次の番
綱を枝に架け渡し、布を張って即席の屋根を作る。
そろそろ本降りになってくるだろう雨の中で、僕はその作業に従事した。
水を弾く外套を滴が伝う。握りしめた綱からは水が滴る。
ハク三頭分程度のほんの小さな濡れない空間を作ったときには、僕の身体は少し冷えているようだった。
大人しく、その屋根の下にハクは立ち止まる。手綱は外されていて、彼を拘束するものは何もない。けれどもアリエル様から言い含められているお陰と、やはり彼自身濡れたくはないのだろう、逃げることもなくそこでじっとしている様子だ。
「これで大丈夫ですか?」
返答がないことはわかっていたが、それでも僕はハクに向けて呟いてしまう。
やはり彼は何も言わず、鳴き声すら上げない。
だが少し頭を下げて地面を虎の前足で掻いたその仕草に、何かを言ったのだと僕は思った。その意図を読むことは出来なかったけれども、きっと嫌なものではあるまい。
僕が屋根を作っている間に、サロメがハクの身体を雑布で拭き上げていた。軽い上下運動に緩い三つ編みが揺れる。もちろん彼女も雨具をつけて、……一番騎獣の扱いに慣れてるはずのオトフシはやはり騎獣車の中か。
「お願いします」
「はい」
渡されたのは、ハクの身体を拭いた布。もちろんサロメが簡単に絞っているが、濡れた布。
僕はそれを改めて絞り水を垂らす。垂れたのは数滴だが、やはり僕のほうが力が強い。
また再利用したいし、濡れた布を放置するのは衛生的に悪い。実際は洗剤などを使うべきなのだろうが、しかし布一枚にそんな手間をかけるのも面倒なので、それは魔法で乾燥させる。これも、アリエル様なら指一つ鳴らせば綺麗になるのだろうか。
「さっきの話、本当の話でございますか?」
「僕の記憶に残っている限りでは」
手の先で布を燃えない程度に熱しつつ、蒸気を飛ばす。
一瞬だがまるで煙が立ちこめたように視界が悪くなり、また熱い蒸気に蒸し暑さすら感じたようだった。
僕が答えると、サロメが意味の無い声を発する。
「この後は、アリエル様が私たちにも順番を回しますよねぇ……?」
「多分」
アリエル様に振られて、僕が昔話をした。暇潰しというくらいだから別に宿題とか課題のような強制力は無いのかもしれないが、他の人間にも同じように無茶振りをするのは明らかだろう。
まあそれよりも、アリエル様は『カラスからね』と言ったのだから。
僕は屋根越しに空を見る。布を叩く雨の音は強まるばかりだ。
「しばらく雨は上がりませんし、三人分の時間はあるでしょう」
何より目的は暇潰しだ。
三人分の時間はあるが、それ以上あるかもしれない。ならば、その上でもう一巡すらあるかもしれない。
僕の分は終わったが、まだもう一度や二度話さなければいけないかもしれない。……そこまですぐに話題は出てこないのだが。
「子供の頃の不思議な話……。どういうものならいいんでしょう」
「そんなに深く考える必要はないと思いますよ。面白くてもつまんなくても」
別に『自分にはない』でもいいと思う。その場合アリエル様も別にテーマを変えるか、そもそもに暇潰しの方法自体を変えるだろう。
「最初にカラス様の話を聞いてしまいましたから、あれに匹敵するものをと考えなくてはいけませんし……」
うーん、と唇を尖らせるようにしてサロメが眉根を寄せる。
僕とてそんなに大した話をしたつもりはないのに。
やはり根底に、アリエル様への畏れがあるのだろう。媚びるわけではないが、気を悪くさせてはいけないという気遣い。
……すると、オトフシの内心は今如何ほどだろうか。僕たちの中でアリエル様を最も崇拝し、憧れ、そして先ほど減点を言い渡されたオトフシは。
それにルルも。
しかしまあ。
「話し終えている僕は気が楽ですね」
「でしょうねぇ!?」
僕が囃し立てるように言うと、悔しそうにサロメが小声で吠える。
だがサロメも怒っているわけでもないだろう。それに僕自身、何かしらの呵責を感じることはない。僕は別にずるをしたわけでもない。単に一つ仕事を終えただけ。
その報酬に、しばらくは僕は純粋に人の話を楽しんでいればいいのだ。
騎獣車に戻れば、ルルが清潔な布を差しだしてくれた。洗い立てでもないが、洗濯をして干してある布。
「どうぞ」
「ありがとうございます……でも、僕はあまり濡れてないから平気」
雨具もあったが、僕には魔法がある。身体の表面に張った障壁は水を伝えずに、濡れているのは本当に服の表面だけだ。それも湿っている程度で。
……よく考えたらそうやって騎獣車を雨から保護し、濡れずに騎獣に走ってもらうことも出来たと思うのだが、それを今更言っていいものだろうか。言わないほうがいい気がする。後で誰かが気付いたときに便乗しよう。
そんな後ろめたさに、僕が身体を僅かに固めていたのは誰にも気付かれていないと思う。
それでも、と押しつけるようにして渡された小さな布を、僕は冷えた身体に意味なく押し当てる。
サロメにも、とルルは布を差しだした。どちらが侍女かわからないが、これも彼女の気性だろう。
恐縮するようにサロメがルルから布を受け取り、髪の端や濡れた袖を擦るように拭いていた。
席が決まっているわけではないが、いつもの席に戻り、僕は何の気なしにそっと雨よけの木戸を開けて隙間から外を見る。
先ほどまでいた外と変わりない、代わり映えもしない風景。石畳ならば雨粒は弾けて足下を白く煙らせるのだろう。しかしそれとは違い、ネルグの根の地面は水はけよく、雨粒を隙間に吸い込むようにして飛沫を立たせない。血が染みこまず血溜まりが出来ることすらあるのに。
「まだまだ雨は止まないみたいよ。次は誰の話にしようかしら」
雨の音に紛れもせず、ふふ、とほくそ笑むようにアリエル様は口にする。
自分でも無茶振りだとわかっているのだろうか、僕たちがアリエル様の求める話をすること自体を楽しむように。
「僕はアリエル様のお話が聞きたいですね」
「それじゃあたしがつまんないじゃない」
「僕たちは面白いですけど」
アリエル様は逸話に事欠かない。何せ、英雄譚や聖典などの神話の時代に実際に生きた存在だ。彼女の話は歴史上のもので、そして今を生きる僕たちが知る由もなかった真実。
無論、一人が体験できることなど限定されている。アリエル様が昔の時代の全てを知っているわけでもないだろう。
だがそれでも、それは過去の時代へと思考を遡るための、確かな杭の一つだ。
ね、と僕はオトフシに視線を向ける。
彼女も、脚色ある話よりも本人の実際の話が聞きたいだろうし。
オトフシは言葉を発さずに頷く。その仕草は「そうだな」と雄弁に語っていたが。
アリエル様は、やれやれと溜め息をつく。
「そもそもあたしには子供時代がないのよ。……ま、あたしのは時間が余ったらね」
「楽しみにしてますね」
なるほど、と僕は納得しながら引き下がる。
なるほどというか、そうなのか。妖精の発生というものをよく知らないけれども。
うん、と頷いてアリエル様は騎獣車の中を見回す。その視線が巡る度、向けられた人間はぎくりと身体を固めた。
「それじゃあ、次は誰がいいかしらね?」
ゆっくりとした言葉が車内に響く。
返答を待つように静かになった一瞬。アリエル様が僕を見た気がする。それから、ウインクをするようにほんの僅かに片瞼をぴくりと動かした気がする。僕への合図だろうか。
その合図の正体がわからないまでも、僕はその後のアリエル様の視線の先を追う。
……それは、誰に対する気遣いだろうか。
「ルルとかどうでしょう? 何かない?」
「私ですか?」
アリエル様ではなく、僕が指名する。それに何の意味があるかはわからないが。
ええと、とルルが悩むように瞬きを繰り返した。
だが、ここで何か話してくれれば大分楽になると思う。何せこのアリエル様から強制されているご指名トークショーは、早く抜けたほうが気が楽だ。
サロメにもオトフシにも悪いが、ルルへのプレッシャーは早い内に取り除いてしまいたい。
もしくはルルが難色を示せば、アリエル様も違う暇潰しを選んでくれるだろう。
多分それもアリエル様の意図で。
ルルは腕を組むようにして渋い顔を作り、もう一つ「うーん」と唸る。
「申し訳ありませんが、まだ話せることを思いついていないので……サロメ?」
「いいのでございますか?」
サロメもオトフシも、僕のというかアリエル様の意図は汲んでいるのだろう。
もちろんルルも。だがルルはそれを受け取らなかった。
そしてサロメは渡された命綱に縋るように、僕を見て、それから申し訳なさそうにオトフシを見た。オトフシはサロメを見ることもなく無表情で無反応を返したが。
指名されたかったのか、指名されたくなかったのか。多分その両方を感じていたのだろうが、きっと前者が勝ったのだろう。
助かった、と安堵するようにサロメは表情を緩め、胸を叩くようにして張る。
「では僭越ながら……」
それは私が六歳の頃の話です、とサロメはゆっくりと語り出した。




