人の温かさ
THE魔法使い担当その3
「あら、あらら」
笑みを浮かべつつ街の上を、クロエは半透明の蛞蝓に乗って悠々と飛ぶ。
感じているのは僅かな驚き。それに伴う高揚感。
クロエの使役する精霊達。その超感覚に捉えられる範囲の中で、今そこに生物はいない。もう少し正確に言うなれば、人間達が存在しない。温かな存在がいない。眼下に広がる街の中、さきほどまでは掃いて捨てるほど蠢いていたのに。
「先ほどの聖騎士の方も、これで面目が保てるかしら」
与えた猶予は有効に使ってくれたようだ。クロエはそう解釈し、安堵の息の代わりにその唇をまた綻ばせる。
彼らも大変だ、と思う。
聖騎士達は現在、騎士や衛兵と共に逃げ遅れた人間達を救助する役を担っている。彼らも人間達に死なれては困るのだろう。自分の攻撃の巻き添えで人間達が減ってしまえば、任務を全う出来ずに叱られるか、降格でもさせられるか。
外様のクロエにはわからないが、きっとそれが彼らにとって重要なことだったのだろう。
だがともかく、これでクロエの与える温情は終わった。
人間達が消えたのが聖騎士の手によるものか、それとも怪物達の手によるものか。それはわからないが、これでもう気にする必要もないだろう。
聖騎士達や衛兵達も一時避難し、西側の防衛に加わったようで退いた今、もはや誰も止める者はいない。
むしろ、ここから自分は急がなければ。
そうクロエは思う。
怪物達は人間達を襲撃する。それも食事のためではなく、ただ快楽のために。
ならば人間達がこの付近にいない以上、怪物達もここにいる意味はない。
「では、私のお仕事を始めましょうね」
目は閉じたまま。
半透明の蛞蝓が大きな羽を広げる。風を捉えることもない翼は羽毛などの凹凸はなく、ただつるりとした感触のまま表面には虹色の油のような模様が蠢く。
しかし翼は羽根を飛ばすよう、また蛆のような精霊の破片を一斉に打ち出しばらまき続ける。
そして一瞬の後、地表にいた怪物達の身体を食い破り、全てが一斉に破裂した。
爆撃音が街に響く。
家屋は弾け、壁は倒壊し、石畳は粉々に砕ける。
血も流さず鉄の臭いも発さず、悲鳴も上げず、ただ淡々と怪物達は死んでいく。パラパラと煙のように埃が舞い、クロエの足下を濁らせるように彩った。
鼻歌でも歌うよう、上機嫌にクロエは空を舞う。
怪物に打ち込み弾けた精霊の破片が、また弾けて近くの怪物を襲う。この街にいる全ての怪物が、それぞれ他の怪物を攻撃する爆弾と化す。
連鎖反応は続き、沈黙はまだしない。全ての怪物達が死にいたるまで。
涼しい顔でそれを見下ろすクロエは、きっと目の前で今楽しいことが起きているのだろうな、と思いつつもそれをほとんど認識することはない。
その目に光はなく、倒れた家屋やその中の凄惨な死体を見ることは出来ない。
だからだろう、と誰かは言う。
クロエは盲目で光を持たない。だから目の前にある凄惨な事象、心ある人間であれば目を背けることでさえも、目を向けていることが出来るのだろうと。
けれども違う。
〈欠片余り〉クロエ・ゴーティエに欠落しているのは、単なる『視覚』だけではない。
クロエが生まれてすぐのこと。
最初に違和感に気がついたのは母だった。
「……?」
我が子の目の前で手を振る。しかし、我が子の目はその母の手を追うことなく、じたばたと動く腕はその手を握ろうともしない。
おかしい、と思った。
通常赤子の目は酷く弱い。だが生まれてしばらくすれば明暗程度はわかるものだし、数日も経てば物の形や動きも読み取れるものだと母は聞いていたのに。
いつからか、我が子は目が潰れたようにその目を瞑り続けるようになった。
時たま笑う。時たま泣く。まるで通常の赤子のように古布の山の中でじたばたと動きつつも、それでも何かを『視る』ということをまるでしなかった。
おかしい。
我が子の目に、まさか何か問題があるのだろうか。
そう思い、不安な日々を過ごしつつも、まさかとも思い過ごしていた半年ほど。
確定をしてしまったのは、少しだけ時が過ぎてからだった。
「……お子様は、目が見えておりません」
まだ開拓村とも呼ばれている小さな村。治療師などおらず、たまに巡回で回ってくるのを待つような。そこを訪れた若い治療師は、その子に簡単な試験を行った後、重々しく言った。
「まさか」
信じられない、と父は治療師に向けて半笑いで返す。
そんなわけないとは思わないが、そうとも信じたくはなかった。まさか、娘の目が見えないなどと。まさか娘が不具であるなどと。
人間にとって、目が見えないというのは重大な喪失だ。視覚とは通常人の五感で受け取る情報のうち、七割ほどを占めている。それを失えば即ち行動が不能になってしまうといっても過言ではなく、どう考えても『まとも』に生きていけることはない。
「治るんですよね?」
母は治療師に尋ねる。戸惑う様子で固まる娘をぎゅうと抱きしめながら。
彼ら両親は、治療の業に詳しいわけでもない。だが、治ると思っていた。
思わなければ耐えられなかった。治療師の一言に、どこか暗い穴に突き落とされたかのように。
治療師は母の問いに首を横に振る。
「残念ですが……」
言い切らず、そして言い切れなかった。
眼球の怪我ならば治療師には治すことも出来るかもしれない。病ならば癒やすことも出来たかもしれない。
しかし生まれつきの視力の喪失は、彼らには取り戻す術はない。
全ての治療師が学ぶ神の法。『失われたものを取り戻すべからず』。
ならば、これは、きっと神が彼女に与えた『喪失』で、きっと治療師には取り戻せないもので。
赤子の閉じた目は膨らみを見せ、開けばその目はガラス玉の瞳を与えられた人形のように澄んでいる。両親は、ただ赤子の頬を撫でる。
治療師はもう一度、半ば呆然とする夫婦に向けて頭を下げた。
生まれつきの欠落を抱えて少女は生まれた。
それが不幸の始まりだと皆が思う。けれども、幸いなことがあった。両親は確かにクロエを愛していたのだ。
不具で生まれた子供を抱える暮らしというのは、間違いなく厳しいものだ。
大抵の場合、農村部の子供の使い道は『人手』である。多くを生み、多くを育てる。少しばかり分別がつく年頃になれば、仕事の手伝いとして駆り出す労働力となる。
けれどもその子供が不具ならば。仮に口が利けない、などというようなだけの障害であるならばまだしも、身体的で具体的なものであるならば、その目論見は間違いなく外れてしまうものだ。
人手にならない子供というのは単なる重荷。本来子供というのは食事を与えるだけで働く安価な労働力であるのに、それが出来ないだけで愛情も持てない夫婦も多い。
そうなった場合の子供の末路はよくある話だ。
取り上げた産婆が首を捻るというのも一つの例で、森に捨てる、川に流す、または俯せに寝かせて不慮の事故を装う。
そうして一つ減った口を補うように、また次の労働力を生産する。そういうものだ。
しかしクロエの両親はその選択をしなかった。
高度に発達した社会ならば、愛情深く育てた、と間違いなく彼らは称賛されるべきだろう。もっとも彼らの場合は、変わり者だ、と周囲に嘲笑されるだけの扱いを受けたが。
私たちの愛する娘は、目が見えない。
しかしそれだけではないか。
例え自分たちの顔を知らないとしても、人間には声がある。匂いがある。
抱き寄せれば肌は温かく、そしてきっと彼女はそれで安心しているのだろう。母や父が小さな彼女を抱き上げれば、泣いて荒ぶる彼女は鎮まってくれた。
目が見えないのは今後の人生で大きな不利だ。
けれども、それでも彼女はきっとやっていける。目が見えず、美しい景色が見えないのならば、歌を聴かせよう。美味しい料理を食べさせて、肌を寄せ合い自分たちの存在を知らせよう。
君を産んだ母親はここにいる。君を守る父親はここにいる。
そう主張するように、毎日彼女に話しかけ、毎日のように抱き上げて、毎日のように奮発した豆の汁物を唇にちょんとつけた。
目が見えない代わりに。
視界の代わりに、彼女の世界が広がるように。
見えずとも、全てはたしかにある。そこに君のための世界はあるのだ。
そう彼女に伝えるように、両親は懸命に彼女のために尽くし続けた。
だが両親の気力は長くは続かない。
二歳を迎える頃には、もはや両親も諦めかける思いだった。
クロエの成長は思わしくなかった。
呼びかけへの反応は未だ鈍く、未だ言葉を解することは出来ないように両親には見えていた。料理に対する反応は全て同じ。豆の汁物も、炊いた粟も、彼女にとってはただの『食事』でしかない。
もしかしたら彼女は、目以外にも障害があるのではないだろうか。
身体ではなく、白痴。
もう一度巡回に来た治療師に相談してみるべきではないだろうか。そう両親が思い始め、彼女のことで喧嘩をするようになったのもその頃だ。
一方クロエは、当時のんきなものだった。
まだ知恵もあまりない。暗闇というものすらも知らず、しかし周囲には『何か』がいつも歩き回っており、そしてその『何か』が存在できるほどの空間があるのだと知っていた。
無論、まだ幼く、自我も発達していない頃。両親にそれを伝える術もない。しかし彼女は慌てることも知らず、腹が減れば口に入る食事に、寒ければ身体を覆う温かな感触に、ただ安心しているばかりだった。
『何か』は二ついるらしい。
頬にちくちくした何かをいつもすりつけてくるものと、柔らかな二つの感触を覚えるもの。たまにびりびりとした感触を肌に感じるが、そのどちらが発している『びりびり』なのかはまだ判別できてはいない。
幼く友達という概念をまだ理解していないが、きっと彼らはその『友達』なのだろう、とクロエは感じていた。
そして両親にとって不幸だったこと。
それは、クロエが魔法使いだったということ。
幼い魔法使いというものは、自らの感じていることと、実際の現実を区別できない。
彼らが明るい日の光に目を眩ませ、室内に入り周囲を暗く感じているのならば、それは彼らの目が眩んだのではない。室内が暗くなったのだ。
区別できない実感のままに、魔法使いは周囲の現実を歪ませる。
その頃からだった。
クロエの周囲に、二つの存在が蠢き始めた。彼女の印象のままに、彼女が無意識に作り上げた二人の『友達』。
ごわごわしているときがある。ちくちくしているときがある。ふんわりとしていることがある。さらさらとしているときがある。
細いうねうねとしたものが身体を支えることがある。べちゃりと平坦なものが頬を潰すことがある。
クロエは自分の身体を知っている。
しかし自分の身体とはかけ離れた腕や足を持つ身体。
精霊。
それはまだ、クロエにしか感じず、人の目には見えなかった。
見るということを知らない故に。
そしてその存在は、匂いもなく、音も発さず、味もしない。
彼女は知らない。
この世界には、匂いがあるのだ。音があるのだ。味があるのだ。
幼い日に彼女が治療師に宣告されたのは、『視覚異常』。
けれども本当はそうではない。
彼女が失っていたのは、視覚だけではない。
彼女の耳も、鼻も、舌も、その全ては無用な感覚器官。
その小さな魔法使いは世界を知らない。その肌でしか。
ある日のことだった。
母親が農作業に疲れ、痛む腰を伸ばす休憩のために家へと入ったときのこと。
小さな農村の小さな家だ。子供の部屋というものはない。居間に置かれたクロエ専用の囲いの中で、クロエはキャッキャと笑っていた。
子供のうちはよくあることだ。日の光で壁に映された影に恐怖し、また埃の光に嬉しくなる。そうやって、周囲に誰もおらずとも、ただ一人で何かしらの感情を表に出すことは。
母親もそう思った。
また娘が笑っている。何が楽しいのか、と皮肉に溜め息をつきつつ、彼女の下に寄っていった。
そして、眩んだ目に、歪んだ影が映った。
それは偶然だった。いつもは気にしていない目の中の影が、ただ気になったように。
「…………!?」
母親は目を擦り、愛娘の手の先を見る。
クロエと両手を繋ぐようにして、何かが座っている。透明な靄のようなものが人形のように短い足を投げ出して、踊るようにクロエの手を上下させて振っていた。
娘が笑う。何も見えていないはずの目を開き、目尻を下げてキャハハと。
「なっあっ……!!」
一瞬母親は固まり、それから悲鳴のようで意味のない声を上げる。
外で汚れた手を拭っていた父親は、その声に首を傾げて小屋の入り口に目を向けた。
戸惑いと、恐怖。母親の脳内にそれが満ちて、しかし身体はその意思で強制的に動いた。
正体不明の化け物がいる。それが、まず一つ。
何も考えずに、入り口に立てかけてあった箒を手に取った。それが箒である必要はない。何かの棒状のものがあれば、もしくは武器になりそうなものがあればそれでよかった。
「離れてっ……!!」
懇願するように言いながら、じりじりと母親はその化け物に近付いていく。
恐怖はあったが、そんなものよりも違うものが胸中に満ちる。恐怖を何かが凌駕する。
母親の声にも、その化け物は反応しない。
愛娘も、魅入られたように化け物を見ている。
奪われた、と母親は思った。奪われていたのだ。娘は。
この怪物に何かを。
ふと思ったそんな思考の精査をする前に、母親は箒を振り上げる。
考える暇などない。今はただ、愛娘の『これから』を取り戻すために。
お前のせいだ、と叫びたい気持ちだった。
きっとその化け物が、娘に何かをしていたのだろう。きっとその化け物がいなければ、娘は『普通』に育っていただろう。そんな甘い逃げ道が、母を突き動かす。
離れろ。
離れろ! 私の娘から!!
愛情故のその攻撃は娘の心には届かず。
けれどもその攻撃は精霊に届き、そして精霊はその攻撃に反応した。
正体不明の存在からの攻撃。そんなものから身を守るのは、きっと悪いことではないだろう。
クロエの不幸は、魔法使いだったこと。
魔法使いの無邪気な攻撃は、常人の身体を容易く破壊する。故に彼らは恐怖され、忌み嫌われるもの。
そして彼女はその日に知った。
自分の身に降りかかった液体が、とても温かく、優しいことを。
無知というのは残酷を呼ぶ。
子供というものがその典型だ。彼らは玩具と目の前にある物体の区別が甘い。足下を這う蟻を簡単に踏み潰せる玩具だと認識し、蜻蛉を簡単に裂ける粘土細工だと認識する。
多くの社会で『生き物は大事にしなければいけない』という倫理は大人達にあれど、それを正確に子供に伝えるのは難しい。彼ら子供はまだ未熟で、目の前の虫や小動物を自らと同じ生物だと認識できないためだ。
クロエとてそうだ。
何故人のものを壊してはいけないのか。何故人間を無闇に傷つけてはいけないのか。彼女なりの理解はあり、そして類推するだけの知識と知能はある。けれどもクロエ以外の『他者』のそれを想像し学べるほど成熟してはおらず、そしてこれからも成熟することはないだろう。
彼女はきっと、『普通』ではない。
人の見ているものが見えない。
人の聞いているものが聞こえない。
人の嗅いでいるものが嗅げない。
人の味わっているものが味わえない。
それで『普通』に育つことが出来たのであれば、きっとそれは奇跡と呼べる。
それで『普通』と皆が接することが出来るのであれば。
「もう少ししたら、エーミール様のところに行ってみましょうか」
「ねえ、キキ」とクロエは自身を乗せた精霊に呼びかける。
怪物達がいなくなれば、そこからは東へ攻め上げる。
そうした指示が出ていたはず。ならばそうするべきなのだろう。
彼女は足下の瓦礫に目を向けない。向けても見えることはない。
魔法使いとは、見たいものを見て、見たくないものを見ない者たち。
そして彼女は、見なければいけないものも見えない。その瓦礫の下にある冷えつつある死体は、彼女の世界の外にある。
連鎖し炸裂する精霊の破片が、西の人間達のところへと到達したらしい。
精霊から伝わりどこかで感じた温かな感触。それでやっとクロエは感じた。孤独な世界に他者の存在を。




