追憶:バイバイ
唖然としたフランシス。
そして諦観のままにエルシーを見つめていたアリエル。その脳裏には、この三年間の思い出が泡のように次々と浮かび、そして弾けて消えた。
アリエルを無視し、エルシーの指示のままに、『アリエル』の写真撮影は続く。
その演出のまま、半ば呆然としたまま従ったフランシスを、そして乗り気のエルシーをモデルとした二枚の写真が速やかに撮影されていった。
これでいい。
これでまた大人たちの気も済むだろう。そうほくほく顔でエルシーはカメラを抱えて帰っていった。
『早く帰らないと身体に障りますよ』と、フランシスへの心配の言葉を残して。
見送った二人は立ち竦み、そして言葉を発せなかった。
おかしいのは無視したエルシーか、それとも無視されたアリエルなのか。はたまた無視できない自分なのか。フランシスにはそれがわからずに。
アリエルもまた。だが彼女にとっての沈黙は、フランシスへとかける言葉を内心整理する時間で。
「もう、お別れね」
並んでいた二人の内、発したのはアリエルからだった。フランシスは理解が出来ないままに、アリエルを振り返る。
落ち込んでいるであろう友達、その言葉に同意できずに。
「そんな、アリエル? 何かの間違いよ。エルシーもきっと悪ふざけをしているんだわ」
きっとそうだ。
エルシーはどこか虫の居所が悪くて、いや、もしかしたら自分も知らない間にアリエルと喧嘩をして、きっと悪ふざけのままにアリエルを無視したのだ。
フランシスはどうにかしてそう自分にも理解できそうな理屈を立てた。
そうだ。たまにこの村に逗留しに来ていた自分と違い、エルシーの家はこの村にある。ならば自分が知らないうちにアリエルと話し、そしてその結果何かの行き違いがあったのかもしれない。
今日は最後まで、エルシーはアリエルのことを知らないふりをしていた。まるで存在しない妖精にアリエルと名前をつけたかのように振る舞い、示していた。だが、それが本心であるはずがないのだ。アリエルとは何度も話した。何度も遊んだ。何度も何度も、いつだって彼女はそこにいたのに。
フランシスの弁護も功を奏さず、アリエルはまた首を横に振る。
「いいえ、悪ふざけなんかじゃないの。これは、仕方のないことなのよ」
アリエルは知っている。
妖精と遊んだ記憶は長続きしない。早い者では七歳ほどで、遅くても十二歳ほどで人間には妖精が見えなくなり、妖精に関する記憶もなくなってしまう。それがアリエルたち妖精の常識だった。
エルシーはもうすぐ二十歳。ならばもう、見えないはずだった。出会ったときにはもう十六歳ほどだった。その頃見えていたとしてもそれは驚異的なのだ。夢見がちな少女としても見えなくなるのは遅すぎる。
もしかしたら本当は最初から。そう思うが、その真相はアリエルにはわからなかった。
だが、もうそんなことを考えても意味がないのだ。
エルシーは、もうアリエルの姿が見えない。ならばもう、全て意味の無い思考だ。
彼女は現実を見始めてしまった。もうアリエルとの思い出は作れず、そして全てが消えてゆく。
アリエルは振り返る。
もう聞こえないのだ。エルシーには、この森に満ちている声が。
いつも遊んでいた友達の声は、もう聞こえない。
もう■■■■■の声は川のせせらぎにしか聞こえないし、■■■の土を掘る音もただの林を通り抜ける風の音なのだろう。■■■が走り揺れた草むらは風が揺らしただけだ。
フランシスが先ほど怯えていた怪物も、顔を覗かせてみればほんの小さな一匹のアカガエルになってしまった。
「だって、ねえ……?」
まだ何か、言えることがあるはずだ。そう諦めずに言葉を紡ごうとしたフランシスに向けてアリエルは覚悟を決めた。
息を吸って吐く。
「フラン。お別れよ。あと何日かはあると思ってたけど」
もうすぐだとは思っていた。
フランシスはもうすぐ実家に帰り、そして学校に通うのだ。
そして学校で皆とはしゃぎ、勉強をして、親や教師に『まとも』な人生を学ぶうちに、自分のことを忘れてゆくだろう。少女から大人になる十二歳とはそういう頃で、だから、きっとこの数日が最後だと思っていたのだけれど。
「きっと、貴方ももうすぐあたしの姿が見えなくなるわ」
「そんなことないわ? 私は、貴方が今でもはっきり見えているもの」
エルシーのように、アリエルが見えなくなったわけでもない。見えないフリをしているわけでもない。だって彼女はここにいる。目の前にいるのだ、確かに。
アリエルは悲しげに、それでも懸命に笑った。
「今日か明日か、今じゃなくてももうすぐよ。別れって、いつも唐突で不条理なの」
アリエルはパタパタと力なく羽を動かす。
情を移しすぎた。長く一緒にいすぎた。そう後悔しつつ。
「じきに、あたしのことは忘れちゃうわ。あたしと遊んだ日々は、夢物語か幼い日の空想だと思ってしまう。それは仕方のないことよ」
「私は絶対に忘れないよ?」
「忘れていいのよ。誰だって、子供の頃は犬や猫、ぬいぐるみや花や妖精と遊んだことがある。それでもみんな忘れちゃうんだもの。貴方は気にしなくていいの。けして貴方のせいじゃない」
「でも」
反論しようとするフランシスの唇に指を当て、アリエルはそれを塞ぐ。
「必要なことなのよ。貴方はこれから少しだけ辛い現実を生きていかなくちゃいけないんだもの。子供の頃の思い出は、覚えているとかえって邪魔になっちゃうわ」
アリエルの指先が震えているのがフランシスにはよくわかった。その言葉と本心が、揺れて動いているのも。
指先を離し、フランシスの頬にアリエルは手を添える。それからまるで、母親が子供に言い聞かせるように微笑みかけた。
「楽しい子供時代はあと何年か。それはわからないけれど、その思い出は心の中にしまって、これから貴方は大人になるの」
エルシーみたいに、とアリエルは内心で付け足した。
きっと彼女も立派な大人になってくれるだろう。
「大人になんか……」
なりたくない、という言葉は口に出せなかった。
エルシーの態度。それに、アリエルの言葉。否定しながらも、フランシスは覚悟を固めていた。忘れないという言葉とは裏腹に。
予感はあった。初対面に近いあの頃から。
エルシーの両親にはアリエルの姿が見えない。もしかしたら自分も、成長すれば彼女が見えなくなってしまうのではないかと、密かに危惧していた。
泣きそうになりながら、フランシスはアリエルの手に自らの手を添えて握り返す。
「一緒にいよう? そうよ、一緒にスカーボローまで行こうよ。忘れても、きっと私は貴方のことを思い出すから」
「いいえ。あたしが嫌だもの。仲の良かった友達が、自分のことを忘れちゃうのを目の当たりにするなんて。あたしの記憶の中でくらい、貴方と友達でいさせてちょうだい」
フランシスは頷けない。だが、わかっている。自分の悲しさはやがて失せてしまうのだろう。しかしアリエルの悲しみは、消えてなくなりはしないのだ。
「あたしはまた、適当にこの世界を見て回るわ。勇者が子供の頃遊んだ国へ、まだ行ってもいないんですもの」
アリエルも少し後悔する。
長くいすぎた。勇者がアリエルの中で一番大事だったはずなのに。大事な者が増えるということ、それが辛いことだとは理解していたはずなのに。
深呼吸をする。もう一度。
「ねえ。貴方はこれから立派なレディになるの。貞淑な淑女かしら? それとも男を手玉にとる悪女かしら? どっちでもいいわ。どうなろうとも、貴方はきっと素敵なレディなんですもの」
アリエルは、成長したフランシスの姿に思いを馳せる。そのフランシスの中に、きっと自らはいないのだろうが。
「ね? だから、フラン……いいえ、フランシス、突然だけどあたしとの遊びはもうおしまい。三年も一緒にいたんですもの、もう充分よ。あたしも楽しかった」
「……本当に?」
「ええ。とても、楽しかった。貴方に捕まってよかったと、心の底からそう思うわ」
出会った日に、ふと油断して隠密を解いた瞬間、羽虫のように握りしめられた思い出。それもまた懐かしい。
「だから。ね? 涙は女の武器だけれど、こんなところで使わないで」
「だって、アリエルも泣いてるよ?」
「あたしは泣いてないわ。月から下りてきた妖精の体には、露が伝っているのよ」
なんとか笑って、アリエルは誤魔化そうとする。
「心配しなくても、きっとまた会えるわ。貴方が子供に歌うナーサリーライムの中に、羽が生えた美少女がいるかもしれない。エルシーとの思い出話の中に、あたしがいるかもしれない。そんなとき、ちょっとだけ思い出してくれればそれであたしは満足よ」
実際には、思い出すこともないだろう。そうは思っても、アリエルもそう願っていた。
もう引き留めることは無理だろう。アリエルの様子にフランシスも覚悟を決める。
ぐい、っとフランシスは涙を拭う。目は充血し鼻も赤いが、それでも目は光を取り戻しつつあった。
「わかった。私は絶対に貴方のことは忘れないから」
「期待しているわ」
実際には、無理だとも思っているが。
「……そうね。あたしは貴方が、忘れない方に賭けてあげる。貴方は、忘れる方に賭けなさいな」
「……どうして?」
「そうすれば、忘れたときに喜べるでしょ? 貴方は賭けに勝ったんだから」
ぴょこんとアリエルは飛び、そして空中でくるりと回る。鱗粉などないはずの羽から、光の粉が舞った。
「じゃあね。あたしのことが大事なら、あたしを賭けに勝たせてちょうだい。あたしはこの賭けには負けたことがないのよ」
「…………もう、いくの?」
「ええ。長引けば辛くなるわ。少し名残惜しいくらいがちょうどいいのよ。ニホンの諺に、『惜しまれつつ去るのが花』って言葉もあるらしいしね」
笑顔で見送られつつ去る。それも魅力的だとアリエルは思う。だが、勇者の言葉もわかる。きっとそれは妖精の習性でもあって、だから妖精は、常に唐突に去っていくのだ。
「だから……バイバイ!」
「……Bye……」
元気よくアリエルが笑顔で叫ぶ。それに応えようとフランシスが手を上げたときには、もうアリエルはそこにはいなかった。
フランシスはそれ以上何も言えず、今日の泥だらけの格好の言い訳を両親にどう話そうかということも考えず、ただそこにしばらく立ち尽くしていた。
フランシスとエルシー。
二十世紀初頭の英国。二人の少女が妖精写真を撮影したという事件は世界を駆け巡った。
そして晩年、彼女らはその偽造を告白した。それは彼女らが老いたときの話。
結果その話は、最も多くの大人たちを騙した子供の嘘として、後世に伝えられることとなる。
つまり、それはきっと。
彼女らはきっと、立派な大人になれたということで。
きっと、喜ばしいことなのだろう。




