寝入り端
静かに扉が叩かれる。重たい音の後、中の主の返事を待たず、音消し代わりの分厚い木の扉が開かれた。
入り口から入り真っ直ぐ見た正面には、筆と墨だけが置かれた机。そしてその椅子に座り、手持ち無沙汰に椅子を揺らしている黒眼鏡の男性。
「おー」
「西三十二区画の避難、予定通り完了しました」
「お疲れ」
入ってきた部下代わりの衛兵の報告に、エーミールは労いで応える。
背後にある、今は閉ざされている大きな窓。そこから聞こえてくる音は、ここ数日で随分と寂しくなった。
無駄な言葉を吐かずに、頭を下げて衛兵が退出していく。それだけでもまた随分と静かになった部屋で、エーミールは見上げるようにして顔を上げて首を鳴らした。
(あと四分の一ってとこかぁ?)
思い浮かべるのはこの副都ミールマンの地図。おおよそ一万人が暮らす都市の人口の分布図だ。
今回のエーミールの策定で東西南北それぞれ五十以上に分けられた区画。そこにいる住民たちを、衛兵総出で西の街や村へと避難させる計画。二十日以上前から計画的に続けられてきたそれは、戦争が始まってようやく形になってきたものだ。
エーミールとしても苦心するものだった。
なにせ、皆の腰は重い。商売人たちは各々の抱える商品を残して逃げることが出来ず、貴族たちは移動できない財産が多い。故に戦争間近であっても逃げ出すものなどほとんどおらず、またエーミールの方針としてこの街では今回の戦争を『大事』としていなかったからこそ、誰も危機感など覚えていなかった。
それに、生活の保証がなければ民というのは一種傲慢だ。
戦争が始まるとして皆を避難させようとした際には、たとえエーミールたち聖騎士相手であっても民は強気になる。『逃げて何もなかったらどうする』、『逃げた先で仕事はあるのか』、『住処を失う責任は取れるのか』と、丁寧な口調で抗議を、もう少し直接的に言えば抵抗をするものだ。
本来、エーミールにその先までも考えるというのは酷なことだ。
彼としても何も考え無しに命じているわけではない。
この国では副都など、通常一つの大きな都市には、そこを支えるための百から千の衛星都市、または村が存在する。
ミールマンの住民たちをそれらへと分散させて避難させるため、まずは各街に用地や住居を確保した。自分や関わりのある貴族の名を使い、各村や街の有力者にそれを了承させた。
食料も用意し、とりあえず飢えることはない。各街のそれぞれの対応にもよるが、簡単な仕事も用意できるようにと配慮した。
戦争が終わるまで。もしくは、ミールマンの安全が確保できるまで。
短期間だとそれぞれの街や住民たちを説き伏せて、ようやく行わせることが出来た今回。
(や、まあ、そんな短い時間で終わるかどうかもわからんが)
はあ、とエーミールは溜め息をつく。
今回のムジカルとの戦争。それは今までのお遊びとは質が違う。
部下であるウェイト・エゼルレッドからの報告でも、エーミール独自の調査からしてもそうだ。
およそ二十年から三十年周期で、どちらかが決起し起こされてきたエッセンとムジカルの戦争。それはいつもは、互いの余剰戦力の削減、また戦争の体験というそれぞれの首脳陣の目的を持って行われてきた。約束試合のようなものだ。ある程度の戦力削減が終われば、ある程度の新兵が戦争に慣れたと思える期間が終われば、平和的な終結がみられる。
互いの領土を削り合うこともほぼない。国境線はネルグの中で僅かに動く程度だし、捕虜の受け渡しなども金銭などで片がつく。
だが、今回はそうではないだろう、と思う。
今回のムジカルには、遊びではない真剣さがある。物資の動きや将兵たちの動きの偏りからすれば、前回の戦の倍は動員されるだろう。
今回のムジカルはエッセンの侵略を狙ってきている。数年前からムジカルに注目し、予測してきたエーミールの予想通りに。
ぎい、と背中を預けた椅子が鳴る。
思うは今までに届けられた戦況の報。
(主戦場は南側……ってのも一応予想通りだな。現在快勝中……ってのはどこまで本当かわからんが)
戦場から、もしくはイラインから青鳥で届けられる報せは、今のところ問題はない。
事態はおよそエーミールの予測通りに進行している。戦争最初期の、五英将も正規軍もいない時期は、おそらくエッセンの圧勝だろうと。
だがその報も全面的には信用できない。第二位聖騎士団長クロード・ベルレアン名義で届けられた報は、事実として一定の信頼は置けるだろう。しかし、イラインから届けられた報には、そこに関わった貴族や将兵の見栄や偏見が乗る。
更に誰からの報であっても、人間の目は自身に見たいものを見せて、見たくないものを見せないものだ。エーミールは自身の目すらも信用していない、ならば、誰からの報とて。
(にしても、そろそろだな)
黒眼鏡の下でエーミールは目を細める。
快勝。喜ばしい報だ。エッセンにとっては。だが、ムジカルにとっては間違いなく喜ばしくはない報だ。
今回の戦には、五英将〈成功者〉ラルゴ・グリッサンドもいるだろう。
彼がいる以上、エッセンにとっての喜ばしい報も意味を成さない。仮に本当にエッセンが単に強く、上手くいっているだけだとしたら、それに手を打たない男ではない。更に、もしもその『快勝』が、ラルゴの予定通りだとしたら。
(仕掛けてくるなら……)
エーミールの脳内に、ネルグを中心とした模式図が描かれる。
北西側にいるのが自分。ネルグ南側で展開しているエッセン騎士団やムジカル軍。
『快勝』が事実であっても、作り上げられたものであっても、どちらにせよそろそろラルゴが手を打つだろう。
現在ネルグ南側に布陣し、前進している聖騎士団は九つ。クロードがいる二つの聖騎士団をまとめて司令塔とし、その前に三つ、さらに最前線に四つを並べた波状攻撃。
いつも通りのお手本のような進撃だ。通りやすいネルグ南外のライプニッツ領をほとんど通らず、また相手も距離遠く防衛が容易なそこを通らないだろうという予測の下の。
一応ライプニッツ領を進撃している聖騎士団もあるはずだ。
自分がラルゴならば、まずそこを叩くが。
(五英将を二人、か三人だな。動員できる全員使って一度にやる)
狙うのは連絡の遅れ。もしくは混乱。
多くの人間は、格下のものを警戒しない。仮に五英将一人が聖騎士団を落としたとすれば警戒するだろうが、二人か三人も使えば、五英将側に万が一もなくエッセン側に油断も生まれるだろう。
無論、それはまだ予測、もしくは妄想の範疇。クロードに警告しても無駄だろう、とエーミールは思う。仮にクロードが自身の言を受け入れたとしても、クロード以外が受け入れない。
「俺が行けりゃあなあ……」
はあ、とエーミールは溜め息をついた。
こんなところで釘付けになっていなければ。仮に南側の戦場で自身が指示を出すことが出来れば。そうなればこのように悩むこともないのに。
だが仕方ない、とも思う。ここでエーミールが釘付けになっていることも、彼にとっては意味があることだ。
(何にせよ、南側がやられりゃ全部終わるからなぁ)
仮にネルグ南側が落とされた場合。
おそらく戦線を後退させつつエッセン側の戦力は下がっていくだろう。逆にネルグからムジカル軍は前進し、それを叩きつつ進撃を始める。
(だから俺たちはその時に、伸び始めた戦線をぶっちぎる役があるわけだが……)
もしもそうなれば、エーミールは南下、ムジカル軍の側方、また後方を叩くつもりだった。
エッセン側に負けがこみはじめ、ようやく第一位聖騎士団長などを東方へ呼び戻してももはや遅い。勢いづいたムジカル軍に対し、エッセン側はその時おそらく戦力も欠けて反撃の力も足りない。防衛戦は、よくて膠着、悪ければエッセンの滅亡で終わるだろう。それを防ぐための予備として。
だが。
(それをラルゴが見過ごすなんて有り得ない)
背筋を伸ばすよう、両手の後ろで頭を組んで、背もたれに凭れる。
視界を占めた石の天井が、黒眼鏡に映って反射した。
何かを考えるときは、考えられる限り最も嫌なことを考える。エーミールはそう決めていた。
都合良く全てが上手くいくなどということはありえないのだ。
ましてや相手が自身も認める知恵者ならば。
自身がここにいることで。戦争開始前から度々来ていたムジカル軍の小勢の情報を握り潰し続けていることで、エッセン貴族を誘導し南側の戦力を北側に無駄に裂かせるというラルゴの策は不発に終わっている。
だがそれで終わるわけがない。優れた策士というものは、一つの策に複数の目的を持たせるものだ。
背中に垂らした編まれた髪を弄びながら、エーミールは考える。
そろそろだ。
そろそろラルゴは、エッセンにとって、または自分にとって最も嫌なことをやってくる。
(大軍勢……はありえない。ネルグの中ならまだしも、サンギエの岩山を通るなら必ず網に掛かるはず)
ネルグ北東外縁を覆うサンギエ地方は天然の要衝だ。道は全て乾いた岩盤に出来たひび割れの下。隘路は人が並んで通ることも許さず、またごく簡単な衝撃で崩れ人を埋める。
平坦な岩盤の上を通れば妖鳥が絶えず襲い来る。身を隠すことの出来るネルグの中よりも、むしろ魔物の襲撃は多いだろう。
故に、今までのミールマン襲撃も少人数でやってきた。サンギエのひび割れと警戒の網をくぐり抜けて。
また、もしも北側を通るのであれば、そこは真夏でも雪が降るリドニックの寒い気候が足を引っ張る。
(もしなにか襲撃があるとしても、それは少人数、もしくは個人のもの)
どこかで聞いた話だが、ムジカルには聖獣である怪鳥を従える魔物使いもいるという。
ならば、それならば、仮に個人であってもこの第三位聖騎士団守るミールマンに大打撃を与えることが出来るだろう。
(でもそんくらいなら俺でも何とか出来るぞ……?)
反論がすぐに浮かび、では違う、とエーミールは思う。仮にそれが本当だとしても、それは現在の備えでどうにか出来る。警戒は必要だが、それ以上は無用だ。
(いやいや考えろ。仮にラルゴがここに誰かを差し向けたとしたら、もしくは何かの策を発動させたとしたら、それは俺たちを必ず何とか出来るもんだ)
軍を動かしている、という考えに凝り固まっているのかもしれない。
そう思いつつ、こめかみを解してエーミールは息を吐く。
脅威。それは人間や魔物に限らない。
たとえば、毒。仮に誰かが街の水脈に毒を混入させたら。仮に食料に毒が混じっていたら。そんなことですらも、この街の防衛機能は陥落し、自分たちは無力化される。
いやそれ以前に、もっと簡単なこと。
(あ……)
ぞくりとエーミールの背筋が震えた。
部屋全体に亀裂が走ったように、空気が鳴った気がした。
それは今までの戦場でエーミールが培ってきた、戦場の殺気を読む力。
エーミールは悟る。
大人数ではあり得ない。それはたしかだろう。エーミールが出している見張りからの『異常なし』が続く限り、大軍勢などの目立つものはない。
だが、少人数でならば。
考えたくなかったこと。
少人数でこの街に駐留している聖騎士団を相手にするのはほぼ不可能だ。たとえムジカルの魔法使いであろうとも、また千人長程度の高い階級の誰かであろうとも、相手が少数ならば部下たちだけで何とか出来るはずだし、出来ずとも自分が出ればどうにかなる。
そう、ほぼ不可能、なのだ。
ムジカル軍には、聖騎士団を少人数で相手取れる者がいる。聖騎士団一つを、一人で。
(危ねえ!!)
だからもう、始まっているのだ。
誰かの殺気が満ちた部屋で、エーミールは静かに笑みを作る。
頬に垂れた緊張の汗を拭いもせず、腰の銀の笛を手に取った。
「あれよね」
「うん」
ミールマンから少しだけ離れた丘の上に、二人の男女の影があった。
少女は歳の頃十程度。男性は五十手前。年の離れた二人は、それでも本来同年代だ。
分厚い寝間着のような着物の上に分厚い外套を被った少女は、およそ森の中を動く服装でも、ましてや旅が出来るようなものでもない。中年男性が身に纏う簡素な旅装ですらないそれは、この木々に囲まれた丘で違和感のないものではない。
だが、彼女ならば通る。その身だけでどのような場所へも行ける、彼女ならば。
目の下が真っ黒に染まった少女の瞳が捉えているのは、砦の街ミールマンの建物群。今や人気の少なくなった建物群は、密集するように連なり天へと向かって生えている。
血色の悪く、肉のない小さな手をそっと塔へと伸ばす。
「トリステ、気をつけて」
「誰にものを言っているの」
アルペッジョの言葉に眉を顰めて反論しつつ、五英将〈眠り姫〉トリステはそのまま伸ばした手を握る。
視線の先、塔は遙か遠くにある。声すらも届かず、空気の揺らぎで建物自体が歪むように見える程度には。
だが、トリステの目には関係がない。寝不足で歪んだ視界はいつものこと。手元も彼方も彼女には関係がない。だって塔は、今目の前にある。
これで終わればいいな、と思いつつ、トリステは手を握る。
轟音が響く。
トリステの手から、また視線の先から。
五つの塔がまとめて握られ、トリステの手の中から瓦礫が砂粒となってこぼれ落ちる。
アルペッジョの視線の先では、石造りの塔が砕け散る。まるで子供が砂で作り上げた拙い砂のお城のように。
「…………」
それからアルペッジョがトリステの様子を窺うが、トリステの様子は優れない。
むくれるようにトリステが唇を尖らせるのを見て、唇を噛みしめるようにして溜め息をついた。
「強い人がいる」
ああ、まただ。
観念するようにトリステはそう言う。こくりと頷き、観念するように荷物を開いたアルペッジョに向けて。
「あたしの側にいてね」
それからふらつく身体を支えるため、懸命に足に力を込めた。




