悪夢の曲がり角
エーミールは変わっていく光景を見て戦慄する。
(うわぁ………うわぁ…………)
まず、足下の草が桃や青の毒々しい色に変じた。その上で、細い草の一本一本が蕩けるように粘着性を発し、所々に水溜まりのような虹色と鏡色に輝く沼が出来る。
近くにあった木々は大きな蔦や羊歯のように曲がりくねり始め、木のうろは人の顔のように歪み大きな口を開けた。
エーミールがわずか動けば、ちらりと何かの影が視界の端に映る。
クスクスと笑い声がどこからか響き始め、更に自身の影が光源を無視し明らかに増えて、エーミールを中心に放射状に伸びて踊っていた。
トリステの背後から、その彼女の頭の上を通り覗き見るようにして、巨大な女の顔が迫ってくる。
骸骨にところどころ肉がへばりついた女は目の色が黄色く、かろうじて下ぶくれとわかる顎についた口から、涎の代わりに血のような赤い液体が滴り落ちる。
トリステの身長よりも、もしくはエーミールの身長よりも大きな顔は長い首に支えられ、その根元はトリステの背後の空間の亀裂に通じる。
「きめえ」
一言呟くようにし、エーミールは棍を女の怪物の顔に打ち付ける。
ごく簡単に振るった棍が発したのは必殺の強大な衝撃。
しかし当てられた顔はまるで粘土細工に棒を落としたように歪み、そのままの形でまたエーミールへと食らいついた。
(消えねえ……のは、尻尾が繋がってるからか……?)
横に跳んで避けたエーミールは、ちらりと女の首が繋がる亀裂を見る。
暗い闇と紫の濁りが混ざるその奥、それがどこに通じているのかおおよその見当をつけて。
曲がった顔は明らかな損傷だ。ここまで出会った怪物ならば消えているほどの損壊。だが消えない女の顔と首は、頑丈でとても厄介だ。
もう一度、と女の怪物は伸びた首を巻き付けるようにエーミールへと覆い被さろうとするが、エーミールは棍を首の上から叩き付けて、その反動で上へと跳ぶ。
(なら切りゃいいか)
エーミールの棒術は至高の極みに近い。
突けば槍、払えば薙刀、振れば鞭。そして持たば太刀。
変幻自在の棒術は、刃もなく持ち手もなく、起伏のないただの棍棒をあらゆる武器へと変化させる。
太刀と化した棍は振り下ろされ、エーミールの胴体よりも太い女の首を一息に切り払う。
「あっ……」
くすぐったい、とでもいうような女の声が響く。そしてその次の瞬間には女の顔、切り口から先の首も含めてが霧散し、黒い霧のような姿で溶けて消える。
踏み込むように着地すれば、嫌な臭いの地面の泥が散る。
(まったくこんなんで、俺を何とか出来ると……)
それからエーミールはぬちゃりと靴にへばり付いた草と泥を振り払うように短く跳び、トリステがいた場所へと視線を向ける。しかしそこには案山子のような二つの人形が並んでいるだけで……。
(……思ってるわけねえじゃんなっ!!?)
普段はしないはずの油断をしている、と不可解な事象を自覚した直後。斜め後ろから殺気が迫り、エーミールは反射的に棍を構えて向ける。
手の届く距離、棍を持つエーミールからしても、素手のトリステからしても間合いの内。そこにいたのは宙に斜めに浮かぶトリステ。
トリステの振った手が棍にぶち当たり、転がるようにエーミールは吹き飛ばされた。
トリステが行ったのは、何の武術の素養もない、子供が嫌いな学友に行う平手打ち程度のもの。
しかし夢の中ならばそれは通る。特にここ、今は夢が現実世界を浸食している彼女の領域ならば。
ふわりとトリステが浮かび、薄緑の衣装を翻しながらエーミールへと迫る。
受け身を取ったエーミールは背中を地面に擦り、息を吐き出しつつ備えた。
エーミールの備えた腕、そこにまとわりつく小さな影。
反射的に振り払うが、その前に袖をいくつも食いちぎられた。飛んでいくまでもなく空中に留まった小さな歯とその周囲の唇だけの影は、嘲笑うようにして食いちぎった布を丸めて吐き出す。
気を取られた一瞬の隙。更に遠くから逃さぬように振るわれるのはトリステの鉄槌打ち。世の理不尽に納得がいかない子供が、苛立ち机を叩くように。
「ぐぇっ!?」
遠間からの距離を無視する攻撃。無視されたのは遠近のみ。故にその拳は、闘気で溶かされずにその衝撃を通常の物理法則に則ってエーミールへと届ける。
脳が揺れた。不完全な防御の上からの強大な衝撃はエーミールの脳を揺らし、エーミールが逸らした分だけ周囲の地面を陥没させる。
頭を振ってふらつきを追い払うが、完全には消えなかった。
(なるほどなっ! 付き合っちゃくれねえや!!)
周囲に発生しつつあった怪物達を、発生の瞬間に空中で叩き潰しつつエーミールはトリステの周囲を円を描くように走る。一定の距離を取りつつ、詰めようにも詰められず。
エーミールは思う。仮にエーミールとトリステがごく至近距離で、棍と拳をぶつけ合うような勝負をするならばエーミールが圧勝するだろう。
だが、だからこそトリステはそうしない。一定の距離を保ちつつ、悪夢を召喚し続けて、また自身も攻撃に参加している。
彼我の有利を知っている。彼我に出来ないことを知っている。
やはり簡単ではない相手なのだ、と感心する思いだった。
そして視界の奥、トリステの姿が瞬きの間に消える。
(!?)
高速移動か、それとも姿を隠したのか。エーミールがその行動の正体を量ろうとした次の瞬間には、トリステは今までとほぼ同じ距離、しかしエーミールの真後ろに立っていた。
(空間転移かよ!?)
薙ぎ払うようなトリステの腕の動きに反応し、また殺気を感知しエーミールが身体を翻しつつ上へと跳ぶ。エーミールを挟んだトリステの反対側の木々が、苔を削ぎ落とすように簡単に、そして大災害のように雪崩れて崩れた。
轟音と、嘲笑うような声はやまない。
空間転移。古くは英雄譚に登場する伝説級の魔術とエーミールは聞いていた。
今なお魔術ギルドでも研究が進められており、しかし成果は数日の詠唱の末に数歩の距離が移動するのが精々だとも。
それをこの精度で運用する魔法使い。エーミールはその存在に感嘆の息を吐くと共に、煩わしさに黒眼鏡の下の目を歪めた。
そして、その足が取られる。虹と鏡の色に染まる極彩色の小さな沼に。
(やっべ)
更に迫るのは、まとわりつくように口と唇だけの怪物が周囲から無数。空からは押しつぶすように落下してくる骸骨の風船、またトリステは拍手でもするように手を構えている。
(間に合うかこれ……!!)
包囲されたのだ。そう気付いたエーミールも棍に闘気を込める。
狙うのは苦し紛れ、だが決まれば殺害も見込めるほどの攻撃。
いくつもの衝撃が交錯する。
緑に染まった青空の下に、破裂音が響いた。
「……これで! 四人!!」
下卑た顔を浮かべている石の怪物の胴を蹴破り、ウェイトは確認も兼ねて吠える。
目の前で壁に背をつけて尻餅をついているのは三角巾を巻いた中年の女性。怯えた顔は、固まるようにウェイトを見ている。
「無事か?」
一応目視で怪我がないことは確認しつつ、ウェイトは尋ねる。表情を変えずに女性はコクコクと頷いて、立ち上がろうとして抜けた腰によろめいた。
「すまないが気遣う暇はない」
ウェイトが自身の後ろ、石の壁に後ろ手に槍を突き刺す。固く高い音が響き石が割れ、そうしてからようやく、その先にいた犬の怪物に槍が突き刺さっていたのが女性の目にも見えた。
槍を引き抜きつつウェイトは顎で外を指し示す。
「安全ではないが、仲間のところまで護送する」
「あ、ありが、ありがとうございます」
「礼も要らん」
先導するように外へ出て、ウェイトは廊下を確認する。おそらく今のところ近くに怪物はいないだろう。そう確信してから、もう一度女性へ外を指し示した。
「これで何人だ?」
「四十人ちょうど。確認が取れたのも合わせて四十五人」
西の端への護送は聖騎士が付き添いながら。ウェイト達の担当区域のある地点で複数人をまとめた避難民は、一人の聖騎士に付き添われ西へと移動する。聖騎士は途中で別の一人に集団を引き継ぎ、また担当区域に戻ってくる。そんな中継を行いつつの避難誘導は、ウェイトの指揮の下迅速かつ正確に動作していた。
「残り二十一人」
今まさに避難民を見送った救助担当の三人は、呟いて頷き合う。
ウェイトも含めて三人全員が沈痛な面持ちなのは、その担当区に残った人数が絶望的なものに聞こえるからだ。
他の班との連携を取りつつもまだ足りない。クロエがまた戻ってくるまでそう時間はない。時間が来ればまたクロエは、怪物達の掃討のため、人間の被害を考えずに街へと攻撃を加えるだろう。事実ここではない西側の区域では、既にクロエは攻撃を再開しているらしい。
「とにかく、我らは我らでやるべきことをやるしかない。一人でも多くの人を助ける」
ウェイトの言葉に力なく頷き、励まされるようにして二人の聖騎士は気を引き締めた。
「了解」
「では、次は……」
言いかけた瞬間、遠くから大きな音が響いた。
ただ手を打ち合わせたような音。または瓦礫が崩れるような音。それが重なるようにして大きく響き、地響きのように街を揺らす。
ウェイトたちはその音に顔を上げ、見合わせ、それから一番早くウェイトが気付いた。
「…………?」
違和感を覚えたのは周囲の景色。真っ直ぐな線が消失した、ということ。
人間の作った建築物というものは、特別な理由がない限り、多くは直線で構成される。組み合わされる煉瓦や石材は直方体のものが重用され、また壁面などは細かな凹凸があっても無駄な起伏は作られない。
湾曲する壁や床などは存在しても、そのものと背景が接する線は大抵の場合直線だ。
だが今のウェイト達の周囲では。
「どうなってる?」
呟いたのは誰だろうか、と呟いた本人すらもわからない。そこにいた全員がもしかしたら自分が呟いたのだろうかと思った。
見回す風景は全てが緩く湾曲し、更に接線すらも直線はない。
水の中に潜ったように風景は滲み、また身体を動かせばその部位の大きさは位置によって変化し、皆の目に歪んで映った。
水の入った硝子の器を通して世界を見るように、ぐにゃりぐにゃりと世界が曲がる。
その度に、何かが軋む音がする。天井の木製の梁、もしくは竹が歪むような。
先ほどまでとは風景が違う。
目の前の石壁の色はこのように緑がかっていただろうか。
屋根の先はそのようにくるくると丸まっていただろうか。
ふと路地を見れば、奇怪な知らない文字で書かれた看板がそこを埋め尽くしている。地面にはびっしりと数え切れない数の目が敷き詰められ、それが同時に瞬きをした。
「幻覚か?」
何かしらの魔法使いの攻撃、または薬剤によるものだろうか。聖騎士の一人がそう呟く。
しかしまたもう一人の聖騎士が、いや、と首を横に振った。
「幻覚じゃない」
地面に開いた目を槍で突けば、ごく小さなきらきらとした光の粉が血のように噴出する。その目をぶちゅりと潰した感触は本物で、もはやそこに地面の感触はなかった。
「俺たちも……」
一度離脱し、様子を見つつ体制を整えるべきではないだろうか。そう言葉少なげに、聖騎士はウェイトに進言する。
状況が変化した。今まさに、何かしらの攻撃を受けている。周囲の景色は不気味な方向に変化し、実害はないが何かが削られているように背筋が固まっている。
そんな中に無闇に留まることは、消極的な自殺行為だ。少なくとも危険性が低いとわかるまでは、安全を図る。
ここに留まる益と離脱する益と、天秤にかけて判断するべきだ。悪夢の怪物は姿を減らし、そして避難者も少なくなっている以上、ここは。
敵前逃亡は恥ではない。団長であるエーミールならばそう言うだろう。怯懦からではなく思考の上での離脱ならば。
どこかで悲鳴が響く。明らかに人間の男性の声。
それは先ほどクロエに示された光の玉の浮かぶ方向で、今まさに一つ減ったのだと三人共に思った。
ウェイトは部下の言葉に頷かず、ただその目を真っ直ぐに見た。
「方針の変更はしない」
「だが限界があるぞ。時間が」
「わかっている、故にこの問答の時間すら惜しい。すぐにかかるぞ。だが今まで以上に身の安全に気を配れ。何があるかわからん」
ふと上を見れば、建物の影から窺うように、靄のような影が白く浮かんだ目玉でこちらを見ている。
殺気もなく実体もないだろうその影は、三人の見ている目の前で、気のせいだったかと思うほど緩やかに消えた。
舌打ちを隠さず行い、聖騎士の一人は頷いた。
班長の命令だ。不服であっても断る気はない。仮にそれで命を賭けることになっても。
「残るのは大集団が二カ所、中規模が一カ所、小規模が一カ所だ」
「全部は回りきれないぞ」
「…………」
彼ら部下は断る気はない。だが、提案や抗議をしないわけではない。
そしてその聖騎士の言葉に、ウェイトは一つ黙り口元を手で覆った。
たしかに、とも思う。
時間が差し迫っている。クロエの攻撃もあり、更にこの不可思議な景色の変容に攻撃性がないとは言い切れない。
更に残りの避難民はいくつかの集団に別れて分布している。現実的に考えて、全てを回ることも出来ず、ここにいる三人をそれぞれ別に動かしたとしても三カ所が限度だ。
少なくとも一つ、安全策をとるなら二つは切り捨てるべきだ。救えなかった哀れな人間として、諦めるべき局面なのだろう。
「それに」
そして、ウェイトが考えないようにしていたことが一つある。
考えないようにと思いながらも、頭の片隅に一つあったこと。『それがあるから』と、後回しにしたくないと思いつつもきっと思ってしまっていたこと。
「中規模一つは通陽口だろう」
逃げ遅れた人間の集団。その一つが、通陽口の中にいるということ。
「…………今この場においては、関係がない」
「何でだよ。いつものお前なら」
「関係ない!」
その他の集団は、民家、もしくは何かしらの倉庫街の建物に逃げ込み隠れている。だがその中規模の集団だけは別だ。
光の数からしておそらく四人。通陽口はまともな人間が暮らす場所ではなく、そもそも一般人は立ち入り禁止の場所だ。その中で固まっているということは、きっと孤児だろう。普段からそこに隠れ住んでいるような。
思わず声を荒らげてしまったウェイトは、「すまん」と一言謝罪する。
だがたしかに部下の言うとおり、そう思ってしまうのだ。
そこにいるのはおそらく孤児。通陽口の内部に不法に穴を空けて住み着いている汚らしい鼠のような者たち。残飯やゴミ捨て場を漁るなどは仕方なくとも、盗みやひったくりなどで生計を立てている者すらいるだろう。
彼らは悪の芽。成長し、大きくなったところでまともな生活など望めない。そのまま悪の道へと歩みだし、誰かしらを不幸の渦に引きずり込むだろう望まれない子供達。
イラインの貧民街に住む孤児達と変わらない。
ウェイトとしても摘みたく、そして実際に幾度となく摘んできた芽。
助ける価値もなく、ましてやきっと生きる価値もない者たち。これから先、悪徳しか生まない子供達だ。
仮に残る集団の内一つしか助けないとするならば彼らを選ぶことはなく、そして一つ助けないものを選ぶとすればきっと彼らが選ばれる。
残る市民とは質が違う。善良な市民と、劣等な孤児と。選択は容易い。
戦略の基本の一つは、選択と集中。
きっと今は、彼ら孤児を見捨てることを選択し、他三つの集団に聖騎士という資源を集中させるのが正しいことなのだろう、とウェイトも思う。
悪を切り捨て善を守る。そうしてこの街を一つ善くする。
今までこの街でやってきたことを、またやるだけだ。
耳元でそう、甘い考えを囁く誰かをウェイトは感じた。それが今周囲で起こっている《悪夢》によるものだと思いたかったが、そうではないとも確信していた。
それは自分の選択なのだ。
「バンは小規模の一人を救出の後、集合地点の確保を急げ。アンクはシャジン通りの大集団を回収し、バンの確保した地点で合流、我が戻るまで二人で安全の確保」
「ウェイトは?」
「我はもう一つの大集団へ向かう」
うん、と聖騎士の一人は頷き、それを合図にするようにそれぞれが背を向ける。
「あとで合流しよう」
「了解」
その一言で、三人の影は方々へと散っていった。




