未來の私
百物語はこの一巡で終わりです。
「その……困ったことに、子供の頃の不思議な話といっても、私は中々思い浮かばなくて」
俯き加減で肩を竦めて、ルルはそう口にする。
だがその語り口は、アリエル様への断りを述べているわけでもなく、何となくそれこそがルルの『不思議な話』だというようで誰も口を挟めなかった。
「だから、子供の頃の話というわけではないんですけど……」
それでも、いいですか? とルルはアリエル様に視線で問いかける。それを微笑んだまま無視するように見つめていたアリエル様に、ルルはほんの僅かに小さく頷いた。
それからルルは、僕へと視線を向ける。
「この前王城で過ごしていたとき、王城にはいっぱい隠し通路がある、とカラス様は教えてくださいましたけど、それを聞いて『そういえば』と思ったんです」
「何をですか?」
「ザブロック邸にあったあれは、隠し部屋だったんだなぁ、って」
膝の上に手を乗せて、何かを我慢するようにルルはまた身を竦める。
それからまたちらりとアリエル様を窺って、その視線は足下に収めた。
サロメの前で口にして良いことかはわかりませんけれど、ザブロック邸にも隠し部屋はあったんです。
……サロメはお屋敷に戻っても知らないふりをしてくださいね。もしくは、私が教えたなんて言わないでくださいね。
私がザブロック家に養子に入ってちょうど一年くらい経った頃でしょうか。
私はその日も行儀作法の先生に色々と注意されて……これではオトフシ様と同じですね。でも私も注意されて、多分、なんというか、ふてくされていたと思うんです。
授業が終わって先生を送り出して、今日中にもう一度復習しておくようになんて言われて。
そんなことを言われても、私はなんとなくやる気になれませんでした。
一人になりたかった。玄関から廊下に戻って、侍女にも、下がっていて、なんて言って。
当時はまだサロメはいませんでしたから。サロメの前の前の、もう一つ前の侍女の方と私は何となく反りが合わなくて、彼女の顔を見たくもなかったというのもあるかもしれません。
家の中ですから元々一緒になんていなくていいんですけど、一緒にいるときも……なんというか、監視されていた気がしたんです。私が逃げないように、そんな計画を立てていないか、なんて。
今思えばそんなこともないんでしょうけど、私は当時家から逃げ出したくなってきたくらいのときですから、そう思ってしまっていたんでしょう。
でもそうやって一人になろうとしても、屋敷の中にはずっと人がいます。
使用人はいつでも家の中を回って綺麗にしてくれていましたし、どこかに必ず誰かの気配がしたんです。
私の部屋に戻ろうか、と思ったんですけど、その日はそんな気もしませんでした。
だって、私の部屋に戻れば、先ほどの先生の言葉が浮かんできます。授業の復習なんてしたくありませんでしたし、それに私の部屋だと侍女が時たま様子を見に来てしまいます。
とにかく一人になりたくて、誰か人のいない場所を、と探して回って、人の気配がないある一つの部屋を見つけたんです。
気配が無いといっても私はカラス様やオトフシ様のようにわかるわけじゃありません。
けど、何となくその部屋はわかりました。私も入ったことはなくて、最初の頃に案内されて入り口を見ただけですけど、その部屋がなんなのか知っていましたから。
そこは、お父様の書斎、でした。
ああ、そうです、サロメはもちろん知ってますよね。
あの色硝子で組まれた小さなお城の模型がある部屋です。
書斎と言っても、そこで仕事をするわけではありません。執務室は別にあります。今はレグリス様が使っていますけど。
ザブロック家の書庫とも別でした。
なんというか、そこは仕事も関係なくて資料を保管してあるような場所でもなくて、本当に、お父様の趣味の場所、というところでしょうか。
手慰みの作りかけの彫刻や、小さな鳥の剥製なんかが置いてあって、書庫なんかから一部移したんでしょうか、壁には小さいですけど一面の本棚があって。
机の上にあった本は、読みかけのまま栞が挟んでありました。
多分今でもそのままなんじゃないでしょうか。
きっと、亡くなった当時のそのままなんだろうな、なんて当時の私も思いました。
それで、私は何の気なしに本棚から本を一冊取ったんです。
辞書だったと思います。その中で多分一番分厚くて、黒い背表紙に金の文字で何かが書いてありました。それで取って中をパラパラと読んで、……そこに書かれていた文字は何語なのか未だにわからないんですけど……物語じゃなくてちょっとつまんなくて、元に戻そうとしたときのことです。
その辞書の入っていた場所。一番左端でしたね。その奥に、小さな銀色の取っ手が見えたんです。指が引っかかる程度の小さなものですけど。
何だろう、と思って……いえ、今ならそんなこと興味本位でやっちゃいけないこともわかっていますけど、当時は何の躊躇もなく、少しだけ背伸びするように手を伸ばして、その取っ手を引っ張りました。
何かの仕掛けがあったのかもしれません。
かちゃ、と小さな音がして、本棚がそのまま手前に引きずられてきたんです。本棚だけじゃありません。本棚の後ろにあった木の壁が、こう、壁の凹凸に沿って切り取られたみたいに右端を支点に扉みたいに開いたんです。
その中に、本当に小さな部屋がありました。
そこも多分誰の手も入っていないんでしょう。黴の臭いがして、床には薄ら埃があって。本当に小さくて、この騎獣車よりも小さいくらいの部屋でした。
まずそこに見えたのは床に置かれた小さな人形で、兵隊さん、だったと思います。今思えば多分、お父様が子供の頃に気に入っていた玩具だったのではないでしょうか。木製で、三角と四角の積み木みたいなものを組み合わせて作られたごつごつとした人形です。腕は片方取れてしまったのか、木屑がそこからぼろぼろと零れているようなものでした。
もちろん中に置かれているのはそれだけじゃなくて、粗末な棚があって、そこには読んでませんけど何通かの封された手紙ですとか、虹色に透き通った綺麗な石ですとか、そういうものがあって。
中には灯りも窓もありません。暗がりで、目が慣れるまで少しだけ時間がかかりました。
私が驚いたのは、ようやく目が慣れてきた頃です。
棚の中に、一枚の肖像画があったんです。
そんなに大きくはありません。多分等身大よりもちょっとだけ小さくて、それも上半身だけが画角に入った女性の絵でした。晴れ着を着て、視線はどこか遠くを向いて、窓の外を見ている絵。
でもそこに描かれているのは、私、だったんです。
……私といっても、今の私ではありません。いいえ、小さい頃の私でもありません。
描かれていた『私』は今の私よりも少し年上で……多分二十歳くらいだったでしょうか。立派に大人になった私のような。立派に成長出来た私のような。
私よりちょっと気が強そうで、……こんなこと言ったら怒られちゃいそうですけど……、胸を張って堂々とどこかを見つめていました。
何で? と思いました。何故私の絵がこんな所にあるんだろう。それに、何で私の絵なのに、私よりも年上に描いてあるんだろう、って。
でもそんな風に不思議に思ったのは最初だけで。
綺麗な絵でした。あ、いえ、描かれている女性が綺麗だとか、いえ、あの、美人だったとは思いますけど、じゃなくて……その、描いた画家の方が上手だったというのを私は言いたくて、なんですけど。
その、とても素敵な絵だと思いました。
でも、すぐに、何となく怖くなったんです。
そうですね。知らないうちに自分の絵が描かれていた、なんて思ったらそれもなんですけど。でも、そうじゃなくて。それもあるんですけど。
なんとなく、その女性が怒っているように見えたんです。
その絵の中の女性が、『何をしているのか』って納得がいっていないように見えたんです。
もちろん話したりなんて出来ませんし、動いたりなんかしたら多分私は叫び声を上げて逃げてしまっていたでしょうけど。
彼女はこちらを見てすらもいません。
でも、確かに、怒っているように私には見えたんです。その人が、何かを叱っているように見えたんです。
もちろん、その『私』が何かを叱っているとしたら、それは描いた画家ではないかなと思います。
もっと上手に描いてくれ、とか、時間がかかりすぎている、だとか。そういう題材としての『私』が画家に怒っている姿をそのまま描いた、なんて考えるのが自然じゃないでしょうか。
でも、その時に私は思ったんです。
叱られているのは、今その絵を見ている私じゃないか、って。
その日は怖くなって、本棚の扉を元に戻して自分の部屋に戻りました。
とにかく何かしなくちゃ落ち着かなかったんです。
その絵のことは誰にもいえないまま、教師に言われた復習をして、絵のことは何も考えないようにして。次の日にもまた別の教師に教養を習って、それでも絵のことなんか考えないように頑張って。
でもそんな風にしてても、何ででしょうか、いつもその絵が心のどこかでちらつくんです。
その絵が怒っている風に見えるのも、なんですけど、やっぱりあれは何だったんだろうって。
なんとなく父の書斎の前を通るのも怖くなって、わざわざ遠回りをしたりなんかしましたっけ。
でももちろん、絵のことばかり考えているわけでもありません。
不思議ですよね。自然と、絵のことは次第に気にならなくなっていきました。たまに思い出さなくなって、ふと食事中とか勉強中に思い出すことがある日がある、くらいになって。
そんな風にしていたら、いつの間にかその絵のことは忘れていました。
半年か一年か経って、……その日は特に怒られることもなくて、何というか『良い日』だったと思います。教師に褒められたり、何となく自分でも『よく出来てたな』と思った日。朝目が覚めたらさっぱりとしていて、食べるご飯も美味しかった日。
ふと、その絵のことを思い出したんです。
頭の中にあの絵が浮かんで、大人の私の顔も思い浮かんで。
でも、その日は何かがいつもと違いました。
何というか、今日は怒っていない、という気がしたんです。それも変ですよね。だって、絵ですから。描かれた絵の顔が変わっているわけがないですし、変わっていたらもちろん私だって怖いと思います。
でもやっぱり、それでももう一度見てみたい、と思った私は、侍女の目を盗んでまた書斎に行きました。
あの日と何も変わらない書斎に入って、前と同じ本棚の扉を開いて、中へ。
そうしたら、やっぱり、と何となく安心しました。
そこにあった肖像画は、私に何となく笑ってくれていたんです。
「それっきり、私はあの絵は見ていません。でも、多分今のあの絵も笑ってくれているんだろうな、って気がします。確かめちゃうと絵の中の人に怒られそうなので、それもやっぱり、見ることは出来ませんけど」
なんとなく、オチがバレていることを自分でも察しているのだろう。忍び笑いを堪えながらルルは話を続ける。
「……そんなに怒りっぽい方なんだ? 絵の中の大人のルルは」
僕は囃し立てるように言う。
苦笑するようにルルは顔を上げて、頷きそうで頷かなかった。
オトフシは何かを言いたげに頬を膨らませて視線を逸らす。
僕とオトフシはこの話のオチがわかっている。サロメはまだ、のようだが。
「ああー、先代の書斎ですか。私も話に聞くだけで入ったことはないのですが、そのようなものが」
「はい。本当に私の肖像画を見たときには驚きましたよ。サロメにも見せて上げたかったですね」
「あそこはいつも鍵がかかってございますし……奥様に鍵をお借りして、その隠し部屋を誰にも見られないように入らなければならないときたら、……さすがにお嬢様と一緒でなければ無理ですね」
残念そうにサロメは口角を下げて鼻息を強くする。
しかし、まあその通りだろうか。もしくは家の主であるレグリスに事情を説明し、伴って入る、程度が正しい手順だろう。隠されている部屋である以上、防犯上の意味もあるかもしれないし、歓迎はされないかもしれないけれども。
だがその瞬間、オトフシがほんの僅かに不自然な反応を示した。ぎくりと固まった、といえば大袈裟だが、ほんの一瞬首を傾げるようにした気がする。
僕はそれが不思議で、オトフシに目を向けたが、オトフシ自身もそれに気付かなかったように口を慎んで神妙な顔をしていた。
そして、僕はアリエル様を見る。
きっと先ほどまでの様に、何となく楽しんでいるんだろうな、という予想を持って。
けれどもその予想は、本当に意外なことに外れたらしい。
苦虫を噛みつぶしたかのような顔。
そういう種類の顔は初めてではない。オトフシとの会話で昔のアリエル様が出たときも嫌がっていた。けれども、その時のような冗談交じりのものではなく、今はそうではない。
一瞬だが涙でも流しそうなほど悲しげで、嫌そうな顔。僕がその顔を見ていたことに気がつくと、つんと澄ましたように勝ち気な顔を作り、僕らの目線の下の方から、僕らを見下ろすように見る。
組んだ足の先をピコピコと動かしながら、「ご苦労様」とルルを労った。
「良いお話だったわ」
先ほどの顔は見ていなかったのだろう。しかしその言葉は当然ルルの耳に入り、アリエル様の真意を悟ったルルも意外そうな顔をする。
どうして、とルルは僕の顔を見る……が、僕もその答えは持っていない。
小さく首を振って応えて、アリエル様を見る。
「では四人話しましたし、最後はアリエル様ですよね」
話題を変えるために、僕は言う。この場で言えるのは多分僕だけだろう。オトフシの『よくやった』という視線を無視しつつ、僕はアリエル様の反応を待った。
もちろん、というようにアリエル様は首を横に振ったが。
「じゃ、休憩しましょ、休憩。そろそろ雨止んできたかしら」
泣くようにアリエル様は目の周りを両拳でグシグシと擦り、一つ伸びをしてから、木戸を念動力で勢いよく開いた。




