私は知っている
「無理に決まっているだろう」
別の治療院に勤務し、元々顔を合わせることもない男だが、ここまで加減が悪そうだっただろうか?
ソラリックはそう不思議に思ったが、それは無視した。
元々顔色の悪かった長身の男は、更にその頬までも痩けるように病人らしさを増していた。『治療師が不健康そうでは神の権威が疑われる』と、普段から身なりに気をつけるはずの治療師の最高の位階に立つ男、エンバー。
魔法使いである彼ならば、その自らの健康を保つ程度余裕であるはずなのに。
エンバーの勤務している一番街の治療院には今、この王都で拡大している全ての病の情報が集められている。
先日十六に増えた新たな病の群を、聖教会は明確に『災害』と認定した。そのための『災害本部』である。
まるで戦地かと思えるような慌ただしさは、情報の整理と、この一番街で発生した病の患者が続々と運び込まれているため。
ソラリックも馴染み深い増殖人面疽を始め、境界融解症、末端崩壊症、渇望症、灰血病、その他の新しい病の博覧会のように。
エンバーは書庫にいた。そこは現在、彼の集めた資料が積まれた倉庫のような有様だった。本来は整然とし、治療師たちが勉強のために使う資料室であるはずだったのだが。
平積みされた論文や資料は既に多くの治療師が手に取り閲覧している。『災害』で現れた病は幅広く、その全てを網羅し理解できている者は少ない。しかしそれぞれの治療師が持つ得意分野、または専門分野において、それぞれは必死に知見を集積していた。
「やはり駄目でしょうか」
「エウリューケ・ライノラット。懐かしい名だ。どこでその名前を聞いたかは知らないが、早々に忘れることだ」
エウリューケの残した資料を見たい。ソラリックはエンバーに要望し、そして断られていた。
エンバーにとっては当然のように。そしてソラリックも当然だと思った。追放者は、それぞれに追放される理由がある。その理由が彼女の『研究』にあるのなら、それは即ち。
「……彼女は何の研究していたのでしょうか」
「それを教えられない……いや、その言い方では納得しまい」
ふう、とエンバーは溜息をつく。まるで重病人が、やっと身体を動かしたように。
「知れば害になる。だから彼女に関しては全てが抹消されている」
「ですが」
「異端の追放者。それだけわかれば、もはや我々は知る必要があるまい。つまり彼の者が行っていた全てのことは、我らには必要なく、ただ害悪のこと。その程度、一等治療師である以上わからないはずがないだろう」
治療師は全て神の意志によって動く。
聖典を通し、神の啓示を受け取りそれを民に伝える伝道師。彼らは皆多かれ少なかれそう自負しており、またそうであろうと努めている。
だがエウリューケ・ライノラットは異端者だ。
聖教会の治療師、更にその高位という尊い身でありながら、神の意に背いた愚か者。
そんな愚か者の行為が神の意に沿ったものであるはずがない。だからこそ聖教会は彼女の全てを否定する。否定しなければならない。神の意を通じる伝道師が故に。
「ですが」
「理解したら戻れ。治療実験については許可する。今この場において我らが出来る最善を為すのだ」
もう一度溜息をついて、エンバーは開いていた資料に目を戻す。
こうしている時間も惜しい。
自分たちの最善とは簡単だ。学び、患者を見て、実践する。そうやって一つ一つの可能性を試し、可能を増やし不可能を潰して進むしかない。
病との戦いとはそういうものだ。
一撃で全てを解決する銀の槌はほとんど存在しない。
進歩とは道を一歩一歩進むこと。たとえ自分が今いるのが暗い隧道であっても。足を止めずに。脇目を振らず一心に。足下の石に躓こうとも立ち上がって。
そうすればいつかは外へ出る。エンバーはそう信仰している。
信仰が目を塞ぐ、という言葉もあるのだが。
そして、ソラリックは黙らない。
「……エウリューケ・ライノラットとは、どういう女性だったのでしょうか」
先ほどまでの話を一切知らない風で口にされた言葉に、エンバーは思わず口をついたように答えた。
「彼女個人は私も知らない。ただ、……」
言い淀むエンバーの様子に眉を顰め、ソラリックは首を傾げて重ねて告げる。
「私に彼女の名を告げたのは、『妖精様のご子息』です」
切り札の一つをここで切ってもいいものだろうか。
そう思いつつも、ソラリックはもはや遠慮しない。黙る気はない。それが必要だと思えるのならば。
「アリエル様の……」
エンバーは、何故、と一瞬考えて、そして『ああ』と思い直した。
彼女のこともエンバーは伝聞でしか知らない。しかし目の前にいるソラリックは、たしか彼女やその息子と親交があったのだった、と。
「しかし、その者は王によって追放されたと聞くが」
「先ほどの新薬も彼の協力によるものです。彼が私に手紙で伝えてくれたもの」
「…………」
「そんな彼が、あの人が『エウリューケ・ライノラット』について知りたがっている。私も理由はわかりませんが、でもそれが無関係とは思えない」
世間話や雑談を積極的にするような性格ではなかった。
また仮に興味本位で尋ねてきたとしても、きっとこのような話の『ついで』のようには出さない。きっと関係があるから興味を持ったのだろう。
彼はそういう人だった、と短いつきあいの中でもソラリックは確信している。
あの数年前のリドニックの大災害。
その戦場の中、兵士たちの中で錯乱と意識障害が蔓延するという前代未聞の危機があった。
そんなときにも、彼の一言で事態は好転した。
原因の白い雪。それを自らの身を以て突き止め、進言してきた。
無論、聖教会としても原因の究明はしていた。なのだから、いずれは白い雪が原因だと知られることとなり、きっとどうにかなっていだろう。
けれどもあの一言がなければ、その対策はだいぶ遅れていた。遅れれば多くの被害が出ていただろう。狂乱も意識障害もその動きを封じ、断続的に訪れる魔物たちに兵士たちは蹂躙されていただろう。
当時は外部の者に手柄をとられることをよしとしなかった聖教会に認められずに、結局ソラリックの手柄となってしまったが、彼の一言が皆を救ったことをソラリックは知っている。彼女だけは知っている。
私だけは知っている。
その自負が、ソラリックを突き動かす。
「……何故、『妖精のご子息』はライノラットのことを?」
「わかりません。でもだから、私は彼女のことについて知る必要があるんです。知らなければいけない気がするんです」
きっと彼女はこの事態に関係がある。彼女本人か、彼女の研究か、それはわからないけれど。
それに、もしかしたらと思うこともある。カラスの手紙で名前が出た意図を考えたそのときに。何の証拠も関連もなく、ただの憶測や妄想に過ぎないかもしれない。でも。
それは以前、エンバーが口にしたこと。
「……エウリューケ・ライノラットは、『青い髪』では?」
「…………らしいな」
エンバーには、『青い髪の女』に心当たりがあった。ソラリックはそう認識しており、そしてそれは真実だ。
もう一度溜息をつきながら、エンバーは同意し空中を眺めるように呆ける。
「…………院長室にいく。ついてこい」
そして決心したかのようにエンバーは頷いて、そっと静かに席を立った。
院長室に到着したエンバーは、無言で自らの机を探る。そして取り出されたのは、真新しくはない製本された本。カラスの執筆した研究論文よりももっと丁寧に、端が金属製の輪で留められていた。
その二冊の本は、ほんの少し前にエンバーが懐かしく思い、自宅の倉庫から引っ張り出してきたもの。
それでいて開く気にはなれず、いつかは読もうと院長室の机に放り込んだままにしていたもの。
差し出されたソラリックは、手に取った本が想像よりもずしりと重たく思って驚いた。
捲れば今自分たちが使う紙よりもだいぶ分厚いらしい。頑丈なのだろうか、などと考えつつ。
「これは……」
「エウリューケ・ライノラットの執筆した論文の写し。……たった二部しかないがな」
「え?」
言われてソラリックは表紙を見返す。そして確かにそこには、執筆者にエウリューケが、そして写本者に知らない名前が書かれていた。
開けば丁寧な文字がびっしりと並び、図説も正確かどうかはわからないがきちんと写し取られていた。それはその写本をしたものの性格だろう。
「しかし、彼女は異端と……」
「そうだ。異端者となり、追放され、その論文は全て処分されるか禁書棚に封じ込まれた」
「では、何故こんなところに?」
「言っただろう。写し、と」
具合悪そうに両手を机について、エンバーは苦々しげに口を開く。
「当時を生きる者ならば記憶の片隅に必ずあるだろう。聖教会の者が異端者と認定されたとき、その原本は先の扱いを受ける。しかし優秀な論文というのは必ず写本が作成されるものだ。例に漏れず彼女の論文も、その通りに」
「つまりこれは、特等治療師様の」
「いいや」
ならばエンバーが当時所持していたものだろうか。そうソラリックは尋ね、尋ねつつも写本の扱いを思い返す。
異端者の扱いは彼女とて知っている。だからその写本の扱いも。
「俺の、友のものだ」
その禁書を持っていることに対する、罰も。
エンバーは苦しげに、そして懐かしげに目を細めた。
エウリューケ・ライノラットに魅せられた者たち。当時そう数が多いわけではなかったが、確かにいた彼らは、自分たちの持つ資料の焚書に同意しなかった。
そして、一人、二人、と名も処罰されたことを明かされもせずに消えていった。
「あいつは言っていたよ。『たとえ堕落しようとも、彼女は本物の天才だった』と」
エンバーの友は、そんな信奉者の一人。
聖教会の審問官から逃れて頼った縁者の家で、死を選んで短刀で自らの喉を突いた。真実に背く真理などない、とエンバーら友に遺言書を残して。
骸となった彼を乗せた戸板の重みは、今でもエンバーの手にずしりと残っている。
「私は読む気はない。今この場で聖火によって焼いてしまってもいいと思っている」
友の死の遠因。エウリューケ・ライノラットの論文の写本。所持しているだけで一種の反逆行為となる。それをこの治療院に持ち込むという政敵をも恐れぬ態度は、魔法使い故のもの。
だがそれでも彼にも良識というものはある。聖教会によって形作られた良識の檻が。
故に彼は魔法使いでも魔法使いとは呼ばれない。それ以前に治療師として。
神が自分に背こうとも、自分が神に背くことは許さない。
「お前も、それを開けば異端者の仲間入りだ。それでもお前は読むか?」
「…………」
ソラリックは力なく立ち尽くし、少しだけ俯いた。
どこか遠くで、患者の叫び声と治療師の怒号が聞こえてきた気がする。皆が戦う音がする。
エンバーはまた溜息をついて、机の天板を見る。歴代の院長によって使い込まれてきた机の天板は、大きく滑らかな木の板に傷が大量についていた。
「そもそもにそれが役に立つとは限らない。いいや、役になど立たないだろう。所詮は二十年以上前の論文だ」
聖教会の研究は、一歩、また一歩、と進んでいる。今現在エウリューケが持っている情報はたしかに今の聖教会から進んでいるのかもしれないが、二十年前の情報はそうではない。
机越しに手を伸ばし、エンバーはソラリックの持っている資料に手をかける。
「誘惑を見せて悪かった。これは処分しておこう。友の遺品としても、害悪に過ぎる」
そっと引き寄せた手に抵抗はない。
「『妖精の息子』の要望は、『どのような研究をしていたか』だったな」
「……はい」
「私の名前を使えば、それに罪状としての情報ならばおそらく請願は受け取られるだろう」
特等治療師とは聖教会の位階における最高位だ。各国家にそう多くも赴任しておらず、小国ならば三人いればいい方で、この大国エッセンであっても全体で二十人はいない。
故に彼の権力は、聖教会の中でも通る。もっとも、まともな特等治療師はそのような権力に頓着しないものなのだが。
埋め合わせをするように、エンバーはその算段をつける。
「……何のためなのか、わからないが」
そしてぼやくのは本心から。
神の意志に背いた女。そんな者について何を知るべきだというのだろうか。神の照らす光の中央を歩きながら、その道から外れ暗闇に紛れた女。きっと、何も知らずに暗闇に葬り去るべきなのだ。
「話はこれで終わりだ。ソラリック一等治療師は気にせず、目の前の患者を見ろ。まずは先の新薬の検証からだ」
言い聞かせるようにエンバーは言う。
「犯人捜しは我々の仕事ではない。彼女だと決まったわけではないことも含め」
俯き両手をついた天板を見つめ、目を閉ざしたままで。
「なんだぁ……まだこれだけなん?」
人もいない書庫の中に少女の声が響く。
ぱらりぱらりと資料を捲る指は細く、象牙のような白さのまま。
仮に誰かがそこにいれば、即座に不審人物として拘束されるだろう。
治療師は深緑色の制服があり、更にその上に纏うとしても、高位の者は黄色い袖無しの外套を上に着るのみ。そうでない者は当然この治療院にはおらず、ましてや関係者以外が入れないこの書庫でそうでない者がいるはずがない。
だが彼女が身に纏うのは革の細い帯を何十本も幾重にも巻いた外套。まるで彼女を閉じ込めるための檻のような。
そして、夥しい数の三つ編みと化して毛先を止められている青い髪。
ふひゃー、と意味のない言葉を発しつつ、エウリューケが机に積まれた資料を広げ、笑みを浮かべて読んでいく。
けれどもどれもすぐに興味を失い、投げ捨てられた資料が留め具が外れてぱさりと床に広がった。
「つまんないの。感染経路すらまだ確定してねーの?」
これだけ多くの人間が感染し、また多くの人間が関わっているのだ。
一人より二人、二人より三人、三人よりいっぱい。その集合知を使えば、この程度の病、すぐに克服してくれるはずなのに。出来るはずなのに。
机の上に散乱する資料をパラパラと眺めて、エウリューケはじれったさと絶望感を深くする。
これではいつまで経っても自分の目的は達成できそうにない。
聖教会から離れて三十年近く経つ。
しかし今の聖教会が、これほどまでに堕落しているとは思わなかった。
もっと進歩していてもおかしくないのに。もっと自分に迫る誰かが出てきてくれていてもいいはずなのに。
やはり、自分は一人なのだろうか。
誰も相手にしてくれない。相手に出来る領域にいない。
孤独。
でもそんなのは嫌だ!
「まったくもうちょっと頑張ってよ! ここはこう! その病状変化と体質の関係はこっちの情報から否定できるでしょーが!!」
エウリューケが近くにあった羽ペンと墨汁を使い、手近な資料に注釈を書き込んでいく。
明らかな間違いには取り消し線を、考察が足りないところには強調線と論評を。疑問点が他の箇所に書かれた文章で説明がつく場合は、文を跨いで大胆に丸や線を。
……余人には容易に読めない癖字のまま。
これでは相手にする甲斐がない。
せっかく研究成果をばらまいたのだ。その労力に見合う結果は出してもらわねば。
そう感じ、他の人間の気配が扉を開くまで、エウリューケは作業を続けることになった。




