私利私欲の三日天下
多くの文明において、宗教というものはその中核になる存在である。
宗教というものは道徳であり、科学であり、民をまとめる求心力として発達する。
そして多くの文明の発達というものは、ある一つの発見から始まる。
『火』の発見である。
第一治療院の奥に安置された火の祭壇。石で作られた半球状の器の中に燃えているのは、この治療院が作られてから一度として消えたことのない火。
その火の中には薪に紛れ、ごく細く小さな、人の指程度の枝がくべられている。
エンバーは火の中に手を突き入れてそれを取り出した。
その手にも衣服にも一切の焼け焦げはない。それは聖なる火の源泉であり、そして治療師たち聖なる者をその火は焼かないからだ。
手の上に乗せた枝はちろちろと小さな火の舌を出している。そこに息を吹きかけ、火を大きくする。やがて掌から立ち上がるほどに育った火を掲げつつ、小さく祝詞を呟いた。
「火よ。邪なる者を退けよ。汚れたる者を浄化せよ。腐敗を遠ざけ蝕みを拒む火を、授けたりし我らが主の御名において」
揺らめくように炎が揺れて、橙色の泡のようなものがぶくぶくと弾けるように散る。
その泡が自身の周囲で弾けるのを確認して、エンバーは枝をそっと火の中に戻す。
神器〈生き残りの枝〉を扱い個人に施すその秘儀は、戦う力のない治療師における最大の防御。
これより護衛を伴うとはいえ、街の中に出なければいけない今、最低限の備えともいえる。
上等治療師以上だけに許された秘儀。
……本当は全員にこれを施せたら、とエンバーは内心呟いた。
戦時特約の解除に伴い、聖教会は王城から撤退している。
当然王城治療師という身分もなければ、そのような役職は存在しない。
だがそれでも、『使節団』を伴うエンバーの嘆願に、謁見はすんなりと行われた。
階の下、青い絨毯にエンバーは跪く。
周囲は謁見の間に集められた貴族たち。聖教会から火急の連絡という言葉に、ビャクダン大公以下、この城にいた重鎮たちがそのまま移動し控えている。
彼らの数も災害前と比べれば少なくなっていた。本人が何かしらの病に倒れた、ということはほとんどないとはいえ、自主的に適当な理由をつけて登城しない者も増えてきていたことを王も憂慮していた。
「……なんじゃと?」
「…………」
エッセン王ディオン・パラデュール・エッセンに階の上から聞き返されたが、エンバーは跪いたままただ頷くように視線を伏せた。
咳払いをし、王はまた返答を促す。けれどもその効果もなく、ただ黙っているエンバーを忌々しく思いつつもそれを見せないように背もたれに背をつけたまま自身の理解を繰り返す。
「王都を焼く……正気ですかな?」
「それしかもう、手はありません」
今説明をしたはずなのに。そう少しだけこちらも苛つきながら、エンバーは同じ言葉を繰り返す。
「惨状は既にご存じのはず。この王都は既にこの世のものではありませぬ。死者が練り歩き、病魔を撒き散らしながら生きた人を食らって歩いている」
「それは聞いたし聞いている」
昼の少し前から始まったとされるその騒ぎは、王とて聞いている。
先日から騒がれている病。そのうちのどれか、もしくは新たな一つによる狂気に陥った複数の者たちが暴れ出したのだと。
既に衛兵が幾度となく鎮圧し、聖教会の指導の下、生まれた死体を焼いている。
もちろんそのような由々しき事態を王国として放置も出来ずに、緊急で専門部隊の設立が望まれるかと先ほど重鎮たちと話し始めたことだ。
「じゃが、…………」
だが王としては、そんな騒ぎも今更のことだった。
惨状というならば、今の王都はそのものだ。
病が蔓延ることにより、物流が止まり、市場も消え、民は皆家に閉じこもるか故郷を頼り出て行ってしまっている。
昼間でも火が消えたように静まりかえった街。このエッセン王国で一番の都だったはずの街、象徴の街がその有様で、それが惨状でなければ何というのだろう。
問題だらけだ。その問題の中に、一つ加わったからといってなんだというのだ。
「先日、聖教会は正式にこの一連の伝染病群を『病魔災害』と名付け災害と認定しました。そして我らはその災害に対しあらん限りの抵抗を続けてきましたが……もはや、それも手遅れ」
エンバーは顔を上げる。
苦虫を噛みつぶした顔をどうにかして潜めつつ。
「お選びください。この王都を焼いて疫病群を封じ込めるか。それとも座して死を待つか」
「…………っ!」
王は唇を震わせ、目を見開く。
その選択を突きつけられることも業腹なら、『彼ら』に突きつけられることすらも。
「戦時特約の消えた今、選択を迫るのが我らに出来る限界。どうか、王陛下、お覚悟を」
「覚悟、だと?」
「どうか、私たちにお任せいただきたく。王国を守るという契約は消えても、私たちには弱き民を守るという使命がある」
選べない、ということもエンバーはわかっている。
今回エンバーが迫っているのは、王都の『消毒』だ。
多くの文明の発達というものは、ある一つの発見から始まる。
『火』の発見である。
雷や山火事などにより人が手にした火は、人に数々の恩恵をもたらした。
夜の明かりを確保し、獣を追い払い、寒さを凌がせる。肉を焼いて腐敗を遅らせ、食糧の確保の難易度を下げるということも。
有用な『火』という技術。自然と起きたものを採取し種火として保存する他、火打ち石や木々の摩擦などを使って熾すということが出来るのは、人が人たる由縁の一つだろう。
故に、古来様々な指導者は『火』の扱いに長ける者たちが多かった。火起こしの技術に秀でたものが家長に着くという民族すらもある。そしてそれは、聖教会も。
古くより、聖教会は病を遠ざけるために『火』を用いてきた。
体温の確保や食物の加工。その程度は当然のこととして。
聖教会は古くより、ある神器を有している。
初代の教主〈御子〉が恐れ多くも神より賜ったとされる木の枝。
〈生き残りの枝〉。腕ほどの長さの木の枝は、聖教会の本国で挿し木されたまま未だに赤々と燃えている。
その枝を使い、〈御子〉は人々をその火で温かく照らし、『敵』を焼いて人々を守ったのだという。
聖教会の敵。
即ち病を。病を持ち広げる、罹患者を。
傷つけるもの自体に気をつければいい怪我とは違い、病への対抗措置というものは様々ある。
罹患しないための予防。滋養ある食事を取り、適度に身体を動かす。衣服や食器などの身体に触れるもの、また食物などの口に入るものを清潔なものにし、身体もまた洗浄により清潔にするのもこの段階だろう。
残念ながら何かしらの病に罹患してしまった場合は、治療の段階に入る。滋養ある食事を取り、身体を休めながら自然治癒を待つという簡単なもの。薬を飲む、もしくは治療師の法術に頼るのもここだろうか。
仮に病が悪化し、また毒に侵され、身体末端や傷口周囲が腐ったりすれば、切断や除去などの段階に進む。そうなれば元の身体には戻れない。取り戻すことは出来ない。治療師たちには。
そして病が『伝染病』である場合は。
患者があまりにも増える、もしくは原因が未だに不明で、もはやその伝染が止められなくなれば。
聖教会に属する治療師。その最高峰に当たる特等治療師は、ある権限を有している。
最終手段ともいうべきそれは、『封じ込め』という表現がよく知られている。
伝染病自体への対処を諦め、患者を一カ所に集めてせめてその他の健康な者を守るという消極的な戦い。そのときに到れば、それは『予防』という初期段階に戻るというのも皮肉な話だ。
更に、封じ込めにも、最後の段階がある。
発動するにはその街や村に関わる特等治療師二人以上の承認が必要な措置。
焼却処理。
聖教会の全ての治療院に存在する〈生き残りの枝〉の分体を用いて、罹患者ごと街を焼くのである。
その『封じ込め』は早ければ早いほど効果が見込める。
罹患者と、そして原因となっている可能性のある鼠や野鳥や野良犬など、全ての生命を焼き清める。
起動した〈生き残りの枝〉はある範囲を炎の壁で包み、その中の生命を一気に焼く。そういった危機に聡いとされる鼠たちすらもひとたまりもなく、況んや人間の罹患者も。
街を焼くのだ。火事、という生易しい表現ではない。
人々は帰る家を失い、政治機能は混乱どころか消失する。
無論そのようなことを決断も王には出来まい、と思いつつも、エンバーはそれを王に迫るしかなかった。
戦時特約があれば、強権により押し切ることも出来ただろう。だがそれも消えた今、エッセンにとって聖教会は『国家の盟友』ではなく『親切な隣人』だ。
助けを拒むのならば、もはやその手を取ることは出来ない。これがエンバーたちに出来る限界で、そしてエンバーたち治療師の願いだ。
頷いてくれ、とエンバーは期待を込めて王を見る。
けれど、王の目は怒りに震えていた。
「使命……じゃと?」
震える手と声。そんなもはや取り繕えない反応をしつつ、王は自身の冠を頭から手に取った。
そして、投げ落とした冠が、エンバーの目の前で弾けるようにガシャンと鳴る。衝撃で金属の輪が歪み、宝石がぱらぱらと転がった。
階の下で並んでいた貴族たちが、ざわ、と声を上げた。
「ふざけるなっ!! 使命とやらがあるのなら! 何故こんな事態になるまでどうにもできなかった!?」
肩で息をしつつ、王は肘掛けを叩いた。
「災害に認定された? 違うじゃろう、お前たちの失態じゃ! 民を救うなどとお題目を掲げて何も出来なかったお前たちの!!」
何も出来なかった、という言葉にエンバーは深く頭を下げる。
何の反論もなかった。未確認の病が不自然なまでに急速に数多く流行する。この未曾有の事態とはいえ、しかし民を救えなかったのは確かに聖教会の怠慢が原因だと思った。
しかし。
ざわ、と貴族たちがまた響めく。
多くの者たちが、言い過ぎだ、と感じた。
聖教会の者たちが夜も眠らず病と闘っていることを知らぬ者はいない。それが当然だ、と思う者も大勢いるが、しかしそこまで言われなければいけない謂われはない。
もっともそれは今王の言葉を聞いているから思えることで、彼らも普段そう感じていないわけでもないのだが。
「流行病をどうにも出来ず、人心を我が国から奪い去るのみ! おお、そうじゃな、選んでやろう、選んでやろうとも!!」
王の怒りとも呼ぶべき激情は根深い。
今その話を持ってやってきた聖教会に、もう我慢出来なかった。
現在、この国は苦境に立たされている。
先の戦争で多くの聖騎士団が壊滅した。
そこでの勇者戦死の責任を取り、信頼していた聖騎士団長が一人王城を去った。それに伴い、もう一人も。
聖騎士団は王の私兵。本来そのはずの。けれども政治的な思惑の下、それぞれの聖騎士団には暗黙のうちに所属する派閥が存在する。その中で、王党派と呼べた二人の離脱により、王はもはや聖騎士団への影響力をほとんど失ったことにも繋がっている。
古来より王の求心力というのはほぼそのまま、動かせる暴力装置の力だ。それが失われつつある今、国家の内側で内乱に怯えなければいけない段階になりつつある。
更に、暴力装置が失われたことに加え、戦時特約の解除という聖教会の影響からの脱退の影響もある。この絶好の機会に、西方の諸国やミーティアなども色めきだっているという情報が集まっている。
国の内外に敵がいる。
戦の気配があれば物流はあるところには集まり、あるところには滞る。人体でいえば鬱血と充血という状態。国家の運営における障害の一つだ。
その理由が、勇者の戦死という出来事と、そして〈大妖精〉の追放という事件。
どちらも、元を糾せば聖教会のせいだ、と王は憤慨していた。
この度の一件だけではない。
噴出する今までの不満。それに、自分の身の周りに起きている悪いこと。
それが全て、目の前の男たちのせいだという気がする。ならばそうだ。きっとそうに違いない。
王は振りかざすように指をエンバーらに向ける。
いつもは泰然自若と配下に見せていた余裕が失せた顔で。半笑いで、冷や汗を流しながら。
「我が国は塵一つたりとも焼かせはしない!」
王の近く。階の上で控えていた侍従長は、その言葉にサッと顔を青くした。
まずい。今の王は正気ではない。
そう思ったのは侍従長だけではない。その階の下、王に最も近い一団として控えていた、ビャクダン大公も。
ビャクダン大公が一歩踏み出す。
「恐れながら、陛下」
見上げるのは王の顔。もはや感情に振り回され、理性を失った顔。
「人を救えず人の営みを破壊する。そのような所行を、我らが許せると思うのか。ならばお前たちなど、即刻……!」
「陛下っ!」
ビャクダン大公の叫ぶような呼びかけに、口を開けたままようやく王は言葉を止め、視線だけでそちらを見る。
日に焼けた浅黒い顔。白の混じる鼻の下のふかふかとした髭に隠れて、王からは口元がよく見えない。しかしその憐憫に似た目はよく見えた。
「ああ?」
「遺憾ながら、私も聖教会からの申し出に賛成いたします」
選択とされているが、実質これは一択なのだ。
ビャクダン大公は独自に街中を調査し、既に結論は出ている。王都は今、死者が練り歩き、生者を襲う魔の領域と化している。往来に人はおらず、住民たちは扉に閂をかけて、息を潜めて閉じこもっている。
自分たちに出来ることといえば、兵を出し、死者を殲滅することくらいだろう。
けれどもその感染する死者の原因が聖教会という専門家にすらわからないのであれば、また事態は起こる。
今王城内は安全だ、とされている。
体調不良がある者は隔離され、もしくは登城を許されていないために。
だがそれも絶対ではない。
ビャクダン大公も遠目に見た。皮膚の所々が腐り落ちたような死者、もしくは先ほどまで生者だったはずの人間の一団が、複数街を練り歩いている。
この王城内でも、同じようなことが起きる恐れもあるのだ。隣にいた誰かが、突然血を噴き出す死体へと変貌し、食らいついてくる恐れもあるのだ。
原因が、風に乗る瘴気だとしても。鼠だとしても。野良犬だとしても。
ならばいっそ、まだ安全だと思えるうちに。
まだ大丈夫だと思える者だけを残し、全てを焼いてしまった方がいい。
私もです、陛下、といくつも貴族たちから賛同の声が上がる。
賛同していない者も、焼かれる王都の中で財産をどう守るか考えている程度で、反対意見を出す者はいない。
ああ? と小さく呟きながら、呆然と見開いた目で王は階の下を見回す。
冠もなく萎れた髪や髭は、もはや錯乱を示す明らかな程度で。
「順次避難の態勢を整えましょう。それぞれの聖教会の敷地の中は安全ということは」
生き残りの枝は周囲に、『悪しき者』が踏み込めない境界を作る。
故にその枝の下に集える者たちは生き残り、故にその名が伝えられた。
「地区ごとある聖教会に、それぞれの住民たちを振り分けて」
「ならんならん!!」
階の下で、そうしよう、と周囲と頷きあったビャクダン大公に向け、王は唾を飛ばして叫ぶ。
何を勝手に指揮を執っているのか。今ここは王城、謁見の間。ならば自分が最高権力者で、その他全ては従うべき下々だというのに。
「わかっているのか!? それは生き残るかもしれない者を焼くということじゃぞ!?」
「しかし、そうしなければ皆死ぬでしょう。私も。陛下は生き残るとしても、もはやそうなればそこは国ではない!」
王が生き残ることは皆が知っている。
エッセン王国にある一つの神器〈聖仙の葉〉は、覆せない未来を予知する一枚の栞。十七年に一度起動出来るその神器を用い、王族たちは自身の未来がある程度わかっている。
王はおよそ三年後、大病を患う。〈聖仙の葉〉は詳細を記さずその原因も結果もわかってはいないが、しかし大病を患うということがわかっているのであれば、それはつまりその時も存命ということだ。
「民がいるから国なのです! このまま座して死を待てば、この王都の民は死に絶える! 病は広がり、大国エッセンも終わりだ!」
皮肉にもそうなった場合、周囲の国はエッセンに手を出さないだろう。
伝染病により破滅した国。その原因がわからず根絶出来ていないのならば、忌み地となり誰も踏み込まない死の土地になる。
誰もいない、もしくは少数の生き残りを侍らせて、まだこの国の王を名乗る気なのだろうか。
戦後どこか寂れはじめたこの王城が、なおもすっかりと色褪せて空虚なものとなっても、玉座に腰掛け、まだ。
ビャクダン大公は王を見て推測する。
もはやその思考は整然としておらず、ただ駄々をこねる子供のようなものだろう。
このままでは国が潰えることもわかっている。しかし、聖教会への反感から、対抗策に賛同出来ないだけで。
「国は混乱するぞ!」
「なくなれば元も子もありません!!」
そして賛同出来ない理由が、聖教会からの反感だけではなく、自身へのものもあるということまでも読み取って。
終わったな、とビャクダン大公は思う。
もはやこの王は聖教会の、そして自分の提案を受け入れまい。
そして王が拒むのであれば、聖教会はそれ以上をしない。王が聖教会を国から排斥するまでもなく、出て行くだろう。信徒たちを伴って、恐らく西へ。
きっと決まっていたのだ、と何故だかビャクダン大公は感じた。
きっとあの日王城で、〈大妖精〉の息子を追い出したその日から。きっとこの事態はそこに繋がっているのだ。あそこが大きな間違いで、自分が何をしようとももはや取り繕えない最後の分岐点だったのだろう。
まだ手はある。
ビャクダン大公はその職権において、一つだけこの場をなんとか出来る手を持っている。
今はそれを使うべきか、使わずにこのまま城を去るべきか。そこまで考えて、拳を握った。
判断材料として大きなものは、王の生存の確定。
国が潰えるとビャクダン大公は口にしたが、それでも数年間王が生存することは確定している。つまり王はそれまで病で倒れることもなく、周囲も彼に危害を及ぼす病に罹患することはない。
それはつまり、この王城の中にまで病は入らないということなのだろうか。このまま王が聖教会との関係を完全に絶ち、彼らの助力がなくなったとしても、国が全滅するようなことにはならないということなのだろうか。
もしくは自分がこれから職権を使い、この場を乗り切り、王を生存させるということなのだろうか。自分でなくとも、誰かがこの災害をどうにか出来るとでもいうのだろうか。
……いや、誰かがどうにかするのを待てるほど、悠長に構えていられる事態ではない。
「なくなれば元も子もない」
もう一度、ぽつりとビャクダン大公が呟く。
誰かがやらなければいけないのであれば、それは自分の仕事だろう。この王城で、王族を除き最も高い地位を持つ自分の。代々任せられてきた仕事の。それが、責任。
こんなにも早く、代替わりをするとは思わなかったが。
きっとこの事態が収束した後、自分は勇退しなければいけない。表面上は、もしくは書類上は。
しかし大丈夫だ。きっと、息子ならば自分の代わりも上手くやるだろう。
「ジョウサイ卿、太師として、太保の承認を得たい」
「ビャクダン卿……?」
血走った目を見開いて、王が首を傾げる。もはやその目を見返すこともなく、ビャクダン大公は近くにいたジョウサイ大公を促す。
白髪を撫でつけた片眼鏡の老紳士。
彼もビャクダンと同じく三公の一人。その職能は、幼い王族の保育と教育。
「一時的な精神の失調により、陛下は政務を行えるご様子ではない。静養のため、王陛下の権限を一時剥奪する動議を行いたい」
「…………」
ジョウサイ大公は黙り、ビャクダン大公を見返した。
この王城内、もしくは貴族内で派閥を持つ三人のうち二人。当然、政治的には敵対し、一人に権力を持たせるというのは避けたい事態だ。
故に今ビャクダン大公が口にした決議は、通常行えるものでも承認されるものでもない。
けれども、ジョウサイ大公としてもこのまま静観するのは望ましくない。
「合意する」
「ありがたい。では、ユブラキオン公爵。司空として決議を認めていただけるか」
「ここにいる決議に参加する権利者は三十名。緊急時、また一時的なものであれば要件を満たしています。承認します」
何だ、これは、と階の下で行われている会話を王は呆気にとられて聞いていた。
だがすぐに気を取り直す。
今目の前で行われているのは、自身の権限を剥奪する蛮行だ。
「無法! 無法だ!!」
「では、ビャクダン大公の名において、この場にいる者たちで評決を取りたい。王陛下の権限を三日後の日の出まで剥奪する。それに伴い、縮小した王権を一時的に私に譲渡させる。反対の者は挙手を」
「反乱! 反乱だぞ!! 近衛兵!!」
王が、壁に控える兵に向け、ビャクダン大公を指し示すが、しかし兵は動けなかった。
顔を見合わせるようにして、だが足を踏み出すことは難しく。
ビャクダン大公の見回す先で、貴族たちは誰も手を上げなかった。
賛成の者は、と尋ねられればぽつぽつと上げない者もいただろうが。
もう一度見回して、ビャクダン大公は、うん、と頷く。
「では臨時の王として。このビャクダン大公が三日のみ仮王権を振るわせていただく」
仮王。何かしらの異変があり、王が不在時に、緊急で王の名代を執り行う。
それがビャクダン大公家の当主が受け継いできた太師という役職の職能の一つ。
無論、仮王は王とは違う。
あくまでも臨時の王権を振るう者であり、その他の聡明な王位継承権がある者がいれば不要な者でもある。貴族たちの爵位を動かすことも、国家の法を変えることも出来ず、ただ治水や治安に関わることなど、国の維持に関わることに指示を出せるだけのこと。
だが、国の維持に関わることであれば。
「近衛兵は陛下を安全な場所へお連れせよ。狂乱のため、少々手荒くなっても構わない。諸君らが処罰されることはない。それは全てこのビャクダン大公の責である」
「……は、離せ!? 侍従長、お前も……!」
近衛兵は侍従長に促され、恐る恐ると王を拘束する。ただ腕を掴むだけ、押して引っ張るだけの簡単な拘束ともいえない拘束に、それでも彼らにとっては決死の覚悟だった。
反乱だ、と喚き続ける王を見送り、侍従長が深々と頭を下げるのに会釈で応えて、ビャクダンは階の下から玉座を見た。
本来であれば、今座ってもいいのだが。
しかし登る気もなく、傍らで未だに膝をついているエンバーを見た。
「エンバー・スニフクス殿。協力に感謝し、我が国はこれを受け入れる。また聖教会の治療院に対して、避難民の受け入れを要請する」
「…………承りました」
突然目の前で起きた何事かに、未だに混乱しながらも、エンバーは頷く。
一時とはいえ王の交代劇。周囲の貴族たちは興奮し、後ろの治療師たちは戦々恐々と怯えるように周囲を見ている。
だがこれで、どうにかなったのだろう。
エンバーはそう思い、覚悟を決めた様子のビャクダン大公にもう一度頭を下げた。




