつと作り笑いのような笑い声を重ねて、それからもどかしげに影は背中で祭壇を押して鳴らした。
「想像してみてよ。君は……そうだな、君は商売を始めるんだ。その頭脳で塩の相場と魚の相場を完全に読み取り、需要を読んで安く買って高く売る。金貨の山を両手ですくい取るようなものだ。苦もなく大儲けして、一生を安楽なままに過ごすことも出来る。そんな道が、目の前にあるとしたら?」
言葉を切り、そうだね、と影は続けた。
「今の君は最高の治療師の才能を持つとは言えない。少なくとも、特等治療師は皆今の君よりも優れている。君が一人いなくても聖教会は何の痛手もないだろう。そんな中で、安楽な道を蹴ってまで、君がこの聖教会で努力し続ける理由は?」
影が、スウ、と姿を消す。
代わりに、声の続きが後ろから聞こえてきて、そしてソラリックは振り返る気が起きなかった。
「今自分が何をしていて、何のために、どうしてそれをしているのか。それを考えるのが、自分を見つめ直すということだ。そして君は、その答えも既に持っている」
元気づけるように。背中を押すように。
発せられた言葉にソラリックの背骨が自然と立つ。迷いが消えたのだ、と自分でも思った。何をするべきかはわからなくとも、きっと。
「……貴方は、……は、私に何をせよと仰るのでしょうか」
「…………」
ソラリックが真剣に口にした言葉。
それを聞いた影が、一瞬黙り、それから噴き出したように息を短く吐いた。
「何をさせたいわけじゃないよ。でも、期待している」
「期待?」
「きっと君なら、何とかしてくれる、なんてね」
なんとかしてくれる、とはどういうことだろうかとソラリックは思った。
まさか、この病魔災害を鎮めることを期待されているのだろうか。だとしたら、それは過大な評価にもほどがある。きっと自分はそんなに大きな働きは出来ない。
時間もない。能力も権力もない。そんな自分には。
そう、少しだけ自己憐憫と自嘲を含んだソラリックに向けて、影は言う。
「でもそうだね、なら一つだけ、頼みがあるんだ」
「頼み?」
「……君は心のままに動いてほしい。それだけしてくれれば、きっとぼくらの願いは叶う」
初めて、影の声がきちんと聞こえた気がした。
息を吸い、吐き、喉を震わせ発声している。それが生々しく感じられ、ソラリックは息を飲んだ。
「ぼくらの古い友人を助けてあげてほしい。それがぼくの願いだよ」
声が消えると同時に、ソラリックは自分が目を開けたことを感じた。
いつの間にか目を閉じていたのだろう。もしくは、寝ていたのだろうか。
祭壇を見れば差し込む光はなく、先ほどまでの光景とは一変して、いつもの暗い聖堂にいた。
ソラリックが振り返るが、しかしそこには誰もいない。残り香すらもなく、ただぽつんと空間が広がっていた。
夢だったのだろうか、とソラリックは思う。
疲れていて、ほんの数瞬見ていた夢。誰かに何かを言われた気もする。誰かが何かを伝えてきた気がする。ほとんどなにも覚えてないけれど。
ふとソラリックがまた祭壇を見た。
そこには炎を象った、神聖なる神像が一つ。
目を閉じれば、はっきりと神の像が結ばれる。
今自分の隣には神がいる。
ソラリックには何故だかそれがはっきりと感じられて。
「……よし……」
握った拳には、決意が宿っていた。




