人面疽
「死人が動く、ですか?」
ソラリックは小さな果物を口に含みつつ、半笑いで同僚の話を聞いた。
ここは王都の治療院の一つ。その控え室で談笑するのは、待機中の治療師たちだ。
同僚の話では既に噂になっているらしい。昨日昼過ぎに行われた王都北東部の処刑場で、一人の罪人が処刑された。処刑法はいつものように、またエッセンの法で定められているとおり斬首。その罪人も確かに首を切り落とされた。
けれどもその罪人は、首を切り落とされた後も動き、喋り、身体の方も動きを止めずにいたのだという。
「それは……嘘でしょう」
「でも、私はそこにいたって友達から聞いたんだよ。落とされた首が喋る声も聞いたって」
噂を語る治療師は、両手でこめかみを押さえつつ、ひええ、と震えるようにして呻いた。
語りつつも、やはり悍ましい話だ、と思う。
死んだはずの人間が喋る。それに動く。それは道理に逆らったことで、人の嫌悪感を刺激する。
そしてそれ以上に、戒律的にも。
「みんな言ってるよ。神の国から拒否されたんだ、って」
死してなお神の御許へ招かれない魂。それが身体に残ってしまったのだ、と人々は囁く。
敬虔なる聖教徒はまさしくそう感じ、治療師たちも誰しもがその話に眉を顰め、死ななかった罪人が恐ろしく思った。
「それは、また」
神の御許から人の子が拒絶される。そのようなことがあれば大問題だ。
だがそれも本当に大問題だとは思えずに、ソラリックは甘酸っぱい果実をまた一つ口に含む。
「だったら、その生きているという死人はどうしたんですか?」
「治療師の誰かが回収してったって」
「ならばきっと、今頃はその方も正しく導かれているのでしょう」
安心させるようにソラリックは言う。
相手は二十を越えた年上ではあるが、しかし治療師としての階級は一等治療師の自分の方が上だ。ならば教え導くのもソラリックの務め。故にゆっくりと、何事もないように。
落ち着き払ったソラリックの態度に年嵩の治療師はまず安心したように一息吐く。
しかしそれでも消しきれなかった恐れに、机に伏すように身体を屈めて声を潜めた。
「……最近、そういう事件多くないですか」
「そうですか?」
「この前だって、棺の中のご遺体が腐ってなかった、って」
それも治療師の間で流れた噂だ。しかも、幾人かから実際に報告されていること。
ソラリックももちろん知っている。この治療院に勤める一人が実際に体験したことなのだから、本人に聞いたということもあり。
曰く、とある治療師が葬送の担当をした。その儀式の中、焼く前の遺体を確認したところ、死んでから数年経って白骨化していたはずの遺体が、まだ腐敗の最中だったのだという。
あまつさえ、その遺体はまだ生きる意思があるかのように起き上がったのだ。
「掘り返す遺体を間違えたか、それとも墓標を入れ替える不届き者がいたか、ではないですか?」
だがソラリックは、それも嘘ではないかと思う。腐乱死体があった、ということは嘘とまでは言わない。その目で見たのだから実際にあったのだろう。結局長い時間をかけて焼き、骨に変えたというのも本当なのだから。けれども起き上がったというのは、驚愕した治療師たちの見間違えではないかと思っていた。
驚いた人夫が棺を蹴り飛ばし、中から飛び出した、などともないとは言えない。
「そりゃ現実的に考えればそうですけど」
ソラリックの言葉を否定出来ずに、年嵩の治療師は頷くように首を揺らして同意する。
でしょう、ともう一度重ねるようにソラリックは微笑んだ。
生と死の間には行き来できない境界があって、そこは容易に飛び越えることは出来ない。故に生死の狭間にいる人間に手を差し伸べて引き戻す。それこそが治療師の役目なのだから。
死なない者がいた。死者が生を得た。もしもそれが本当だとしたら、その決意までもが揺らいでしまう。
ソラリック自身に限らない、そういったことが認められてしまえば、きっと誰かは思うだろう。『死んでも生き返らせればいい』、『どうせ生き返るのだから殺してもいい』などと。
だから、ソラリックは認めるわけにはいかない。少なくとも、その目で見るまでは。
死体が再び生を得るなど。
生死の狭間の境界を、容易に飛び越えるという現象など。
無論、もしもそんなことが起こせるのであれば、という願望はソラリックとてある。
もう半年以上経つのだろうか。あの戦争の最中に死んでいった大勢の人間たちを見た彼女には。
もしもそんな自然現象があるのならば。どうしてあの時起こってくれなかったのだろうか。
それに、もしも意図的にその現象を起こす術があるのならば。死ぬはずの者を生かす技術があるのならば。
もしもその技術を自分が持っていたのならば、きっと自分は躊躇なく惜しげもなく、誰彼構わずそれを使っただろう。
誰にも死んでほしくない。目の前で死なれるのは心底嫌だ。それを改めて知った、あの戦場では。
「ソラリック、ちょっと……」
「はい」
休憩中に悪いけど、と添えつつ控え室の入り口から、一人の治療師が顔を見せる。
中年の彼はソラリックと同じ一等治療師。院長である高等治療師を含め、ソラリックと共にこの治療院の中核を担う三人の内の一人である。
「見て意見欲しい患者が」
「わかりました。でも、どういう……?」
「多分、痣……と本人は言ってるんだけど……」
ソラリックはその言葉に応えて席を立つ。
たまにあることだ。ある治療師が、受け持つ患者の原因箇所の特定が出来ず、他の治療師の意見を聞くという行為。ソラリックが聞くこともあるし、そして今回のように応えることもある。
無能というわけではない。それは全て、聖教会を頼り来た人の子のため。より用心深く、そして慎重に。治療の業というのは繊細だ。その一手が功を奏さないことも、ましてや逆効果となることもあるのだから。
しかし、痣とは。それはつまり外傷で、対処も容易なはずなのだが。ソラリックはそう訝しみ、そして実際にその膝を見て納得した。
痛え、と一人の男性が、裾を捲った膝を抱えて呻いていた。
ソラリックは近寄ってしげしげと見つめて、首を一度傾げた。
「瘤になってますか?」
「瘤……かな? 病気臭くない?」
男性治療師に聞き返されたソラリックは、その膝蓋骨を覆うように作られた瘤にまた目を戻す。瘤、だろうと思う。まだ赤みを帯びた膝の皿辺りの膨らみは、出来たばかりの痣という色ではある。
更に、その痣を含めた周囲は膨らみ、血腫とも呼べる状態になっていた。
無論、治療師にとってその程度の処置ならば簡単だ。受傷部位は皮膚、また皮下組織。腫れを引かせて、更に治癒を急がせれば問題もない。
あとは骨に異常もあるかどうかだが。
「原因は?」
「何も。朝起きたら痣が出来てたらしい。それがどんどん膨れて」
今こんな、と中年治療師は声なく示した。
妙な話だ、とソラリックは思った。
膝の痣などは、ありふれているものといってもいい。膝は歩くときに必ず動作する関節で、動作中にどうしても突き出す動きをする。そのため、日常動作で知らぬ間にどこかにぶつけてしまい、それが痕になることも多くある。
だが今回の腫れは、それだけ見れば尋常のものではない。まるで大きな木槌か何かで叩かれたような外傷。受傷機転は無意識のうちにあったとは考えづらく、もしもそうだとしたら……。
「血性の関節液があるか見ておいたほうがいいのでは?」
もしくは、濁りなどがないかどうか。
ソラリックは膝関節に通した魔力から帰ってきた情報に違和感を覚えた。関節液の感触が健康的なものとは違う気がする。何か異常が出ている可能性がある。
まず判別すべきだ。外傷か、それとも病か。
「だよね」
うん、と中年治療師は頷く。
関節液の色を見る。本来は特注の中空針で穿刺し、染み出してきた液体を見るものである。魔力波で確認するのは彼ら熟練者には出来なくもないが、魔法使いでもなければその精密さが保証できなかった。
針を準備する中年治療師を横目で見てから、ソラリックは仰向けになっている男性を見下ろし問いかける。
「ご職業は何を?」
「衛兵を、しています」
「ちょっと動かしますよ。力抜いておいて下さいね」
しゃがみ込んで膝を畳むようにソラリックはそっと動かす。
既に中年治療師が行ったものではあるものの、ソラリックの印象も重要だと中年治療師は気にしなかった。
「座り仕事ですか? 立ち仕事ですか? あ、昨日は」
「昨日は……看守の手伝いをして、……」
「寝たのはいつ?」
「その、交代が遅れて、深夜までかかったので……」
(看守……)
途切れ途切れに聞き取った職業を加味し、ソラリックは膝関節の動作を吟味する。
皮膚のつっぱり、というだけではない動作の制限。やはり膝関節内に液体が充満している。
看守。牢獄や拘置所で囚人や犯罪者を監督する者たち。
ならば立ち仕事が主。そう考えてもいいのだが、とソラリックは思った。
(関節内の変形、摩耗による関節液の過剰……でも年齢的にまだ早すぎるし、皮下組織にここまで影響が出るとも考えづらいし……)
それよりももっと疑えるものがある。
「昨日は何を食べましたか?」
にこり、とソラリックは笑いかけながら、気軽に尋ねた。
正確には昨日のものが知りたいわけでもないのだが。
「え、えっと、……」
苦しむ衛兵は昨夜のことを思い出そうとする。
けれども、割と多くの人というのは、昨日食べたものがすぐに思い出せるわけでもない。更に昨日ではなく一昨日ならばもうほとんど思い出せる者はいない。年単位で即答出来るソラリックとは異なり。
衛兵も例に漏れず、悩む。
そしてその答えが出ないうちに、中年治療師の針の準備が整った。
「痛風では?」
刺した膝関節から抜いた関節液。
それを硝子瓶に入れて、特製の薬品と混ぜて観察した中年治療師とソラリックは頷きあう。
関節液は量は多いが血性ではない。その上濁りが出ていた。骨折などによる油滴も見られないため、きっと外傷ではない。
痛風は、特定の食事内容への偏り、もしくは特定の食物の大量の摂取により起こりやすい病。何処の関節でも起こりえることではある。きっと彼はそれが膝に出たのだろう。
ソラリックはそう思い、それは中年治療師の見解とも相違ない。
中年治療師も、痣という本人の訴えから乖離した見解に自信がなかったが、ソラリックの後押しもあって確信できた。
「じゃあ、そのような処置を」
ならばもう迷いはない。
一応後学のために見学させたほうがいいだろうか。
そう思い、ソラリックは休憩室からそっと様子を窺う後輩を見て手招きをする。
その足下では中年治療師が祝詞を唱え始めていた。狙うのは関節内部。
中年治療師の手元が淡く光る。法術という神の奇跡を行使する際、治療師により光る者と光らない者がいたが、彼は後者だ。
だが招かれ、それを見ていた後輩治療師は、ん? と首を傾げた。
特段おかしなことがあったわけでもない。膝に起きた痛みを伴う腫れ。その治療風景としては。
しかし、一つおかしなものが見える。笑い話に似たその感想に、お調子者の彼女はすぐに我慢できなくなった。
「ソラリックさん」
小声でこそこそと。一応患者には聞こえぬように。
「何ですか?」
「あの瘤の形って」
「助けてくれぇ!!」
俄に治療院の入り口が騒がしくなる。
手が空いていた二人の治療師はすぐにそちらを見る。どうしたのだろう。そんなに慌てて。
駆け込んできた人間は革の鎧を身につけており、衛兵か騎士か、その辺りだとソラリックは当たりをつけた。田舎ならばいざ知らず、この王都で騎士ならば金属の鎧を身につけているだろうから衛兵かそれに類する者なのだろう、ともすぐに分析した。
「どうしたんですか?」
「助けてくれ、みんな、急に苦しみだして、……!」
咳き込む衛兵に歩み寄り、ソラリックはそっと肩に手を置く。それから覗き込むようにしつつ、努めてゆっくりと言葉をかけた。
「落ち着いて。貴方ではないんですね?」
「俺じゃなくて! しゅ、囚人たちが……!」
「囚人たち」
『たち』という複数形に、苦しんでいる人間が複数人いる、と読み取ってソラリックは顔を硬くする。
そして振り返り、手が空いている後輩たちに向けて準備をするよう備品を指さした。
だがもう一つ、気になる言葉があった。
『囚人』という単語。先ほども、それに関連することを聞いて。
まだ慌てるように言葉にならない声で喘いでいる男に向けて、必要なことを聞かなければ。
「どのような状況ですか?」
「しゅしゅ囚人たちが、苦しんでいるんです。昼過ぎから、みんな苦しみだして」
「苦しむというのは、どういう風に?」
「わからないんです! 腹とか、胸とか、顔とか、押さえて……囚人と、それに同僚も!」
囚人と看守。牢獄にいる者たちが苦しみだした。
一箇所で同時に。しかも怪我などではないらしく、きっとそれは病で。
もしかしたら、とソラリックは振り返って治療中だった衛兵を見た。
昨日看守業務に当たったらしい。そして今日、朝から何かの病で膝を痛めている。
そして今、どこかの牢獄で、そこにいた人間たちが苦しんでいる。
偶然だろうか?
嫌な予感がしてソラリックは唾を飲む。
後ろでいくつかの荷造りを終えた後輩たちには見せられない緊迫した表情で。
もしもこれが、偶然でないとしたら……。
二人の治療師を連れて、ソラリックは示された牢獄へと到着した。
牢獄という物々しい名前ではあるが、見た目は通常の建物と変わらない。建材に石と木が混じる平屋の大きな建物。ただしその周囲には人が容易に越えられない壁が設けられ、更にその四隅には監視塔が置かれている程度の。
「こちらです!」
案内された部屋は集会場のような広いものだった。
基本的に囚人がいる部屋は鉄格子で囲まれているものだが、それよりも彼らの被害を優先したのだろう。
十数名が床に転がり呻いている。簡素な無地の囚人服を着た十名程度は囚人で、半袖の下着を露わにしているのは革の鎧を脱いだ看守である。
案内した看守は、彼らを見下ろしてぽつりぽつりと口を開く。
まだ戸惑いに震えるようにしたまま。
「最初は、午前に二人でした。同じ部屋の囚人で、共に腹が痛いと言い出して、何か悪いものを食べたんだろうと思っていたんですが」
見下ろされた人間たちは、皆身体のどこかを押さえて呻いている。
囚人たちは腹や胸。それに、看守たちは手や膝、顔などを。
「そのうち、明らかにおかしなものが」
「おかしなもの?」
看守が倒れている一人の囚人を指さす。
彼が最初に倒れた一人なのだという。ソラリックが駆け寄り、看守の許可と監督の下、その上衣の腹を捲った。
「…………!!」
そしてソラリックも絶句することになる。
腹は臍の上辺りを中心として、膨れあがっている。表面を走る血管が青黒く怒張し、まるで内臓の血管障害によるもののような。
だが、驚くのはそこではない。
驚くのは、その柄。または、起伏。
「まるで、顔みたいでしょう?」
看守がボソリと付け加える。
なるほど、とソラリックは思った。
看守の言葉通り、まるで顔のような模様だった。男性か女性かはわからない。だがきっと目と鼻、そして口の比率から、幼い人間なのではないだろうか。瞼も唇も閉じられて、すやすやと眠っているような顔。唇などに色はついていないが、しかしスッと走った皺の線は、もはや開口部と見紛うほど。
そして、突き出た鼻に空いた二つの穴。鼻の穴の内部までは既に作られている様子。奥はまだ塞がっているようだったが、悶える囚人の腹の動きに、まるで呼吸をしているかの様子だった。
「……他の、方は」
「同じようなものです」
近くに座り込む一人の看守を見れば、その頬は赤く腫れ上がるようにして膨らんでいる。だがその膨らみは単なる腫れというものではない。目を閉じてじっと耐える看守を「ごめんなさい」の一言で促し、手をどけさせれば、そこには耳介のようなものが形成されていた。
ソラリックは絶句し、口元を押さえて一歩下がる。
連れてきていた治療師二人も同様だった。血が出ているわけでもない。凄惨なわけでもない。傍から見て重篤なわけでもない。
だが、その異様な光景を直視するのには気力を使った。
「やっぱり」
治療師の一人が呟く。
ソラリックが振り返れば、言った治療師はまるでばつが悪いかのように肩を竦めた。
そしてソラリックに見られたことで、続きを促されたのだと思った。ソラリックを見返して、恐る恐るとまた口を開く。
「さっきの人も、そうじゃなかったですか?」
「そう、とは?」
「だってさっきの人も、膝に……膝の腫れが、何か顔みたいに見えて……」
治療師たちの顔の血の気が引く。ソラリックとて同様だった。
身体のどこかに激痛と腫れ。そしてその腫れには、人体の一部が現れる。
そんな病は、聞いたことがない。
しかもこの監獄で、罹患者がまとまって発生した。
「……一時隔離しましょう」
ソラリックはそう決断する。その権限はソラリックにはないが、けれども進言する権利はあった。
顔を向けた看守も、事態は深刻だと捉えているらしい。ソラリックの言葉に逡巡することなく頷いた。
原因がわからない。
食物か、それとも接触したものか。もしくはこれは人から人へと感染するものなのか。
わからない内にここにいる者たちを移動させることは危険な行為だろう。
一応は上の判断を仰がなければ。ソラリックはそう感じ、決断し、連れてきた治療師に伝言を頼んで走らせる。勤める治療院の院長に。そして更にその上に。
これが後にコルネア=ミフリー・ソラリックにより増殖人面疽と名付けられた病。
その病が歴史上に現れた最初の時であり、そして病魔災害と呼ばれた一連の疾病群の最初の報告だった。




