目覚まし
バチン、と何かが砕けた音が鳴る。
土煙も立たず、しかし緑や青の入り交じる奇妙な空気の中、エーミールは生きていた。
掲げた拳の先、エーミールを押しつぶそうと落ちてきていた巨大な髑髏の怪物は消えてゆく。
怪物は片手で打ち払われていた。闘気賦活不全症を持つエーミールにとって、拍子を絶対に外せない大質量の攻撃に対する迎撃だったが、その拍子を逃す彼ではない。
衝撃で手首に激痛を発しながらも、彼は。
そして空いたもう一方の手の先。右手から伸びる棍は九つの節に分かたれ、その間合いを伸ばし真っ直ぐに遠間にいた男に伸びていた。
「…………っ」
アルペッジョは、エーミールの攻撃が終わってから、ようやく自身が攻撃されていたことを知る。
そしてそれを知ることが出来たのは、目の前にいた幼馴染みの手柄だ。
既に終わった攻撃に今更ながらに驚き身体を丸めたが、その前に立つのは当然のようにトリステ。鞭に対しアルペッジョを守るべく立ちはだかり、左右から蚊を叩くようにエーミールを叩き潰そうと構えていたその手を、鞭の先を直接抑えるために使っていた。
エーミールが棍を引けば、ごく簡単にその鞭は手元に帰り棒状に戻る。
彼も肩で息をして、汗も垂らしているのは今が決死の場だったからこそ。
「そりゃ守るよな。大事な大事な直属兵だもんな」
大きく息を吸って吐いて、それからへらりと強がりに唇を曲げて、エーミールは囃し立てる。
言われたトリステは隠そうともせず不機嫌さに顔を歪めた。
エーミールの取った行動は単純なもの。
空からの質量攻撃とトリステからの遠距離圧壊攻撃に囲まれ逃げ場もない中、攻撃をしただけだ。
ただし、その攻撃で狙うのは空にいる髑髏の怪物でも、トリステでもない。
この戦場に残るただ一人の無力な存在。アルペッジョである。
(賭けにゃあ勝ったが……じゃ、どういうことだ?)
結果、トリステは攻撃を中断し、アルペッジョを守った。
けれどもエーミールの疑問は晴れず、段階が一つ進んだだけである。
今この場において、アルペッジョは無力だ。
その立ち居振る舞いにエーミールは確信できる。武器を打ち合わせてもいないものの、おそらくムジカルの一般兵に混じっても遜色のない『弱さ』をもつだろう。
しかし、彼は五英将の直属兵だ。通常は幾たびの戦場で活躍し、五英将の目に留まり任命され、ようやくその地位につける精鋭部隊。
もちろん、トリステの直属兵は一人しかいない、というのも有名な話だ。
だがならば、トリステがその目の前の無力な男を側に置く理由は。
(『弱いんだから』ねぇ……?)
大質量攻撃を打ち消しきれず、わずか崩れてへこんだ地面から、逃げるようにエーミールは飛び出す。
考えるのは先ほどのトリステの言葉。
『弱いのだから、自分の側にいろ』。その言葉の通りなら、トリステは目の前の直属兵を、守るために側に置いているということになる。
エーミールとて、俄には信じがたい。まるで逆ではないか。直属兵とは五英将の手足。五英将の命の下、命を散らすことがあるだろう。けれどもその主に守られるなどおかしな話だ。
ムジカルは能力主義国家。単騎で他国を攻め落とせる五英将が最も上に上り詰める以上、直属兵はそれ以下の実力しかない、というのは頷ける。
けれども、守るために側に置く、などということは非合理だ。
(……、ま、突破口なのは間違いねえやな)
そこまで考えて、エーミールは黒眼鏡の下の口をだらしなく歪める。
無論、連れ歩く人間は強くなければいけないというわけではないだろう。五英将にはほとんど必要ないとはいえ、野営や渉外の世話をするため、誰かを連れて歩くということも考えられなくはない。
アルペッジョ、というらしい。けれどもトリステからは愛称で呼ばれていた。
ならば仕事上の関係以上の、私的な何かがある。
エーミールにとって重要なのはそこだ。
一歩踏み出し、そして駆ける。
目にも止まらぬ速度でエーミールが迫るのは、アルペッジョ。
そして彼に対し、振るわれるはずだった棍を手首で振り払ったのはトリステ。アルペッジョは後ろに突き飛ばされ、地面に後頭部を強打した。
(……こいつ……)
トリステは内心を押し殺し、殺しきれなかった分の忌ま忌ましさで唇を噛んだ。
棍が幾度となく振るわれる。エーミールの棒術により、多彩な武器と化した兵器が。
もはや二人の動きは先ほどまでとは違う。
先ほどまでのトリステは、エーミールと真正面から打ち合う愚を犯すことはなかった。けれども今は、そうすることが出来なかった。
(アルを……人質に……)
けらと笑ったエーミールの蹴りが、トリステの下衣の裾を掠める。躱された足がまた地面を踏みしめる。その足から伝う大地力を込められて振るわれる棍は、伸ばせば明らかにアルペッジョに届く。
常に間合いの中にアルペッジョを入れる。エーミールが行っているのはそれだけのことである。
だがトリステは、そうなってしまえば無視は出来ない。空間転移と遠近無視を交えた先ほどまでの戦法を取り、間合いの外に出てしまえば、残ったアルペッジョはたちまち棍の贄だ。
トリステは夢の空間を周囲に更に濃く展開し、接近戦の構えを取る。
エーミールの棍の動きが緩く遅く淀む。夢の世界では人は思うがままに身体を動かせない。自分の認識のままに物理法則を書き換えるその魔法は、原初の魔法に近く、そして魔法からは最も遠いもの。
思うがままに動かせぬ身体は、戦闘の姿勢からはほど遠い。
闘気の有無にかかわらず、また技術の有無にかかわらず。ゆるりゆるりと歪む動きの中、ほぼ全ての人間は、白兵戦の心得などほとんどないトリステ以上に無力と化す。
もちろんそれは、ほぼ全ての人間に当てはまることであって、全ての人間に当てはまることではないのだが。
「うっ……!?」
トリステの首をエーミールの棍が打ち据える。
酩酊したような空間の中にあっても、エーミールの棍の冴えは失われない。その首を飛ばす威力は発揮できなかったが、しかし急所に攻撃を当てる程度ならば。
支えのない等身大の人形が放り投げられたように、トリステの身体が宙を舞う。受け身すらもとらず、ただ両手足も力なく胴体についていくように地面と激突し、二度跳ねるようにして動かなくなった。
「トリステ……」
目の前で行われていた、トリステの妨害があった上での高速戦闘。その光景を見つめていたアルペッジョは、最後に吹き飛ばされた幼馴染みの姿に、その終焉を知った。
構えを解き、それでも残心を解かずにエーミールはトリステに歩み寄る。
頚部の切断こそ出来なかったものの、もはや決着は明らかだ。そう思った、のだが……。
(なるほどな?)
トリステの身体の周りに、靄が蠢く。
ほんの僅かにそれが濃くなったかと思えば、悪夢の怪物達が彼女を取り囲むよう、彼女を守るように顕現した。
(ま、この程度なら話にゃならん)
しかし悪夢の怪物程度ならば、エーミールの前では赤子に等しい。
足を止める理由にはならない。
恐怖を知らない悪夢達が、エーミールの歩みに少しだけどよめくように引き下がる。
実際にはそれはトリステの認識によるものだったが、その上でも、彼らが知ったのは『畏れ』という感情だ。
「……待ってよ!!」
そしてエーミールの足を止めたのは、悪夢達ではない。背後からかけられた男の声だ。
男の声に怯えたのではない。その声に、トリステが覚醒することを恐れてのことだ。
黙れ、と口にして弱みを見せる気はない。
無論待つ気もない。それ以上喚く声がなくなれば、即座にその棍を振るう意思に満ちていた。
一瞬止まったエーミールの足に、アルペッジョは希望を見出す。
話が出来る。ならば、僅かなりとも交渉の余地はあるのだ。光明に、背部の痛みも忘れて頭を回した。
「と、取引を、しないか?」
「取引?」
真顔でエーミールはアルペッジョに顔を向ける。その顔はやはり、黒眼鏡により表情を隠していた。
「俺たちは、これで撤退する! だから」
「話にならねえな」
「…………」
「ここで《眠り姫》を討たないで、お前らを撤退させていいことがあるか?」
かかってこない悪夢達に視線を巡らせ、エーミールは黒眼鏡の下で目を歪める。
悪夢達の殺気と、居場所。それを考えるに、この場では空間が歪んでいるのだろう。肉眼で捉えた姿と殺気の場所が違う。それを考えれば、仮に棍を鞭として伸ばしたところで、トリステに狙い通りに当てられるかはわからない。仮にそれで覚醒されたら、それもまた面倒だ。
もう少し近付かなければ。
一歩だけエーミールはまた歩を進める。
その動きに慌てるように、アルペッジョは肉付きのよい手を伸ばした。
「だったら、その……」
「や、つーか取引とかするわけねえじゃん。お前らに、この劣勢を何とか出来るもんを差し出せるとは思えないし」
トリステは意識を失った。もう殺害も簡単だろう。
彼女さえ殺せれば、後の悪夢はどうにか出来る。
「何か、あんたに……そう、あんた、何か欲しいものは……」
「平和」
ゆっくりとエーミールは歩くが、その歩みに内心は汗を垂らした。
平衡感覚がおかしくなったかのように世界が傾く。真っ直ぐに歩いているはずなのに、歩いている気がしない。トリステに向けて一直線に歩くことも出来ずに、一歩ごとに軌道修正が必要なほど。
(まじか)
トリステの倒れた場所は、エーミールから十数歩の距離だったはずだ。けれど歩数は既にそれ以上で、残り数歩の距離に、まだ辿り着かないことにエーミールは焦る。
近付いてはいるらしい。しかし、トリステが眠ることによって展開された《悪夢》に、遠いのか近いのか、右か左かわからずに地団駄を踏みたい気分だった。
(夢の中ってこんなだったか? 覚えてねえしわかんねえや)
時間の感覚もおかしくなっている、と気付いたのはまた次の瞬間だ。
どぷりと周囲の空気が歪んでいる気がする。空にある太陽の光が、半透明の何かを通したように滲んでいる気がして、当たっている箇所がやけに熱い気がする。まるで長時間の日向ぼっこをしているように。
くそ、と今日何度目かもわからない悪態を内心エーミールはつく。
これが《悪夢》。生み出す怪物など単なる使い捨ての兵士に過ぎない。今現実に、目の前で自分に襲いかかってきている不可解な事象。それが《悪夢》の真髄なのだろう。
現実世界を悪夢に変える。魔法を用いて他者に干渉し、認識を歪める術。闘気賦活不全症を持つ自分の天敵。
(ラルゴめ、面倒な奴を連れてきやがったな)
本当に面倒なことをするものだ。
一番エーミールにとって嫌なことをする。それを成し遂げた彼は。
もっとも、エーミールは誤解している。トリステが歪めているのは周囲の法則。
闘気が充分にある者ですら、もしくは魔力使いすらそれには抗えないものなのだが。
陽炎の見える中、時たま響く誰かの笑い声に押し戻されるようにしつつも、エーミールはトリステの下へとようやく辿り着いた。
長い旅だった、とエーミールは思う。何刻も何日も、もしくは何月も歩かされていた気がする。実際にはアルペッジョが見ていた通りほんの数秒の出来事だったが、彼にとっては。
(これで死んでくれると助かるんだが。……や、つーかこれが本物ならいいんだが)
エーミールはスと棍を短く持って構える。その剣先は竜の首すらも藁のように断つ。
「トリステ……!」
構えたエーミールの背中越しに、アルペッジョの声が響く。
その声に目が覚めたようにエーミールは意識を清明にし、一度瞬きをする。晴れた視界に覚醒したように、むしろ違和感があった。
「トリステ! 起きて!! トリステ!!」
そして違和感があったのは、自分の思考にも。
黙っていてほしい、とは思った。だからエーミールは、アルペッジョの話に一時付き合ったのだ。
だが、黙っていてほしい、というのなら。
(何で俺はあいつを殺さなかったんだ……?)
棍を振り上げた一瞬に、思考が溢れる。
その考えが浮かばなかったのは何故だろうか。
その方が合理的だしずっと簡単だ。殺せばよかったのだ。敵の命一つ、奪うのに躊躇はない。
無論、まだ人質としての価値がある、というのは頷ける。もしもトリステを仕留めきれなかった場合、もう一度使えるかもしれない資源として確保しておくのは重要だ。
しかし、その考え自体が浮かばなかったのは何故だ。
トリステを覚醒させてしまう恐れと、予備としての価値と。天秤にかければ今のエーミールならば殺害を決断する。しかしその天秤の片方は当時空で、エーミールにとっては思いも寄らなかった。
原因は、おそらくこの《悪夢》。
(……そこまでして守る価値がある……?)
意識的か、無意識的か。トリステの付加した《悪夢》の認識操作は、彼の保護をしていたと考えるのが最も合理的だろう。
しかし、何故。
一瞬の思考を途切れさせず、それでもエーミールは棍を振り下ろす。
だが。
(やっべ)
気付くのが遅れたのは、やはり《悪夢》のせいだろうか。そう言い訳をしつつも、その棍に乗せた力をもはや曲げられずに焦った。
目が合った。気を失っていた、もしくは動けなかったはずのトリステと。
アルペッジョの声は、トリステを覚醒させる。エーミールの意識を覚醒させたように。
トリステが身体をくねらせどうにか肩で棍を受けると同時に、トリステの右手の爪が立てられ、虚空が引っ掻かれる。
その動きのままに、エーミールの胴に四本の大きな傷が走り、鮮血が舞った。
白い聖騎士の外套が中の鎖ごと引き裂かれ、前面が赤く染まっていく。
「……っだっ!!」
飛び退き、痛い、と声を上げつつエーミールはその傷を見分する。
内臓に届いてはいないらしい。しかし、かなりの深手だ。腕を前に動かす動作、もしくは身体を前に曲げる動作に支障があるほどの。闘気で癒やすにも限界があるほどの。
「はは、いい気味!!」
笑いつつ立ち上がろうとして、トリステは顔を顰めた。
エーミールの棍に砕かれ、左肩はもはや上がらない。内傷にすらなっているのだろう、というのはなんとなく自分で察しがついた。
痛めた首は痺れている。両肩から指先にかけての痺れと痛みは、現在までの生涯最大級の不快感だった。
それでも、トリステは立ち上がれる。
眠れない苦しみよりはずっとマシだ。眠る苦しみよりはずっとずっとマシだ。
そして目の前で、幼馴染みが傷つけられるよりは。
こんなに大きな怪我をしてしまった。戦争中で気が早いことではあるが、さすがにこの仕事が終わったら、しばらくは休暇を取らなければいけないだろう。
エーミールを前にして、ふとトリステは考える。休暇を取ったら、しばらくどこかで骨を休めよう。ムジカルならば何処がいいだろう。ムジカルを飛び出し、アウラに行ってもいいかもしれない。
今回の仕事は大変だった。
今まで取ったことのない休暇を、申請しても許されるだろう。
ねえ、アル……。
強敵を前にしたままの、ほんのわずかなのんきな思考。
それを幼馴染みに問いかけたトリステの視線の先で、アルペッジョが突き飛ばされるようにして身体を曲げて吹き飛ぶ。
「え……?」
驚き目を見開いたトリステを見て、エーミールもようやくそれに気がついた。
倒れたアルペッジョには、白く半透明のごく細い杭のようなものが突き立てられている。
「……な……に……?」
意味がわからない、と倒れたアルペッジョは呟く。
まだ自分に何が起きたのか把握出来ていなかった。急激に風景が歪んで飛んだ。そのままの勢いで自分も移動し、また背部の激痛が襲ってきたのだと思った。
しかし、今痛んでいるのは横腹部。慌ててそこに刺さっている杭を見て、更に何が起きたのかわからず不思議に思った。
彼の意識はそこで終わった。
泡が崩れて消えるように。
次の次くらいで今章終わるんじゃないでしょうか。




