炎心
風呂敷畳み
夏になっても副都ミールマンは肌寒い。
ミールマンの公共設備通陽口は、その肌寒さに対抗する一種の知恵ともいえよう。
一辺が三十歩ほどもある巨大な縦穴の底から間欠的に噴き出す熱風を人々は通気口を通し街へと取り入れ、その熱を人の肌を温めるのに用いる。
その熱がどこから来ているかを、街に今生きている者たちのほとんどは知らない。長老たちは『あれは地から湧き出す溶岩の熱気だ』と言い、またある者は『地の底にある空で太陽が暴れているのだ』と言い、親達は子供に『火を噴く怪物が住んでいる』のだと教える。
ともかくとして、街の各所にある都合十二とも十五ともいわれるその穴は、彼らの生活に当たり前のように存在し、誰もその存在理由を疑うこともない。
数百年前から、ずっと。
「……なんか、やっぱ音がするよな」
その通陽口の中、少しだけ潜った場所。石壁に穴を空けて洞窟のように作り替えた住処。キズメと呼ばれている一人の子供が呟いた言葉は、石壁に吸われることもなく響いた。
ここミールマンは積層の街だ。街の区画、家屋はほとんどが石で組まれて積まれており、街全体が石壁で部屋が区切られた巨大な建物ともいえる。すり鉢状の土地の底に作られたその建築物は、手狭になる度に上の階を作り、住民達を上に移住させてきた。
移住前の階層は補強のために出入り口が塞がれ、また大量の柱が作られるために人が住めるものではなくなる。故に街の最上層部数階分より下は廃棄階層と呼ばれ、人の立ち入りが禁じられる……のだと皆は言い、また自らそれを信じていた。
しかし、そんな立ち入り禁止区画にも人は入る。
その理由は様々で、彼らは上層階に居場所がない者たちだ。家を持てない者たち。上層階で暮らす市民権を持たず、持てず、日の届かない暗い穴の中でじっと息を潜める者たち。
罪を犯し逃げ込んでくる者もいれば、食うに困って一夜の宿として入り込む者もいる。
彼らは通陽口の縦穴、その壁面に穴を空けて、廃棄階層に入り込んで潜伏をすることになる。
そしてもちろん、官憲も黙って見てはいない。当たれば身体が焼け爛れるほどの熱風が吹かない隙間の時間に、その通陽口を見回りもする。
所詮ほとんど逃げ場のない吹き溜まりの行き止まり。追い込まれた家無しは追い出され、犯罪者は捕縛される。そうなるのが常で、そうなるのが当たり前のことだった。
当たり前でないのは、ただ子供達。
親に捨てられ、また親を知らずにここに流れ着いた孤児達には、一つ共通点がある。それは身体が大人に比して小さいこと。
彼らは官憲の見回りの際、追い込まれることは少ない。
廃棄階層の中、かつては通陽口の熱気を街の中に運ぶために建物内に張り巡らされていた通気口。子供が屈んでやっと入れる程度の穴に逃げ込み、大人達から身を隠すことが出来る。
故に通陽口は孤児達の住処であり、大人達の取り締まれない最後の隠れ家だった。
「戦争、始まったんじゃね?」
壁に背をつけて座る子供が、キズメに応える。その傍らに身を寄せ合うようにして座る子供は、口が利けずに三歳の頃捨てられた女児だった。
そういえば、とキズメは頷く。そんな布告をしていると、通気口の中から噂話に聞いたことはある。曰く、もうすぐ戦争が起きて、この街も戦場になるかもしれないのだと。貴族主導で住民が西へと逃がされているのだと。
そういえば、上層階で見る人の数は少しばかり減っていたと思う。
「始まったかぁ。そっかぁ」
戦争。それを生業にする者でなければ、大抵の場合それは忌避されることだ。
だがキズメはそうは思わない。
彼は戦争に参加したことも、遭遇したことすらもない孤児だったが、しかし一つ知っていることがある。
戦争が起きれば街は壊れる。人は殺し殺され、そして去るのだ。
傷が入り霞む目を癖のままに擦り、彼は天井越しの空を見る。
人が去った街。逃げ出した人間達は自分の荷物を持って逃げているだろう。しかし全ての荷まで持ち去られているわけでもなく、また話に聞くムジカル軍もすぐに全てを回収することは出来ないだろう。
ならば、しばらくの間は、彼らにとっての稼ぎ時だ。
金が欲しいわけではない。
欲しいものはまず食料。これで食うに食わざる生活からしばらくは遠ざかるはずだ。それに服や毛布、彼らにとっては命を繋ぐために必要なもの。
外にはムジカル兵がいるのかもしれない。
襲われ、身ぐるみ剥がされ、殺されるかもしれない。そう考えれば安全ではない。
しかし、安全でないのは今も同じだ。
今ここで暮らしているこのときすらも、いつでも命の危機はある。
先月にも仲間の一人が死んだ。食品店の廃棄物を漁るため上に出た際、酒に酔った大人に絡まれて酒瓶で殴られた。その破片が喉に突き刺さり、じたばたと手足を痙攣させている姿をキズメは物陰から見ていた。
死体は通陽口の奥に投げ込まれた。その行方はキズメも見ていない。きっと誰も知らず、日の光も当たらない奥底で、今や灰になっているのだろう。
誰もこの街では守ってはくれない。
日の当たる路地を堂々と歩ける身分の人間達は、穴蔵暮らしの鼠がいくら傷ついても気にもしない。
鼠の寿命は通気口に入ることが出来なくなるまで。太る余裕のないやせっぽちの身体が、それでも大きくなり隠れ家に合わなくなれば、その時には衛兵がその身体を引きずり出し、治安維持のために住処を奪う。街を追い出され、何処でなりとものたれ死ねと、きっとそう言うのだ。
だから、何も変わらない。
明日を知れない身故に、今日のことだけを考え生きる。
戦争、いいではないか。そうなれば街に残された荷は自分たちのものだ。ムジカル軍に横取りされる前に、俺たちのものに。
そうすればきっと今日は生きられる。明日を迎えることが出来る。
キズメは通陽口に通じる穴を窺い見る。
「もう少し待ったら、偵察に出よう。今日は腹一杯食えるかも知れねえな」
鼠も魚の頭も食べ放題だ。人目も憚らずに、きっと日の当たる場所で。
キズメと仲間二人は、暗闇の中で油の灯りだけで外の気配を探っていた。
そんな中、悲鳴が響いた。仲間の一人、通気口で通じていた廃棄階層の中で寝ていた少年の声だった。
キズメが振り返れば、部屋の中、天井近くに配置された排気口の中から、転げ落ちるように仲間が出てくる。
「どうした?」
「お、奥に人が……」
「はぁ!?」
少年はどう説明していいものか、手を身体の前で泳がせて悩んだ。
人がいた、というのは正確ではない。人影があった、というのも間違いではないがそれも正しくはない。
もっとも状況を正しく言い表すのであれば。
「か、影がこっちを見てて……!!」
見えたのは靄のような影だ。暗闇の中でなお暗く、夜目に慣れた目の中で、ただの視界の歪みのようにすら見えたもの。
けれど、そこには目があった。
瞼も睫毛もなく、しかし人間の目が、二つぽっかりと、たしかに。
「寝ぼけてただけじゃねえの?」
そんなことくらいで、と呆れるように仲間の子供が言う。日常的に暗闇の中で眠る彼らの場合、ままあることだ。目を瞑った暗闇と目を覚ましたときの暗闇の区別がつかずに、夢が現実であると思ってしまうことも。
しかし、そんなことはない、と『見てしまった』少年は首を横に振る。
「いや! いたんだって!! だって向こうに……ぃ!?」
そして振り返り、通気口を指さし、戦慄する。
通気口の中には顔があった。
屈んだ彼らが通れる程度の太さの通気口を塞ぐように、詰め込まれたかのようにして塞ぐ顔。水でふやけたような白い顔は、相当な力を込めて圧縮されてそこにかろうじて封入されたのだろう。
「……逃げるぞ」
一応の音頭を取るように一言だけ呟いて、キズメは外へと駆け出そうとする。
その横で、少年の悲鳴がまた響いた。何事か、と思う前に、キズメもそれは感じていた。滴る液体、垢で汚れた肌を洗い流すようにかけられた液体は、天井から零れている。
見たくなかった。見られなかった。だが視界の端に見てしまった。それは天井に貼り付くように出現した、目と鼻と口だけの不気味な怪物の姿だった。
それはなんだ、と考える間もない。
考えることはない。彼らにとって、不思議なものとは即ち危険なものだ。そこで反射的に足を動かせるか否かが今までの彼らの命を分けてきた分水嶺で、そして逃げることが圧倒的に正しい。
誰も自分たちを守ってはくれない。だから自分で自分の身を守るしかない。
それは彼らの間でも同様で、逃げ遅れた一人の子供が立ち上がり損ねて転んだが、それに手を貸すこともない。
逃げ遅れれば死ぬのだ。もしも仮に立場が逆ならば、きっと自分は手を差し伸べない彼を恨んだだろう。そうは思っても、その選択に躊躇はない。誰しもが自分が一番可愛くて、そして今逃げ遅れれば死ぬのだ。
振り返らずにキズメは駆け出した。
大丈夫、足音は三人分。
一つ減ったが、誰かが一番小さな女児を抱えたのだろう、と自分の予想に縋るように。
通陽口の中は間欠的な熱風が噴き上げる。
しかし彼らの暮らす洞窟内にその熱風が直接入ってしまえば彼ら自身が蒸し焼きになってしまうため、その出入り口は折れ曲がりと衝立とで工夫をされていた。
衝立を乱暴に蹴飛ばして、キズメは通陽口の内周に螺旋状に設置された階段に出る。
階段は大人が手を広げられない程度の細さで、彼ら子供とて足を踏み外してしまえば真っ逆さまに落ちていくだけだろう。
暗闇に足を滑らせないように、慎重だが急いで駆ける。
その途中、出入り口の向かいから、ふとキズメは見てしまった。自分たちの暮らしていた洞窟の、その中からいくつもの青白い顔が、呆けたようにこちらを見ているのを。
「……っ」
無視をするように顔自体を背けて駆け上がる。
その顔が、今まで見捨ててきた仲間達の顔に重なって見えた。お前の番が来た、と言っている気がする。
「キズ、メ!!」
女児を背負い息を切らした仲間が、キズメの名を呼ぶ。何だ、とそれでも振り返れば、第一発見者の少年が爪の長い大きな手に身体ごと握りしめられるように掴まれていた。
「助けに……」
「放っ……とけ……!!!」
また顔を背けてキズメは上を見る。今は自分たちの方が大事だ。
どうせ誰も自分たちを助けてなどくれないのだ。
階段の縁がぐにゃりと歪む。駆け上がっても、上がれている気がしない。
外が遠い。空が小さい。いつになったら街の上に辿り着くのだろう。
助けて、と叫ぶような少年のか細い声が聞こえた気がする。
だがそんなものを聞くわけにはいかない。
ここで助けに戻ったところで何が出来る。何も出来ずに、自分もきっと死ぬだけだ。
そうだ、ここは街の底。誰も見ていない暗がりの中。
そこで死ぬ溝鼠を、誰が顧みるものか。
誰も助けなんて来るはずがない。助けることなど出来るはずがない。きっとお前達だって、俺が捕まったところでそうするだろう。
大人達も仲間達も信頼できない。誰しもが一人で、自分で自分を助けるしかないのだ。
キズメは灼けた喉に精一杯の空気を吸い込み、声なく叫ぶ。
どうせ誰も助けてはくれない。だから俺はお前を助けない!
そう叫んだキズメの鼻先を、白い影が通り過ぎる。
石の壁を軽く叩くような音を出し、跳ね返るように白い軌跡を放ちながら。
「…………!?」
白い軌跡が人なのだと、キズメは振り返って知る。
その人は、壁を蹴り、立体的な軌道を描いて下へ向かっている。そしてその手の先に閃くのは槍、白刃の光が日の遠い暗闇の中でも輝いて見えた気がする。
少年を掴んでいた腕が切り落とされて手が緩む。
階段と壁を使って跳ねた白い影は、落とされた少年を空中で片手で受け止めて階段へと着地し、また跳ね上がる。
通陽口の内に沿って設置された階段自体を一足飛びに駆け上がるようにして、キズメ達の前に立ちはだかった。
白い外套を纏ったその役職は、聖騎士というらしい。衛兵や騎士よりも格上だとキズメは認識していた。
腰につけた小さな灯りが、その誰かを下からほのかに照らす。
「無事か」
ウェイトは一言呟き、返答を待つ。
しかしキズメ達は一言も発せなかった。
それはひとえに、精一杯睨まぬよう力を込めた目から血が溢れ涙のように零れ、食いしばった歯茎からの出血が吐血のように唇を滴り、額の傷口から血が噴水のように噴き出しているウェイトの形相を見てのことだった。
言葉を発せず、キズメは上目遣いに頷く。右目の霞みがいつもの傷からか、額から垂れる汗かどうかもわからないままに。
左右に余裕のない階段。ウェイトは小脇に抱えていた少年をゆっくりとキズメと自分の間、脇にある壁に凭れさせるように乱暴に置く。
「命に別状はなさそうだ。手を塞ぎたくない、お前が背負っていけ」
あばらの何本かは折れているだろうが、とウェイトは付け足す。それを伝える気もなければ、特に気にする気もなかった。
「え、あの、……」
戸惑う目の前の孤児に、ウェイトは少し苛つきを増した。
何故このような子供を助けなければならないのだろうか。この子供を助けて何になるのだろうか。担当していた人間たちは既に全員避難させた。もうクロエの攻撃は始まるだろう。ならば改めて街に出てまで、こんな危険を冒してまで、自分が、何故。
「早く背負え。抱えられはしまい」
「あの、何しに……!?」
キズメは不思議に思った。
ウェイトの顔は知っていた。噂にも聞いていた。通陽口を不法占拠している者たちで彼を知らない者はいない。
悪徳の貴族達を成敗し、面倒なまでに細かく衛兵や騎士の規律を厳しく指導し、犯罪者を即斬する怖い人間。そう誰かが話していたのを聞いていたキズメは、それを正しく理解できないまでも朧気ながらに彼のことを認識している。聖騎士、間違いなく正義の味方だろう、と。
だが、ならばこのようなところに何をしに来たのだろう。
ここには自分たち以外誰もいない。ならば目的は自分たちで、ならば……。
「まさか、処け……」
「助けに来たと、言った」
言いかけた言葉をなんとなくウェイトは察し、キズメの顔を覗き込むようにして言う。実際に口にしていなかったはずの言葉を、言ったはずだ、とばかりに。
血走ったようなウェイトの目がキズメの眼前にくる。顔には完全に影が差し、未だだくだくと額から垂れる血はその血管の怒張のままに勢いを増したようにも見える。
恐怖にキズメの顔は無意識に引きつり、腰が引けるように僅かに後ろに下がった。
まだ戸惑い、動けないキズメに向け、しかし誰かに話すようにウェイトは口を開く。
「ああ、わかっているぞ。お前達を助けたところでお前達は恩を感じることはあるまい。恩を感じて心入れ替えることなどないだろう。ほとぼりが冷めればどうせ盗みやひったくりをして人を苦しめ、まっとうな暮らしに戻ることなどあるまい。我が『お前達を助けてよかった』などと心温めることなど一生あるまい」
どうせ目の前にいるのは汚らしい孤児だ。善の心など欠片も持たない。持たずに育ってきてしまった人間もどき。きっと何も変わらない。『助けなければよかった』と後からきっと思うことなのだろう。
ウェイトはそう信じている。今も昔も変わらずに。
ぶつぶつと呟かれていた何事かは、キズメは理解できなかった。
「だが」
ゆっくりと、力強くウェイトはキズメの襟を掴む。
逃がさないように。絶対に階段から落ちないように。
「お前達をここで助けられないようならば、我は『奴ら』に顔向け出来ん」
助けたくない、と全身全霊でウェイトは言葉を発する。
本当なら見て見ぬふりをしたかったし、作戦行動上、自らの安全を確保するという点で彼らを見捨てても尊い犠牲の一言で済んだことなのだろう。
しかしそうしてしまえば、自分は『また』負ける。
奴らなら助けてしまうのだろう。
悪ぶって偉ぶって、正義を小馬鹿にしながらも。この汚らしい子供達を、きっと我らが見捨ててしまう全員を助けてしまうのだろう。
そうであってはいけないというのに。
屈んでいる姿勢から、しゃがむようにしてウェイトはキズメに視線を合わせる。
そして大きく息を吸った。
「悪党の奴らに出来て、正義に出来ぬことなどあるかあぁぁぁ!!!」
木霊のように、声が響く。
それからシンと静まったような穴の中で、また増した戸惑いと恐怖にキズメは無意味に何度も頷いた。
「は、はひ、はぃ」
「…………」
一頻り叫んで気が済んだウェイトも、胸中に気恥ずかしさが湧いてくる。
自分は何を言っているのだろうか。こんな子供に言ったところでわかるわけでもなく、何が変わることもないのに。
脱力感に掴んでいた襟が外れる。しゃがみ込んだまま少しだけ黙り込んだウェイトは、「八つ当たりだ、気にするな」と一言口にして、肩で息をしつつ静かに立ち上がった。
袖で顔を拭けば、新鮮な血がベトリと布地を染める。
「ここ北地区での生き残りはお前達が最後だ。絶対に死なせない。絶対に助ける。だからお前達は、死ぬ気でついてこい」
キズメともう一人の子供はコクコクと頷き、ウェイトの大きな背中を見つめる。
ウェイトはその視線に熱さを感じつつも無視をする。
ふと感じたのは煙草の匂い。
それを気のせいだと断じ、クロエの攻撃を凌ぐべくまずは避難経路を頭の中で整理していった。




