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捨て子になりましたが、魔法のおかげで大丈夫そうです  作者: 明日
閑章:永久に僕らは

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現実離れ




 ポン、と米菓子が弾けるような音がした。

 泡が崩れて消えるように。肉と血の混じった屑が地面にぼたぼたと落ちる。


 足を横に崩し、立ち上がろうとした体勢のまま、目を見開いたトリステが食い入るようにその姿を見て固まる。

「……アル……?」

 声は身体の震えに紛れるほど細い。

 目の前の光景が、未だに理解できない。理解できないどころではない。意味がわからない。目の前で今何が起きたのだろうか。

 今そこには、幼馴染みがいたはずだ。しかしその幼馴染みは弾かれるように地面に落ちて、白い杭が刺さり、それで……。



「大まかな駆除は終わりました」


 上から降るような声をかけたのは、〈欠片余り〉クロエ。半透明の蛞蝓に乗ったまま、悠々と二人と一人だったものを見下ろしていた。

 言葉が終わらぬうちに、上空を旋回していた石の怪物達が破裂する。その破片は彼ら三人には届かず、煙のように消えていった。

「マグナ様。もしかして、そちらにいらっしゃるのが?」


 五英将〈眠り姫〉だろうか。そうクロエが問いかけつつ、閉じた目をトリステに向ける。

 だがその問いにエーミールは応えず、そして呆気にとられていた意識を戻した。


「何してんだお前ぇ!?」

「……?」


 そしてエーミールの言葉にクロエは首を傾げる。

 何か自分はおかしなことをしただろうか。指示通りに街の怪物達を片付けて、東から西へと清浄地を押し広げてきた。やはり捉えきれなかった街の端で人間にも数人は巻き添えが出たが、それでもほとんど避難を促せたということで、聖騎士の面目は立つだろう。

「私何かしてしまいましたか?」

 首を傾げたまま、場違いな微笑みを浮かべてクロエはエーミール達を見下ろした。

 意味がわからない。わからないから教えて欲しい。そんな素直な態度で。



 次の瞬間、クロエが怖気を震った。

 何かが来る。それはわかったものの、その出所が曖昧だった。

 出所は、先ほどトリステらしき存在がいた場所。精霊すらも捉えきれない曖昧な何かの固まりは、その殺意を遠くから鞭のように振るう。


「…………」


 クロエよりも先に、咄嗟に精霊(キキ)が動く。

 透明な蛞蝓の姿を解き、ごく薄い膜のような形でクロエを覆う。次いでその石鹸水の泡のような真球が打ち消したのは、凄まじい衝撃。障壁の外にそれを感じたクロエは、危機に異常事態を悟った。


「やっぱり」

 球体の中、空中でゆらゆらと揺れつつクロエは納得する。

 やはりそこにいたのは五英将。まだその姿はわからないが、きっとそれがそうなのだ。


 クロエの周囲に広がる暗闇の中。認識の中で、殺気の元が蠢く。

 姿形がわからない。ぐねぐねと動くそれは『人間』のようにクロエは感じられず、その曖昧な輪郭がぶれるように二つ重なっている。

 温かくてふわふわしたもの。まるで夢のような。


 天地の向きすらも忘れたように横向きに浮かびながら、すぅ、とクロエは手を前に出す。促された精霊(ブーバ)は、クロエの横に侍るように棚引きながら、その髭を突き立てるように撃ち出してトリステを襲った。

 だが無数の杭はトリステに当たることはない。当たった物体は弾けて泡のように消え去るはずの杭。数多の怪物と幾人もの人間を殺したクロエの武器は空中で静止し、口だけの怪物に噛み砕かれて消えていった。


「あらまあ」


 その事実に驚きはない。噛み砕かれた精霊から伝えられた歯の感触は自身のものと同じで、そこにクロエは笑える。

 そして逆に、笑えていないのは一人。

「……ぁ……に……の」

「……?」

 トリステがクロエに向けて何事かを呟く。しかし呟いているということがまずわからなかったクロエは、きっと何かを言われたのだろうとトリステに注目した。

 トリステは這うようにして地面に両手をつけたままクロエを睨む。血走ったその目は寝不足からだった。先ほどまでは。


「あんた、……あんた、アルに何したの」

「アル……というのは先ほどの人間の名前ですか?」


 もはや逆さに浮かびつつ、クロエはまた首を傾げた。

 わからなかった、トリステの言葉の意味が。それが先ほど目の前で殺した人間のことであれば、わかっているはずなのに。

「今貴方の目の前で死にましたね」

「っ!!!!」


 クロエの言葉に、雄叫びを上げるようにしてトリステは拳を振り上げる。

 振り下ろした鉄槌は、エーミールやクロエも含め、周囲の空間を揺らし、地面を陥没させるほどの規模の衝撃を放つ。

「でっ!?」

 身体を闘気で強化し耐えつつも、エーミールはトリステの動向を探った。

 

(やべえ)


 夢に曇る思考が晴れている中、エーミールには一つの懸念がある。

 目の前の少女と、その従僕の関係。直属兵というには親しそうな間柄。

 それ以上の何かしらの根拠があるわけではない。まず推測した結論ありきで、後付けで推理したその関係性。彼の役割。


 先ほど悪夢の空間の中でエーミールは、アルペッジョの声に意識を清明にした。

 もしかしたら意識を失っているように見えていたトリステも、同じくあの声で目を覚ましたのではないだろうか。

 

 彼はトリステにとっての目覚ましなのではないだろうか。鶏の鳴き声や朝日と同じような。あの悪夢に守られ、また悪夢から彼女を守るための、何かしらの重要な箍だったのではないだろうか。


 その推測に根拠はない。

 だが、それが一番あってほしくない推測だ。ならばエーミールは、まずそこに目を向ける。


 アルペッジョはトリステにとって重要な箍。

 ならばそれを失った今は。



 構わず、クロエの精霊はトリステに向けて破裂の杭を撃ち出す。

 その波状攻撃を意に介さず、トリステは立ち上がった。

(…………?)

 そしてまたクロエは不思議に思う。

 今度は当たった、のだと思う。杭はトリステを貫き、穴を空けてその向こう方に飛んだ。精霊が受け取る光は、確かにそのような光景を映し出しているはずだ。

 

 けれどもトリステは一切の反応を見せない。

 トリステの身体にはいくつもの大きな穴が穿たれ、腕も胴も顔すらも、穴に巻き込まれるように抉れて一部欠損しているにもかかわらず。


 トリステの身体が靄のように歪む。

 エーミールの目には、まるでトリステが蜃気楼と化したかのようにも見えた。



「返してよ」


 震える唇は血色が悪い。か細い声は恨み言のように消えてゆき、その身体全体が立ち消える煙のように揺れる。

 身体を貫き、残った杭の一つが破裂する。

 それで泡のように消え去るのは、他の存在とも変わらない。肉片すらも残さず、影も声も消えて、一瞬の静寂が広がる。


 だが、終わったわけがない。

 場に残る張り詰めた空気にエーミールはそう感じ、そして次の瞬間にはそれが真実だと理解してしまった。


「ねえ」


 エーミールの斜め後ろから、語りかける声がした。

 反射的に棍で払い、そして当てた感触が手に返る。手の先にある何かは、泥のように重たく、霧のように軽い。

 金縛りに遭ったように、エーミールの身体が硬直する。確かにこれは覚えがある。夢の中、思うように動かせない重たい身体だ。


(やっべぇ)


 食いしばる歯の中、舌が貼り付いたように動かない。

 吐き出された声は自分の声に思えない。言葉ではないうめき声。これは、やはり悪夢の中。

 視線の先にはトリステがいる。エーミールの攻撃を首元に受けつつも、一切気にしないように直立し、ただ何かを求めるように手を伸ばしている細い少女が。

「アルを、返してよ」

「クロエ! 俺ごとでいい!!」

 エーミールは懸命に叫んだ。声にならない声をどうにかして、と。呂律の回らないような声だと自覚していたが、それを正すことは出来なかった。


「この丘全部ぶっ飛ばせ!!」

「はい」


 声の強弱、滑舌の良し悪しはクロエには関係ない。悪夢などクロエは見ない。

 伝わった指示に応えて、クロエはすぐさま精霊を動かす。

 精霊(キキ)が吐き出すのは大量の泡のような透明でぬめる球体。投げ出されるような速度で放たれたそれは、地面にぶつかると共に大きな音を立てて弾けて衝撃を発した。





 ほんの僅かな土煙が晴れた後。

 丘だった場所を眼下に、クロエはその下を流れる風を感じる。

「……やりすぎましたか?」

 丘だった場所は、抉れたように穴が空き、紫に変じねじれるように変形していた草木も吹き飛んで土を露わにしていた。

 

 そのすり鉢状の穴の縁。かけられた手がある。

 手が身体を持ち上げて、肘を崖っぷちにかけるようにして上がってきたのはエーミール・マグナ。

 息も絶え絶えで、白い外套は土に塗れて汚れが目立つ。芋虫のように重々しくその穴の上に這い上がったエーミールは、荒い息を吐いて地面に仰向けに転がった。


「……し、死ぬかと思った……」


 治まりつつも、未だに胸の傷からは血が流れている。衝撃に手足の骨には罅が入っており、鼓膜も痛めたのか片耳が聞き取りづらい。

 棍はいつの間にか手放してしまった。後で回収できればいいが。

 目を向けないままに自身の状態を確認しつつ、エーミールはもう一つ息を吐いた。


 クロエの攻撃により、先ほどまで立っていた丘は吹き飛んだ。

 それにより《悪夢》からの脱出は成ったらしい。崖崩れに巻き込まれたように混濁した視界の中で、懸命に上を目指して這いずり回った甲斐があった。

 全身から汗が滴る。痛みがある。

 だが、だからこそ生きているという実感。


 そして、自分が生きているからこそ。

 危機が終わっていないのだという実感。



 転がるようにして這って移動しエーミールはすり鉢状のへこみの中を覗き込む。

 その奥、へこみの中心部に漂う青白い霧の中に蠢いている何かの影は、先ほどまでと変わらない。

 地形を変えるクロエの攻撃は苛烈だった。常人ならば生き残ることは出来ないだろう。

 けれども自分が生き残れたのだ。ならば、自分以外も生き残ることは可能だろう。


 晴れていない霧の中に、ちらりと少女の影が見える。

 呆然と立ち尽くすようにして、空を見上げたままの少女。エーミールは息を潜めて、その動向を探った。





 霧の中でトリステは呆けたように動けずにいた。

 先ほど見た光景が、頭の中で反芻される。目の前で、人間が消えた。男が泡のように破裂した。幼馴染みが、死んだ。


 何の予兆もなかったと思う。

 何かしらの事件事故であれば、きっと必ず予兆がある。砂嵐は遠くから見えるものだし、雷は落ちる前に雲をごろごろと唸らせるものだ。

 けれども幼馴染みは突然消えた。目の前で攻撃を受けて、目の前でほとんど音もなく。


 現実感がない。

 もしかしたら、夢だったのかもしれない、とトリステは思った。

 きっとこれはいつもの悪夢なのだ。いつもの悪夢の中だから、幼馴染みが死ぬというこの世で最も辛い光景を見ることになってしまった。そんなものを見せられてしまったのだ。

 そう考え、その願いに縋り付く。


 けれど、そうは思えない。

 今までの人生で一度も、アルペッジョはトリステの悪夢に出てきたことはない。


 夢というものは不思議なものだ。

 起床し、現実世界に戻れば、自分は先ほどまで夢を見ていたのだと思う。

 けれども夢の中にいる間、そこが夢だと気付くことは少ない。そこが夢だと確信できるというのは偶然か、狙って出来るとすれば一種の才能で、トリステはその才能は持っていなかった。

 自分の身体を抓り、痛みを感じて夢であるか判別するという方法はよく知られている。しかし、夢の中でも幻痛を感じることはあるため、実際には判別は難しい。


 結局のところ、人間は自分が今夢にいるのか現実にいるのか。自分が見ているものが夢の光景なのか現実の光景なのかを真実知ることは出来ないのだ。


 だから、トリステは彼を側に置いた。

 悪夢の世界に存在しない幼馴染み。

 彼がいるのならばそこは現実だ。そう確信するために。


 願って彼に、側にいてもらった。

 自分が生きている世界はそこにあると。

 夢の世界と現実の世界を行き来する曖昧な自分が、生きるべき世界を定めるために。


 しかし、その彼は。




(やっぱ無傷じゃねえか)

 動かないトリステを見て、エーミールは焦りを増した。

 致命傷を受けたはずだ。クロエの攻撃で全身が破裂したことや、その後に地形を変えるほどの飽和波状攻撃を受けたことも含め、魔法使いでも無傷で済むとは思えない。

 けれど、トリステは無傷だった。服も髪も、一切を損なうことなく汚れることもなくそこにいる。ただ裸足が湿った土を踏んでいた。


 そしてその青空を映したその瞳には『何か』が見えなかった。

 怒りや憎しみなどの負の感情は見えず、そして悲しみや戸惑いすらも。


(……こりゃ無理だ!)


 その超然とした様子に、もはやエーミールは無理を悟った。

 身体が破裂し消滅しようとも死なない魔法使い。肩の内傷ももはやおそらく癒えている。そんな存在を前にして、もはや完全な勝利は消えたといっていいだろう。

 エーミールは腰を探るが、そこにあるべき感触はなかった。

 聖騎士団への伝令に使う銀の笛は先ほどのクロエの攻撃で落としたらしい。

 

 頭を掻きむしるようにして、エーミールは考える。

 今回の作戦までに用意したもの、出来るようになったもの。聖騎士団の残りの戦力で出来ること、自分が出来ること。


 彼は〈魔術師〉。まるで未来を見通して、敵味方の行動を読み対策を取っているという事実からの異名。

 だが彼がそう呼ばれているのは、未来を読んでいるからではない。

 取れる選択肢、取られる選択肢のうち、考えられる全てに出来る限りの備えを取っているからこそ。時が来れば、その時必ず取れる選択肢を備えているからこそ。

 無駄を恐れず、先に全ての対抗策をとる準備を備えているからこそ。


「クロエ! ここから北西にいる聖騎士団員五人を救助してそのまま西へ下がれ!!」

「かしこまりましたが……〈眠り姫〉は?」

「俺が何とかする」

 何とか出来れば、と内心エーミールは言い添える。何とか出来る保証はなかった。そしてその上、『俺が』ではないとも思った。

「もう一つ、団員には、『一刻経って中止命令がなければ白の百九十九番を』と言葉のままに伝えてくれ」

 第三位聖騎士団では、事前にいくつもの作戦を用意し、作戦ごとの色と番号を隠語として団の中で共有している。

 今回その隠語の意味するところは、『ミールマンの放棄』。それに加え『副団長を団長代理とし、団の再編』とするもの。


 風もないのに、トリステを中心としてつむじ風のように靄が形成される。

 「わかりました」と言ってクロエが飛び去ると同時に、靄の中から悪夢の怪物の群れが姿を現す。

 エーミールは背中でそれを見送り、声なく勇ましく崖の縁に立って怪物たちを見下ろした。




 この世界はどちらだろうか。

 トリステはそう考えようとして、それ以上は無駄だと考えるのをやめた。

 見回してもアルペッジョはいない。視界の中には光る青空と、いつもの悪夢の群れ。


 現実世界で彼らを使役する際、召喚する姿とはどこかが違う。

 現実世界でのどこかあやふやな彼らとは違って、どこか実体を伴っているように見える。


 アルペッジョはいない。そして周囲には夢の中の怪物たち。

 ならばここは夢の中に決まっている。だって隣に彼はいない。彼がいるのが現実世界で、彼がいないのが夢の世界。そう決まっているはずなのだから。


 トリステは、自分の身体がやけに軽く感じた。

 夢の中で自由に動く彼女とて、ここまでの軽さは覚えがない。しかし、どうでもよく、そして清々しい気持ちだった。

 夢の怪物たちは、何故だか自分を襲おうとしない。

 ここは夢の世界なのに。いつもならば、夢の世界でただ一人の生きている人間を、悪意を持って襲い来るのに。


 そう、ここは夢の世界。

 現実世界のような意味がわからない世界ではない。

 ずっと一緒にいる、とアルペッジョは言ってくれた。そのアルペッジョがいないのならば、こんな場所は現実ではない。

 ここは夢の世界。自由な世界。



 瞬きをすれば、眼前には敵がいる。

 エーミール・マグナ。うるさい人間。そう単純に判断したトリステは、エーミールに対して平手打ちを見舞う。

 空間転移の如くに眼前に迫られたエーミールは、その平手打ちを腕で押さえて拳を振るった。


 エーミールの拳がトリステの顔面にぶち当たる。

 トリステの頭部は靄のように消失したが、次の瞬間には万全の身体でエーミールの背後に立っていた。

(もう無敵かよ)

 もはやトリステには、夢と現実の区別がない。やはり殺すことは出来ないのだろう、という再確認を行い、そして矛先が自分に向いていることに安堵した。

(ならこういうときに魔法使いが役立つはずなんだ……がっ……!?)

 背後から伸びてきた手がエーミールの編まれた髪を掴む。気を取られた次の瞬間には、肩の肉を唇だけの怪物が食い破る。

(痛ってえええ!?)


 黒眼鏡の下で僅かに涙目を浮かべつつ、トリステと怪物たちを手刀の一閃で追い払う。

「きゅ、休戦だぁ休戦!!」

 それから先ほどアルペッジョに言われた言葉を、エーミールも繰り返す。ほんの一縷の僅かな望み。勝利がなくなった現時点で、取れる一番の善後策。

 無論、そのようなことを聞き入れるトリステではないのだが。


 大きくエーミールが跳ぶ。

 その背後で、ガリガリという音が響き、更に石が盛大に崩れる音がした。

 トリステの振るった遠近無視の払いはエーミールの背後にあった街をトリステの視界の中にある大きさのままに削り取り、大きな傷跡を残す。

 

 見れば、きっとまた認識までも歪んでいるのだろう。目の前に見えていたはずのミールマンの街がやたらと遠くに見える。

(…………。やっぱ無理!!)


 エーミールは身を翻す。

 今から自分は逃げなければならない。

 目指すはミールマン。だがそれは、遠い。






 副都ミールマン。

 その街には、通陽口と呼ばれる設備が存在する。

 ある周期で熱風を噴き上げ、この寒冷な土地にある街全体を暖めるという重要なものだ。

 石積みの街の設計段階から組み込まれた大小様々な煙突のような機構で、底を知れぬ大穴だと皆は考えている。

 皆が『間違いなく通陽口だ』と考えているのは十一カ所。そして、そうは見えない、もしくはそう見えなくはないという程度の小さく細い通陽口も枝分かれしていくつか存在する。故に、人々の年代によってその本数は変わってしまう。

 ある時代では十一カ所。その親世代では十五カ所。その親世代では十二カ所、と。


 そしてミールマンのほぼ中央には、街の住民全員が『通陽口だ』と考えているものがある。

 地の底まで続いているような大穴。底すら知れない深い穴の底は、日の光も届かず暗くて見えない。

 元々立ち入り禁止の場所だ。まともに当たれば焼け死ぬ熱風が通る大穴。好んで入ろうとするものもおらず、その底を確かめる者もいない。


 もっとも、ここの穴に限らず、通陽口の底を確かめた者がいないわけでもない。それは今ここにはいない魔法使いや、この街で暮らしていた賢者と呼ばれるべき少年。それに数年前の第三位聖騎士団員ウェイト・エゼルレッド。

 そして幼い日の第三位聖騎士団長、エーミール・マグナのように。



 エーミールは街の中央の大通陽口に、飛び降りるように駆け込んだ。

 度重なる無敵の攻撃に、エーミールの腕は折れている。世界が揺れているのはもはや《悪夢》の効果か脳震盪によるものか自身には判別できなかった。切った口の中から零れた血は唇から垂れて、全身に擦り傷までも持ちながら。

(すぐには……ねえよな……?)


 熱波はまだ来ないだろう。

 温もりの残る空気の中、壁を足場に跳ねて落下速度を落としつつ、力を振り絞って穴の底へと向かう。

 見えない地の底は、いくら彼でも垂直落下して生き残れる高さではない。慎重に、そして背後に迫るトリステに追いつかれないよう急ぎ駆け下りていく。

 恐怖に上が見られない。殺気はまだ迫っている。ならば追われているはずだ、と確認するのが精一杯だった。

 

(これでついてきてねえとか言ったら本当やべえけど)


 そして気付いた己の感想に、観念して上をちらりと見る。

 暗闇の中、黒眼鏡越しのほぼ見えない視界の中に、ぼやけた姿のトリステがいる。

 壁に立つように下を覗いている。まだ大分遠く。しかし、空間転移を繰り返す彼女にはこの程度ないも同然の距離だろう。


 抜け目なく拾っておいた小石を投擲し、挑発する。

 命中した小石はトリステを通り抜け、どこかの壁に当たって砕ける音を出した。


 そして。

「追いついたわ」

「…………っ!!」

 思った通りの空間転移。

 落下中のエーミールに容易く追いついたトリステは、髪を上方に棚引かせることもなく、長い裾を持つ服をはためかせることもなくエーミールに追走して落下する。

 その目は焦点を何処にも合わせず、話しかけられているはずのエーミールすらも自身に話しかけているとは思えない。


 何の気なしにトリステは手を伸ばす。

 それは単にエーミールの襟を掴む攻撃。だが届けば必殺。そして目の前にいる以上届かないはずがない攻撃。

「ふんがっ!!」

 もちろんそれは、達人たるエーミールが必死な抵抗を見せなければ、の話しだが。

 手を弾き、空中でトリステの袖を掴んで振り回す。ここまでくればいいだろう、ここくらいならばいいだろう。そう信じ、地下へ向かって思い切りトリステを投擲する。


 同時に、ちり、とこめかみに予感が走った。

 この街で長い時間を過ごし、身につけた感覚。ミールマンの住民であればその多くが身につけている感覚の一つだ。

 本来灯りが灯るはずがない穴の奥、トリステが落下していった穴の底が、ちらりと光った気がした。無論それはエーミールの気のせいだ。けれど、エーミールには黒眼鏡越しに、確かに。


「うおおお!!」


 まずい。

 エーミールの頭がその言葉で埋まり、懸命に空中で身を翻す。

 向かい、狙うは通陽口の内壁。折れた腕を鞭のように振るい、痛みを堪えつつ全体重を乗せた打撃を放つ。

 それは隣の国ムジカルで使われている『円武』と同様、遠心力を巧みに使い、踏み込み無しで強烈な一撃を放てる技術。

 手の先が砕ける感触と共に、その奥、壁も砕ける。滑り込むようにして空いた穴に飛び込み、その先、いくつもの残る壁を背にして盾を作る。

 同時に、聖騎士の外套から袖を抜いて、くるまるようにして蹲る。



 強い風が吹く。

 闘気により強化した全身が、高熱に悲鳴を上げる。外套の外にあった木製の釦が焦げて形を変える。

 まるで調理されている豚の丸焼きのようだ、と自嘲しつつ、業炎の苦しみとどこか遠くに感じる獣の匂いを感じて、その責め苦が終わる数十秒をエーミールは待った。


 

「……終わった……か?」


 今身体を覆っているのは通陽口の奥から噴く熱気か、もしくは温められた空間の熱か。それを判別するのに充分な時間をおいて、エーミールは恐る恐ると防熱性の外套を払いのけた。

 自身の身体を確認するよりも、トリステはどうなったのか、ということが気になる。一息をついて外套を肩にかけて歩き出す。

 暗闇の中に目が慣れても、ほとんど光が入ってこない。だがそれでも匂いと音の気配でわかる。通陽口はあちらだ。

 

 通陽口の熱風。このミールマンでエーミールが使える文字通り最高火力の武器だ。

 無論、これで殺せていれば最高だ。

 しかしそれも望みすぎというものだろう。ここで自分が生き延びている。ならば、魔法使いならばこの高熱程度どうということはないかもしれない。


 故に考えられる最高の結果としては、生きている、だが行動不能。

 それが成っていればよいのだが、とエーミールは自身が壊した壁から覗き込むように下を見る。

 残った熱気が顔を炙る。その視線の先の白熱はもはや消えていたが、熱気だけは変わらずに。


(あとはとりあえず戻って対策を……)

「うおぉ!?」


 そして何の気なしに振り返った先に、エーミールは人影を見た。

 若い女。だがトリステではない。



 薄手の上衣と下衣が一続きの白い服。

 白か金か、もしくは水色か、暗闇の中では髪の色はわからない。

 そしてその顔はにやにやと笑い、もしくはにこにこと笑っていた。


(《悪夢》の……怪物……か?)

 

 突然出会った女。この地下にいる以上、尋常な者ではないだろう。

 だがその攻撃性は見て取れず、ゆらゆらとこちらへ歩いてきている。

 エーミールは身構えつつ、目が離せない。


「んーーーー」


 声は抑揚のない鼻歌。もしくはうめき声なのかもしれない。

 衣擦れの音もせず、息もせず影も引かず、気配なく近付いてくるその姿。


 エーミールを値踏みするように、もしくはただ興味深げに見つめる姿に、エーミールの背筋が凍り付く。




「……あつい、……あつい……」


 そして響くもう一つの声に弾かれるように振り向けば、エーミールにとって嫌な姿がそこにあった。

 泣きそうな顔で、それでも呆然とした顔を見せているのはトリステ。

 何処に立っていたのかエーミールには見えなかったが、壊した壁の穴の下端に手をかけて、にょきりと身体を突き出すように穴に這いずり入ってくる。

 その様にエーミールは舌打ちをした。

 行動不能などとんでもない!

 これでもまだ、痛手すら与えられていないのだろう。

 万策尽きたわけではないが、もはや選択肢は酷く少ない。

 

 背後には謎の女。目の前には無敵の女。

 どうすれば、と頭を回し、折れた腕の痛みに我に返った。


 だがしかし、背後の気配を探れば、女はいない。

(……!? どこに!!?)


 そしてトリステに目を戻し、そこでまた驚愕する。



 トリステにではない。正確にはその背後。


 穴に入り立ち上がったトリステの背後に迫るのは、青白い手。

 その大きさはトリステよりも大きく、指は四本。そして淡く発光して暗闇の中で際立って見える。

 手は穴の奥から伸びてきているらしい。


「…………!?」


 背後から手がトリステを鷲掴みにし、トリステも驚愕の声を上げた。

 自らの身体に食い込む指。抵抗し、引きはがそうとその指の一本に手をかけてもびくともしない。

 そのトリステを掴んだ手や手首、指を噛み千切ろうとした悪夢の口だけの怪物が、青い炎に包まれて消えてゆく。


「……あ……?」


 そして、エーミールの目の前で、トリステが引きずり込まれてゆく。

 暗い穴の底へ。音もなく、悲鳴もなく。


 それを見送ったエーミールは、それきり何も聞こえず見えなくなった暗闇の奥に、呆気にとられたように肩を落とした。





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