大人と子供
アリエル様がいなくなった代わりに、ならばとオトフシがアリエル様の昔の逸話を語り始めてから少し。
僕は話の腰を折らないよう、途切れたところでそっと外へと出た。
外の空気が吸いたくなったわけではない。それよりも、外へ出たアリエル様が、決して『休憩』という雰囲気ではなかったことが気に掛かって。
外へ出て扉を閉める。
まだまだ雨は降っているが、先ほどよりも小雨になっている。もう少し収まれば、騎獣車を止めたときよりも小降りになってくるのではないだろうか。
どんよりとした雲も薄くなり、所によってはもう少しで空も見えそうなほど。
僕は念動力で雨を弾きながら近くの屋根まで歩き出す。
屋根といっても大層なものではない。僕が先ほど枝に掛け渡した、屋根代わりの布だ。
「何か気に障ることでも?」
「…………まあ、ね」
屋根の下に入り、僕は視線の先に少女を捉える。実際は少女という年齢でもないはずの小さな妖精、だが本人は十七歳と言っているので、まあ少女でいいのだろう。この世界でも十七歳は少女と言っていいのかわからないけれども。
ハクの上にぽつんと座り、頬杖をついて宙を眺めていた彼女は、僕の言葉に言葉少なめに同意する。
珍しい。僕よりもどちらかといえばルルのほうに好意的だった彼女が。ルルの話が気に障った、と僕に打ち明けるとは。
「あんた出てきて大丈夫なの? 何か盛り上がってるわよ、中」
掌を上に向けて、人差し指以外の指を折り曲げてアリエル様は騎獣車の中を示す。また新しい話をオトフシが始めたらしい。きっと、オトフシの……お祖父さんか、その辺りが脚色した話だが、楽しいものなのだろう。
「親の心配を子供がするのは不思議でも何でもないでしょう?」
「……そうね。子供がね」
子供と言われて僕も実感があるわけでもないし、アリエル様とてそうだろう。
ただ単に、アリエル様は『自分の定義だったら』と僕をそう扱っているだけ。僕はそれに甘えているだけ。養子ですらないもっと緩い繋がりで、本来は心配するようなこともないだろう。
だが僕は、軽口じみるようにあえてそう口に出す。
アリエル様は、何処でだろうか、少しだけ空気を軽くしたように見えた。
「先ほどオトフシさんから、オルドでしたか? そこの谷底の花を開かせた話を聞きました。実際にあった話なんですか?」
「どうかしら。あったと思うわよ。伝わってる話があたしの記憶してるものと同じかわかんないし、……あの子の話だと嘘ばっかになってる気もするけど」
「そうなんですか」
僕もよくわかっていないが、まあそうなのだろうと思う。
西にある小国、そのオルドと呼ばれる地の谷底には、一年のある日にしか日が差さない。けれどもその日光に当たらなければ咲かない花があるらしい。
だがその日が差すはずの日に、雨が降るという珍事があった。これまで百年はなかったことで、そしてその結果花が咲かずに、種も作らず終わってしまう可能性もあるという。前回は、運良く生き残った数輪を大事に大事に増やすことでどうにか数を保ったが、今回は無理そうだった。
そこで空を割り、花を咲かせてアリエル様はそれを解決した……とのことで。
本人が実際に口にしているかいないかはわからないが、アリエル様の口調や、花の効能など、どう考えても子供向けではない表現が入っていた。
口の悪いアリエル様も、性的な花の効能も、祖父から孫に聞かせるような話ではないだろうに。
そこはサロメも引きつるように笑い、やはりルルは俯いていた。
アリエル様は、しみじみと自分の腕を擦りながら言う。
「……その場所だったかわからないから多分なんだけど、その花、ただ寒いって言ってただけなのよ」
「寒い?」
「寒さには強いんだけど、でも花を開かせるのには一定の温度が必要で、日光が当たれば咲く、から……」
だがその言葉が、僕はやはり意外に思えた。
その言葉はどちらかというとオトフシが言いそうなことで、もっといえば、アリエル様が言ったところの『無粋なこと』なのではないだろうか。
それから僅かな沈黙の後、アリエル様は深く溜め息をつく。
僕に聞かせるように。わざわざと。
「どうしたんですか? 急に」
「別に何でもないわ。地上って嫌だなってまた思っただけ」
僕は木の幹に背中をつけて探るように言うが、アリエル様はそれを笑って躱す。
明らかに原因はルルの話なのに……いや、違うか、原因はその前の……。
「地上では忘れられてしまうから、ですか?」
「そうね。あの本みたいに」
当たりをつけて言うと、アリエル様はそれに簡単に頷いた。
自分が書いた本だろうに。
「ルルちゃんは覚えてなかったわ。私、忘れないでって約束したのにね」
「夢の中の話なら、覚えてないのも仕方ないのでは」
「あたしは覚えているわよ」
アリエル様は断言した。
けれど、その言葉はルルのことだけではない気がする。ルルのことじゃない、他のことも、もしかしたら他の誰かのことも含めて言っている気がする。
「しかし、現にドゥミ様は千年の間覚えています。それはきっと夢ではないから」
「違うわ。魔法使いだからよ」
そしてもう一度、アリエル様は断言する。今度は僕を真っ直ぐに見て。
「魔法使いは大人にならない。ならないでいてくれる。だから」
言葉を切り、悔しそうにアリエル様は唇を尖らせた。それ以上を言えない、というのは道義的にだろうか、それとも矜持として、だろうか。
それでも堪えきれなかったのか、少しだけ悲しそうに、またアリエル様は口を開いた。
「どうせみんな大人になるのよ。『妖精なんて嘘っぱち』『奇跡なんて起こるわけがない』『自分に魔法なんて使えるわけがない』。そんな大人が決めたルールをお行儀良く守って、大人になった人間はあたしたちのことを忘れていく。大人たちってほんと嫌い。大っ嫌い」
言いながら、怒りが勝ったのだろう、口調が荒くなってゆく。
悲しげな顔は消えて、顰めっ面が強くなった。
「あたしは魔王を倒した一員よ。世界を救ったの。そこまでしてようやく、あたしが登場した物語は『おとぎ話』から『事実』になったの。さっきのオルド? の谷の話? なんて、そうでもなきゃ地方の噂話程度で消えていったわ」
やや俯き、青筋を立てるような顔でアリエル様はそっぽを向く。
憤懣やるかたない、という怒り。
ふん、と鼻息荒くしてアリエル様は頬杖をつく。
「白状するとね、あたしだってさっきあんたたちの話を聞いてて楽しかったの。噂話でもいいから、仲間たちの話を聞きたくて、それでちゃんと、まだいたのね、て安心できたの。でもルルちゃんのは別よ」
「……それほど違いが見えませんが?」
僕は反論する。
一瞬、嫁姑争い、というのが浮かんだがこれはそうではないだろう。
しかし仮にそうだとしても、僕はひとまずルルの味方をする。彼女は、僕が選んだ相手だ。
アリエル様は首を振る。『わかってないわね』と落胆するように。
「あんたたちの話の中にはあたしたちがいたわ。あんたは別だけど、きっと彼女らの前にはあたしたちがいたんだわ。でも、ルルちゃんの話は違うのよ。あの話に出てきた『不思議』は、未来のルルちゃんなんだから」
「しかし、あれは」
僕はまた反論しようとする。だが。
「わかってるわ。お母さんの絵でしょ?」
反論しようとしたことを先にアリエル様に言われ、僕は出かかった言葉を止めた。
『だからよ』と言われた気がする。
そこまで聞いて、先ほどの話と統合し、ようやく何となくアリエル様の気に障ったことがわかった気がした。
子供はみんな大人になる、ということ。
僕が反論の言葉を失うと、アリエル様はやれやれ、と笑う。
「別にルルちゃんが悪いわけじゃないわよ。あたしがあの話を気に入らなかったってだけ。あんたが余計なことを言わなければ済む話だから、黙っておいて上げなさい」
皮肉げに言って、それから一つ伸びをした。
「ま、愚痴を聞いてくれたことには感謝するわ。どうもありがと。随分と気が楽になった」
言葉通りに、少しだけまた空気が和らぐ。
雨が葉っぱを叩く音が響いた。
まあ、黙っているのは別に構わない。僕もアリエル様に『言わないで』と頼んだこともある。だがしかし。
「気に入らなかった、というのは気付かれてますけどね」
「あらま」
じゃあどうしようかしら、とアリエル様は呟き、ハクの背中を二回撫でた。
「…………?」
まだ雨は止まないのか。もう今にも止みそうだけれども。そう空を見上げていると、騎獣車からルルが姿を見せる。
僕が濡れないように雨が落ちない道を作ったのに気がついたのだろう、こちらを見て、ぺこと頭を下げた。
「ルルちゃん、貴方まで出てきてどうしたの」
「え、……いえ、何か、カラス様と楽しそうにお喋りしてらっしゃったので」
つい、とルルが恥ずかしげに笑う。
楽しそうだっただろうか? それもわからないけれど。
「そろそろ出る? これだけ小降りならいいじゃない?」
ねえ? と前半はルルに。後半はハクに問いかける。ハクが一声鳴いたが、僕にはその内容はわからなかった。
「いいんですか?」
「いいも何も、あたしが決めることじゃないもの」
笑いつつ、しかしぼんやりとアリエル様は答えた。
頭上で鳥が一声鳴く。ああ、ならばやはりそろそろか。
「その、アリエル様」
ルルが緊張し、一つ唾を飲んでからアリエル様に話しかける。
声に出さずアリエル様はその様子を見て、注意を向けた。
「私は何か失敗しちゃったみたいですけど……皆さんの話は楽しんで頂けましたか?」
「何も失敗なんかしてないわよ。充分、楽しかったわ」
それは本音だろう。アリエル様の声を聞いたルルが、少しだけ俯いたままほっと息を吐いた。
そして、頷く。
「私も、みんなから色々な話を聞けて楽しかったです。カラス様のお話も……」
優しく笑って、ルルは僕を見た。
僕だけ特別扱いしているわけでもないだろうが、……他にも何か言いたげに。
「いつか私も、私たちの子供に話してあげたいし」
そして、私たちの、というところの視線でドキリとする。
言いたいことがわかった、というよりも理解できた気がして、僕の顔が赤くなった気がした。
「私たちの子供から、そういうお話が聞けたら嬉しいな、なんて思いました」
そのことを楽しみに、というルルの顔に、僕は一瞬見とれてしまった。
優しげで、きっとその顔は彼女の言う『未来の私』の顔に似ているのだろう。……ストナにそんな印象はないが。
「…………」
「……! ええと、出発するんですね? では、それをサロメたちに伝えてきます!」
ルルの顔も少しだけ赤みを増して、僕をちらりと見てからアリエル様に言って身を翻す。
逃げるように早足で、ぎくしゃくした動き方で去ってゆくルルを見送り、僕はアリエル様を見た。
ぽかんと口を開けて、呆気にとられたように固まるアリエル様を。
「……というわけで出立しますけど、準備に入りますが、いいですか?」
話しかけても反応は無し。
まあ、空を見ればもう出立しても良さそうだけれども。
そして僕も熱を感じる顔を隠すよう、アリエル様から背を向ける。屋根代わりにしていた布の端、枝に掛け渡して幹に結びつけた縄を解きにかかる。
「フ、フフ」
濡れた縄に手をかけたところで、後ろから笑い声が聞こえた。まだ小さく、忍ばせているような。本当に面白いことを見つけた子供のような。
僕が振り返ると、アリエル様は足を伸ばして、両手を後ろにつけてまだハクに座る。
けれども、そこで噴き出すように大きな口を改めて開けた。
「フフッ、そうね、そうよね」
「……何を納得されているんでしょうか?」
「そうよ!!」
僕を無視してアリエル様は殿部をハクの背中から剥がし、宙に飛び立つ。
パタパタと羽が動く。何も意味は無いだろうが、機嫌良さそうに。
視線を向けていない僕の手元で縄が緩む。一つ緩い風が吹いて、張力を失った布の端がばさばさと音を立てた。
「あたしは何を落ち込んでたのかしらね。ねえ?」
呟きつつアリエル様は騎獣車の扉を見る。では準備を、と降りてきていたサロメを見て、そしてその奥のオトフシを見て。
「そうね、オトフシちゃん、喜びなさい」
「え? 何が……でしょうか!?」
声をかけられ、急ぎ騎獣車から身を乗り出したオトフシを見たまま、アリエル様は指の先を天に向ける。
「今、奇跡を見せてあげるわ」
アリエル様が指を弾く。
その数瞬後、少しだけ遅れて緩く長い風が吹いた。
僕はその指の先を見つめて目を細めた。
雲が割れる。雨が止み、雲の隙間の向こうから強い日差しが顔を見せた。
雨の最後の一滴が、騎獣車の屋根に落ちて弾ける。
暗かった森が明るく晴れてゆく。
木立の隙間の奥の闇が晴れ、緑とどこか金の混じる景色が広がり始めた。
涼しかった風がいきなり温くなり、身体にまとわりつくような湿気を帯びる。
アリエル様の合図と共に、雨が上がった。
それを知った僕たちが、アリエル様に視線を集める。その見つめた先にいたアリエル様が浮かべていたのは、腹が立つほど得意げな顔。
「どう?」
重ねてアリエル様はオトフシに問いかける。
オトフシは興奮気味に目を見開いていた。それから何かを言おうと口を開き。
「なぁんてね。いいのよ、言わなくて。貴方は貴方の思ったとおりに思っていればいいの」
「いや、その……」
「カラス、早く準備なさい。サロメちゃんもごめんね、手伝ってあげてちょうだい」
「ああ、はい、かしこまりました」
オトフシの返答を待たず、アリエル様は好き勝手に喋り始める。
きっとオトフシも感動はしただろうに。そして感動して、もうこの驟雨がすぐに止むことも感づいていただろうが。
「さあて、出発よ! とぉってもいい休憩だったわ!」
縄を外し、布を取り込みにかかった僕にアリエル様が笑いかける。
その満面の笑みはとても嬉しそうで、先ほどまでの雨天がすっかり晴天に変わったように、晴れやかなものだった。




